あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『時の流れに身をまかせ』

宣子が買ってきた焼きそばを、自分たちの分は後で、とマスターは遠慮しようとしたものの、

「マスター。食べないと油回っちゃうわよ。ギトギトで美味しくなくなるわ」

と宣子に指摘され、滅多にしないのだが、お客とともに食事をとることにする。
カウンターで立っていては、遼が座れないだろうとカウンターを出て、テーブルに向かい合って座ることにした。
水は一応二人にも、自分たちにも並べているので大丈夫だろうと食べ始める。

「あれ?普通の焼きそばと違う……?」

口にした遼は、首をかしげる。

「ご当地焼きそばですって。冷えかけてるわね。でも、美味しいからよかったわ」
「へぇ〜本当に不思議」
「よね。あ、そうだわ。マスター。ごめんなさいね。そこのコート掛けに金魚をかけてるのよ。二人で取ったのよ。でも雄洋さんに負けちゃったのが悔しいわ」
「ちょっと待ってください」

マスターは奥に行き、シンプルなガラスの大きなボウルを持ってくる。

「狭い袋から帰るまで出してあげましょう。もう一ついりますか?」
「いいえ、私の家には金魚を入れる水槽や金魚鉢がないのよ。雄洋さんの家にあるからって」
「じゃぁ、こちらに入れておきましょうか。カルキ抜きもありますし」
「準備がいいのね。飼っていたの?」
「いえ、カルキ抜きは遼が。色々買ってくるんですよ。子供が生まれたら手が回らないからというのですがね。まぁ、私も遼もいつかは犬を飼いたいとは思っているんですけど」

マスターはボウルに水を足し、カルキ抜きを適量たらし、しばらく置くと金魚をそっとボウルに移していく。

「わぁ……出目金ちゃんですね」
「そうなのよ。私が必死に取ったのに、雄洋さんはこんな器に金魚だらけにしてたわ。その中にしれっと入れてるの」
「運が良かったんだよ」

頬を膨らませる宣子に雄洋は、苦笑する。

「本当、本当。私も父に教えてもらったんだよ。コツとか」
「あぁ、だから、女の子に教えてあげたのね。破れる寸前のポイで、その子3匹すくったのよ。本当に嬉しそうに、『お兄ちゃんありがとう』って言われたのよね?雄洋さん」
「すくえなくても3匹もらえるって言っても、本人は残念だと思って。でも、飲み込み早い子だったからだと思うよ。一匹がギリギリかなって思ってたから」

4人が覗き込むボウルには10匹の金魚が泳ぐ。
シンプルな赤い金魚と黒い出目金はそれぞれ、人間の目を楽しませる。
横から見るのも楽しいが、上から見ると泳ぎ方やヒレの動きが違い、それもまた愛らしい。

「わぁ……素敵です。見ているだけで涼しいですね。でも、エサがないです」
「少しなら大丈夫だと思うよ。焼きそばを食べよう」

残りの焼きそばを食べた後で、片付けながら、微笑む。

「今日は遼が曲を選んだんですよ」
「だと思ったわ。好きよね〜」
「実は、題名と同じカクテル言葉のお酒があるので、焼きそばのお礼に作りますね?」

テレサ・テン……中国圏では鄧麗君の名で活躍していたアジアの歌姫。
台湾出身で、日本にも影響を与えた人である。

「と言うか『つぐない』とか『別れの予感』とか歌うけど、どうして昔は泣きそうだったのに、今じゃニコニコ歌うのかしら。まぁ幸せなのよね」
「胎教に悪いかなぁって。私の声は大きいので直接響きそうで、赤ちゃんが出てきたときに『歌とか泣き声うるさい』って言われちゃったらどうしようって思うんですよね……そう言ったら、彰一さんが大笑いしたんですよ。私は心配してたのに……」
「と言うか……赤ん坊は生まれてすぐ喋らないよ?」
「解ってます。でも、絶対、皆、お腹の子は彰一さんに似ると思うから、賢い子だろうって。だから、お腹の中にいた時のこといつか話しちゃったらどうしようと思って……」

その言葉に、宣子と雄洋は噴き出した。

「遼ちゃん〜それはいいわぁ……可愛い」
「遼さんと話すと癒されるってこれかぁ……」
「でも、葛葉と遼ちゃんと3人で、雄洋さんも癒し系だって言ってるけどね」
「保名さんじゃないの?」
「……今でこそあれだけど、昔の保名は根性悪かったから。葛葉の前だけよ、あの顔は」

宣子が説明していると、タイミングを計っていたマスターは微笑みながら、出来上がったカクテルを何かを絞り2人に差し出す。

「どうぞ」
「ありがとう。マスター」
「これは……?」
「アキダクトと言います。水道橋のことなんです」

手にするとふわっと漂うのは……。

「まぁ、マスター。オレンジの皮を絞ったの?」
「えぇ。どうぞこの曲と楽しんで下さいね」
「『時の流れに身をまかせ』……?」
「カクテル言葉なんですよ。耳で、舌で味わって下さいね」

その言葉に、2人は見つめ合いグラスを傾けたのだった。



その後、あまり時間をおかず、マスターの元に同級生の雄堯たけあきから、

『息子が彼女を連れてきた!会社の先輩だが、お前のお店に連れていってくれたと!ありがとう!』

と嬉々とした電話がかかり、ちょうど、店が終わり眠ろうとしていたマスターは、

「雄洋さんは良いが、お前はうるさい」

と電話を切ったのは、裏話である。

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