公衆トイレに存在する便器一個分の距離感

高瀬暖秋

公衆トイレに存在する便器一個分の距離感

 

「付き合って下さい!!」

「ごめん、無理」

 夏休み突入までおおよそ一ヶ月に迫ろうという初夏の真昼。加えて、必然的に黒いサドルに跨がらなければならない高校生には残酷な程に快晴なある日。某高校の体育館裏に不自然な程冷えた風が通り抜けた。
 蒸し暑い教室で学問に励んでいる者達であれば、その恩恵に狂喜乱舞してもおかしくは無いだろう。だが、現状においてのみ、僕には澄み渡った青空とそこに浮かぶ太陽よりも、それこそが余りに残酷なもののように思えた。

「ちょっ、ちょっと待てよ! 断るの早すぎだろ!」

「……何? じゃあアンタはじわじわといたぶられながら振られたいわけ? ……呆れた。何なの? ドMなの?」

 そんな訳無いだろう。振られるのが前提で話を進めてくれるなよ。
 そんな言葉を吐き出したくて堪らなかったが、その本人に振られた直後だ、当然そんなことが言えるはずがない。
 普段は見せない僕を射殺すような視線も相まって、彼女の放つ威圧感に気圧されて僕は何も言えずにいた。

「じゃあね」

 彼女は素っ気なくそう言い残すと、僕に背を向けて歩き出す。
 凛とした態度で歩いていくその姿は、間違い無く僕が恋したその姿そのものだった。

「……ドM、……なのか?」

 雲一つ無い快晴であるにも拘わらず、その空には日の光を遮るような大きな入道雲が生まれているような気がした。


 僕と彼女は幼い頃から互いを知っていた。時に笑い、時に泣き、時に喧嘩し、時に許しあったことだってある。互いの親が繋がっていたという訳では無いものの、小中校、そして高校に至るまでずっと共に同じ学校に通ってきた。
 要するに、僕にとっての彼女は“幼馴染み”という存在に相違無かった。

 そして、言うまでもなく、僕は彼女の事が好きだった。
 共に長い時間を共有していくにつれて、彼女の良いところも悪いところも知り、僕は彼女の事を好きにならずにはいられなかった。
 一歩歩く度になびく黒髪も、冷たさの中にどこか温もりを宿しているその瞳も、血色の良いふっくらとした唇も、横を通り過ぎる度にほんのりと鼻孔を掠めるその香りも、今でこそ辛辣であるがかつては優しかったその性格も、その全てが僕を魅了していた。
 僕は完全に、彼女に捕らわれてしまっていたのだった。

 いや、問題はそこではないのか。
 本当に問題なのは僕の一方的な感情云々ではなく、僕と彼女が抱いていた想いの丈に大きな差異があったということだった。
 僕自身が、自分の彼女を想う想いに比例して彼女の僕を想う想いも強まっているはずだと思い込んでしまっていたことだった。

 自分自身の想いと相手の想いとでは、自分が感じている以上に大きな隔たりがある。
 それこそが此度の失恋から僕が学んだことだった。



 ◆



「はあ、……どうして」

 既に消えてしまっている彼女の背中を思い浮かべ、僕は重い溜め息を吐く。

 それはそうだ。すぐに立ち直れるはずもない。
 僕は彼女に拒絶された。長い時間を共にしてきた彼女に、その積み重ねた時間の全てを否定された。
 それは直接彼女自身の手で僕の首を閉められたような恐怖と絶望を、僕の心に染み込ませた。

 次に会うとき、僕は彼女にどんな言葉をかければ良いのだろうか。どのように接すれば良いのだろうか。果たして、彼女は僕の言葉に応えてくれるのだろうか。
 そんな事を考えていると、つい先程突きつけられた僕と彼女との距離がより広がっていくような錯覚を覚えた。

 だが、流石にずっとこうして体育館裏に居座っている訳にもいくまい。
 無理矢理にでも気分を切り換えるためにも、取り敢えず僕は失恋した場所であるここから離れることを決めた。


 しかし、さて、どうしたものか。これからの僕と彼女との展望は置いていくとして、僕はこの昼休みの残りの過ごし方を考えなければならなかった。

 元々、僕の告白が上手く運ぼうが運ぶまいが、僕は昼休みの残りの時間は彼女との会話に費やそうと考えていたのだ。上手くいけば勝利の余韻に浸りながらの談笑に、失敗すれば今後の関係を壊さないための懇願に。
 我ながら女々しくはあるが、そこまで考えて抜いた上で僕はこの告白に挑んでいたのである。もっとも、結果は敗戦処理すらも叶わないような惨敗であったのであるが。
 何はともあれ、幸か不幸か、そういった理由で今の僕には時間が大いに余ってしまっていた。故に、残りの時間をどう過ごすべきか考える必要があったのである。

