召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~

簗瀬 美梨架

第一章芙蓉国の女官⑥ 饅頭泥棒再び

 笑い声がさざめいている。

 声をかけた老婆は行きずりの踊り子一座の一員だった事から、愛琳は環に加えて貰い、夜を明かすことになった。とはいえ、遊牧民の彼らは許可を貰って空地にテントを張るらしい。愛琳も手伝って、即席囲炉裏の前での夕食になった。

 味付けは塩だけのスープに薬草を煮出した魚。好きでないが、もくもくと口に運ぶ。

「そりゃあ馬の胆がひっくり返ったんじゃないのかい」
「どうせ注意力散漫ね。しばらく馬、いう事聞いてくれなかったよ」

 愛琳は馬を蹴り過ぎた話で笑いを取った後、書状の部分は伏せて目的をやんわりと話した。

「皇太子に逢いに行く?李劉剥さまにかい!」

 塗料を塗った状態の顔がぬっと近くに現れる。熊猫が驚いて膝で丸くなった。

「そういえば暫くお姿、見てないねえ…まあ、皇族の李一族は争いや内輪もめが耐えないからねえ。親も子もないだろうよ。それに今は商人でも、通行証がないと入れないんだよ。今は皇帝は巡遊中だからよけいに緊張してるんだろうけどねえ」
「巡遊?」

 巡遊とは皇帝が自ら歩いて治安を見守る…という名目でこっそり地方に浮気をしに行く…とは富貴后さまの言い分だったか。

「ああ、もしかすると、皇太子さまも巡遊に出ているかも知れないねえ」

 何てこと。
 愛琳は肩を落した。それではこの努力が無駄になってしまう。愛琳は食い下がった。

「皇太子さまにどうしても会いたいね――手段は問わない。何とか宮殿に忍び込む」

「およしよ。宮殿なんて毎日必ず何かの死体が転がってるというじゃないか」


 旅一座はさすがと言うか、様々な情報を教えてくれた。一つ、この旅一座は愛琳のように靑蘭に飛び込もうとした娘たちを何人も匿っていたという事。ひとつ、今の靑蘭は一部の皇帝派により、戦いを余儀なくされていること。ひとつ、皇太子さまの姿が見えず、暗殺されたのではないかと噂があること。

(でも、富貴后さまが知らないはずはない)

 愛琳は膝を進めた。どうしても靑蘭に入り、皇太子さまに書状を渡したい。馬で進んでいる時にも見た、人々の亡骸をいくつも。亡命叶わず、朽ち果てた人々の姿だった。生まれ育った国にもいられない。関所で捕まり、引き返すことも出来ず、自害したのだろうと旅一座の長は言った。しかも亡命に失敗して自害した躯の弔いは許されず、投げ打たれるとか。それほどに靑蘭の出入りは厳しい。その手前の蓬莱の賑やかさと、靑蘭の街の質素さは神と人程の差がある。

「さてと、夜だねえ。見張りと火の準備は大丈夫かい!」
「あたし、見張りするよ! 平気、慣れてる! 一宿一飯の恩ね!」

 愛琳は薙刀を抱きかかえ、笑って見せた。「あんたは武道の大道芸人かい」とはどういう意味かと思ったが。

 夜を明かして、朝。愛琳は靑蘭の手前でその旅一座と別れた。彼らは靑蘭の手前の都市で一つ余興をやる予定だという。一方愛琳は靑蘭と蓬莱の間の長城を突破しなければならなかった。

 靑蘭の玄関とされる宝珠関洞。

蓬莱の橋からも見える大きな壁のような関所は皇族が商人から通行税を捲き上げるためだけに作られたものだと言う。「気をつけてお行き」と温かい言葉を貰って、愛琳は馬を降りた。
お金があれば、すんなり入れたかも知れない。かと言ってまた芙蓉国に戻るのは…。

目的地はすぐそこだ。

まずは正攻法。「こんにちは」と言う。色仕掛て役人に開けて貰う。最後に一点突破。

 愛琳は長く悩むのが嫌いな性質だ。「気を付けて帰るね」と馬を逃がして、薙刀を片手に両足でしっかりと立った。答えなど考えなくても決まってる。富貴后の女官が怖気づくわけがない。一点突破しか思いつかないのは当然だ。

