玉虫色の依頼、少女達のストライド
2.賑やか家族は多種多様
「ただいまー!」
「ごめんください」
黄色いペンキで塗られた観音開きのドアを開けて中に入る。玄関は広く、薄い水色をしたタイルがそこここで光っていてよく掃除されているのが分かった。靴は一足も出ておらず、右側に備え付けられた木製の棚の中に綺麗に並べられている。大小様々な踵が身を寄せている様は何だか温かい雰囲気がした。
奥から足音が聞こえてきて視線を正面に移す。とっくにサンダルを脱ぎ終えたふたりは一段上がった所で大人しく並んでいる。僕のリュックと帽子は既にその腕の中に。来客への対応をよく教えられているようだ。
「歩くん、いらっしゃい」
「弓削さん、ご無沙汰しております」
「もう固いわねぇ、それに美奈子さんって呼んでよね。ここでは苗字は言いっこなしって言ったでしょ?
ささ、入って。その魅力的な大きな荷物も悪いけどこっちまで持って来て」
セオリー通りに挨拶もさせてもらえないまま、中へと促される。この家の"ママ"美奈子さんは子供達に引けを取らない快活な女性で、五十代とは思えないフットワークの軽さを持っている。しかし僕の周りはどうしてこう強引な女性が多いのか。家族のように迎えてもらえて、勿論嬉しいのだけど。
お土産として途中のスーパーで買って来たスポーツ飲料の入った箱を抱えて、先導する三つの背中に付いて行く。真っ直ぐに伸びる廊下を進むと右手の大きな部屋に入る。一枚板の大テーブルがでんと鎮座するそこは、ダイニングだ。廊下の左手にある階段を上がればふたり一組で使っている部屋があるらしいが、基本的には皆このダイニングで時間を過ごすのだと以前聞いた。多感な中高生も居るが一様にここに集まるそうだ。理由は聞かなくても何となく想像ができた。
「よっ、あゆちゃん!」
「清貴くん……女の子みたいな呼び方はやめてほしいんだけど」
「心配すんなって、似合ってるから」
「それ全然嬉しくないからね!?」
声をかけてきた高校二年生の清貴くんは悪戯好きな今時の男の子だ。短い黒髪を無造作にセットして制服を少し緩めに着るのが彼のスタイルらしい。「これだと優等生にも、遊んでそうにも見えるだろ」と得意げに話していたが、遊んで見えるのが格好いいのかは地味だった僕には分からない。今日は制服ではなく紺色のジャージに身を包み、部屋の隅に置かれたソファに雑誌を広げて陣取っていた。双子は彼の元に駆けていく。
ジュースは向こうね、そう指示を受けてひとりキッチンへと入った。ダイニングとキッチンは壁で区切られている。出入り口にドアはなく、四角い口に自ら飛び込んでいくような感覚がした。縁が赤く塗られていて、唇のように見えたからかもしれない。
中に入るとまず目に飛び込んできたのは、木目調の大きなキッチンワゴンだ。その上に置かれた皿には今日の昼食になるらしき小ぶりなサンドイッチが山のように盛られている。冷蔵庫の傍らにジュースの箱を置いて顔を上げると、僕を睨みつける鬼の形相と目が合った。
「多枝さん、その眼光は仕舞ってください……」
「どこ這いずり回ってきたか分からないから、手を洗うまでは見守っておこうかと」
「監視、の間違いだと思います」
彼女は陽だまりの庭の台所番長、多枝さん。ここで主に料理担当として働いている。以前小学校の、いわゆる“給食のおばさん”をしていた経歴もあって、彼女の作る料理には外れがない。僕がどうしてこんなに警戒されているのかと言うと、依頼でここへ来た時、庭の各所を周った後に入った最初の部屋が多枝さんの部屋だったため、なんて汚い格好で入ってきたのかと激怒されてしまったからだ。特に目立った汚れがあった訳ではなかったのに。彼女は超のつく潔癖症である。
光線が出ていたらとっくに焼き尽くされていそうな視線を受けながら、素早く手を洗わせてもらう。念入りに洗った手をアピールすると深い頷きでお許しが出た。離れていた距離が縮まる。僅かに起こった風からほんのり甘い香りが鼻を掠めた。
「それにしてもこんなに沢山、大変だったんじゃないですか? ありがとうございます」
「一人分くらい増えたってどうってことない。それにあたしひとりが作ったんじゃないからね」
「まりもー!」
「ゆうくんもっ」
多枝さんが視線を後ろに向けるのに倣う。そこには行儀よく椅子に座って手を挙げているふたりの子が居た。
「そうそ、まりももゆうも頑張ったもんね?」
「まりもちゃん、ゆうくん、ありがとう」
