雨模様の終礼、隠されたスピリット

些稚絃羽

11.願いと思い

「貴女は確かに事実上、堀靖二からの被害を食い止めました。生徒達を守ったとも言えるかもしれません。
 しかし貴女は考えましたか、この先のことを?」

 先のこと、とおうむ返しした彼女は、僕に問い返していたのかそれとも自身に答えを促していたのか。どちらにせよ困ったような表情で机の天板を見つめている。

「もしも奇跡的に貴女の犯行であることが知られなかったとして、貴女は真実を隠したまま今まで通り生徒と接することができるのでしょうか?  同じように生徒を教え、諭すことができますか?
 ……貴女はできない。こうして自分のことを顧みず生徒のためにその手を汚した貴女には、無理だ」

 守りたい一心での行動とはいえ、それは罪だ。喚きたくなるような鈍い痛みを与える環境に身を置いていた彼女が、そのことを自覚していない訳がない。忘れてこれまで通りに彼等に接することができるとは到底思えなかった。それがあとたった数ヶ月の期間だったとしても、腹に鉛を抱えたまま彼等を褒め、叱り、時間を共有することがまともにできるだなんて彼女から想像もできなかった。
 更に僕は続ける。

「それだけじゃない。貴女は言いました、「君の代わりは居ないんだ」と。
 ……それでは貴女の代わりは居るのですか?」

 彼女が諭したその言葉には確かに想いが宿っていた。口を突いて出るような常套句ではなく、生徒とひたすらに向き合ったその熱が、胸の痛みが、言葉と共に溢れ出していた。
 それなのに彼女の行動は、自分の想いを裏切っている。彼等の代わりが居ないように、彼女の代わりだって居る筈がないのに。
 彼女は声を立てて短く笑った。その声は湿り気を帯びていて、表情は翳っている。明るさが伝わるような楽しい笑いでは決してなかった。

「全国にどれだけの教師が居るかご存知ですか?  この学校の中だって、ベテランの尊敬できる先生方ばかりです。それに比べて私は大学卒業したての新米。私が教えられることなんて微々たるものです。生徒の皆も私に教わるより他の先生に教わる方が余程力なりますよ」

 自分で言っているのに、まるで責め立てられているかのように苦々しく顔を歪める。揺れる瞳には確固とした未練の色が見えた。

「本気でそう思っているんですか? 自分が何も教えられていないと。自分が居なくなってもいいと、本当に?」

 僕は聞く。彼女から少しでも明るい言葉が聞きたかった。彼等が居るからこの学校が好きなのだと話した、あの柔らかな表情で。
 犯した罪をおざなりにしていい訳がない。させるつもりもないが、それでもこれまで彼等と共有してきた時間を今振り返ってほしい。そこから自分が居なくなることの重大さを感じてほしい。彼等は一教師ではなく、彼女自身と対等に接してきたのだから。
 僕の願いのような問い掛けに彼女は悔しそうに目を背けて、価値なんてないですから、と吐き捨てた。

「だってそうでしょう? 今時教師に何かを求める子なんて居ませんよ。
 何をしてくれるでもなく、ただ学校に行けば居て、教科書に出ている言葉を並べるだけのロボットみたいなものじゃない!
 そんな存在に価値がある訳がない。少なくとも私はそういう目で教師達を見てきた」
「それならどうして教師になったんですか?」
「だから復讐よ!」
「復讐だけを望んでいたなら、あんなに優しい顔で彼等を大好きだとは語れない筈です。それとも、それすら嘘でしたか?」
「それ、は……」

 彼女は言葉を詰まらせる。あの表情と言葉が嘘の訳がない。どんなに演技が上手いとしても心まで偽ることはできないんだ。

「変えたかったからじゃないんですか、価値がないと思えた学校という場所を。貴女が抱いたような思いをこれからの生徒達がしなくてもいいように」

 ――彼等の“先生”になりたかったんじゃないですか?
 話してくれた言葉からそう言えば、噛み千切りそうな強さで唇を噛む。そして彼女はそんな高尚なものではないですよ、と枯らした声で返した。

 正直になることを誰が責めると言うのだろう。生徒かれらのためにここに戻ってきた彼女の勇敢さを、誰が退けてしまえるだろう。
 どれ程のことができているかではないんだ。そんなことは二の次で、彼等の心に浮かぶ存在でありたいのだと。どうしてその気持ちから目を逸らそうとするのだろう。

