召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

◆召しませ後宮遊戯2~小羊女官と皇帝陛下・華仙界への種は遙か~ ②ー④初夜③

***
 枕元に備え付けた水差しを光蘭帝が手にする。ひとつひとつの動きが余りにも妖艶に映って、明琳の小さな胸の太鼓をトントンと鳴らしてくれる。
 意識している。皇帝の何かを。
 明琳は小さな頭を振った。
「幽霊になるのなんか嫌です。それなら、続きします。どうすればいいのか、教えてください」
 皇帝は水差しを置くと、頭を抱えてしまった。
「そなたはこの後宮の恐ろしさを知らぬ――。元々私はそのつもりだった。貴妃にし、褥に呼ぶ。そうして、意にそぐわないと言えば、そなたへの華仙人の興味はなくなる。何故、こんな後宮に来た」
「おじいちゃんが御饅頭を届けるって言い張るんです。皇帝さまは私が作った御饅頭が不味くて倒れて、わたしは」
 急に牢屋での一件を思い出すと、足先が冷たくなった。そう、怖かった。遥媛公主に抱きしめられても震えは止まらなかった。
 かつて、家族と一緒に捉えられ、父と母だけが引き出された。やがて明琳だけは外に引き摺り出されて、街の入口で放り出されて……。
 牢屋は明琳にとっては、檻だ。死がひたひたとやってくるを待つだけの檻。
「ぎゅうってして下さい」
「ぎゅう? なんだ」聞き返されて、明琳は頬を膨らませて背中を向けた。
「もういい!…こ、怖かったんですっ……それなのに、なんで幽霊になんなきゃ行けないんですか?……怖かったの、怖かった……!」
 背中がふわりと温かみを帯び始めた。回された腕は力強く、明琳を捉えていた。振り仰ぐと、涙を溜めた双眸に優しい笑みがついと浮かぶ。
「悪かった。白龍公主が初めて憎らしいと思う」
 ふわり、と高級な香とともに、皇帝の上唇が瞼を滑った。
「それでも、私は華仙人から逃れることは適わない」
「逃げればいいじゃないですか」
「出来ぬと言うに。いいか、明琳。何故に笑顔になる。私は楽しい話をしたわけでは」
「名前、ちゃんと呼んでくれました」
 光蘭帝の瞳に一瞬だけ虹の色が過り、また元の闇の色に戻って行った。
「だが久方ぶりに訪れた嵐が胸に吹きすさび、何かを残してゆこうとするぞ。そなたの笑顔は嫌いではないな。太陽のようだよ」
 寝椅子に腰を掛け、長い脚を投げ出して、皇帝は少しだけ無邪気な顔を見せた。微かに動く度、白い衣が揺れて、夜を陰る。光蘭帝は肘掛けに肘をつき、そのまま夜空に視線を向けた。
「夜の遊戯がないのなら、私は静かに夜を過ごすしかなかろうよ。私の子を孕む気がない貴妃を抱くことは出来ぬよ」
「寝ないんですか? 夜ですよ?」
 明琳が皇帝の前ににじり寄り、椅子から毀れた襦袢を抓んで引いた。銀糸を駆使して編まれた腰紐と帯の合間から、白い肌が見える。
「遥媛公主さまが言ってました。「一緒に寝りゃいいんだよ」と。眠りましょう。お疲れのようですし」
「寝るとは何だ。そなたはおかしなことを言う。やはりどうあっても眠れない私への嫌がらせに神は小羊を寄越し給うたのか?」
「眠れない?」
 皇帝は長く伸びた前髪を大きな手でかきあげた。
「どうあってもな。眠る事を躰が許さぬ。華仙人と交わってからか。だがあれは私には魔の魅力をかき立てる行為で」
 ふと気づいた。皇帝の瞳は静止したままで、呼吸すら拒んでいるように見えた。
 眼窩の下には何もない骸骨のようにも見える。幽玄と言うなら、光蘭帝の状態を指すのではないのだろうか。先程のぬくもりも消え失せて、肌は冷え切っていた。眠らない皇帝…恐ろしい華仙人。そして貴妃という争いの種。
 小さい胸には抱えるに余りある。
「わたし、家に帰りたい」
(御饅頭作りは嫌だ、弟の面倒は嫌だ、遊びたい、働きたくない、お洒落したい……あたしの我儘はたわいもない日々だからこそあったんだ。すべて取り上げられて、すべてを無くす事に気付く。日々がどれだけ貴重だったか)
 明琳は涙を溢れさせて皇帝の前で手を付いた。
「おうちに帰りたい。お願い。もうこんなところ、嫌」
「手紙を書くことを赦そう。幽玄と成り果てても、すべての妃の面倒は見ている。そなたの饅頭屋も皇帝の召し抱えの御用達の商店に取り上げてやる。代わりにそなたが後宮に残れ。幽玄となって達者で暮らせ。これは皇帝命令だ。華羊妃」
 もういい?と光蘭帝は顎を拳にして肘掛けにおいた腕に乗せ、会話を打ち切ってしまった。いくら明琳が泣いても、光蘭帝は顔色を変えない。ふつうなら、泣いている人には優しくするものなのに。やっぱりここは何かがおかしい。
 明琳はじっと動かない皇帝の傍に座り込んだ。ぺたんと座ると、本当に自分は矮小だと思い知る。目の前のひとは選ばれた人間だ。その人がちっちゃな自分の、失敗した饅頭を褒めてくれた。
 ――明琳、そこの御饅頭を作っておくれ。
 ――やあよ。手が汚れるもの。
 そんな生前の祖母とのやり取りが浮かぶ。大嫌いだ。饅頭なんて。饅頭を作るおじいちゃんも、おばあちゃんも父も母も――――でも。
(光蘭帝はわたしの作った御饅頭をまず、選んで食べてくれた)
「皇帝さま」呼ぶと気だるげな双眸が鬱陶しさを醸し出しながら開く。
「幽玄になるくらいなら、傍にいます。下町の御饅頭娘は貴妃なんて似合わない。それでも、ちゃんとお仕事します。教えてください」
「教えろって? 私好みのやり方について来るには第一身長が足りぬ」
「小っちゃいと出来ないって決めつけるんですか?」
 むっと膨らんだ頬の明琳が突如浮いた。光蘭帝が抱き上げて、膝に座らせた。
「子ども扱いして!」抱き上げた腕を拳で叩く小羊を抱きしめて、光蘭帝は目を閉じた。
「これで精一杯だろう。そなたは私の足に足を巻き付けるわけでも、手をついて受け入れるわけでもない。ああ、愛らしい熊猫のような、暖かいな、うん……」
「光蘭帝さま?」
 すーすーすー……
 ――眠ること知らないって寝てるし。ああ、わたしも眠たくなってきた。
 あふ、とあくびを噛み殺して、明琳もウトウトと眠りの気に引き込まれてゆく。
 明け方にぎゅっと抱き上げられて、ふわりとした何かを感じた。父が撫でてくれた感触を思い出す。処刑されたお父さん、お母さん。……。
「すまない……そら、寝冷えするぞ」
 二人を物陰から、二つの人影が凝視していた――。

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