照れたように笑うふたりの前に並んだロール状のパンが、彼等の力作のようだ。ピックの先の動物達がパンの上で踊っているように見えた。
ぽっちゃりした顔におかっぱ頭の似合うまりもちゃんは五歳。本当の名前はまりと言うのだけど、自分もやりたい私もそうだと主張するときに「まりも」と言うことから皆からまりもと呼ばれている。本人もいたく気に入っているようで僕にもそう呼んでいいと言ってくれた。
まりもちゃんの傍にぴったりくっつくようにしてその手を覗き込むのが友樹くん、通称ゆうくんだ。現在四歳の最年少。入居してすぐから、歳が近いからかまりもちゃんにべったりで、どこに行くのも一緒の仲良しペアだ。まりもちゃんもゆうくんの前ではしっかりお姉さん気質を発揮していて、見ていてとても和むふたりである。
「歩、おばばに挨拶行かないの? 今なら部屋に居ると思うけど」
「そうですね、今の内に行かせてもらいます」
キッチンから直接廊下へと出るドアを開ける。右に進み、階段を横目に見ながらまだ先へ進む。突き当りにはお風呂とトイレがあり、廊下は更に右に伸びている。そちらには左右に幾つか部屋があり、職員の方が寝泊まりする個人の部屋になっている。陽だまりの庭では職員も住み込みで、だから余計にひとつの家族のように見えるのだろう。
それらのドアを通り過ぎて廊下突き当りのドアの前に立つ。華美な装飾のない、何の変哲もない普通のドアだ。本来ならあるだろう応接室はなく、そうであれば一番豪華な筈の施設長室もこうというのは不思議な気がする。僕の勝手なイメージではあるけれど。
ノックをすると落ち着いた声が返ってくる。ドアを押し開いた。
「失礼致します、ご無沙汰しております。神咲です」
「いらっしゃい。ここまで歩かせてごめんなさいね。あの子達は我儘言わなかったかしら?」
「はい。むしろ着る服まで選んでもらいました」
「まぁ、よくお似合いよ」
品良く笑う顔は美奈子さんとあまり似ていない。そういえば父親似なんだと聞いたことがある。三人が並ぶ姿が見られたらいいのにと願うのは今となっては失礼だろう。
手で示されるのに従って、腰掛ける。彼女も近くへと進んでくるが、以前よりも足取りは重そうだ。
「元気にしておられましたか?」
「変わらずよ。お気遣いありがとう。ここのことは他の皆に任せてあるから悠々自適な生活を送らせてもらっているわ」
「聞きましたよ、今日までに宿題を終わらせるって弓削さん……あぁ、知里さんと約束したと」
「名前、どう呼んでもらってもいいのよ、また美奈子に言われたのだろうけど。なんだったら、あなたもおばばと呼んでちょうだい」
「えと、それは流石に……」
この歳で年長の女性をおばばと呼ぶには抵抗があり過ぎる。当然冗談で言っているのも分かってはいるが、この柔和な微笑みを前にすると何が冗談で何がそうでないかの判断が鈍る。
グレーに染まった髪を掻き上げる仕草がここまで様になる人は、知里さん以外にまだ出会ったことがない。これまで何百人と子供達を育ててきた、人としての厚みが全身から滲み出ているようだ。目尻に刻まれた皺は幸せの証だというが、知里さんを見ると納得できた。
「皆ね、今日をとても楽しみにしていたみたいなの。勿論、あなたが来てくれるからよ」
「そんな、とんでもない」
「いいえ、本当に。それぞれ学校に友達が居てよく遊びに出掛けているから、夏休みに入って日中に全員が揃うなんて初めてじゃないかしら。昨日なんて、今日のことで話題は持ち切りだったんだから」
泊まっていくようせがまれても許してやってね、と愉快そうに笑った。
どうして皆がそんなに慕ってくれているのか僕にはよく分からない。こんな風に僕が居ることを喜んでもらえた経験なんて少しも記憶にないから。嬉しさよりも、今は戸惑いの方が大きいかもしれない。僕の何が、友達として見てくれた要因なのだろう。
何を考えているの? 問いかけに顔を上げると優しい眼差しが僕を見つめていた。
「皆は僕の寂しがり屋なところを見抜いて、構ってくれているのかと」
「そうじゃないわ。あの子達は楽しくてわくわくするようなことを見つけるのが得意なのよ」
「僕は面白味のない男ですよ?」
「そういうことは本人が一番気付かなかったりするものよ。安心して、あなたは楽しい人だから」
そうだろうか。知里さんの言葉はその経歴から信憑性があるけれど、僕をよく知る僕自身は、面白いだなんて思えたことは一度もなかった。色んなものが足りなくて、要らないものばかり持って。口だけ能弁に語っては、足踏みばかりが上達して。
