召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ ⑧ー⑤

 准麗は長い髪を片手でかきあげ、溶けている氷の柩を見つめた後、静かに双眸を瞬かせた。この世のものの持たない瞑の輝きに光蘭帝が息を呑む。

「嘘だ。そなたはずっと一緒に育った乳兄弟だ……その瞳はなんだ」

 これですか?と准麗が片目を擦って見せる。

「ええ。僕は東后妃と共に、遥媛公主さまの手で死んでいるのです。この身を永らえさせたのは、これです。貴方には見えるでしょう」

 ―――――遥媛公主の羽衣。

 白い雪の靄のような陽炎。それは准麗の全身から立ち昇っていた。

「東后妃さまはお優しい方でした。その東后妃さまが誰より貴方の幸せを案じられるのは、母として当然でしょう。我が子を一番幸せな場所へと願って、死んだ。僕はその願いを叶えたい、遥媛公主は天帝に貴方を献上したい。利害一致の元、僕は生きてきた」

 腰に下げていた大剣を抜くと、准麗はまっすぐに腕を伸ばし、その切っ先を光蘭帝に向けた。光蘭帝も自分の剣を抜くが、あまりの事で、指先が震えて落してしまう。

「言ったでしょう?あなたは心がなっていないと。だから明琳の饅頭ごときで揺らぐのですよ。さて、光蘭帝。天人になるため、遥媛公主の種を受け取って下さいますね?」

 遥媛公主はそのやり取りを火のような朱い瞳で睨んでいる。

手の中には一つの血溜まりのような水晶が既にある。天帝の資格の証だ。・・種を持てる華仙人は僅か。その中でも、女の仙人は自分だけだ。

 頂点が近づいてきた。

 光蘭帝はその唇をきゅっと閉じた。後で声を出さずに唇だけを動かす。


『い や だ』


 足を延ばして、転がった剣を蹴飛ばして近寄せる。大理石のような床に剣擦音が響き、残響となって消えてゆく。その剣を構え、まっすぐに相手を睨んだ。

「いくら母の願いとて、母の為とて、明琳を利用はさせない、武大師准麗」 
「そういえば、僕に武闘で勝った事はありませんでしたね……っ」

 剣を握りしめた准麗は大股を開き、梃子のように腕を大きく振った。一振りは光蘭帝は身を反らして避けた。落ちた剣を掴み取って、刃渡りのある大剣と交叉させた。准麗は突きの姿勢になり、獅子のように突っ込んでくる。

「うあっ……」

 腕から鮮血が噴き出す。
 腕が違い過ぎた。だが、この男を残したら…きっと明琳は殺されてしまう。光蘭帝は再び剣を握った。

 守らなければ。これ以上、皇族として、彼女を苦しめる事は出来ない。

「次は喉を狙いますよ。……この後に及んで嫌だとは子供の諫言か」

「子供でも、馬鹿な男でも、好きに詰ればいい。私は馬鹿だ。気づかなかった! 人が人を愛することすら、おまえたちは遊戯だと言うのだな。愛し合うことすら計算し、欲望のままに行動する!そんなのが神だと言うか…っ」

「遊戯でしょう!所詮人は人を裏切るんだ! そして嘲笑う。僕の両親もそう。貴方の父も、僕が信じるのは東后妃さまと、遥媛公主さまのみです!」

 言いながら、准麗の剣が大振りに動き、光蘭帝の剣を高く弾き飛ばした。光蘭帝が床に倒されて荒い呼吸を繰り返している。その上に跨がって、片腕で首お締め上げながら、准麗は切っ先を光蘭帝の頸動脈に滑らせた。光蘭帝の瞳が両方見開かれ、ただ、裏切り者を映している。 

 ―――――准麗・・・おまえは何故・・・。

「勝負ありですね。……さあ、首を切られたくなくば」
「呆れる程の忠犬ぶりだな」

 その声が聞こえると同時に、突然准麗が前のめりになった。

「准麗!」

 起き上がり、慌てて受け止めた光蘭帝の腕の中に鮮血が飛び散る。「あ…」と准麗が自分の貫かれた胸を見る。それはいくつもの氷の刃で、蝶華の氷の柩を燃やす遥媛の炎に当たると消えた。白龍公主の刃だ。光蘭帝が振り仰ぐ。その側には明琳がいた。

