あるバーのマスターの話
『My Way(マイ ウェイ)』
今日は、遼とのんびりとしていた。
かけていたCDはフランク・シナトラ。
アメリカのジャズやポピュラーソング歌手である。
今日はマスターがこの店を開店させた頃から時々話に来る、現在は杖をついているもののかくしゃくとしている老齢の男性が久しぶりに姿を見せた。
「照川さま。ようこそ。お待ちしておりました」
「おや?マスターは嫁さんと二人が良かろうが。このクソジジイの悪態を聞くよりも」
「おじいちゃん!」
付いてきていた女性がハラハラと、ペコペコと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いえ。照川さまにもご連絡をと思っていたのですが、私たちの知人が多くて、照川さまが落ち着かないだろうと思っていたのです。そう言えば高坂さんが、照川さまにお会いしたいと言われていましたよ?」
「あぁ、あいつか。うるさいが、義理人情にあつい……時代劇に出そうな」
「ふふふ。本当に。どうぞ。お孫さんですか?」
「はい、要ともうします。よろしくお願いいたします」
女性は頭を下げる。
「あぁ、孫だよ。孫。息子夫婦がうるさくてなぁ……。わしはなんともないと言うのに!年より扱いしおって」
「おじいちゃん。無茶しないでよ!いつもふらっと出ていって、心配して探す私たちの身になってよ!」
「あぁ……要は、口うるさいのう。ばあちゃんに似たんか?」
「いつもそんなことばっかり!」
頬を膨らませる要を、目を細めて……なんとも目を入れてもいたくないと言いたげににこにこと聞いている。
と、曲が変わる。
フランク・シナトラのポピュラーソング『My Way』である。
1969年に発表されたこの曲は日本語訳詞で歌われている。
「あぁ、『マイウェイ』か。わしは、『今船出が~』と言うのよりも、もう一つの方がえぇわい」
「あぁ、中島潤さんの訳詞は『今船出が~』ですが、『やがて私も~』と始まる岩谷時子さんの訳詞の方ですか?」
「よう知っとるのう?えと、マスターの……」
「はじめまして。遼と申します。照川さま。声楽をかじりではあるのですが、学んでおりまして……私も、岩谷時子さんの歌詞の方が好きなのです」
遼が深々と頭を下げる。
辛口のじいさんと有名だが、初対面の女性には優しいらしく、髭を撫でながら微笑む。
「遼さんか。でも、あの『マイ ウェイ』は渋くないかのう?」
「自分なりに生きていきたい……たとえ、最後に心残りがあったとしても、できる限り努力したと言えるように頑張ろうと、ずっと自分に言い聞かせていたんです」
苦笑とゆらゆらと揺れるような影がにじむ遼に、
「あんたはようやっとるやないか。その無意識やろうけど、マスターをサポートしたり、わしと話すときはきちんと目を向けて話そうとしよる。でも、目が合わんのは、辛い思いをしたんやな……」
「あ、あの……昔は辛いことが多かったですが、しょ、マスターと結婚して、今は本当に幸せです」
「……」
遼を見つめた老人は、
「お願いがあるんやけど、遼さんの、あんたの今の『マイ ウェイ』を聞かせてくれんかなぁ?かまんかな?」
「あ、はい、CDの音量を下げて歌いますね」
デッキに向かう遼を追い、照川はマスターを見つめる。
「いつもは、マスターに選んでもらうけど、今日はわしが頼んでもかまんやろか?」
「えぇ。照川さまのお望みのカクテルを」
「ほら、要。座らんか」
自分の横の席を示し、座らせると、マスターに、
「ほんなら、『ギムレット』を頼むわ」
「……『ギムレット』ですね。かしこまりました」
音を小さくし、一瞬目を伏せると息を吸い、遼は歌い始めた。
その声域に、音量に、要は驚くが、老人は、
「ほうほう……見事な声や。そこらの歌手よりもうまいわ」
感心する。
その様子を見つつ、マスターはゆっくりと作っていく。
遼は、フランク・シナトラの歌に添うように伸びやかに歌い上げる。
「おぉ!素晴らしいわ!」
大きく拍手の音に、恥ずかしそうに、
「ありがとうございます。我流ですが……」
「いやいや。マスターにだけ聞かせるんも勿体無いわ。この店でシャンソンとか歌ったらえぇのに」
「いえいえいえ!まだほとんど覚えていないんです。でも、この曲は思い入れがあるんです……」
赤面症で頬を赤く染めた遼は、深々と頭を下げる。
「聞いてくださってありがとうございます」
「照川さま、要さん。『ギムレット』を……」
マスターは、カウンターにカクテルグラスを二つ並べる。
