召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第一章芙蓉国の女官⑭ 彼の空に消えた桃源郷

「待つね。食事の準備してるのに」

 食事を目の前にして、梨艶の足は外に向いている。速足で梨艶は宮殿を出て行ってしまい、橋の中央で足を止めた。

「梨艶!」
「何とか華仙界に行く」

「またひとりで行く言うな! 梨艶、私を好きだと言ったのに、また置き去りにする」

「ついでに俺は芙蓉国の料理など食わない!早くこの体質を直して、靑蘭に戻らねばならない。それに…近くにいるのに何も感じない自分の心に吐き気がする。分かってはいる。でも操られるという第一歩だと思うと居ても経っても居られなくて…」

 梨艶はそこで言葉を止めた。

「おまえの傍は、つらい。俺が俺でいられないことに申し訳なさを感じる」

 初めての梨艶の本心の言葉は愛琳の心にズシリどころかグサリと突き刺さった。梨艶は優しい。傍にいて、何も感じない事が辛い。それを背負わせるのが辛いと、そう彼は訴えたのだ。どうしてこんなにこの人は心が綺麗なのだろう。独占欲の欠片もない。今ならわかる。今までの言葉は全て詭弁だと。

「梨艶」
 愛琳の柔らかい手が梨艶の手の甲に乗せられた。

「最初に操られたのは私ね。梨艶が欲しくてたまらない部分、蓮花夫人に見抜かれた。だから香を見つけ出して渡したよ。怖いよ、心に入られるのって。だから、私は二度と梨艶を心から欲しいなんて思わない。思っても、大人しく待つ…」

 聞いていた梨艶の口元が緩く上がった。

「出来もしない事を」

 星屑のように梨艶の瞳が煌めいた。ああそうだった。この人は出逢った夜からこんな瞳で私を見つけたのだった。

 橋に手をかけて、梨艶がゆっくりと愛琳の唇に唇を重ねてゆく。梨艶にしては、少し弱気な口づけだ。でもそれがたまらなくて、愛琳は足を震わせてしまった。

自分の感情を奪われた梨艶。だからこそ、優しくしようとするのが伝わる。愛琳は梨艶の胸に頬を摺り寄せると、囁いた。規則正しい鼓動が彼を苦しめている。きっと梨艶はドキドキしたくて堪らないのだ。なのに、香が邪魔をするから、苦しんでしまう。それでも、押し付けた頬に梨艶の鼓動は優しく響くから。

「やっぱり梨艶、ちゃんと好きって言ってるね。伝わる。だから悩まないでいいよ」

 その言葉に梨艶は皮肉に笑いながら口調は変わらず「言ってないが?」と嘯く。


 芙蓉国の夜空に、大きな流れ星が河を横切るように落ちて行った。

天女が降りて来た夜は、きっと星屑が降っていたに違いない。美しい世界を、愛琳はしばし夢見る。梨艶も同じ事を思っているのか、同じ夜を見上げては吐息をついていた。見ていると、頬に涙が落ちてきた。

愛琳はそっと思う。この美しい心を二度と汚さないと誓うよ。梨艶を愛する私の心は絶対に何があっても曇らせないと。

 静寂が夜を包み込んだ。

「梨艶…誰かがこっちに来る」

 刹那、寄り添っていた愛琳がふっと顔を上げる。誰かが走ってくる足音が地面に響いている。

宮殿の武官はやがて姿を見せ、いきなり刃を向けた!梨艶が静かに足を上げて、その兵士を蹴り飛ばして見せる。軍師のくせに強い。遠慮なく首に蹴りを叩き込まれた兵士は、呆気なく気絶した。その胸倉をつかみあげた梨艶は、靑蘭の軍師の顔に戻っている。

「愛琳、見ろ。こいつの口元」

梨艶が声を低めて言う。愛琳の前で、気絶した兵士の口はドロリと黒いものを吐き出して、それは音を立てて消えて行った。

「黒蓮華の陰妖だ。操られてここまで来たんだ。恰幅のいい兵士だったが…」

 ――黒蓮華の陰妖!
「そんな…この国まで…」
「愛琳」
 宮殿の上を見ろとばかりに梨艶が細い顎を動かす。夜だと言うのに、明るい。冬の海の上に溶ける雪のように、白い輝いた靄はヴェールの如く空に伸び、芙蓉国を包もうとしていた。

「あの雲、芙蓉国を護ってる?龍のように見えるね」
「ああ。母上だろう。白は母上の色だからな」

「富貴后さまが…龍を?」

「かつて華仙人たちの中には龍族もいたのだろう。龍のレリーフが多い理由を考えれば不思議はない。これで母上が華仙だというのは証明できたな。俺は華仙の血を引いているという事になる。父が言っていた「私のかつての天女」とは黒蓮華ではなく、白牡丹の事を言っていたのだ。聞かされた時は驚いた。母上は怖い。その母が立ち上がれば、この国は安全だ。安心していいと思うぞ」

 梨艶の瞳が優しく煌めいた。見惚れた愛琳に頷いて、再び空を見上げる。

「おまえが大好きな場所は、きっと母上が護ってくれる。ならば俺はさっさと華仙界とやらに行き、この体質を治して、この手で靑蘭を奪い返すのみ」

 梨艶は目を細め、また遠くを見やった。靑蘭の方向だと気が付いた愛琳が横に並んで、梨艶の手を握る。

 無念を訴えるような切ない瞳。自分の大好きな国が壊されたら、私だってきっとこんな瞳になる。

「探そう。みんな、幸せになる方法、きっとあるね。…梨艶」

 梨艶がふわりと艶やかに微笑った。

「心配しなくても、俺はおまえを感じられない時点でこの世で一番不幸だ。しかし、おまえが言うのなら、きっとあるのだろう――…」

 二人は祈るように指を組み合わせて、同時に不穏な色を醸し出しつつある空を見上げた。

信じよう。きっとある。


彼の空に消えた桃源郷に、その答えがきっと。

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