 普通に考えれば、一度教室に戻るのが妥当な判断である。自分の席に座って、そのまま眠って昼休みが開けるのを待つのが今の僕には最善だろう。
 だが、正直それは気が進まない。何と言うか、失恋という形で人との距離を詰められなかった今の僕にとって、物理的に強制的に人との距離を詰めなければならない教室という空間は苦痛以外になり得ないとしか思えなかった。
 また、別の点で言えば図書室も同様である。確かにあそこは物理的に孤独になることが出来、実際僕も日頃から独りになりたい時には通ったりしている。だが、その孤独さえも今の繊細な僕には苦痛になり得るのだ。

 孤独になりたいと思うけれど、孤独は耐え難い。
 そんな矛盾した精神状態で、僕は答えの見つからない問いに思考を働かせ続けていた。

 だが、僕はその答えを思いの外早く得ることになる。
 いや、僕の居場所を見つけるという難題について、その答えを得たという訳では無いのだ。今の僕にとって、その難題は「人は何のために生きるのか」といったような哲学的な難題と何ら遜色無いのだから。そして、その難題が解かれて僕の腐りかけの心性が息を吹き返すなんてこともまるで無いのだから。

 ならば、自分の居場所を見つけることが出来ていないのならば、一体僕は何の答えを得たというのだろうか。己の向かう先すら手に入れていないにも拘わらず、僕はどうしてそこ・・に向かわなければならないという義務感を抱いたのだろうか。

 その答えこそ、実に単純だった。
 意外や意外、結果的に一切の思考を割くこと無く、僕はその答えを得た。

 僕が行かなければならない場所。その答えを教えてくれたのは、他ならぬ僕の膀胱ぼうこうだった。

 ――そう、行く宛の無い僕は最終的に尿意を催し、トイレに向かったのだった。



 ◆



 まるで、洞穴のようだ。
 初めて公衆トイレというものを目にした時、幼い僕はそんな事を思った。

 臭いが籠らないように設計されているためか、扉の付いていないある種解放的な外観。男女の性の違いをより直感的に、本能的に区別するために彩られている赤と青の色彩。一度足を踏み入れれば薄気味悪い雰囲気が立ち込める、青いタイルが敷き詰められている薄暗い空間。
 そんな空間に少なくない恐怖を覚え、公園からわざわざ家に帰ってきて用を足した事は忘れられない。

 閑話休題。

 もっとも、既に青い春を迎えた(フラれている時点で春がやって来ているのかどうかは怪しいが)高校生である僕にはそんな恐怖など取るに足らないものである。じわじわと襲い来る尿意を堪えながら、その薄暗い空間に僕は果敢にも飛び込んで行った。

 そこは、やはり少女時代に幾度となく見ていたあの光景と大して変わらなかった。
 いや、常日頃から学生として使用しているトイレではあるので違和感を覚えることなどまず有り得ないのだが。だが、一先ずそういった事は拭い去った上で言わせて貰うならば、たった今僕がトイレに入ったことで感じた様々な感情は、あの時――僕が初めて公衆トイレに入ったあの時、僕が感じたものとまるで相違無かったのだ。

 床に敷き詰められている青いタイルも、扉の無い解放的な姿も、薄暗さから生まれるあの薄気味悪さも。
 全てがあの時と同じだった。

 どうしてそのように感じたのかは、分からない。
 彼女にフラれて落ち込み精神的に病んでしまっていたせいか、余りある時間の一瞬一瞬を確かめながら生きようとしていたためか、はたまた単に使い慣れない体育館のトイレに違和感を感じたためか、それは分からない。
 けれど、その時の僕が感じていたその感覚は今後の僕の行動を大きく変える事になるのだった。

「トイレに行っトイレ、なんて良く考えたもんだよな」

 そんな誰でも知っているダジャレについて考察を重ねながら、僕はそんな事を呟く。
 正直、そんな事を真面目に考えていた訳では無かったが、今の僕には失恋のショックから目を逸らすのには丁度良かった。

「うん。流石に一世を風靡しただけある。“トイレ”というフレーズを基にしていることで日常的にもその使用頻度が多く親しまれやすい。それに――」

 それに、トイレに行くことを促すというその使用法こそが、子供たちの中で流行った大きな要因だろうな。
 と、本来そう続けられるはずだった僕の言葉は、トイレに入っていった僕が口を閉ざしたことによって中途半端に遮られる。
 ならば、何故僕は急に口を閉ざさなければならなかったのか。その答えは至って簡単。

 ……人がいた。

 いや、人がいたこと自体は何らおかしくない。だが、この場合で問題になるのはその人が完全に僕を認知してしまっていたこと。その人物がしっかりと聞き耳を立てて僕の独り言を聞いてしまっていたことだった。