「もう一度聞きます。貴女は本当に、自分が彼等にとって居なくなってもいい存在だと思っているんですか?」

 再度尋ねると今度は何も答えなかった。ただ机を刺すように見つめて、何かに耐えていた。

「……貴女は一体、何を見てきたんでしょうね」

 ドアを開けると、彼女を慕う少年少女の姿があった。



「ど、うして……」

 溢れ落ちるように声が漏れた。僕に言えることはもう無くて、必要もなかった。距離を開けて壁際に寄れば、中へと入ってきた彼等が緊張した面持ちで彼女に近付く。その目は切なげで、しかし深い気遣いを込めた視線を送っていた。
 初めの言葉を探す彼等の中で、口火を切ったのはやはり香田さんだった。めぐちゃん、と呼び掛けた声が空気に染み入るように広がった。

「あたしね、夢ができたよ。……父さんみたいな警察官になる」

 それは彼女に痛みを加えるような宣言だったかもしれない。頬骨をぴくりと引き攣らせ、薄く開いた唇からひゅっと細い息が鳴る。
 香田さんはそれを見て、彼女の背中にそっと手を回す。

「罪を暴くためじゃなくて、皆を笑顔にするために」

 身体が離れても驚きに固まった顔が解れることはなかった。抱き締められた理由を問うように、見開いた目で香田さんを見つめている。宙に浮いていた手を握られて、泣き出しそうに眉を寄せた。

「ずっと悩んでた、あたしが父さんみたいになれるのか。
 だけど、父さんでも他の誰でもなくあたしのままでいいんだって……めぐちゃんが言ってくれたから、あたし決めたんだよ」

 香田さんがそう言って、またきゅっと握る力を強めると微笑んで離れていく。
 必要だとかそうじゃないとか、そんなことを明言するのではなく、貴女の言葉が背中を押したのだと語っていた。それはどんな慰めよりも強く、僕の心にも迫ってくる。
 教師という立場をロボットのようだと諦めていたなら、そんな風にぶつかっていったりしない。香田さんのことを想えばこそ、純粋な気持ちで励ますことができた筈なんだ。その気持ちを忘れたふりをしないでほしい。

 香田さんが居なくなった場所を埋めるように、新垣さんが前に進み出る。
 僕達の話を聞いていなかった訳ではないだろう。彼女も似たような日々を過ごしていたことも、自身の事情を知っていながらそのままにしていたことも。逃れるため思い切った行動に出た新垣さんからすれば、彼女に対してこれまでと違った感情を抱いてもおかしくはない。しかし何を話すとしても僕は見守っているだけ。彼女が今受けるべき言葉を見届けよう。

「私は、画家になります」

 新垣さんもその色を変えず、寧ろ一番輝く瞳で言い切った。自身の夢を淀みなく彼女に伝えた。

「あの絵は体操服を汚すために描いた訳じゃないから。
 声にしてこられなかった言葉を、感謝を、絵で伝えていくつもりです」

 先生に、と言いはしなかったがそう思っていることは明らかだった。自分達の中に居て、それでもその存在を認められなかった教師。傍に居たからこそ伝えなかった言葉がきっと幾つもあって、けれど声にしなければ伝わらないから。――伝えたい相手なのだと、彼女には届いただろうか。

「はいはーい!  俺は記者になる!」

 空気を一掃するように溌剌とした声が小さな室内に響き渡る。望月君が大きく手を挙げてアピールをしている。その様子は話を聞いてもらおうと奮闘する小学生のようで、堪える涙を自然と笑いに変えてくれる。軽く飛び跳ねる度にチャリチャリと何かがぶつかる音がした。

「真実を伝える記者だ。主観とか固定概念に縛られない、人の心を代弁する記者。
 誰かが沢山苦しんだこと、悲しんだこと、幸せな気持ちになれたこと。そういうのを俺の言葉で知らせていきたいんだ」

 自信ありげに語るのは真っ直ぐな決意表明。望月君が目指す場所は同業者から簡単には受け入れてもらえない場所かもしれない。世間から求められるものとは異なるかもしれない。しかし当事者のための記事を、そこにある思いや過ごしてきた時間も丸ごと書いてくれる気がした。
 彼女が応えるように小さく頷く。少しずつ、確実にそれぞれの思いの丈が、彼女自身の願いとシンクロしていく。独りよがりなんかじゃない、過ごしてきた時間は切れない関係を育んでいた。
 香田さんが望月君の隣に移動すると、肩をぶつけて茶化す。