 明琳の名前を呼ぶより早く、准麗が吐血を繰り返す。

「准麗!」
「准麗さま!」

 光蘭帝と明琳が同時に駆け寄るが、准麗は膝をついて、光蘭帝の胸元で再度鮮血の血しぶきを上げた。
 血だらけの手を伸ばす。目の前の男の面影は、自分が求めていた女性に重なった。

 ―――――東后妃、さま。

 大きな手で覆った口からも、血が毀れてゆく。

「いやぁっ…です!准麗さま!」

 准麗は最期に光蘭帝の顔を血で濡れた指で撫でる。
「―――――裏切り、と言いましたね……」

「准麗!動くな! 喋るな!」

 白龍公主は何も言わない。その目の前で、准麗は瞼を下ろし始めている。

「駄目です!准麗さま!」

「…僕は……あなたも…大切…で…した…。それでも……それより大切…なものが……あ…ただ…け……噂通り……華仙人は恐ろ…しい……どうか、明琳……その子供に…東后妃さ…ま…」

「しゅん・・・れ・・・い・・・?」

 ずしりと重くなった准麗は二度と動かなかった。
 赤い髪の遥媛公主がその躯に手を伸ばし、巻き付いていた羽衣を引きはがすと、准麗の姿は弾けて消える。フワリと布状になった羽衣は大きく遥媛公主を取り巻き、燃える火風に煽られた。 

 まるで聖母の時とは違う。赤い髪は炎そのもので、赤い悪魔が明琳の前にいた。

「僕の羽衣を血で汚すな。……白龍公主、またここで殺し合いをやるとはね…」

その前で、腕を降ろした白龍公主は憎悪に染まった眼をした遥媛公主を睨みあげた。

「これでお互い手駒はなくなった。振り出しに戻った。俺か、遥媛か…どちらかを選べ」

「条件がある」

 これ以上、この子を辛い目に遭わせたくはない。光蘭帝は明琳の手を掴んだ。小さな身体は小刻みに震え、言葉を無くしている。あまりに少女には衝撃すぎた。

 その時どさりと音がして、蝶華が元の姿で転がり落ちた。氷が溶けたのだ。
 白龍公主が瞬時に駆け寄り、その生前と変わらない四肢を抱き上げた。

「蝶華!」
「条件とは何だ?光蘭帝」

 光蘭帝は蝶華と明琳を交互に見やり、ゆっくりと立ち上がって、両手を床につけた。皇帝たる身で、臣下に土下座など許されない。それでも、光蘭帝は頭をこすりつけたのだ。

「私は母の願いと、そなたたちの約束通り、この身を天に捧げよう。どちらの種を受け取るかはすぐに決める。だが、明琳だけは見逃してやって欲しい」
「あァ東后妃はもう明琳の腹に棲みついてるんだけど」

 さも可笑しそうに、明琳に近寄ると、遥媛公主は指でその腹を突いた。

「気が付いてなかったの? きみの中に産みつけた魔こそが、東后妃の魂魄と怨念だった事。だから生まれてくる子供の意識を奪い、もう一度あの人は生まれる。代わりにおまえを天界へ連れ去る。東后妃を受け入れる躰が出来るかは、賭けだった。だが、さすがは男と女。ちゃんと通じるんだから見事なものじゃない?」

 明琳の肩が小さく震えだす。彼女は背中を向けたまま、小羊の頭を揺らすだけだ。

 遥媛公主の高笑いが響いた。

「アーハハハハ!我らにとって人の愛など所詮は玩具。どいつとどいつが交尾するか。それを見ているのは面白かった。後宮は本当に乱れていたね。だが、それもいささか飽きる。人に心奪われる華仙人など、もはや仙人ではない。そして私は女だ。女故、東后妃の子供への幸せには共感したし、敬愛したよ。だからこそ、雪の中でも力を貸したし、この祥明殿を始末した。すべては母から子へ受け継がれるべき想いが生み出した素晴らしい物語だ」

「母から子へ……」

 ―――――ごめんね、寒いね飛翔。でも、貴方はもうすぐ、こんな苦しみとは無縁の世界へゆけるから―――――…

(母様…)

 ゆきすぎた母からの愛。ゆきすぎた、子供への渇望。自分はまさにそこから逃げたかったことに今更気づく。明琳の愛情を捨て、一切を捨てれば楽なのだと言い聞かせて。

 行かないでと言った明琳を捨てた。どこにも、生きる場所はなくなった…
自分で、すべてを捨てたのだから。

 いよいよ遠くなる。全ての世界は違和感で包まれていた。

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