終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第六章19 月下の戦いⅠ
「ごきげんよう、旅のお方。この私と一戦交えては貰えませんか? 今宵は血に飢えております故」
死した人々が徘徊する名も知らぬ街。
バルベット大陸の南方地域に存在するその街は、炎獄の女神・アスカの手によって唐突な最期を迎えることとなり、そこで暮らしていた人々もまた理不尽な死を遂げた。
業炎に包まれ死した人々に待っていたのは、安寧のある死後の世界ではなかった。
死んでも尚、人々はその身体と魂を現世へと強制的に留まらせることとなり、自らの意志もなくただ徘徊するだけの存在へと成り果てた。何故、この街に住まう人間だけに限ってこのような現象が発生しているのかは分からない。
ただ、航大たちは何の罪もない人々に対して武を振るうことを良しとはしない。
だからこそ早々に街を飛び出そうとした航大たちだったのだが、その前に立ち塞がる異形の存在があった。
「……貴方は何者ですか?」
「何者? ふむ、今の私にとってその質問はとても難しいものですな。しかし、こちらからお願いをしているのですから、貴方たちの質問にも答えねばならぬのでしょう」
街から脱出しようとした航大たちの前に立ち塞がったのは、タキシードに身を包んだ初老の男性だった。皺が目立つ顔立ちに白髪が混じった黒髪が印象的な男性は、妖しく紅蓮に光る瞳で航大たちを見据えていた。
「何者か、その答えはとても簡単です。私はこの街で暮らしていた、しがない老人ですよ」
航大の問いかけに答える初老の男性はその手に持った片刃剣に目を落としながら、飄々とした様子を崩そうとはしない。
周囲を取り囲む異常な状況を目の当たりにしても、男性は一切取り乱すことはない。
「……しがない老人が、剣を持ってアンデットを切り刻むようなこと……考えにくいですね」
闇夜を駆ける老人は、その手に持つ剣で周囲に存在していたアンデットたちを躊躇うことなく切り刻んでいった。身体能力、剣の腕、その全てにおいて高い次元に存在していることは間違いなく、航大たちの警戒心は際限なく高まっていくばかりである。
生存者が存在した。
その事実は航大たちが待ち望んでいた結果ではあるものの、対峙する初老の男から放たれる殺気と、紅蓮に光る瞳を前にして、航大たちは目の前の男が『人間』とは似て非なる存在であることを察していた。
「……アンデット。なるほど、私のような、周りに群がる屍のような存在を、アンデットと呼ぶのですね。やれやれ、この年になっても知らないことばかりで困ってしまいますな」
「貴方の目的はなんですか?」
「……目的。その質問も今の私には難しい。私が生きる目的、そんなものは既に消えてしまったのですよ。あの時、消えぬ炎が街を包んだ時にね」
再びの問いかけに初老の男は目を細め、眉尻を下げて少し悲しげな表情を浮かべる。
「貴方はこの街に暮らしていた人……ってことで、いいんですね?」
「……はい。その認識で問題ございません。私は確かにこの街で生まれ、育って参りました」
航大の問いかけを初老の男はすらすらと答えていく。
こうして話していると、普通に生者と話している感覚に近いものを覚えるのだが、どうしても航大たちは対峙する男が生者であるという確信を得ることが出来なかった。それは、おおよそ普通の人間が持ち得ぬ『紅蓮の瞳』を、初老の男は持っているからだ。
航大たちを取り囲むようにしてぞろぞろと姿を見せるアンデット。かつて生者であった屍たちには共通しているものがあった。それが異様に赤く輝く紅蓮の瞳であり、目の前の男もまた同じものを持っているのだ。
「まぁ、今では街もこんな有様です。死者だけが存在を許された、地獄のような街。きっと、私は誰かに殺されるその時まで……この街に縛り付けられるのでしょうね」
「ということは、やはり貴方も……」
ようやく、航大たちが知りたかった事実が初老の男の口から語られようとしている。
彼が言葉を発する度に、航大たち一行の警戒度は高まっていくばかりであり、力が込められた両足はいつでも跳躍できる準備を整えている。