「梨艶、出て来ちゃ駄目ね?」と拾った熊猫をむぎゅっと胸元に押しこめて、薙刀をすいっと掲げた。
「そのドでかい門、開けるね! でないとその門ブチ抜くよ」

 ギイと重苦しい音を立てて、開門された瞬間、火矢がびゅんびゅんと飛んで来た。賊の類いと見られた攻撃を受けた。甘く見られている。こんな火矢くらいで逃げるか。

「てやっ」

 振り回して全部叩き落として、振り返ると、今度は強面の兵士がずらり。いかついおじさんの登場に愛琳は泣きそうな声で告げた。

「あたし、この国に用事あるね」
「生憎通行税が要るんでね。金がないなら帰った帰った」
「そういうわけに行かないね!」
「あ! この娘!」

 ぴょいんと飛び跳ねて壁に手をかけたところで取り押さえられた。肩を押さえられて堪らず紅の唇が拓く。

「上級なお姉ちゃんだな」

 愛琳の身体に兵士が手を伸ばし「へっへっへ」と笑った。この先の展開は見えている。芙蓉国の女官をナメるなと、股間を蹴り上げてやった。

「おい、押さえつけろ!久々の上玉だぜ」

「全く軍師や皇族ばっかりに美味しいところ持って行かれちゃたまんねえよ。ナァ?」

 後ろ手で押さえられて愛琳は危機を感じた。

「梨艶――」

 ピタリと火矢が止んだ。愛琳自身も目を見開いて辺りを見回している。

 兵士たちは顔を見合わせ、吐息をついて愛琳を助け起こした。荒くれ者の顔をしたまま、ぶっきらぼうに扉を親指で指した。

「通れ」

なんだ。なんだなんだ。まあいいか。通っていいようだし。

 愛琳はおずおずと「お邪魔するね…」と砦を潜った。火矢すらもう飛んで来ない。狐に抓まれた気分で、愛琳は門を潜って初めて靑蘭の都、揺籃を目の当たりにした。

「何、ここ……」
 想像していたような地獄絵図なんかではない。花は咲き乱れ、中央に伸びた朱雀大路から玄武大路までは商人で賑わっている――と饅頭の露店を発見。安い!

 何も食べていないのを思い出して、愛琳は元気よく露店に飛び込んだ。有り金全部叩き出して饅頭を指差した。

「おじさん、五個!」

 はいよ!と元気のいい老爺はあの蓬莱都の饅頭の爺を思い出す。こんな風に饅頭を買ってた時に、一個ずつ饅頭が減って行って。

 何か懐かしいと目を細めた愛琳は垂れ目を吊り上げた。饅頭が足りていない。

「五個と言ったのに三個しかない!あたしお腹減ってるから三個じゃ足りないね」

「おかしいなあ」

 前と同じやりとり。しばしデジャヴに陥る。

 そう、蓬莱都の…。

(まさか)

 あるわけがない。富貴后さまが変なこと言うか…ら…。
 その姿が視界に入って、愛琳は唾を呑んでしまった。

(どうして見つけてしまうのだろう?……どうして…)

ちょっと太ったおじさんや着飾った痩せたおばさん、イケてる彼女にモサい彼のカップル。武官の鋭い眼に子供たち。
 これだけの人間が溢れている中で何故見つけてしまうの?

 あれから五年だ。数年経っても変わらない…いや、頬の薄い傷は以前にはなかった。前髪が伸びて顔を半分隠している。それでも夜の色の深い瞳の綺麗さは隠せない。

 秀梨艶がそこにいた。

「秀梨艶!」

叫ぶ愛琳の目の前で梨艶は「再会」のさの字の感動もないようにぼそりと言った。

「相変わらず見事な体つきだ。もっと、更に美しくなったな。雨霰のアイリンだったか?」

 ――覚えていた?