「本来の『ギムレット』では絞ったライムの酸味が強いかと思いますので、コーディアルライム(ライムジュース)を使わせていただきました。どうぞ。照川さまのお口に合うと良いのですが……」
「あぁ、ありがとう。要。乾杯しようか」
「おじいちゃん……」
「お前のこれからに……乾杯じゃ。『マイ ウェイ』にもあるだろう?恋愛をせい。ほら、目の前に理想の二人がおる」
珍しく無表情を取り繕う夫と、孫と飲むのがうれしいといった雰囲気の照川、そして祖父を心配そうに見つつ、飲んだカクテルに、
「美味しいです……本当に、ちょうどいい美味しいです!」
「要さん、ありがとうございます。音楽と、おじいさまとこころゆくまでお過ごしください」
「じゃぁ、マスター!遼さんに、シャンソンとか唄ってもらえんか?声がいい!」
「いつもはお断りしてますが、照川さまは特別ですよ?……遼?歌ってくれるかな?」
「えぇ。歌える曲は限られているけれど……」
その日は、照川のアンコールに遼は知っているだけのミュージカル音楽やシャンソンなどを歌った。
照川は笑い、要はその様子に表情を緩め微笑む。
マスターはノンアルコールカクテルを間に挟みつつ、照川の希望のカクテルを作ったのだった。
タクシーを呼び、照川と要を見送ったマスターは、遼には完全に分かるほど暗い顔をしてグラスを洗い道具を片付け始めた。
遼は、あえて夫に問いかけもせず、ほうきを持ち出し、カウンターの外を掃いて、テーブルを拭いたのだった。
数日後、新聞を見ていた遼が、
「彰一さん!き、昨日……照川さまが亡くなったって書かれているのです。……タクシーで帰られる時に住所をおっしゃってました。この方は、先日お越しになられた照川さまですか?」
新聞を手に駆け寄る遼に、確認をした彰一は、
「……あの日、珍しくご自分で指名されたカクテルで……何となく理解していたよ」
「えっ?」
「『ギムレット』のカクテル言葉は『長いお別れ』と言うんだ。最後に会いに来られたんだね……」
「……そう、だったんですね……素敵な方でした……」
ただ一度会っただけの照川の死に、涙を流す遼を抱き締め、
「『私は私の道を行く』……照川さまは、長い旅に出たんだ。あの方は好奇心旺盛の方だから、きっと……」
「そうですね……」
夫婦は通夜は仕事のため出られなかったものの、葬儀に参列したのだった。
かけていたCDはフランク・シナトラ。
アメリカのジャズやポピュラーソング歌手である。
今日はマスターがこの店を開店させた頃から時々話に来る、現在は杖をついているもののかくしゃくとしている老齢の男性が久しぶりに姿を見せた。
「照川さま。ようこそ。お待ちしておりました」
「おや?マスターは嫁さんと二人が良かろうが。このクソジジイの悪態を聞くよりも」
「おじいちゃん!」
付いてきていた女性がハラハラと、ペコペコと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いえ。照川さまにもご連絡をと思っていたのですが、私たちの知人が多くて、照川さまが落ち着かないだろうと思っていたのです。そう言えば高坂さんが、照川さまにお会いしたいと言われていましたよ?」
「あぁ、あいつか。うるさいが、義理人情にあつい……時代劇に出そうな」
「ふふふ。本当に。どうぞ。お孫さんですか?」
「はい、要ともうします。よろしくお願いいたします」
女性は頭を下げる。
「あぁ、孫だよ。孫。息子夫婦がうるさくてなぁ……。わしはなんともないと言うのに!年より扱いしおって」
「おじいちゃん。無茶しないでよ!いつもふらっと出ていって、心配して探す私たちの身になってよ!」
「あぁ……要は、口うるさいのう。ばあちゃんに似たんか?」
「いつもそんなことばっかり!」
頬を膨らませる要を、目を細めて……なんとも目を入れてもいたくないと言いたげににこにこと聞いている。
と、曲が変わる。
フランク・シナトラのポピュラーソング『My Way』である。
1969年に発表されたこの曲は日本語訳詞で歌われている。
「あぁ、『マイウェイ』か。わしは、『今船出が~』と言うのよりも、もう一つの方がえぇわい」
「あぁ、中島潤さんの訳詞は『今船出が~』ですが、『やがて私も~』と始まる岩谷時子さんの訳詞の方ですか?」
「よう知っとるのう?えと、マスターの……」
「はじめまして。遼と申します。照川さま。声楽をかじりではあるのですが、学んでおりまして……私も、岩谷時子さんの歌詞の方が好きなのです」
遼が深々と頭を下げる。
辛口のじいさんと有名だが、初対面の女性には優しいらしく、髭を撫でながら微笑む。
「遼さんか。でも、あの『マイ ウェイ』は渋くないかのう?」