「……………………」

 その人と、完全に目が合った。思わず、僕は迫り来る尿意すら忘れて、その場で身体を硬直させた。

 完全に油断していた。
 大抵の者が教室で談笑していて、教室から少し離れた体育館のトイレには誰もいないと思い込んでいた。まさかわざわざ体育館のトイレに来て用を足している生徒がいるとは思わなかった。

 さて、どうしたものか。
 数秒前の僕の独り言を無かったものに出来るのならば極普通に通り過ぎて用を足せるのだが、現実はそう甘くはない。しかも、完全に目が合ってしまっている以上、何事も無かったかのようにこの場を離れるのは違和感があり過ぎる。
 更に、不幸中の不幸な事にその人は僕の知っている人物ではなかった。もし知り合いであれば互いに笑い合って事は済ませられていただろうが、全く知らない人となればそうはいかないのだから。
 僕は冷や汗が額をゆっくりと流れるのがハッキリと分かった。

 その人物はその外見から判断する限り、僕とは別学年の男子生徒のようだった。
 性別に関しては男子トイレにいる時点で言わずもがな。三年生である僕が知らないということは、彼は一年生か二年生のどちらかに属する男子生徒と考えるのが妥当だろう。着ている衣服こそ制服ではなかったが、スポーツウェアを着ているところを見るに昼休みに自主練に励んでいたのだろう。

 それなりに大柄ではあるものの、恐らく僕の予想は外れていないはずだ。ならば、それが分かった時点で年上である僕が退く理由は無い。
 結局、そう結論付けて自分が優位にあるのだと自分自身に暗示をかけたことで安堵を覚え、僕は軽く彼に会釈しただけで便器の前に移動した。


 ――当然、彼とは便器一つ分の距離を空けて。


「…………?」

 その時、不意に僕はとある疑問を覚えた。

 極自然に彼とは距離を作って便器の前に立った僕。そんな僕は、どうして自然に彼との距離を作ったのだろう。どうして、本能的に彼と距離を作らなければならなかったのだろう。
 僕はそこに得体の知れない不気味さを感じずにはいられなかった。

 普段であれば、そんな事を考えることはなかっただろう。僕たちは常日頃周りの存在がさも居て当然のように生きている。何の違和感も無く、何の疑問も抱かずに。
 現に、僕は今の今まで僕が日常的にしていた行動について深く考えたことはなかった。公衆トイレで隣人と一個分の距離を空けるのが当然だと認識していたことに、何の疑問も抱かなかった。

 その点、こうして僕がそうした疑問を覚えるに至ったのはある種の怪我の功名と言えるだろう。
 僕が彼女にフラれたことで一時的に精神的な孤独性を獲得し、それにより冴えない僕を囲む環境により広い視野をもって目を向けることが出来た。また、それによりこうした疑問を抱くことが出来たのだから。僕が彼女にフラれて自分と相手との距離感について思考を重ねていたからこそ、僕と彼との間にあるこの距離感に気が付くことが出来たのだから。
 ……もっとも、その場合の怪我は僕にとって致命傷に相違無いわけだが。
 何はともあれ、偶然にもトイレに入ったことで生まれたそんな疑問に、僕の思考能力の一切を奪われてしまったことは明らかだった。

 僕はふと、便器一つ分の距離を空けて用を足している彼に目をやった。既に僕から注目を逸らしていた彼は僕の視線に気付かず、依然用を足していた。まるで、彼は僕との距離に何の違和感も覚えていないかのように。

 まあ、それは仕方の無いことだろう。
 ある種の悟りに到達してしまっている今の僕とそうでない他人とではその感性に大きな隔たりがあるのは当然なのだから。

 そうして、今の自分の置かれている状況を確認した僕は本格的にこの空間に存在する人間関係について思考を巡らせていった。



 ◆



 そもそも、どうして僕は彼と便器一つ分の距離を作ったのだろうか。
 その答えに関しては既に幾つか考えられるものがあった。

 まず初めに考えられるのが、個人個人のプライバシーのため。
 そもそも、用を足すという行為は人によってはその者の羞恥心を呼び起こすものであるということは言うまでもない。たとえ肝心な部分が隠されていたとしても、排尿する姿を見られて幸福を感じる者などそうそういないだろう。
 故に、その姿を可能な限り視界に入れないようにするため、物理的に一定の距離を保とうとすることは当然のことと言える。公衆トイレという空間には他のどんな場所よりも“デリカシー”という言葉が求められるのだ。

 次に考えられるのが、生物として本能的に他者を警戒したため。
 今の僕の置かれている状況が正にそうだと言えるが、公衆トイレという空間は全く面識の無い赤の他人と居合わせることが多い場所である。そして、名前も知らないような者と同じ空間に居なければならない時、人間という生き物は相手を警戒して自然と距離を置こうとする。そこには“デリカシー”という言葉だけでは収まらない、生物としての野生の孤独性がある。その距離こそ正に、丁度便器一個分なのではないだろうか。