こんな風に思うのは急速に色んな人と出会ったからかもしれない。その幾らかは間違いを犯してしまったけれど、それでも僕よりずっと逞しく生きていたと思う。前を向き歩き出す姿はいつだって羨ましかった。
もしくは想われていたことを知ったからかもしれない。臆病で単純に守ることも叶わない僕が、誰かの心に在り続けていたこと。その事実は僕を余計に不安にさせる。僕が居なければ幸せだったんじゃないかって思ってしまう。そんな思いは人の心まで否定するようで、また自分が嫌になる。
誰かの言葉を信じるのは、疑うよりも勇気がいる。
杖の先が床を叩く音が僕の思考を断ち切った。
「さぁ、そろそろ向こうであなたを待ち侘びる声が上がるんじゃないかしら。私が独り占めしていたら怒られてしまうわ」
「はは。では、そろそろ戻ります」
「気は休まらないと思うけど、楽しんで帰ってちょうだいね」
慈しむ笑みに頷いて部屋を後にする。廊下に出ると賑やかな声がこちらまで響いていた。日頃ひとりで過ごしていると楽し気な輪に入るのに少しだけ緊張してしまう。本当はそんなことを気にしなくても引きずり込むようにしてその輪に入れてくれると分かっていても。
ダイニングに入ると新しい顔ぶれが増えていた。
「あ、歩さん。いらっしゃい」
「正哉くん、こんにちは。蓮ちゃんも帰ってたんだね」
「さも自分ちのように迎えるのやめてほしいんですけど」
爽やかな笑顔で声をかけてくれたのは青色のエプロンがよく似合うここで唯一の男性職員、正哉くん。僕の三つ歳下ではあるけれど、尊敬するほど真面目で機転の利く好青年だ。先程見当たらなかったのは外で洗濯物を干していたかららしい。洗濯かごさえ似合うとは、この男前め。
テーブルの向こうから挨拶の代わりに文句を返してくれた蓮ちゃんは、中学三年生。ピリピリと攻撃的なのは受験を目前に控えているから、では特にない。元々の性格にプラスして、まだ僕を受け入れてくれていないようだ。図書館から借りてきただろう山積みの本から一冊を手に取ると、早速読み始めてしまった。厳しい雰囲気は多枝さんと通じるものがあるが、清潔にしておけば普通に接してくれる分、多枝さんの方が付き合いやすい。この子と打ち解ける日は来るのだろうか。
少々落ち込んでいると、隣に清貴くんがやって来て僕の肩に腕をかける。掌で肩をポンポンと叩かれているのは慰められているのだろうか。そっと小声で話しかけてきた。
「あゆちゃんよ、蓮のことは気にすんな。あいつは大抵の男にツンデレだからな。ツン九割だけど」
「たか兄、うるさい。変なこと吹き込むとその口縫うよ」
「こっわ! お前こそ頭良くても口が悪いから男が逃げてくんだよ。お前は文学少女の川上にも置けねぇ」
「それを言うなら風上だから。ほんと、馬鹿」
言ったな、と眉をひくつかせている清貴くんを宥める。こんなに言い合っていても本気の喧嘩にならないことは知っているものの、歯に衣着せぬ物言いのふたりを見ているとひやひやする。それ以上踏み込まないでいられるのは仲の良い証拠だが。
「いやぁ、歩さんが来るといつにも増して賑やかになりますね」
正哉くんは少し的外れな感想を述べるとダイニングを出て行ってしまった。ふたりの間に残される僕、何となく気まずい空気。誰か、誰か助けてくれないか……。
すると双子がやって来て僕の手を取る。外に出ていたようで小さな額に汗の粒を浮かべている。
「たえちゃんが準備できたよって!」
「早く、行こう?」
「わ、引っ張らないでっ」
思えば女性の強引さに助けられることも多々あるのだった。
「ごめんください」
黄色いペンキで塗られた観音開きのドアを開けて中に入る。玄関は広く、薄い水色をしたタイルがそこここで光っていてよく掃除されているのが分かった。靴は一足も出ておらず、右側に備え付けられた木製の棚の中に綺麗に並べられている。大小様々な踵が身を寄せている様は何だか温かい雰囲気がした。
奥から足音が聞こえてきて視線を正面に移す。とっくにサンダルを脱ぎ終えたふたりは一段上がった所で大人しく並んでいる。僕のリュックと帽子は既にその腕の中に。来客への対応をよく教えられているようだ。
「歩くん、いらっしゃい」
「弓削さん、ご無沙汰しております」
「もう固いわねぇ、それに美奈子さんって呼んでよね。ここでは苗字は言いっこなしって言ったでしょ?
