あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『麦の唄』

その日、繁忙期を脱し、その上、保名やすなの仕事の関係で、海外に渡る葛葉くずのは夫婦と共にマスターの店に顔を見せた宣子のりこ雄洋たけひろは、驚いていた。

「はぁぁ?はるかさんに赤ちゃんが!」
「何でもっと早く言ってくれないの?まぁ、お酒は前から飲まないなとは思ったけれど」

遼は、

「ご、ごめんなさい。えっと、一応高齢出産だから、流産の危険もあって、落ち着いてからにしようって……」

頰を赤くしてモジモジする姿に、保名が、

「えっ?高齢出産?まだ二十代でしょう?」
「いえ、恥ずかしいのですが、40前です」

女子会をしていた葛葉と宣子は知っていたが、見えない上に、いつも遠慮がちな遼を逆に同年代として接していた。
女に年は関係ないのである。
その上、葛葉や宣子にしてみれば、童顔でちょこまかしてハムスターのように可愛い遼は親友であり、その彼女の妊娠が自分のことのように嬉しい。

「嬉しいわ。男の子かしら?女の子かしら?」
「マスターはどっちがいいのかしら?」

CDを準備しに行ったマスターは、振り返り苦笑する。

「健康であれば……でも、雄洋さん、雄堯たけあきには言わないでくださいね」
「雄堯さん?」

宣子は同僚であり恋人を見る。

「あ、父です。マスターの同級生で……」
「えぇ!マスター、雄洋さん位の子供がいる世代なんですか?見えない!」
「内緒にしてくださいよ。一応若いつもりです」
「いえ、父に比べたら、本当に若いです。うちの父は、タヌキ腹で……」
「お父さんの世代は貫禄があるで良いけれど、雄洋さんは今からはやめてよ?彼女としては私と一緒にスポーツを要求するわ」

宣子は笑いかける。

「なるべくダイエットに励むよ」
「そうしてね?それにしても……あら?」

流れてくる曲は、中島みゆきさんの『麦の唄』である。

「この曲素敵よね。何となく、マスターと遼ちゃんに似てる気がするわ」
「本当」
「遼の好きな曲なんですよ」

遼は、頰を染める。
宣子を中心に、遼の巻き込まれた事件を覚えており、泣きじゃくり怯え、姿を消そうとした遼を引き止めた話は記憶に新しい。

「えと……あの時は本当にありがとうございます」
「親友に謝るなかれ。もっと甘えなさい!」
「私なんて宣子に甘えっぱなしよ?」

葛葉は苦笑する。

「葛葉と私と保名は幼馴染だもの。それに、きつそうに見えて、葛葉ほど泣き虫はいないわよ。いつも保名が探しに行ってたものね」
「本当に、頭が上がらないわ……」
「私もです」
「お局様じゃないわよ。まぁ、先輩もほとんど嫁に行って、私が後輩指導することになったら後輩には裏でそう呼ばれるのよ。なりたくなかったわ……」
「宣子は、呼ばれてないよ。お局様と言われるには嫌味はないし、的確な指導で後輩も何も言えないよ」

雄洋は笑いかける。

「それに、宣子が説明していくことは簡潔で文句のつけようもないよね」
「雄洋は、私を甘やかすんだから」
「本当だって」

マスターは微笑みながら準備したグラスを四人の前に出す。

「どうぞ。今日のカクテルです」
「あら。何?」
「ビター・オレンジです」

遼にはオレンジジュースを渡している。

「麦を使ったビールと麦秋の色のオレンジジュースを使いました。今日は楽しんでくださいね」
「もうちょっと、頑張ろうかしら」

宣子は呟くと一口口にしたのだった。

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