 と、まあ、こういった意見が大まかな理由と言えると思われるが、この二つの意見の内の後者に、僕はもう少し焦点を当てたいと思う。
 正直な話、先程は“赤の他人”とは距離を置いて当然だなどと言ったが、僕自身はたとえその相手が知り合いであっても当然の如く便器一個分の距離を空けるだろう。
 それはその相手が気に入らないからでも、相手に気を遣っているからでもなく、ただ単純にそれが当たり前だと思っているからである。僕は自分でも意識せずに、友という存在とトイレに入り、その中で一時的に友と距離を取り、そしてトイレから出ると元の距離に戻るという歪な関係性を受け入れているのだ。
 これこそがヒトという生き物が本能的に他者との隔たりを作る、その典型的な例ではないだろうか。

 ならば、公衆トイレという空間において生まれるこの人と人との距離は一体何なんだろうか。本来あるはずの無い友との距離さえも生み出してしまう、このトイレという空間は一体何なんだろうか。
 それを“デリカシー”という言葉だけで片付けてしまうことが、僕は正直腑に落ちない。そして、このトイレという空間にこそ、人間同士の真なる距離感というものが現れているとさえ思うのだ。

 僕が感じることの出来なかった、僕と彼女との間にあった余りある隔たりのようなものが。

 そんな事を考えたところで一度思考を切り替え、僕はふうと溜め息を吐き出す。
 実際のところ、こうして独りで思考を重ねていたとしても答えを得られないことは僕にも分かっている。そもそも、僕はこうして何かについて考えることで自分の失恋から目を逸らしているだけで、こな難題における最終到達点に辿り着くつもりなどさらさら無いのだ。
 答えなど出るはずがない。僕自身が答えなど求めていないのだから。

 寧ろ僕がこれまで積み重ねてきた思考は答えが出ないことにこそ意味があると言っていい。
 まるで、普段の仕事のストレスを発散しようとマラソン大会に参加したサラリーマンが『このマラソンが終わらない限り仕事に戻らなくてもいいのではないか』などと思い込み、ゴールを目指さすに同じところをずっとぐるぐると回っているように、僕は答えを得ることを恐れて無駄な思考を繰り返しているのだから。ゴールしてしまえば再び仕事のストレスに晒されてしまうように、答えを得てしまえば彼女にフラれた過去を思い出さなければならないのだから。

 まったく、我ながら女々しいこと極まりないのだけれど、僕にとって彼女以外のことに頭を回すことは気を楽にするための最も手っ取り早い手段なのであった。
 しかし、いつまでもそうしてくよくよしてはいられないだろう。いずれは忘れてしまうこんな一時の苦しみでも、目を逸らして逃げていることがみっともないことは明らかなのだ。少なくとも、この失恋と向き合わなければならないことは僕にも分かっているのだ。

 だが、このまま僕だけで考え続けていても答えが出ないことは自明の理である。故に、僕は僕だけで考えるのを止めた。即ち、頼ることにしたのである。この僕と如何にも人間らしい距離を保ったまま用を足している、彼の事を。



 ◆



 さて、彼に話しかける決断をしたものの、そこそこの人見知りである僕は彼に対してどのように声をかければいいのだろうか。便器一個分の距離を空けてしまったのは他ならぬ僕自身なのだ。自ら彼との間に隔たりを作ってしまったがために、僕は彼との接し方を決めあぐねていた。

 どうすれば相手を警戒させずに自然な運びでこの議題に持っていくことが出来るだろうか。そもそも、このトイレという空間で見ず知らずの者から声をかけられて警戒しない者などいるのだろうか。

 普段ならばそんな繊細な事は考えなかっただろうが、現状においてはそう楽観的にもいられなかった。
 つい数分前に相手の気持ちを考えずに当たって玉砕したばかりなのだ。これで気楽に初対面の人に話しかけることが出来れば、その人は余程コミュ力の高い人か精神崩壊を起こしている人だろう。
 ……もっとも、失恋を経験した今の僕は精神崩壊とはいかないまでも一時的な精神疾患くらいには罹っていそうだが。

 閑話休題。

 それはさておき、実は話す内容以前に僕はもっと初歩的な事に大いに悩まされていた。
 僕は初対面の彼に相応の敬意を払うべきなのだろうか。僕よりも年下の彼に質問をする側としての態度を取るべきなのだろうか。
 詰まるところ、僕は彼に敬語を使うべきなのだろうか、と。

 僕と彼との立場だけを考えれば、僕には敬語を使う理由は無いだろう。
 けれど、僕と彼は互いに初対面であり、僕は彼に質問をする側の人間だ。加えて、僕と彼との間には言うまでもなく便器一個分の距離がある。
 この距離こそが僕が彼に気楽に話しかけることを断固として引き留めていた。

