あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『月光』

今日はよく冷えた夜になった。
バーのある地域は雪がさほど積もる地域ではないが、明日から天候が崩れ、雪が降るのではと店を開ける前に聞いていたラジオでは伝えていた。

ちりりん……

小さく音が響き、姿を見せたのは喪服姿のぼんやりとした女性。

「あの……乾杯をしたいのですが……」
「乾杯ですか?」

マスターは思いがけない一言に、とっさに聞き返した。

「はい……ようやく終わったので……」

何故か立っているのがやっとと言う印象の30代後半らしい女性に、マスターは微笑む。

「かしこまりました。どうぞ」
「失礼します」

青ざめた、目の下にくまのある顔に白粉をはたいたと解る彼女は、周囲を見回し、

「雰囲気が素敵ですね……」
「ありがとうございます。本当に、時間をかけて大事にしていたものですので」
「……本当に素敵です」

誉め言葉だが哀しげに声が濡れる。
そして、一人、ガラスケースに飾られているテディベアに気がつく。

「テディベア……」
「えぇ、相棒なのですよ……どうぞ」

音楽は、今日はマスターが選んだ、鬼束ちひろさんのCDである。
曲が替わり、『月光』となる。
曲に気がついた彼女は、

「昔聞いていました……好きな曲です。いいえ……苦しい時代、メッセージを発していた曲です……助けて……助けて……誰も気づいてくれなかったけれど……」

遠い目がさ迷う。

「だから、諦めて……命を断とうとした。でも、手を切るのは怖くて……薬だけじゃなく、食べ物の袋に入っている湿気とりとか……病院に家族に担ぎ込まれて……」

聞いてほしいと言うよりも、ただ、思い返すように噛み締めるように囁く。

「あぁ……でも、助けてくれなかった。心は塗りつぶされ、家族には命令され、お金を出せ、おばあちゃんの世話をしろ……役立たず……役立たず……手をあげられることはなかったけれど……何で生かされて……何のために生まれてきたんだろうと……それなのに、何で私は……」

顔をあげると、涙が次々に溢れてくる。

「おばあちゃんの世話から解放されて……お葬式が終わって……やったぁ‼とこれで自由になれるって思ったのに……涙が……」
「……お客さま……どうぞ」

おしぼりを渡し、そして差し出すのは、タンブラー。

「これをひと口、如何でしょうか?」
「これは……?」
「ムーンライト・クーラーです。闇夜はいつまでも続きません……。必ず、星が瞬きますし、月の光があなたの心に届きますよ……ただ、今日は、泣いてください……誰よりもあなたのために」

震える手でタンブラーを両手に包むと、唇を寄せた。

「少し苦いのね……」
「では、二杯目は、甘く温かいカクテルをご用意しましょう」
「……ありがとうございます」

涙をぬぐいながら、微笑む彼女はゆっくりとタンブラーを傾けたのだった。

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