「そういうことです。無力な私は業炎に包まれ命を落としました。しかし、こうして街の人々と同じように望まぬ時間を与えられているのです」
「…………」
「さて、ここまでお話をしたのであれば、私が求めているものが分かりますね?」
語り終えた初老の男はそんな声音を漏らすと、ゆっくりと目を開き紅蓮に輝く瞳で航大たちを睨みつける。その瞳に込められているのは明確なる殺意と敵意であり、それを全身に浴びせられる航大たちはそれぞれが臨戦態勢を整えていく。
「しかし、五対一という戦いは些か分が悪いですね。こちらも一人、呼ばせて貰いましょうか」
「……呼ぶ?」
いつ戦いが始まってもおかしくはない。
そんな中で初老の男はニヤリとその唇を歪ませると、視線を僅かに反らす。
「…………」
すると、新たに姿を現す存在があった。
「ご紹介しましょう。私の孫にして、この街を統べる者でしたオリバーです」
「…………」
音もなく姿を現したのは焦げ茶色の短髪を綺麗に七三分けにした青年だった。見るからに真面目そうな青年もまた、その手には刃が握られており、また瞳は紅蓮に燃えている。
「自慢の孫でしてね、剣術の腕前にもそこそこの自身を持っています」
「……戦うのか?」
「もちろんでございます。生者を見ると放っておけないのが、今の私たちでございますから」
ペロリと唇を舐め、初老の男が一步を踏み出す。
「私の名前はクロウ。以後、お見知りおきを……」
戦いは避けられない。
先ほどの跳躍を見て、初老の男であるクロウから逃げることはほぼ不可能。
「やるしかねぇよ、航大。二手に分かれよう」
「分かった。俺がクロウさんと戦う」
航大の隣までやってきたライガは既に戦うための準備を整えていた。その視線は前方のクロウたちに固定しながら、どのように分かれて戦うかを航大に問いかける。
「……それなら、私は航大と戦う」
「ユイ、いけるか……?」
「……私はずっと航大と戦っていたい。貴方が戦うなら、私はその隣に居たいから」
航大の隣に立つのは表情を険しくした白髪の少女・ユイだった。
「ここは俺とユイに任せてくれ」
「いけるな?」
「当たり前だろ。そっちだって、人数が多い分有利なんだから、間違っても負けるんじゃねぇぞ」
ライガと拳を突き合わせ、それを合図にそれぞれが飛び散っていく。
「航大ッ、後で絶対に合流だからねッ!」
「……主様ッ!」
シルヴィアとリエルもまた航大の判断に従う形で、ライガを追って飛び出そうとする。その間際、心配そうな表情を彼に向けるのだが、航大の強い意志が込められた瞳を見て、それ以上はなにも言うことはなかった。
「オリバー、あちらのお客様のお相手を務めてあげなさい」
「…………」
クロウが指差すのは、ライガたちが跳躍していった方向であり、その指示に従う形でオリバーは言葉を発することなく飛び出していく。
「さぁ、始めましょうか。今宵の月はまだ明るい」
「……ユイ、英霊の力は使えるか?」
「いつでも大丈夫」
対峙するのは死する街で姿を変えられし異形の者。
紅蓮の瞳を持つ初老の男は、その皺が目立つ顔に笑みを浮かべ、血を求めて闇夜を駆ける。その手に持つのは月明かりを受けて鈍色に輝く片刃の剣であり、形は航大の世界では有名な『刀』に似ているものであった。
「私は血に飢えている。すぐに死んではくれるなよ?」
満月を背にして高く飛び上がったクロウは、これ以上にない笑みを浮かべて突き進んでくる。
「いくぞッ、ユイッ!」
「……うん。英霊よ、私に力をッ!」
胸の前で手を合わせたユイは、自らの中に存在する英霊・ブリュンヒルデの力を呼び起こそうとする。彼女の祈りに導かれるようにして、身体の奥深くから湧き上がってくる『力』があった。
「アスカッ、俺に力を貸してくれ。英霊憑依・氷神ッ!」
航大もまた戦うための力を呼び起こす。
かつて世界を魔竜の脅威から救った女神の力。
氷を支配する北方の大地の守護者。
氷獄の女神・シュナが持つ力を、航大はその身に纏っていく。瑠璃色の髪に青を基調としたローブマント、そして右手には氷の結晶が瞬く巨大な杖が握られている。
「ほう、そんな力を隠し持っていたのですね?」
「主よ、先に行くぞッ!」
「え、おいッ……いきなり飛び出すなってッ!」