ささ、入って。その魅力的な大きな荷物も悪いけどこっちまで持って来て」
セオリー通りに挨拶もさせてもらえないまま、中へと促される。この家の"ママ"美奈子さんは子供達に引けを取らない快活な女性で、五十代とは思えないフットワークの軽さを持っている。しかし僕の周りはどうしてこう強引な女性が多いのか。家族のように迎えてもらえて、勿論嬉しいのだけど。
お土産として途中のスーパーで買って来たスポーツ飲料の入った箱を抱えて、先導する三つの背中に付いて行く。真っ直ぐに伸びる廊下を進むと右手の大きな部屋に入る。一枚板の大テーブルがでんと鎮座するそこは、ダイニングだ。廊下の左手にある階段を上がればふたり一組で使っている部屋があるらしいが、基本的には皆このダイニングで時間を過ごすのだと以前聞いた。多感な中高生も居るが一様にここに集まるそうだ。理由は聞かなくても何となく想像ができた。
「よっ、あゆちゃん!」
「清貴くん……女の子みたいな呼び方はやめてほしいんだけど」
「心配すんなって、似合ってるから」
「それ全然嬉しくないからね!?」
声をかけてきた高校二年生の清貴くんは悪戯好きな今時の男の子だ。短い黒髪を無造作にセットして制服を少し緩めに着るのが彼のスタイルらしい。「これだと優等生にも、遊んでそうにも見えるだろ」と得意げに話していたが、遊んで見えるのが格好いいのかは地味だった僕には分からない。今日は制服ではなく紺色のジャージに身を包み、部屋の隅に置かれたソファに雑誌を広げて陣取っていた。双子は彼の元に駆けていく。
ジュースは向こうね、そう指示を受けてひとりキッチンへと入った。ダイニングとキッチンは壁で区切られている。出入り口にドアはなく、四角い口に自ら飛び込んでいくような感覚がした。縁が赤く塗られていて、唇のように見えたからかもしれない。
中に入るとまず目に飛び込んできたのは、木目調の大きなキッチンワゴンだ。その上に置かれた皿には今日の昼食になるらしき小ぶりなサンドイッチが山のように盛られている。冷蔵庫の傍らにジュースの箱を置いて顔を上げると、僕を睨みつける鬼の形相と目が合った。
「多枝さん、その眼光は仕舞ってください……」
「どこ這いずり回ってきたか分からないから、手を洗うまでは見守っておこうかと」
「監視、の間違いだと思います」
彼女は陽だまりの庭の台所番長、多枝さん。ここで主に料理担当として働いている。以前小学校の、いわゆる“給食のおばさん”をしていた経歴もあって、彼女の作る料理には外れがない。僕がどうしてこんなに警戒されているのかと言うと、依頼でここへ来た時、庭の各所を周った後に入った最初の部屋が多枝さんの部屋だったため、なんて汚い格好で入ってきたのかと激怒されてしまったからだ。特に目立った汚れがあった訳ではなかったのに。彼女は超のつく潔癖症である。
光線が出ていたらとっくに焼き尽くされていそうな視線を受けながら、素早く手を洗わせてもらう。念入りに洗った手をアピールすると深い頷きでお許しが出た。離れていた距離が縮まる。僅かに起こった風からほんのり甘い香りが鼻を掠めた。
「それにしてもこんなに沢山、大変だったんじゃないですか? ありがとうございます」
「一人分くらい増えたってどうってことない。それにあたしひとりが作ったんじゃないからね」
「まりもー!」
「ゆうくんもっ」
多枝さんが視線を後ろに向けるのに倣う。そこには行儀よく椅子に座って手を挙げているふたりの子が居た。
「そうそ、まりももゆうも頑張ったもんね?」
「まりもちゃん、ゆうくん、ありがとう」
照れたように笑うふたりの前に並んだロール状のパンが、彼等の力作のようだ。ピックの先の動物達がパンの上で踊っているように見えた。
ぽっちゃりした顔におかっぱ頭の似合うまりもちゃんは五歳。本当の名前はまりと言うのだけど、自分もやりたい私もそうだと主張するときに「まりも」と言うことから皆からまりもと呼ばれている。本人もいたく気に入っているようで僕にもそう呼んでいいと言ってくれた。
