小千の朝倉宮の伝承より【玉響の夢】
秘密
大伯海……大阪湾……で生まれた大伯皇女は、実は、生まれても産声を上げることがなかった。
息をしていない赤ん坊の息を取り戻したのは、額田王だった。
その上、余り乳を飲むことがなく、祖母である姫天皇や、母の太田皇女、控えていた額田王に姫天皇の側仕えのなつは心配していた。
その上、
「姫天皇さま……この子は男です。それなのにどうして女の子だと?」
慣れない手つきで赤ん坊を抱き乳を与えていた太田皇女は、祖母を見上げる。
『大伯皇女』と呼ばれる存在は、ようやく生まれた男児……大海人皇子の跡取りである。
「太田よ。海の神に挨拶をせねばならぬ。その和子の体では、耐えられまい。太田とともに休ませよ。男児であったと後で告げることはできる」
「ですが……」
「それに、そなたは体を休めぬか」
初産である孫の身体を心配しているのである。
「そうですわ。皇女さま。お休みくださいませ。私が付いておりますので」
なつが控え目に声をかける。
「少しの間でも、ゆっくりとお休みくださいませ。おこさまがお腹が空いたと泣かれた時には、大変になるそうですわ」
「そうですわ。私もお守りいたします」
額田王も微笑む。
美貌の彼女も、難産の補助にやつれ気味である。
「じゃぁ……額田王さま、なつもお願いします。姫天皇さまは?」
「吾は奥にさがるゆえ……身体を冷やさぬよう、額田、なつもよいか?」
「かしこまりました」
二人は頭を下げる。
そして、妊婦のなつが乳母となり、『大伯皇女』を抱き上げ隅に控える。
乳を与えられないが、衣を一枚はだけ、その中に抱きしめることで弱っている赤ん坊を温めることが出来る。
「皇女さま……明日は暖かくなりましょう。お休みなさいませ」
そっと近づき、なつの身体の上から一枚衣をかけた額田王は太田皇女の元に戻ってくると、寒くないように布をかけたり、先ほどまでの汗を拭ったりと世話好きらしい一面を覗かせる。
「額田王さま。大丈夫ですか? お疲れでは……」
「いいえ、あ、申し訳ありません。乱れた姿をお見せしまして……恥ずかしいですわ」
頰を染める姿は、夫の娘を生んだ母親に見えず、親近感が湧く。
同じ『母親』だからだろうか?
「いいえ、額田王さまはいつもお綺麗ですわ。羨ましい。私はこの姿は他の誰にも見せられませんわ。妹にも。あんなに叫んだり、泣いたり……」
「私もそうでしたわ。『もう嫌、終わりにして!』と泣きじゃくりましたもの。皇女さまは本当に頑張られましたわ。それに、和子さまのことを心配されて……」
「……折角生まれてきたあの子が、辛い思いをするのは絶対に嫌なの。幸せになってほしい……その為なら、何でもして見せる」
太田皇女はやつれた表情の中で強い眼差しをして告げる。
その強さに内心感動を覚えながら、微笑む。
そして自分が冷えて風邪を引いては、太田皇女や大伯皇女に移ってしまうと、汗をぬぐい、急いで衣を変え戻って腰を下ろす。
「太田皇女さまは、お強いですわ……」
「いいえ、弱虫ですわ。鸕野讚良は強いです。私は……もっと強くなりたかった」
太田皇女は、視線を彷徨わせる。
「父を止められなかった。貴女を責める鸕野讚良を止められなかった。きちんと言い返すなり、叔父である大海人皇子の元に嫁がないと言えばよかった。私は弱い……でも、あの子の為なら、頑張れるわ。額田王さま。明日から色々お願いします」
「私でよろしければ」
額田王は複雑な表情をする。
自分の存在が、この優しい若い皇女を苦しめているのではないかと思ったのである。
太田皇女は首を振る。
「貴女の立場は、解っているの。弱い自分が情けないだけ。……私は、鸕野讚良は強いと言ったわ。でも、その強さは父と同じ。強引で、周囲を巻き込んで困らせる。我儘を言っている時もあるわ。姫天皇さまが正しいことを述べても耳を傾けようとしない。それなのに、何か事が起これば自分で責任を負わず、誰かに押し付ける。気性はきつく、自分の身分に驕っていると思う時もあるわ」