 しかし、いつまでもこうしてうじうじしていられないのも確かである。失恋と向き合い、己と向き合うためにも彼に意見を求めることは必要なことなのである。

 故に、僕は覚悟を決めた。
 彼との間にある便器一個分の隔たりを詰める覚悟をした。

「……ねえ、君。何年生?」

 僕が会話の切っ掛けとして切り出したのは、そんな言葉。
 大した意味は無い。ただ何となく、『今日はいい天気ですね』のような定番の言葉を真似て、それらしい言葉を並べてみただけだ。

 だが、存外この切り出しは悪くないという自負が、僕にはあった。
 見知らぬ人との会話の際、最も恐ろしいことは“無視”されることだ。それをされてしまえば完全に出鼻は挫かれ、会話はおろかその場にいることさえいたたまれなくなってしまう。
 だが、その点において、“質問”という形式を用いたことはかなり有効な点だと言えるだろう。
 人は答えられる質問には基本的に答える。たとえその質問が赤の他人からのものでも無視することはそう無いはずだ。
 そんな予想をもって挑んだ一言目、結果は――、

「何年生……ですか」

 見事、会話が成立。
 彼はやや訝しげな表情を浮かべてはいるが、僕の第一目標は達成したと言っていいだろう。内心ガッツポーズを決めながら、胸を撫で下ろす僕。

 しかし、運命はそんな僕を嘲笑うかの如く、見事な急ターンで僕の思惑を外して見せるのだった。

「何年生かと問われれば……そうですね、先生・・と言うべきでしょうか」

 ……一瞬で全身の血の気が引いていくような気がした。つい数秒前まで僕を急かして焦らせていた尿意も、流石にこの返しにだけは沈黙を隠せない。完全に引っ込んでしまった。

 最初は何の冗談か、と笑い飛ばそうとした。が、彼のその姿を見てみれば、その言葉の真偽はすぐにでも分かった。

 ここで補足させてもらうが、僕の高校の生徒には原則として規定のスリッパを履くことが義務付けられている。三年生は赤、二年生は青、一年生は緑というように学年別に色を分けられており、それを見るだけで何学年の生徒か識別出来るようになっている。
 ところが、彼が履いている物はスリッパでは無かったのだ。彼が履いていたのは、何の変哲の無いシンプルな黒一色のサンダルだった。
 もっとも、先程“原則”と述べたように、例外は存在する。例えるなら、足を怪我したためにギプスを付けなければならないが、その場合規定のスリッパに足が入らない、などといった場合に限り持参した履き物の着用が認められているのだ。

 しかし、彼の身体を見る限りそのような大怪我を負っているようすは無い。普通のソックスを履き、サンダルを履いている。
 則ち、彼はこの学校の生徒ではなく、かつ、この学校に入れる人物――教師であると断定出来るのだ。
 そして、その事実が新たに示している事、それはこの僕が恐れていた事――僕が年長者に対して敬語を使わなかったという事実だった。

「年長者に対してタメ口、はいただけないねぇ」

「す、すみません。少し勘違いをしてしまって」

「まあ、仕方無いよ。私は一年生の担当だからね。君が知らないのは当然だ」

「いや、でも……」

「いや、いいんだ。私は童顔で、昔から年相応に見られない事が多くてね。嬉しくない話、もう慣れてるんだ」

「は、ははは」

 尚更良くないだろう。教師にタメ口を使った挙げ句、相手のコンプレックスを的確に突いてしまうなんて怒鳴られても仕方が無いレベルだ。
 そうは思いながらも口に出せる訳もなく、僕は苦笑いを浮かべる。
 こういった状況での人間の行動は実に正直だ。動揺を見せないようにと意識していても、苦笑いを浮かべる自分の頬が引きつってしまっていることがハッキリと分かる。
 これ以上失態を犯せない。そう覚悟して、もう一度僕は彼との会話に望む。

「それで? 君は私に何か聞きたいようだったけど」

「あ、はい。その件なんですけど――」
「ちょっと待って」

「……え?」

 突然言葉を遮られて、僕は戸惑いを見せる。対して彼は悪戯な笑みを僅かに浮かべ、

「私に当てさせて欲しい」

 なんて事を言うのだった。

 まあ、彼が僕の質問を言い当てる事は一向に構わない。寧ろ、僕としては自分から言い出す必要も無いので願ったり叶ったりだったりする。
 しかし、妙な先生だ。偶然トイレで居合わせただけの生徒と、こんなにも気さくに話しかけてくるなんて。確かに、教師の全員が堅苦しくて話辛いなんてことは完全に僕の偏見であるのだが、こうも親しげに話されるとこの期に及んで本当に生徒では無いのかと疑問に思ってしまう。恐らく、彼が年相応に見られないのはその童顔だけでなく、こういった面も大きな要因なのだろう。

