セールスマン天地の微笑
オツキサマ【1】
俺は、運が無い。
今まで三十年、馬鹿なりにそれなりに真面目に生きてきたつもりだが、自分が幸運だと思ったことは一度も無かった。
そりゃあ勿論、全く無いかと言われれば実際は違うのかもしれないが、少なくとも運に恵まれていた人生では無かったはずだ。
高校卒業後、二年の浪人生活を経て私立大学に入学。その後、四年間真面目に大学に通っていたが、卒業後の就職活動に行き詰まった。それ以来、親の脛をかじってニート生活。運が無いと自覚している癖に、ギャンブルに身を投じてばかり。
今までおみくじで大吉を引いたことなんて無い。宝くじなんてもっての他だ。
道端で急に夕立に襲われる、自転車通学の際にやたらと向かい風が多い、席替えで男子のグループから隔離された位置を引き当てるのは当たり前。
挙げ句の果てには、高校の時に初めて出来た彼女に三日でフラれた。理由を聞いたら、呆れるしかなかった。
『本命が釣れたから、もう話しかけないでね? まだ三日だから、クーリングオフ出来るよね?』
初めての彼女に舞い上がっていた分そのダメージは大きく、それ以来大学に入るまでは女が苦手だった。俺を見ている目が、何か品定めされていたり、蔑まれていたりするように思えて、顔も見れなくなった。
分かってる。それら全部がただ運が無いってだけが理由じゃないってことは。
幾らかは俺自身の能力の無さが招いたってことは確かに自覚してる。
けれど、それらの出来事の結果が総じて悪いというならば、それは運が無いとは言えないのだろうか。
それこそ、それを“運”という言葉だけで片付けるのは怠惰なことなのかもしれない。ただの逃げなのかもしれない。
だが、俺はそれを悪いとは思わない。何故なら、俺は運が無いから。そもそも自分では変えようの無い、不運という漠然な負のステータスを俺は抱えているのだから。
もう一度言おう。
俺はこの人生、幸運だと思ったことは一度も無かった。
――そう、無かった。あの日までは。
それはパチンコに負け飽きて、前々からやってみようと思っていた競馬に手を出したある日の事だった。
■■■
「ちっ! だぁ、クソ! 死ね! 今笑ってる奴全員死ね!!」
耳から入ってくる情報に、俺は思わず悪態を吐いた。
右手に持っていたゴミ同然の紙切れを握り潰し、もう一方の手で溢れる苛立ちを自分の膝にぶつける。
「――っ!? ……って」
想像以上の痛みが膝――ではなく左手を襲い、げんなりとしながら手を振って痛みを誤魔化した。
俺の周りには二種類の人間がいる。
俺のように自分の不幸を呪って八つ当たりをしている奴と、俺とは正反対に如何にも幸せそうに破顔して腕を振り上げている奴。
謂わば、勝者と敗者だ。
俺は耳障りな勝者の歓声を疎ましく思い、横目で睨む。そうすると、視界に入る奴等の笑みが俺《敗者》を嘲笑っているようで、より一層腹が立った。
それ以上その場に居座っていることに耐えられず、俺は外れた馬券を足元に投げ捨てて、競馬場を立ち去った。
何が違う。
俺《敗者》と奴等《勝者》。
この場に居る時点で、両者は同じはずなのに。
いや、実のところ分かってはいる。
それはそうだ、俺はずっとそれに苦しめられてきたのだから。
運。
誰もが自分で掴み取ることは出来ず、持ってる奴は持っていて、持っていない奴は持っていない、絶対不変の才能。
それを持っているか持っていないかが、俺《敗者》と奴等《勝者》との違い。
余りに大きく、足掻き方さえ分からない、永遠に変わらない差。
それが、どうしようもない俺をずっと苛んでいた。
競馬場の帰り、ふと目に入ったコンビニに立ち寄った。
ちょっとした運試しだ。俺は行きと比べてすっかり薄くなった財布を開き、当たり付きのアイスを買った。
我慢の出来ない子供のように、コンビニを出てすぐに袋を開けた。
頭に響くことも気にせず、ガツガツとかぶりつく。最後まで結果が分からないよう棒の周辺のアイスだけを残して。