「太田皇女さま……」
「責められても良いわ。本当のこと。山背大兄王さまが命を落としたのも、父が関わっていても私は驚かないわ」
「皇女さま!」
山背大兄王……推古天皇の皇太子の厩戸皇子の息子。
大兄と言うのは、当時の言葉で『長男』。
ちなみに、中大兄となると、『次男』を示す。
そして、山背は山城……現在の京都の南端部の木津川市北部辺りの地名である。
山背大兄王は斉明天皇の重祚前の皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)に家族共に命を絶った。
山背大兄王は父の厩戸皇子が推古天皇の前の天皇である、用明天皇の息子であったこともあるが、人望もあった。
それを恐れた蘇我蝦夷が、姫天皇の夫だった舒明天皇を指名し、舒明天皇亡き後、蝦夷の息子の入鹿は、山背大兄王が天皇にならないように皇極天皇を擁立した。
そして皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、斑鳩宮を襲撃され、山背大兄王たちは一度は山に逃れたものの、最後に一族が、斑鳩寺で首をくくった。
その2年後、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足が起こした『乙巳の変』で殺されたのだが、そのお陰で一番トクをしたのは、祖母の姫天皇ではなく父というよりも、後に藤原氏を名乗る中臣鎌足らではないかと太田皇女は思っている。
父は踊らされているのではないか?
祖母の姫天皇が今のところは抑え込んでいるが、姫天皇にもし何かがあれば、あの自尊心の高い父である、どのようなことになるか……。
それを心配して誰かに相談したくとも、実母は蘇我氏出身で、親族が逝った後、儚くなり、妹は父に似て気が強く、同じく自尊心が高い。
自分はどうすれば良いか?
悩んでいたところ、小さい頃から父とは別のところで成長して戻ってきた夫と結婚した。
夫に相談して良いものか悩んでいたものの、その前に『大伯皇女』を身ごもったのだ。
「姫天皇さまはお身体が良くないと言っても、父は聞くこともなかった。夫も父に忠言しても同じ……本当に困ったものです……本当に、ごめんなさい。額田王さまに言うつもりはなかったの……」
「いいえ……太田皇女さまは、まだお若いのに……」
額田王は、たおやかで穏やかな少女という印象だが、芯はしっかりとしている太田皇女の印象を改める。
この皇女は強かで賢いのだ。
「年齢は関係ないわ。それよりも心配なのは、姫天皇さまというしっかりと父を抑え込む存在がなければ、これからどうすれば良いか……」
「皇女さまがいらっしゃれば……」
「無理よ……私が苦言を言うと、付いてくる鸕野讚良が責めるの。もう、何度か父の元に伺っても、付いていくと言い張って……『お父様に何を言うの?』と。話にならないわ」
苦笑するが、すぐに額田王の瞳を見つめる。
「額田王さま。悪口を言っているわけじゃないの。父も、意地を張らなければ良い人なのだと思うわ。でも、心配なの」
「……判りますわ。皇女さまが心配されているのは本当に……ですが、私に皇女さまにお伝えできる言葉は……大伯皇女の成長と健康を祈ると言うことです……申し訳ありません」
「いいえ」
ハッとした顔になった太田皇女は、バツが悪そうになる。
「本当にごめんなさい。もっと大事なことを忘れていました。私が一番に考えるべきなのは子供の事でしたわ。額田王さま、ありがとうございます」
「こちらこそ……本当に太田皇女さまの知識の深さに驚きました。本当に考えが及びませんでしたわ。ですが、皇女さま。今更ですが、少しでもお休みくださいませ」
「そうですね……ありがとうございます。少し休みます」
目を閉ざし、少しして寝息が漏れた。
額田王は、肩が冷えてはと布をかけ直し、しばし現在の夫と周囲の関係を気にするのだった。
