妖夢幻影

陰東 一華菱

引き寄せる満月

 暗い闇の世界。
 身の毛のよだつような絶えず響き渡る咆哮。はびこる妖かし……。
 ぞろり……ぞろり……と、ぼろぼろに朽ち落ちた衣を引き摺るようにして纏った醜鬼たちが通った後は、地面の上にその痕跡を無数に残す。
 首が長く伸びる女性、番傘に人の足が生えた一つ目、長い舌を出したままの小僧……。古より伝え聞く妖怪の面々があちらこちらにはびこっている。
 いつもは大人しい妖怪たちも、近頃は皆一様に活気付き、夜通し平安京のような碁盤の目を刻む大通りを行ったり来たりしている。

 間もなく、時が満ちる。
 妖かし達はこの時を待っていた。

「見よ。いつになく美しい赤い月を……」

 修羅界の空に浮かぶ満月はいつも赤色。その月が東のまだ低い位置にある様をうっとりと見つめながら、大きな屋敷の一室で酒の入った杯を傾けている女性がいた。

 女性は黒く長い髪を後ろへと流し、着ている十二単は襟ぐりを大きく開いて着崩して、鎖骨から胸元まで肌を露出していた。その容姿は、見る者全てを魅了するほどに妖艶だった。
 屋敷の柱に背を預けて片手に琵琶を抱き、逆手には杯。そして足元には酒の入った徳利と長い煙管が置かれている。
 古来の姫としてはあるまじきその姿。だが、この修羅界ではそれをどうこう言うものはない。

「いよいよじゃな」

 手にした杯をぐいっと煽り、ほろよいの表情でほくそえむこの女性は阿修羅あしゅらと言う。
 阿修羅はこの修羅界の王であり、最高位の力を持った神だった。
 肌は浅黒く、額からは二本の角が生えて射竦めるような眼差しはとても鋭い。

「間もなく待ちに待った月が満ちる。わらわはこの時を待ち焦がれていた。あの東の月が天高く昇り、霞が掛かれば人間界への扉が開かれるのだ」

 杯に残っていた酒をぐいと煽り、徳利の傍に置いたその背後には、一人の男が静かに座している姿がある。阿修羅はその男を振り返る事無く、徳利から杯に自らの手酌で酒を注ぎ、男に囁くようにしながら語りかけた。

「一千年……。その間に何度も機会はあったが、どれも条件が揃わず人の世界へ行くことは叶わなかった。時は巡り巡って人の世界にも再び数年に一度の巨大な満月が昇る。今宵こそは、我らの咆哮を人の世に知らしめたらん」
「……さようにございます」

 背後に座り、膝の上に拳を作ったまま頭を下げていた男がそう答えると、阿修羅はなみなみと酒を注いだ杯を一気に飲み干す。そして再び空けた杯を軒に置いて、煙管を手にとり煙をくゆらす。
 くゆる煙の向こうには徐々に赤みが強くなっていく満月が見えた。

 美しい……と言う言葉よりも、おぞましいと言った言葉の方が正しいだろうか。
 阿修羅はふかした煙管を口から離し、ふぅっと細く長く吐き出される煙をみやりながら呟いた。

「細く長く続く憎き帝釈天の血……。人の世に脈々と受け継がれ続けるその一族の息の根を止めることが、ようやくできる。阿魅雲羅あみうら、抜かりはないな?」

 その問いかけに、阿魅雲羅と呼ばれた男性はゆっくりと面を上げた。
 赤い月明かりに照らし出された男には、人外のものである大きな耳が頭の上に生えていた。そして畳に座した彼の後ろには二つの尾がふさりと揺れ動く。
 彼は人狼の阿魅雲羅。修羅界で2位の座を居止めるつわものの一人だ。

「……抜かりはございません」
「うむ。今宵は良い宴になることを願っておるぞ」

 一度たりとも振り返る事無く満足そうに口の端を引き上げてほくそえむ阿修羅に、阿魅雲羅はやや視線を下げたままもう一度小さく頭を下げた。

「阿修羅様のご期待に添えられるよう、尽力いたします」

 阿魅雲羅はゆっくりその場に立ち上がり、くるりと踵を返して部屋を後にする。
 阿修羅は口に咥えていた煙管を離し、クックッと肩を揺らして笑い出す。

「そうさ、帝釈天。アンタにいたぶられた娘の屈辱、ここで晴らさでおくべきか……」

 釣燈篭つりとうろう燈台とうだいの頼りない灯りが、仄暗い屋敷を照らす中で声高らかに笑う阿修羅の声が不気味に響き渡った。
 一点を見つめたまま阿修羅の笑い声を耳に受けつつ、阿魅雲羅は燭台を手にして、きし、きし、と軋みを上げる長い床を擦るようにしながら歩いていた。その時、軒下からひょっこりと野鼠が顔を覗かせる。
 その容姿は鼠そのものでありながら体は通常の鼠よりも大きく、薄汚れた着物を身に纏っている。
 長く伸びた前歯をきりきりと擦り合わせながら素早い動きで中庭に躍り出た野鼠はその場にしゃがみ込み頭を下げた。

「阿魅雲羅さま、阿魅雲羅さま」

 名を呼ばれ、きしり、と音を立て足を止めた阿魅雲羅がそちらへ目を向けると、野鼠がこちらに頭を下げている姿があった。

「何用だ。鉄鼠てっそ
「まもなく妖月の道が開かれます。全ての妖怪たちの準備は整ってございますれば、阿魅雲羅さまにご指示賜りたく」
「そうか。ご苦労だったな。俺もすぐに向かう。しばしその場にて待つよう皆に伝えておけ」
「御意~」

 鉄鼠は一層深く頭を下げると、得意のすばしっこさでその場を後にした。
 阿魅雲羅は再び歩き出すと一つの部屋の前で止まり、音もなくすーっと障子を開けて部屋に入る。
 静か過ぎる部屋の中。阿魅雲羅は神棚に置かれた愛用の妖刀と弓を手に取り、ゆっくりと姿勢を正した。そして懐から紐に通された小さく古ぼけたお守りを取り出す。

紗詩しゃし……ようやく……ようやくだ」

 きゅっと目を細め、手のひらに乗せられたそのお守りを握り締めて胸に引き寄せ頭を俯けた。

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