あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『さくら……独唱』

大きくため息をついた晶子しょうこは、大きなバッグを背負い直し、歩き出そうとしたが、ふと、目の前に優しく温かい明かりに気がつき、扉を開けた。

小さな上品な雰囲気のバーに、自分のような普段着素っぴんの人間は似合わない気がして気後れしたものの、

「いらっしゃいませ」

と言う声に吸い寄せられるように、カウンターに近づいていった。

「こんばんは。あ、あの……構いませんか?」
「どうぞ、来てくださってうれしいです」

微笑むマスターはおしぼりをお皿にのせて差し出した。

「あ、あの……初めて来たのですが……」
「お荷物は重いですよ。隣の席に置いてくださいね」

わざわざ出てきて椅子を引いてくれる。

「あ、ありがとうございます」

荷物を置き、ホッとする。

「何になさいますか?」
「あ、あの……」

室内に流れるのは、森山直太朗の『さくら独唱』である。
独特の声に、歌詞は結婚式、そして卒業式など多岐に歌われている。

「あの……『さくら』に関連したお酒はありますか?」

おずおずと、そして、何故か哀しげに、物憂げに伝える。

「……そうですね……少々お待ちください」

マスターはカウンターの中に入ると、準備を始める。

シェーカーの中に、幾つか分量を量ったものを入れていき、そしてシェークすると、少し大きめのカクテルグラスに注いだ。

「どうぞ……チェリー・ブロッサム・カクテルと申します」
「まぁ‼綺麗な色‼素敵ですね‼」

しげしげと見つめた晶子は、手に取り、優しく見つめ微笑む。

「春の色ですね……」
「……冬の間は堪え忍び、そして一度温かい日が来た後に、また寒くなり、その後にようやく花が開きます」
「温かい日が来ると咲くのでは……」
「いいえ、一度寒さが……『かんの戻り』を体験しないと目が覚めないのですよ。さくらは」

面白そうに微笑む。

「梅は新春の後にそっと花開きます。桃の花は次第に冬から春を迎えるように……さくらはいさぎよいと言いますが、目を覚ますのも最後で、布団から出たくないとごねてごねて、最後に暖かくなったから仕方ないなぁ……と目を覚ますのですよ」
「まぁ‼」

ぷっ‼

噴き出した晶子は、

「私みたいです」

微笑み、そして一口口にした。

「……甘いです。でも、優しい……」
「ブランデーの入ったカクテルですが、少し甘めにしています」
「ブランデーですか……とてもそんなに感じないわ……」
「少し、チェリー・ブランデーを多めにしたのです」

晶子は嬉しそうに頬を染め、囁く。

「ありがとうございます。私……丁度、夫と別れるつもりで、離婚届を置いて出てきたんです」
「そうでしたか……」
「幼馴染みで、そのまま付き合うようになって……夫が進む道を『応援してくれ‼両親と子供を頼む‼』と言われました。夫も大変だったと思います。訓練に技術を習得すること、実際に現場に向かって……」

もう一口、口にして、視線をさ迷わせる。

「平和って……何なのでしょうね……。世界中でテロは相次ぎ、自爆テロで若い命は他の人を巻き込んで息絶える。地雷は至るところに埋められていて、子供たちが知らずその上を走り抜け、爆発して、命や足を失っていく……」
「……」
「夫の仕事は……周囲の人は素晴らしいと言ってくれます。でも、私にとっては一緒にいたかったから……普通の結婚をして、子供に恵まれ暮らしていくことを本当は望んでいたのに……」

辛くなってしまって……。

小さく呟いた声に、マスターは珍しくじっと聞き入る。

「……一応、私も仕事を見つけましたし……一時的に友人の家に住まわせてもらって、家を探そうと思っています。もう、旅立ってもいいと思って……新しい世界を見たいですから……」
「ご主人とは……話されましたか?」
「いいえ……」
「もう一度、ちゃんと思っていることを伝えた方が良いのではありませんか?」

すると、泣きそうな顔になる。

「……言っても聞かない人ですから……。夫の両親も……私の両親も……」

言った言葉を飲み込むように一気に飲み干した晶子は、立ち上がると深々と頭を下げた。

「ごちそうさまでした。本当に素敵な時間をありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ、来ていただいて本当にありがとうございました」

お金を払い、荷物を手にし、去っていった背中を見つめていたのだった。

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