息をしていない赤ん坊の息を取り戻したのは、額田王だった。
その上、余り乳を飲むことがなく、祖母である姫天皇や、母の太田皇女、控えていた額田王に姫天皇の側仕えのなつは心配していた。
その上、
「姫天皇さま……この子は男です。それなのにどうして女の子だと?」
慣れない手つきで赤ん坊を抱き乳を与えていた太田皇女は、祖母を見上げる。
『大伯皇女』と呼ばれる存在は、ようやく生まれた男児……大海人皇子の跡取りである。
「太田よ。海の神に挨拶をせねばならぬ。その和子の体では、耐えられまい。太田とともに休ませよ。男児であったと後で告げることはできる」
「ですが……」
「それに、そなたは体を休めぬか」
初産である孫の身体を心配しているのである。
「そうですわ。皇女さま。お休みくださいませ。私が付いておりますので」
なつが控え目に声をかける。
「少しの間でも、ゆっくりとお休みくださいませ。おこさまがお腹が空いたと泣かれた時には、大変になるそうですわ」
「そうですわ。私もお守りいたします」
額田王も微笑む。
美貌の彼女も、難産の補助にやつれ気味である。
「じゃぁ……額田王さま、なつもお願いします。姫天皇さまは?」
「吾は奥にさがるゆえ……身体を冷やさぬよう、額田、なつもよいか?」
「かしこまりました」
二人は頭を下げる。
そして、妊婦のなつが乳母となり、『大伯皇女』を抱き上げ隅に控える。
乳を与えられないが、衣を一枚はだけ、その中に抱きしめることで弱っている赤ん坊を温めることが出来る。
「皇女さま……明日は暖かくなりましょう。お休みなさいませ」
そっと近づき、なつの身体の上から一枚衣をかけた額田王は太田皇女の元に戻ってくると、寒くないように布をかけたり、先ほどまでの汗を拭ったりと世話好きらしい一面を覗かせる。
「額田王さま。大丈夫ですか? お疲れでは……」
「いいえ、あ、申し訳ありません。乱れた姿をお見せしまして……恥ずかしいですわ」
頰を染める姿は、夫の娘を生んだ母親に見えず、親近感が湧く。
同じ『母親』だからだろうか?
「いいえ、額田王さまはいつもお綺麗ですわ。羨ましい。私はこの姿は他の誰にも見せられませんわ。妹にも。あんなに叫んだり、泣いたり……」
「私もそうでしたわ。『もう嫌、終わりにして!』と泣きじゃくりましたもの。皇女さまは本当に頑張られましたわ。それに、和子さまのことを心配されて……」
「……折角生まれてきたあの子が、辛い思いをするのは絶対に嫌なの。幸せになってほしい……その為なら、何でもして見せる」
太田皇女はやつれた表情の中で強い眼差しをして告げる。
その強さに内心感動を覚えながら、微笑む。
そして自分が冷えて風邪を引いては、太田皇女や大伯皇女に移ってしまうと、汗をぬぐい、急いで衣を変え戻って腰を下ろす。
「太田皇女さまは、お強いですわ……」
「いいえ、弱虫ですわ。鸕野讚良は強いです。私は……もっと強くなりたかった」
太田皇女は、視線を彷徨わせる。
「父を止められなかった。貴女を責める鸕野讚良を止められなかった。きちんと言い返すなり、叔父である大海人皇子の元に嫁がないと言えばよかった。私は弱い……でも、あの子の為なら、頑張れるわ。額田王さま。明日から色々お願いします」
「私でよろしければ」
額田王は複雑な表情をする。
自分の存在が、この優しい若い皇女を苦しめているのではないかと思ったのである。
太田皇女は首を振る。
「貴女の立場は、解っているの。弱い自分が情けないだけ。……私は、鸕野讚良は強いと言ったわ。でも、その強さは父と同じ。強引で、周囲を巻き込んで困らせる。我儘を言っている時もあるわ。姫天皇さまが正しいことを述べても耳を傾けようとしない。それなのに、何か事が起これば自分で責任を負わず、誰かに押し付ける。気性はきつく、自分の身分に驕っていると思う時もあるわ」
「太田皇女さま……」