外はそれほど寒くはなかったため、食べ終わるまでに大して時間はかからなかった。
最後の一口は目を瞑って口に含み、一気に全て食べきる。
ほんの僅かな間、それを惜しんで答えを確認すると、
『ハズレ』
「……まあ、そうだろうな」
こんな小さな幸運くらいは俺にも、そう思って食べたアイスでさえ、俺は当たりクジを引くことは出来ない。
もっとも、当たったにしろ外れたにしろ、俺は素直に喜べなかっただろうが。
外れた場合には『運を使わなくて良かった』と、当たった場合には『今の俺には運がある』と思えるほどのポジティブ思考なんて持ち合わせていない。
寧ろ、当たった場合には『数少ない運を使ってしまった』と思ってしまうのがこの俺だ。ある意味、外して正解だったのかもしれない。
「あーあ、全く運がねぇ」
すっかり口癖になってしまったその言葉を、いつも通り口にした――その時だった、あの男が俺の前に現れたのは。
「運はありますよ、お兄さん」
突如、背後から聞こえた爽やかな声に、俺は驚きを露にして振り返った。
「おやおや、そうも露骨に警戒されると傷付きますねぇ。これでも、女性受けは良い方なのですが」
男は困ったように笑いながら、スーツの襟を正した。
男の歳は二十代後半。百八十センチ程の高身長の上、線の細い体つきと整った顔立ち。黒のスーツを一切の乱れ無く着こなし、頭にはシルクハット。正に、理想のイケメンを二次元で描いたものをそのまま三次元に引っ張ってきたような、明らかに人を魅了する才覚を持った男だった。
もし俺もこんなにスーツの似合う男なら、とっくに就職が決まっているのだろうか。そんな事を考えさせられる程、男の立ち姿は美しかった。
これならまあ、女性受けが良いのは頷ける。もっとも、俺は女じゃないが。男からしたら、いけ好かない奴にしか見えない。寧ろ、俺のこの男に対する敵対心は既に十分だ。
「……誰、アンタ?」
わざと威嚇するように、目を吊り上げて睨んだ。
が、男はそんな俺を見て笑った――否、嗤った。
確信は無い。けれど、俺の直感が見下されていると察知した。
まあ、そこで飛びかかる程俺は血気盛んではないが。
「いえいえ、大した者ではありません。今ちょっと、営業回り中でして。良かったら、商品見てみませんか?」
「いや、いい。どうも、アンタ怪しいな。ヤバい物でも買わされちゃ堪らねぇよ」
「まあまあ、そう言わずに。一つだけ、話を聞いてください。私としては少しでも売上げを上げたいので」
「要らねぇって言ってるだろ。そもそも、俺は今文無しだよ。さっき当たりもしねぇアイスを買ったせいで、後数十円しかねぇ」
「いえいえ、勿論お代金は頂きません。取り敢えず、お試しということで、一つ」
男はしつこく食い下がってきた。
代金は要らない? そんな上手い話があるかよ。営業なんてしたことない俺だって分かることだ。物を買うには金がいる。この世の摂理だ。
そんな事を考えていると今の自分の現実を見せられたようで俺は無性に腹が立って、気がつけば怒鳴りたてていた。
「うるせぇ! 要らねぇんだよ! どんなもんを貰ったって運が良くなる訳じゃ――」
俺の言葉は途中で止められた。
男が人差し指を俺の口元に当ててきたからだ。当然、ただそれだけで俺の激情を止められた訳ではない。
俺が口を閉じたのは、その男が発した威圧感。優雅に佇む優男からは本来発せられるはずのない、底知れない圧力に怯えてだった。
男は俺の言葉を遮り、不気味に嗤った。
「ありますよ、運気を上げる、いや――運を操る、素敵な商品が」
「――――」
「先程の言葉、改めて説明させて頂きます。運が無いなんてことは絶対にあり得ません。人は誰しも、運を持っています。ただ、貴方は運が悪いだけです」
「……運を、良くできるのか?」
「気になりますか?」
それが、俺とあの男の出会いだった。
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