「本当になれんのー?」
「馬鹿、なれるかどうかは問題じゃねぇ。なるんだよ」
「うわ、格好付けちゃって」

 うるせぇ、と気恥ずかしそうに頭を描く。そうしてから、だから心配すんなよ、と言った。授業をサボりがちらしい望月君にとってはそれが彼女への精一杯の言葉だった。日頃から彼女が向けていた気遣いをちゃんを受け止めていたと、その一言が物語っていた。
 いつもと変わらないやり取りに皆の表情が穏やかになる。何気ない時間の温もりが彼等の間を満たしていく。

 言わなくても誰もが分かっていた。だから渡瀬君が動き出した時、見守るように後ろへと下がる。対面したふたりが無言のまま見つめ合って、秒針が音を刻む。
 勘違いとはいえ、起きた罪を被ろうとした少年。その人は何を彼女に話すのか。

「僕は教師を目指します」

 自身と同じ道を選ぶと聞き、見開いた目が思いがけず涙に浸る。
 その選択にはどんな理由があるのだろう。彼女が抱いたような悲しい始まりではないことを祈る。渡瀬君の目に彼女はどんな風に映っていたのか、それが明かされようとしていた。待ち切れず、彼女が震える声で問い掛けた。

「どうしてか、聞いても……?」
「恩師に言われたんです、「君の代わりは居ないんだ」と。……その恩師のように生徒と寄り添い、並んで歩ける教師になりたいと思います」

 渡瀬君の言葉に崩れそうになりながらも、必死で耐える教師の姿がそこにはあった。犯した罪も宿した殺意も関係なく、ただ生徒に愛された教師の姿が。
 何度も何度も吐き出される嗚咽混じりのありがとうと、泣き笑う生徒達の表情が、思わず触れたくなるほどに温かかった。


*****


「めぐちゃん」

 校門の前で香田さんがその背中に呼び掛ける。それに応じ立ち止まると、伊岡さんがゆっくりと振り返った。その立ち姿に悲嘆や憂いはない。彼等の夢を聞き受けた今の表情は、全てを隠したまま迎える未来には決して見られなかっただろう。

「また会いに行く」
「そんな簡単に行けるもんなのか?」

 すかさず望月君が問うと、水を差すなと言わんばかりに睨みつけた。

「分かんないけど! どうにかして会いに行く」

 強引な彼女の様子に皆がくすくすと笑う。「分かんない」のに決めてしまえるところは、彼女の良いところだと思った。

 先程、校長には伊岡さんが直接話をした。同席した僕はそれをただ聞いていた。目を瞑り厳しい表情で向かいに座っていた校長に彼女が言った言葉を、頭の中で反芻する。
 ――私が言える立場ではありませんが、もっと生徒達の傍に居てあげてください。その声を聞いてください。……輝英の一教員として、そして卒業生として、お願いします。
 迷惑をかけたと謝罪するも校長は何も言わなかった。どこまで傍観者を貫くのかと僕は憤りと呆れを感じたが、校長室を後にする時たった一言聞こえた「すまなかった」との声に彼女が口元を押さえたから、変わる未来を想像できた。

 周りの反応に不服そうな香田さんを前に、彼女は晴れやかな顔で首を振る。

「これからもっと大事な時期になるんだから、勉強に集中しなさい。夢が、あるんでしょう?」
「……分かった、頑張るからね」

 それを最後にして、伊岡さんは歩き出す。警察まで付き添うことを提案したが、通学路をひとりで歩いて行きたいのだと断られてしまった。だから僕も、生徒達と並んで彼女を見送る。
 校門から見えなくなる瞬間、彼女がふと顔を上げたのが見えて、僕達もつられるようにそれを見上げた。降り続いていた雨はいつの間にか止んでいて、厚い雲の隙間から透けるような青空が見える。これから来る爽やかな晴れの予感に、僕は肺一杯に深呼吸をした。

 終礼のチャイムが鳴る。今日が終わり、また明日がやって来る。
 悲しんで、失って、傷付いて。日々を過ごす毎にそんな痛みを増やしてはいくけれど、前に進まなきゃいけない。目指す未来のため、新たにやって来る明日を笑って迎えるため、僕達は今胸に誓った精神を絶やすことなく育てていこう。





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