 歓喜極まる愛琳の前で、梨艶は冷たそうな眼を細くして、ため息をついている。

「人の名前を堂々と関所などで呼ぶな。まあ、下劣な男共を斬らずに済んだが…。思わず攻撃停止命令を出してしまった。また俺が捨てた女が追いかけてきただのと、明日からしばらく噂される俺の身にもなれ」
「なんで…」

 男は肩を竦めた。

「何でじゃないだろうが。人の職場に乳揺らして乱入しておいて。関所を突破しようとするなどと。目を疑ったぞ俺は。特に見張りの兵は元犯罪者が多いんだ」

 ああ…と愛琳の目が潤む。五年経ても変わっていない。あの綺麗な目も、唇も、手も…。

 ――恋をしているんだよ。

 急に富貴后さまの言葉を思い出して、愛琳の頬が赤くなった。それにしても、梨艶はすぐに自分のなけなしのお金で買った饅頭を泥棒する。

「ま…饅頭返せ」
「そうですよ。秀梨艶軍師。お代を」

「首尾はどうだ」

 ちゃり、と小銭の音に混じっての会話が聞こえる。軍師? なるほど、軍師。武官ではなかったのだ。武官には違いないが、軍師の称号を持つという事は、相当頭が良い。

そして、あのくだらない戦いを指揮している馬鹿の上の馬鹿ということだ。

更に。自分は戦いに参加しない卑怯者。愛琳の中の軍師像は決していいものではない。

軍師は人のウラをかく天才だ。愛琳の眼が少しだけ疑いの眼になったのも構わず、梨艶はいつかのように饅頭の餡をなめとり、文字通り舐めるように愛琳を見やった。

「俺のいう事を聞いたようだな。いい女になった、来い」

 そして思い出した。この人は人の話を聞かない強引なのだった!

 ぐいと手を引くと、梨艶はその腕に愛琳を押し込めて、顔を上向かせた。何があるのかもう分かる。また、あの接吻だ。屈辱の、快楽のキスを受けるのだろう。

 抵抗すら与えない見事な手腕で。静かにこの男は自分を引き寄せてしまう。瞳と瞳がかち合って、愛琳は無意識に梨艶を見上げていた。

 五年前に、自分の唇を奪った男性―――

(あれから紅の色を変えなかったのは…靑蘭の男を蓬莱で見つけては、がっかりしたのは…貴方ではなかったからだよ。梨艶)

 愛琳の眼が伏せられた。長い反り返った睫がぴくぴくと動いている。その目をゆっくりと開いて、瞳を潤ませると、愛琳は言った。

「あ、あたしあなたに逢いたかった」
「俺もだと言ったら?」

 彼に衆人環視という言葉はないらしい。人々が環を作り、二人を見ている。その時愛琳の胸で何かが音を立てた。熊猫が苦しさで蠢いているのだ。足が胸を柔らかく押した。

「っふ……」

 くすぐったくて思わず身を捩る。自然と体を揺らす愛琳に至極満足そうな声が降った。

「俺が近づいただけでそうなるとは。何といういい女だ。おまえの乳房は意志を持っているのか?相変わらず見事な」

 かさかさと書状を踏みながら熊猫が胸元に上がってくる。しまった。書状を踏まれてしまったと愛琳が慌てて熊猫を押し込めようと自分の胸に手を伸ばすと、梨艶が固まった。
 美麗な顔を引き締めたまま、梨艶は胸元を凝視している。ちょうど谷間から顔を出した熊猫が鳴いた時など、後ろを向いてしまった。

「梨艶?」
「そ、そいつを仕舞ってくれ。後生だ」

 ――熊猫が苦手?こんなに可愛いのに?

 愛琳がそれをだっこしたまま近づくと、梨艶は少し後ずさった。可愛いのに…と愛琳はボヤくと、元通りに胸元に帰ってもらい、梨艶はようやく正面に向き直った。

「すまない。情けないところを見せた」
「熊猫苦手?」
「そんなところだ。ところでおまえは何をしてるんだ?靑蘭の民だったのか?」
「靑蘭の宮殿に行きたい。連れて行って」
「宮殿? やめておけ」

 梨艶が険しい顔をして拒絶したので、愛琳はまた熊猫を抱き上げて見せた。

「連れて行ってくれるね?」
「……ついて来い」

どうやら本当にこの生き物が苦手らしい。そこは軍師には劣るが、女官の知恵というやつだ。

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