 そんな事を考えていると、急に黙りこんだ僕が気になったのか、いつの間にか彼は僕の顔を覗き込んでいた。

「どうかしたかい?」

「いえ、何でも。ところで、僕が話そうとしている事、分かりましたか?」

「ああ、うん、バッチリ、ね」

「――――っ!? 本当ですか!?」

「うん。自信、あるよ」

 自信ありげな彼の言葉に、思わず僕は動揺を露にしてしまう。
 いや、それも当然だろう。何一つヒントも出していないのに、彼の口調はまるでその目で見てきたかのように、確かに確信を得ていたのだから。

「……言って、みてください」

 正解された場合の僕の心境を思い浮かべながら、僕は恐る恐る彼に尋ねる。彼はそれに対して「分かった」と頷き――、

「どうしたら女の子にモテるか、だろう?」

 見事に外してみせるのだった。

「……はあ、違います」

「あれ、違った?」

 まあ、流石に当たるはずがないだろう。そもそも、どこの高校生がどうして公衆トイレで便器一個分の距離を空けるのか、などと聞くと思うのか。そんな訳あるはずがない。そんな事を考えるような奴はきっと、好意を抱いていた幼馴染みにフラれたばかりの愚か者に違いない。……そう、それこそ、僕みたいな。

 自虐はここらで止めよう。
 それはさておき、外してしまったからといって彼の答えがまるで外れであるとは僕には言い難いものがあった。それこそ、僕がそんな奇天烈な発想をするに至ったのは、一人の女の子――幼馴染みの彼女と結ばれたいと思ったことによって生まれたと言っても過言ではないのだから。僕の抱える難題は、詰まるところ他人との絶対的に埋まらない距離を埋めたい、彼女と僕の間にあった距離を詰めたいという願望から生まれているのだから。

 もしかすると、彼は僕が考えているほど侮れる相手では無いのかもしれない。
 ……僕がそんな事を考え、完全に彼が僕の意識の外に出た瞬間、彼は驚くべき一言を口にするのだった。

「おかしいなぁ。さっきフラれてたから、絶対そういう事考えてると思ったのに」

「…………はあ?」

 今、何と言ったのか。
 予想だにしない彼の言葉に、僕は無意識に惚けた声を漏らした。

「……どう、して?」

「そりゃあ見てたからね、全部。告白前に君が寿限無を唱えてた時から、君が彼女にフラれるまで。全部、ね。いやぁ、緊張を解くためとは言え、独りでブツブツと寿限無を唱えてた君の姿は面白かったよ」

 そう言って、彼は頬を緩ませる。対する僕はというと、笑いが込み上げるどころか苦笑いすらままならない。未だに彼が何を言っているのかも分からず、困惑するあまり尿意が沸き上がってこない。ハッキリ言って、由々しき事態だ。
 一度心を落ち着かせて、僕は彼に確認する。

「……見てたん、ですね」

「一教師として、ブツブツと寿限無を唱えてる男子生徒を無視出来ないだろう? それに、一度告白現場を目にしたら事の顛末を知るのが礼儀だしね」

「どこの国の礼儀ですか、それ」

 はあ、と今度は諦めの溜め息を吐き、僕は彼から視線を逸らす。

「性格、悪いですよ」

「それも年長者に言うような台詞じゃない、けど、これは流石に多目に見よう」

 事情を知っていながらも傷心している僕をニヤニヤと嘲笑う彼に、年長者であるが故の意地の悪さを感じざるを得ない。僕の悪態はどうやら多目に見てくれたようだが、正直それだけでは僕の気は晴れない。

 そこで、僕は一つの提案をすることにした。

「……一つ」

「ん?」

「一つ、質問に答えてくれるなら、この事は水に流しましょう」

「へえ、取引のつもりかい?」

「そんなつもりはありませんが……まあそういう事にしておきましょう」

「ふうん。……でも、それだけじゃあ駄目だな。その質問に答えるメリットが“私が君に許してもらう”って事なら、私は君に許してもらわなくても構わない。つまり、私が君の質問に答えないデメリットが無い。だから、私は君の質問に答える必要は無い。さあ、君はどんな私のデメリットを提示する?」