まりもちゃんの傍にぴったりくっつくようにしてその手を覗き込むのが友樹くん、通称ゆうくんだ。現在四歳の最年少。入居してすぐから、歳が近いからかまりもちゃんにべったりで、どこに行くのも一緒の仲良しペアだ。まりもちゃんもゆうくんの前ではしっかりお姉さん気質を発揮していて、見ていてとても和むふたりである。
「歩、おばばに挨拶行かないの? 今なら部屋に居ると思うけど」
「そうですね、今の内に行かせてもらいます」
キッチンから直接廊下へと出るドアを開ける。右に進み、階段を横目に見ながらまだ先へ進む。突き当りにはお風呂とトイレがあり、廊下は更に右に伸びている。そちらには左右に幾つか部屋があり、職員の方が寝泊まりする個人の部屋になっている。陽だまりの庭では職員も住み込みで、だから余計にひとつの家族のように見えるのだろう。
それらのドアを通り過ぎて廊下突き当りのドアの前に立つ。華美な装飾のない、何の変哲もない普通のドアだ。本来ならあるだろう応接室はなく、そうであれば一番豪華な筈の施設長室もこうというのは不思議な気がする。僕の勝手なイメージではあるけれど。
ノックをすると落ち着いた声が返ってくる。ドアを押し開いた。
「失礼致します、ご無沙汰しております。神咲です」
「いらっしゃい。ここまで歩かせてごめんなさいね。あの子達は我儘言わなかったかしら?」
「はい。むしろ着る服まで選んでもらいました」
「まぁ、よくお似合いよ」
品良く笑う顔は美奈子さんとあまり似ていない。そういえば父親似なんだと聞いたことがある。三人が並ぶ姿が見られたらいいのにと願うのは今となっては失礼だろう。
手で示されるのに従って、腰掛ける。彼女も近くへと進んでくるが、以前よりも足取りは重そうだ。
「元気にしておられましたか?」
「変わらずよ。お気遣いありがとう。ここのことは他の皆に任せてあるから悠々自適な生活を送らせてもらっているわ」
「聞きましたよ、今日までに宿題を終わらせるって弓削さん……あぁ、知里さんと約束したと」
「名前、どう呼んでもらってもいいのよ、また美奈子に言われたのだろうけど。なんだったら、あなたもおばばと呼んでちょうだい」
「えと、それは流石に……」
この歳で年長の女性をおばばと呼ぶには抵抗があり過ぎる。当然冗談で言っているのも分かってはいるが、この柔和な微笑みを前にすると何が冗談で何がそうでないかの判断が鈍る。
グレーに染まった髪を掻き上げる仕草がここまで様になる人は、知里さん以外にまだ出会ったことがない。これまで何百人と子供達を育ててきた、人としての厚みが全身から滲み出ているようだ。目尻に刻まれた皺は幸せの証だというが、知里さんを見ると納得できた。
「皆ね、今日をとても楽しみにしていたみたいなの。勿論、あなたが来てくれるからよ」
「そんな、とんでもない」
「いいえ、本当に。それぞれ学校に友達が居てよく遊びに出掛けているから、夏休みに入って日中に全員が揃うなんて初めてじゃないかしら。昨日なんて、今日のことで話題は持ち切りだったんだから」
泊まっていくようせがまれても許してやってね、と愉快そうに笑った。
どうして皆がそんなに慕ってくれているのか僕にはよく分からない。こんな風に僕が居ることを喜んでもらえた経験なんて少しも記憶にないから。嬉しさよりも、今は戸惑いの方が大きいかもしれない。僕の何が、友達として見てくれた要因なのだろう。
何を考えているの? 問いかけに顔を上げると優しい眼差しが僕を見つめていた。
「皆は僕の寂しがり屋なところを見抜いて、構ってくれているのかと」
「そうじゃないわ。あの子達は楽しくてわくわくするようなことを見つけるのが得意なのよ」
「僕は面白味のない男ですよ?」
