あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『市場へいこう』

今日は島谷ひとみのアルバムを選んだ。
良く通る声を持ち、知られた曲も多い。

今日は、バレンタインデー前だと言うのに、ひどく落ち込んだ女性が姿を見せた。

「いらっしゃいませ。風が強くなって、寒くはありませんか?」
「あ……はい……」
「どうぞ、暖かくしておりますので、こちらに」
「ありがとうございます」

コートを脱ぎ、隣の椅子にかけると、持っていたバッグを膝におき抱き締めるようにする。
一応知識としては知っているが、有名なブランドのロゴが入っている。
しかし、大切に使っているのだろう、使用感はあるもののベルトや金具は綺麗に磨いてあるらしい。
貰った人を思う気持ちが、伝わる。

項垂れている彼女に声をかけることなく、ただ静かに見守る……あえて、そう心がける。
元々、聞き上手……店に来るお客の情報は聞かない……相手が口を開くのを待つのも、自分の仕事である。

「……どうしよう……」

呟く。

れん、お見合いが決まって……お相手は、会社のお得意先のお嬢さん……向こうが乗り気だって……」

バッグを無意識だろうか、撫でる。

「……『妊娠届出書』……書けないよ……蓮の名前なんて……父親の欄に。でも、絶対に中絶なんてしない……したくない‼」

涙を流す姿が、慈母像にみえ、マスターはおしぼりを差し出す。

「お客様……どうぞ。私の飲んでいるものですが、梅昆布茶です。寒いでしょう。お飲みください」
「あ、す、すみません‼」

涙を拭いた女性は哀しげに微笑む。

「恥ずかしいです。取り乱してしまって……」
「良いのですよ。外は梅が咲いていました。梅の実もこの梅昆布茶や梅干に、こちらだと梅酒と、とても重宝しますが、梅の花は春の訪れはもうすぐだと伝えてくれますね」
「あ、そう言えば……このお店の少し手前で濃いピンクの花が……紅梅だったのですね」
「えぇ」

すると、扉が開き、ネクタイを緩め汗だくの青年が、入ってくる。
仕事帰りか荷物を持っていたが、荷物を取り落とし駆け寄る。

來未くみ‼ここにいたのか‼」
「れ、蓮……な、何でここに……?」
「何でじゃない‼会社の同僚たちに聞いたんだ‼お前の様子がおかしいって。それに、会社中に変な噂ばらまきやがって‼あの、事務の山田課長……既婚者の癖に、來未に‼」
「課長?」
「あぁ、あいつから変な話聞いただろ?」

近づいてくる青年に、マスターは微笑む。

「どうぞ、お座りください」
「ありがとうございます」

礼儀正しく頭を下げた青年は來未の隣に座り、バッグを抱き締める手を握った。

「あの課長の変な噂は、でたらめだ‼」
「でたらめ……?」
「あぁ。一応、部長に呼ばれたが、『君が小崎おざきさんとお付き合いしているのは解っているが、一応こういう話が来ていたんだ。もう断っておいたから』と言っていただいてた。本当はお前にも伝えようと思っていたが、俺は営業で、お前は会社で行き違ってて、今日はお前が休んでると聞いて、それに、お前の同僚の増田さんが連絡をくれて……慌てて追いかけたんだ‼何かあったのか?」
「蓮……」

顔が歪む。

「……び、病院……」
「やっぱり病気なのか?身体の調子は?」
「……い、一緒に病院行ってくれる?」
「当たり前だ‼どんな病気なんだ⁉治るだろう?絶対に一緒にいるから‼」

來未は泣き笑う。
そして、

「さ、産婦人科の先生に、妊娠届出書を書いて貰おうと思って……じゃないと、母子健康手帳……出してもらえないんだって……」
「えっ?母子手帳……」

恋人と、バッグに隠れているがそのお腹を交互に見て、

「俺の……子供?やったー‼」
「わぁ、れ、蓮……苦しいよ‼」
「あ、ごめん‼あ、そうだ‼」

キョロキョロと周囲を見回し、マスターが荷物を後ろのテーブルに載せていることを示すと、近づき、くしゃくしゃになっている小さな袋を出して、來未に渡す。

「な、何?」
「本当は、クリスマスに渡すつもりだったんだ、ごめん。袋ボロボロ……」
「えっ?」
「一緒にいよう。子供ができたからじゃなくて、お前といたいんだ」
「……蓮……うん、うん‼ありがとう‼」

抱きしめあう二人に、マスターが一つだけカクテルグラスをカウンターに置いた。

「おめでとうございます。本当はお二人でと思いましたが、お祝いに……」
「あ、ありがとうございます‼」

來未には冷めた梅昆布茶を下げて、新しく入れ直す。

「えと……このお酒は……」
「スカーレット・レディと言います。『風と共に去りぬ』の主人公のスカーレット・オハラをイメージして作られたものです」
「スカーレット……」
「実は、この曲の中にサルビアと言う花の名前があるのですが、別名スカーレット・セージと言うそうです」

耳をそばたたせると、流れている曲は優しい。

「ゆっくりされてください……」
「ありがとうございます‼」

二人は顔を見合わせると、お互いの未来を祈るのだった。

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