「……そこは先生の良心にお任せします」

「……なるほど、良い答えだ。確かに、このままじゃ私が君を虐めているみたいだしね」

 そう言って、彼はまたふふふと笑う。

 何と言うか、たった数度言葉を交わしただけなのだけど、僕には彼の人となりが曖昧であるが掴めてきた。
 端的に言えば、僕が一生関わりを持ちたくない人、だ。

 ハッキリと、性格の悪い人、とはあえて言わない。この人からすれば僕の失恋など数ある人生のほろ苦い経験の一つであるのだろうし、百八十度心機一転してポジティブに考えれば、今もこうして僕をからかっているのも僕と会話を弾ませて気を紛らわせようとしているとも取れる。だから、僕の主観で彼を悪人だと判断するのは勝手過ぎる。
 けれど、だからと言って彼の言動が善人のものとは僕には到底思えない。だからこそ僕は、彼を関わりたく無い人、と評したわけだ。

 正直、もうこの場から離れたい。五限目にわざわざ立ち上がってトイレに行く手間をかけてでも、もうこの場から離れたい。
 未だに排出される気配の無い僕の尿を恨めしく思いながら、僕は苦々しい表情を浮かべた。
 すると、それを見ていたのか、流石の彼もこれ以上笑うのを止めた。

「悪かったよ、からかって。本題に入ろう。それで、君が私に聞きたい事って?」

 流石にこの場から離れるのは無理か。
 食い気味に僕に話しかけてくる彼を見て諦め、僕は渋々話を続けた。

「……どうして、トイレする時には他人と便器一個分の距離を空けるんでしょうか?」

「……聞きたかった事って、そんな事?」

「おかしいですか?」

「いや、悪気は無いんだ。大体分かった。あれだろう? 彼女にフラれるとは思ってなかったのにフラれてしまって、それがどうしてなのか考えている最中にトイレに入って、自分が私とは便器一個分の距離を空けたことに疑問を持った。私と君との間に隔たりがあるように、君と彼女との間にも見えない隔たりがあったんじゃないかって」

「……察し良すぎです」

 どうやったらそんな予想がつくのか。もしかしたら僕の思考回路は最初から筒抜けになっているのではないか。
 そんな不安を覚える程に、僕は彼が恐ろしく、反面彼に夢中になってしまっていた。

 彼は一言で言えば、不思議な人だった。
 童顔で、親しげで、かと思えば子供のような悪戯な側面も持ち、僕のかつて持っていた堅苦しい教師像を全て破壊する、そんな彼の事が僕は気になっていた。

 勿論、この場から離れたいという気持ちは今でも変わらない。が、その感情は少し和らいでいる。あと少しの付き合いだ、少しくらい付き合ってもいいか、などというように。
 それは恐らく、直感したからだ。この不思議な彼ならば、この僕が抱えている難題の答えを教えてくれる、と。
 故に、僕は待った。彼が考えている数秒の間、僕はその答えを待ち望んだ。

 そして、その時は来た。

「……デリカシー――」

 が、その答えは僕の待ち望んだものでは無かった。

 はあ、そう僕が溜め息を吐こうとした――その時、彼は言った。

「――なんて言葉じゃ、君は満足しないんだろうね」

「――!? は、はい!」

 喜びの余り、思わず声が大きくなる。

「私はしばしばデリカシーが無いなんて良く言われるが、そんな私でもトイレに入るときは他人とは距離を取るよ」

「分かります」

「……今のも多目に見てあげよう」

 どうやら、彼の方も僕との会話を楽しんでいるらしい。僕の失言を見逃してくれる辺り、もう下手な遠慮は必要無さそうだ。

「この距離にこそ、傷付くことを恐れて他人と交われない、生物としてのヒトの本能が表れていると僕は思うんです」

「君と彼女のように、かい?」

「……ええ」

 トイレに、僅かな沈黙が走る。

「……例えば君が私に対して取った距離が便器一個分だったとして、君をフッた彼女は君とどれだけの距離を取っていたのかな?」

 ふと、彼はそんな事を言う。

 いや、実際問題真面目にその距離を考えるならば、彼女と僕の間にあった距離はどれ程のものなのか。それについて、失恋と向き合うためにも僕は考えなければならないのかもしれない。

 彼女は僕を嫌ってはいなかったはずだ。つい先程告白する前までは普通に言葉は交わしていたし、最近は笑顔こそ見せなかったが僕を嫌っている素振りは全く無かった。
 当たり前だ。だからこそ、僕は今悩んでいるのだから。自分が彼女との距離に気がつけなかったからこそ、今こうして頭を抱えているのだから。
 それらを考慮して、僕は答えを出す。

「この男子トイレと隣の女子トイレくらい、でしょうか」

「……へえ、なるほど」

 彼はそう言って、数度頷く。

「つまり、決して届かない距離ではないが、確かにそこに壁がある、という事だね。完全に彼女から嫌われている訳ではないが、君からは気付けないような壁が、確かに」

「……はい。僕が彼女をどれだけ探しても、個室に入っている彼女は決して見つけられません」

 どれだけ僕が彼女を求めて足掻いても、彼女に拒絶されてしまえばその手は届かない。たとえ僕がこの身を焦がしてまで女子トイレに入ったとして、君が手を伸ばしてくれない限り僕は君を見つけられない。
 そんな歯痒さを、僕は感じていた。