「そういうことは本人が一番気付かなかったりするものよ。安心して、あなたは楽しい人だから」
そうだろうか。知里さんの言葉はその経歴から信憑性があるけれど、僕をよく知る僕自身は、面白いだなんて思えたことは一度もなかった。色んなものが足りなくて、要らないものばかり持って。口だけ能弁に語っては、足踏みばかりが上達して。
こんな風に思うのは急速に色んな人と出会ったからかもしれない。その幾らかは間違いを犯してしまったけれど、それでも僕よりずっと逞しく生きていたと思う。前を向き歩き出す姿はいつだって羨ましかった。
もしくは想われていたことを知ったからかもしれない。臆病で単純に守ることも叶わない僕が、誰かの心に在り続けていたこと。その事実は僕を余計に不安にさせる。僕が居なければ幸せだったんじゃないかって思ってしまう。そんな思いは人の心まで否定するようで、また自分が嫌になる。
誰かの言葉を信じるのは、疑うよりも勇気がいる。
杖の先が床を叩く音が僕の思考を断ち切った。
「さぁ、そろそろ向こうであなたを待ち侘びる声が上がるんじゃないかしら。私が独り占めしていたら怒られてしまうわ」
「はは。では、そろそろ戻ります」
「気は休まらないと思うけど、楽しんで帰ってちょうだいね」
慈しむ笑みに頷いて部屋を後にする。廊下に出ると賑やかな声がこちらまで響いていた。日頃ひとりで過ごしていると楽し気な輪に入るのに少しだけ緊張してしまう。本当はそんなことを気にしなくても引きずり込むようにしてその輪に入れてくれると分かっていても。
ダイニングに入ると新しい顔ぶれが増えていた。
「あ、歩さん。いらっしゃい」
「正哉くん、こんにちは。蓮ちゃんも帰ってたんだね」
「さも自分ちのように迎えるのやめてほしいんですけど」
爽やかな笑顔で声をかけてくれたのは青色のエプロンがよく似合うここで唯一の男性職員、正哉くん。僕の三つ歳下ではあるけれど、尊敬するほど真面目で機転の利く好青年だ。先程見当たらなかったのは外で洗濯物を干していたかららしい。洗濯かごさえ似合うとは、この男前め。
テーブルの向こうから挨拶の代わりに文句を返してくれた蓮ちゃんは、中学三年生。ピリピリと攻撃的なのは受験を目前に控えているから、では特にない。元々の性格にプラスして、まだ僕を受け入れてくれていないようだ。図書館から借りてきただろう山積みの本から一冊を手に取ると、早速読み始めてしまった。厳しい雰囲気は多枝さんと通じるものがあるが、清潔にしておけば普通に接してくれる分、多枝さんの方が付き合いやすい。この子と打ち解ける日は来るのだろうか。
少々落ち込んでいると、隣に清貴くんがやって来て僕の肩に腕をかける。掌で肩をポンポンと叩かれているのは慰められているのだろうか。そっと小声で話しかけてきた。
「あゆちゃんよ、蓮のことは気にすんな。あいつは大抵の男にツンデレだからな。ツン九割だけど」
「たか兄、うるさい。変なこと吹き込むとその口縫うよ」
「こっわ! お前こそ頭良くても口が悪いから男が逃げてくんだよ。お前は文学少女の川上にも置けねぇ」
「それを言うなら風上だから。ほんと、馬鹿」
言ったな、と眉をひくつかせている清貴くんを宥める。こんなに言い合っていても本気の喧嘩にならないことは知っているものの、歯に衣着せぬ物言いのふたりを見ているとひやひやする。それ以上踏み込まないでいられるのは仲の良い証拠だが。
「いやぁ、歩さんが来るといつにも増して賑やかになりますね」
正哉くんは少し的外れな感想を述べるとダイニングを出て行ってしまった。ふたりの間に残される僕、何となく気まずい空気。誰か、誰か助けてくれないか……。
すると双子がやって来て僕の手を取る。外に出ていたようで小さな額に汗の粒を浮かべている。
「たえちゃんが準備できたよって!」
「早く、行こう?」
「わ、引っ張らないでっ」
思えば女性の強引さに助けられることも多々あるのだった。
コメント