「自分なりに生きていきたい……たとえ、最後に心残りがあったとしても、できる限り努力したと言えるように頑張ろうと、ずっと自分に言い聞かせていたんです」
苦笑とゆらゆらと揺れるような影がにじむ遼に、
「あんたはようやっとるやないか。その無意識やろうけど、マスターをサポートしたり、わしと話すときはきちんと目を向けて話そうとしよる。でも、目が合わんのは、辛い思いをしたんやな……」
「あ、あの……昔は辛いことが多かったですが、しょ、マスターと結婚して、今は本当に幸せです」
「……」
遼を見つめた老人は、
「お願いがあるんやけど、遼さんの、あんたの今の『マイ ウェイ』を聞かせてくれんかなぁ?かまんかな?」
「あ、はい、CDの音量を下げて歌いますね」
デッキに向かう遼を追い、照川はマスターを見つめる。
「いつもは、マスターに選んでもらうけど、今日はわしが頼んでもかまんやろか?」
「えぇ。照川さまのお望みのカクテルを」
「ほら、要。座らんか」
自分の横の席を示し、座らせると、マスターに、
「ほんなら、『ギムレット』を頼むわ」
「……『ギムレット』ですね。かしこまりました」
音を小さくし、一瞬目を伏せると息を吸い、遼は歌い始めた。
その声域に、音量に、要は驚くが、老人は、
「ほうほう……見事な声や。そこらの歌手よりもうまいわ」
感心する。
その様子を見つつ、マスターはゆっくりと作っていく。
遼は、フランク・シナトラの歌に添うように伸びやかに歌い上げる。
「おぉ!素晴らしいわ!」
大きく拍手の音に、恥ずかしそうに、
「ありがとうございます。我流ですが……」
「いやいや。マスターにだけ聞かせるんも勿体無いわ。この店でシャンソンとか歌ったらえぇのに」
「いえいえいえ!まだほとんど覚えていないんです。でも、この曲は思い入れがあるんです……」
赤面症で頬を赤く染めた遼は、深々と頭を下げる。
「聞いてくださってありがとうございます」
「照川さま、要さん。『ギムレット』を……」
マスターは、カウンターにカクテルグラスを二つ並べる。
「本来の『ギムレット』では絞ったライムの酸味が強いかと思いますので、コーディアルライム(ライムジュース)を使わせていただきました。どうぞ。照川さまのお口に合うと良いのですが……」
「あぁ、ありがとう。要。乾杯しようか」
「おじいちゃん……」
「お前のこれからに……乾杯じゃ。『マイ ウェイ』にもあるだろう?恋愛をせい。ほら、目の前に理想の二人がおる」
珍しく無表情を取り繕う夫と、孫と飲むのがうれしいといった雰囲気の照川、そして祖父を心配そうに見つつ、飲んだカクテルに、
「美味しいです……本当に、ちょうどいい美味しいです!」
「要さん、ありがとうございます。音楽と、おじいさまとこころゆくまでお過ごしください」
「じゃぁ、マスター!遼さんに、シャンソンとか唄ってもらえんか?声がいい!」
「いつもはお断りしてますが、照川さまは特別ですよ?……遼?歌ってくれるかな?」
「えぇ。歌える曲は限られているけれど……」
その日は、照川のアンコールに遼は知っているだけのミュージカル音楽やシャンソンなどを歌った。
照川は笑い、要はその様子に表情を緩め微笑む。
マスターはノンアルコールカクテルを間に挟みつつ、照川の希望のカクテルを作ったのだった。
タクシーを呼び、照川と要を見送ったマスターは、遼には完全に分かるほど暗い顔をしてグラスを洗い道具を片付け始めた。
遼は、あえて夫に問いかけもせず、ほうきを持ち出し、カウンターの外を掃いて、テーブルを拭いたのだった。
数日後、新聞を見ていた遼が、
「彰一さん!き、昨日……照川さまが亡くなったって書かれているのです。……タクシーで帰られる時に住所をおっしゃってました。この方は、先日お越しになられた照川さまですか?」
新聞を手に駆け寄る遼に、確認をした彰一は、
「……あの日、珍しくご自分で指名されたカクテルで……何となく理解していたよ」
「えっ?」
「『ギムレット』のカクテル言葉は『長いお別れ』と言うんだ。最後に会いに来られたんだね……」
「……そう、だったんですね……素敵な方でした……」
ただ一度会っただけの照川の死に、涙を流す遼を抱き締め、
「『私は私の道を行く』……照川さまは、長い旅に出たんだ。あの方は好奇心旺盛の方だから、きっと……」
「そうですね……」
夫婦は通夜は仕事のため出られなかったものの、葬儀に参列したのだった。
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