「責められても良いわ。本当のこと。山背大兄王さまが命を落としたのも、父が関わっていても私は驚かないわ」
「皇女さま!」
山背大兄王……推古天皇の皇太子の厩戸皇子の息子。
大兄と言うのは、当時の言葉で『長男』。
ちなみに、中大兄となると、『次男』を示す。
そして、山背は山城……現在の京都の南端部の木津川市北部辺りの地名である。
山背大兄王は斉明天皇の重祚前の皇極天皇2年11月11日(643年12月30日)に家族共に命を絶った。
山背大兄王は父の厩戸皇子が推古天皇の前の天皇である、用明天皇の息子であったこともあるが、人望もあった。
それを恐れた蘇我蝦夷が、姫天皇の夫だった舒明天皇を指名し、舒明天皇亡き後、蝦夷の息子の入鹿は、山背大兄王が天皇にならないように皇極天皇を擁立した。
そして皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、斑鳩宮を襲撃され、山背大兄王たちは一度は山に逃れたものの、最後に一族が、斑鳩寺で首をくくった。
その2年後、皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足が起こした『乙巳の変』で殺されたのだが、そのお陰で一番トクをしたのは、祖母の姫天皇ではなく父というよりも、後に藤原氏を名乗る中臣鎌足らではないかと太田皇女は思っている。
父は踊らされているのではないか?
祖母の姫天皇が今のところは抑え込んでいるが、姫天皇にもし何かがあれば、あの自尊心の高い父である、どのようなことになるか……。
それを心配して誰かに相談したくとも、実母は蘇我氏出身で、親族が逝った後、儚くなり、妹は父に似て気が強く、同じく自尊心が高い。
自分はどうすれば良いか?
悩んでいたところ、小さい頃から父とは別のところで成長して戻ってきた夫と結婚した。
夫に相談して良いものか悩んでいたものの、その前に『大伯皇女』を身ごもったのだ。
「姫天皇さまはお身体が良くないと言っても、父は聞くこともなかった。夫も父に忠言しても同じ……本当に困ったものです……本当に、ごめんなさい。額田王さまに言うつもりはなかったの……」
「いいえ……太田皇女さまは、まだお若いのに……」
額田王は、たおやかで穏やかな少女という印象だが、芯はしっかりとしている太田皇女の印象を改める。
この皇女は強かで賢いのだ。
「年齢は関係ないわ。それよりも心配なのは、姫天皇さまというしっかりと父を抑え込む存在がなければ、これからどうすれば良いか……」
「皇女さまがいらっしゃれば……」
「無理よ……私が苦言を言うと、付いてくる鸕野讚良が責めるの。もう、何度か父の元に伺っても、付いていくと言い張って……『お父様に何を言うの?』と。話にならないわ」
苦笑するが、すぐに額田王の瞳を見つめる。
「額田王さま。悪口を言っているわけじゃないの。父も、意地を張らなければ良い人なのだと思うわ。でも、心配なの」
「……判りますわ。皇女さまが心配されているのは本当に……ですが、私に皇女さまにお伝えできる言葉は……大伯皇女の成長と健康を祈ると言うことです……申し訳ありません」
「いいえ」
ハッとした顔になった太田皇女は、バツが悪そうになる。
「本当にごめんなさい。もっと大事なことを忘れていました。私が一番に考えるべきなのは子供の事でしたわ。額田王さま、ありがとうございます」
「こちらこそ……本当に太田皇女さまの知識の深さに驚きました。本当に考えが及びませんでしたわ。ですが、皇女さま。今更ですが、少しでもお休みくださいませ」
「そうですね……ありがとうございます。少し休みます」
目を閉ざし、少しして寝息が漏れた。
額田王は、肩が冷えてはと布をかけ直し、しばし現在の夫と周囲の関係を気にするのだった。
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