 しかし、そんな僕の心の枷を、嘲笑ってぶち壊してしまう、そんな人が僕の便器一個分横にいた。

「――だったら、飛び越えてしまえばいいだけだろう?」

「……えっ?」

「彼女が君との距離を空けるというなら、彼女が個室に閉じ籠ってしまうならば、その隔たりを君が飛び越えなくてどうする?」

「で、でも! 僕は彼女に告白したんです! 踏み込んだんです! ……なのに、フラれてしまった」

「なら、もう一度踏み込めばいい。フラれてしまったということは、君と彼女との間にはまだ壁があったということだ。その隔たりを無くさなければ、君と彼女は結ばれない」

「――――っ!? なら! なら! どうすれば良いんですか!! 僕はどうすれば彼女との隔たりを無くせるんですか!!」

 トイレに響き渡る僕の叫び。
 それを制するように聞こえたのは、ジジジ、と彼がジッパーを上げる音だった。
 それが示すのは、彼の排尿の終焉。
 彼は用を足し終えて便器から一歩後退し、ずっと僕と彼との間にあった距離を詰めて、僕の顔を見た。

「向き合うんだ。たった今私がやって見せたみたいに、隔たりなんか全部突き抜けて、もう一度彼女と向き合うんだ」

「そんなの、僕なんかには――」
「出来るさ。君は前を向こうとしていた。だから、私に話しかけたんだろう? なら、その勇気を彼女に向けるだけでいいんだ。簡単さ」

 彼は最後に僕の背中を押した。
 弱気になっている僕を励ますように、少し力の籠った掌で僕の背中を叩いた。

「――――あっ」

 その衝撃で、ずっと僕の中で渦巻いていた尿意がようやく姿を現す。
 その尿意に身を任せ、僕は用を足した。
 そして、全てを出し切り心身ともにリフレッシュし、改めて僕の恩人に感謝の言葉を告げようと振り向くと、


 ――そこには既に、彼の姿は無かった。



 ◆



 後日談、というかこの物語のオチ。

 彼に背を押されて勇気を取り戻した僕はあの後、また彼女に告白した。
 すると、どうだろうか。その結果まさかの大逆転、快く彼女から付き合ってくれるという答えを貰った。ただし、条件付きで。

 その条件というのは、

『僕達二人が共に受験を終えた後』

 との事。

 彼女曰く、彼女は初めから僕に気が無い訳でも無かったが、迫り来る受験に向けてあえて僕の手を振り払ったとの事。だが、僕が二度目の告白するという思いもよらぬ展開になったために根負け、遂には条件付きで僕と付き合う決意をしたそうだ。

 つまり、僕は彼に背中を押されたことで見事目的を達成したと言える。

 そして、その後の僕の行動は迅速だった。
 告白が成功したということを第一に彼に伝えたかったのである。僕は急いで職員室に駆けていった。

 だが、結果から言えば、僕は彼を見つけることが出来なかった。
 今思えば、僕は彼に名乗っていないし、彼も僕に名乗っていない。名前も知らぬ互いが巡り会う公衆トイレと場において、最後の最後まで互いの名前を知らぬままに僕らは別れてしまった。
 故に、職員室に行っても彼の机を見つけられなかったのだ。
 勿論、顔見知りの教師に特徴を伝えて聞いてみたりもしたが、結果は惨敗。
 ありとあらゆる手を尽くしても、僕は彼に辿り着くことは出来なかった。

 ――が、最終的に僕は思いもよらぬ場面で彼の存在を見つけることになる。

 それは、登校前に朝食を取りながらニュースを見ていた時の事だった。




『今日のニュースです。
 昨日正午頃、某高校の女子トイレにて覗きが行われたという事件が起きました。男が女子トイレの個室の壁を乗り越え、真上から犯行に及んでいたところを偶然巡回していた教師に取り押さえられました。
 男の年齢は二十一歳、職業はフリーター。もしも見つかっても部外者だとバレないように、スポーツウェアを着用して体育教師になりすまし、これまでも数度犯行に及んでいたと本人が自供しています。

 続いてのニュースです――』


 どうやら、僕は彼に感謝することは出来そうにないらしかった。
 物理的にも、“心から”という意味でも。

 けれど、そんな彼から確かに学んだ事もある。
 それは、他人との便器一個分の距離を埋めるためには自分から歩み寄らなければならないという事。誰かと確かな絆を結ぶには、覚悟を持ってそれを望まなければならないという事。

 故に、これから僕は二度と空けないと決めた。

――公衆トイレという空間に存在する便器一個分の距離を。



「その他」の人気作品

コメント

コメントを書く