あるバーのマスターの話

ノベルバユーザー173744

『恋しくて』

いつものバーに行くと、古い曲がかかっていた。
BEGINのデビュー曲『恋しくて』である。

「ねぇ、マスターって、どのような基準で曲を選ぶの?」

カウンターの丸い椅子に座ると、カクテルを頼む。
甘いものを今日は選びたかった。

「スクリュードライバーですか?」
「マスターってば良くわかるのね」
「私としのさんの付き合いでしょう?」
「ウフフ……そうね。だから、マスターのこと大好きよ」

カクテルを混ぜるシャカシャカと言う音と共に、メロディーが流れる。

「『恋しくて……』かぁ……相手を好きで好きすぎて、忘れたい位泣いてしまうって言う感じの歌詞よね……」

バッグを開け、久しぶりにシガレットケースと重たげなライターを取り出す。

「マスター……一本良い?」
「一本だけですよ?」
「ありがとう」

ケースを開けて、細目のタバコを出すと、口にくわえ、男物の重たいライターをシュッシュと親指を動かし火をつける。
ゆっくりと口の中から肺にまで吸い込むと、ケホケホと咳をした。
それはひとしきり続き、収まる頃にはスクリュードライバーは差し出されていた。

「大丈夫ですか?」
「喘息よ喘息。家系的に弱いのよね。やめようと思ってるんだけど、半日が限度だわ……」

篠と呼ばれた女は頬笑み、マスターが寄せてくれた灰皿にギュッとタバコを押し付けた。
そして、グラスを引き寄せ、手にする。

「やっぱり、マスターのカクテルは綺麗な色ね。じゃぁいただきます」

ひと口口にすると、ホッとしたように頬を緩ませた。

「……おいしい。やっぱりマスターね。私の好みを知ってる……ちょうど良い塩加減……」
「篠さんの涙の味ですよ……。今日は篠さんの貸しきりです。この曲を聞きながら、お好きなカクテルをお作りします。今日は貴方のために……」
「……っ‼」

篠は、瞳が潤みツツーッと涙が落ちていく。

「……彼氏と別れちゃった……。学生時代から付き合ってて……もう8年……もうそろそろと思っていたのに……。そうしたら私の後輩との間に子供ができたんですって」
「……カシスオレンジにしましょうか?」
「結婚資金も共同で貯めていたのに、それも全部使ったんですって……私は貯金を全部そちらに入れていたから、パァよ……」

いつもの癖なのだろうか、右の親指の下の部分で、目の下をぬぐう。
手の甲で、拭いつつ、スクリュードライバーを飲み干すと、カシスオレンジに手を伸ばす。

「馬鹿だわ……もっと意思が強ければ良かった……意地を張らなければ良かった……」

しゃくりあげ、両手でグラスを覆い、呟く。

「『好きと……』……本当ね……言えば、良かった……あの人と向き合っていればもっと違っていた……」

しばらくすすり泣くと、カシスオレンジを飲み干して、篠は真っ赤に泣き腫らした目で微笑む。

「ありがとう……マスター。また来るわ」

レジを済ませ、出ていった背中を見送ったマスターが片付けようと篠が席についていたカウンターに戻り、気がつく。

「タバコとライターを忘れている……いいや、置いていったのかな」

一応は忘れ物として置いておくことにして、グラスなどを片付け始めたのだった。

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