英霊の力を取り込んだブリュンヒルデが地面を蹴って跳躍を開始する。
慎重に相手の出方を伺う戦いを想定していた航大だったが、英霊が取った行動によって瞬時に作戦を切り替えざるを得ない状況に追いやられてしまった。
「まずは貴方が私の相手をしてくれるのですかな?」
「私はワルキューレ・ブリュンヒルデ。その魂、貰い受けるッ!」
こちらへ直進するクロウに対して、ブリュンヒルデは一切臆する様子を見せることなく、真正面からの衝突へ向けて飛び続ける。白髪をポニーテールにした少女の手には白銀に輝く槍が握られている。それを武器に彼女は、紅蓮の瞳を瞬かせる初老の男を貫こうとする。
「高貴なる皇光の槍よ、悪を滅し、世界に光を灯せ――偉大なる聖光の槍ッ!」
闇夜を照らす聖なる光。
眩い光を帯びるのは少女が持つ白銀の槍である。
「――――ッ!」
数多の悪を貫く光の槍の前には、どんな悪も存在を許されることはない。
どんな過去が存在しようと、英霊が悪であると断定したのならば、白銀の槍で貫けないはずがない。英霊が放つ白銀の槍は、眩い輝きと共に紅蓮の瞳を持つ初老の男・クロウの身体をいとも容易く貫いていった。
「んなッ!?」
「…………ッ!?」
ブリュンヒルデが放つ光の一閃には一切の手加減が存在してはいなかった。
確かに相手を滅ぼすために放った攻撃ではあったが、まさか一撃で決着が着くとは想像もしていなかった。肌を切り裂き、人間の体内に鈍い音と共に埋没していく白銀の槍。その切っ先はクロウの腹から背中にかけて貫通した。
「……ごふッ」
突如として体内に侵入を果たした鋭利な刃物の影響で、クロウは皺が目立つ顔を顰めてその口から鮮血を吐き出す。
ずぶり。ずぶり。
血肉を掻き分けて命の灯火を消す刃の音がブリュンヒルデの鼓膜を震わせる。
彼女の瞳もまた驚愕に見開かれており、あまりにも呆気ない最期の瞬間を信じられないといった様子で見ていることしかできない。
「そう。これでいいのです。私を前にして一切の手加減は不要」
唇の端を鮮血で汚しながら、紅蓮の瞳を持つクロウは穏やかな笑みを浮かべる。
自分を本気で殺そうとする相手が現れたことが、自分を殺せる可能性を持つ存在が現れたことが、今の彼にとっては何よりも喜ばしい事実なのである。
「――しかし、まだ足りない」
冷え切った声音がブリュンヒルデと航大の鼓膜を震わせた。
その声は鼓膜を伝って航大たちの体内に侵入を果たすと、身体の内からゾッと心を震わせる。
月明かりを背に紅蓮の瞳を妖しく光らせるクロウは、その唇を歪ませると更なる戦いを求める。
「私を本当の意味で終わらせるには、まだ足りないのだよ」
声質が変わった。
「――くッ!」
最も近くでクロウと対峙していたブリュンヒルデは、全身を震わせる声音に思わず槍を引き抜くと一旦距離を取ろうとする。乱暴に身体から槍を引き抜かれ、クロウの身体からは再び鮮血が溢れ出るのだが、体内から流出する血液を見ても、クロウの表情は嬉しげに笑っているばかりである。
「さぁさぁ、今宵の戦いは始まったばかり。今度はこちらから行かせてもらおう」
ブリュンヒルデと共に地面に着地すると、皺が目立つ顔をくしゃくしゃに歪ませてクロウが飛ぶ。
死する街で勃発する戦い。
それは壮絶なる形でスタートするのであった。
死した人々が徘徊する名も知らぬ街。
バルベット大陸の南方地域に存在するその街は、炎獄の女神・アスカの手によって唐突な最期を迎えることとなり、そこで暮らしていた人々もまた理不尽な死を遂げた。
業炎に包まれ死した人々に待っていたのは、安寧のある死後の世界ではなかった。
死んでも尚、人々はその身体と魂を現世へと強制的に留まらせることとなり、自らの意志もなくただ徘徊するだけの存在へと成り果てた。何故、この街に住まう人間だけに限ってこのような現象が発生しているのかは分からない。
ただ、航大たちは何の罪もない人々に対して武を振るうことを良しとはしない。
だからこそ早々に街を飛び出そうとした航大たちだったのだが、その前に立ち塞がる異形の存在があった。
「……貴方は何者ですか?」
「何者? ふむ、今の私にとってその質問はとても難しいものですな。しかし、こちらからお願いをしているのですから、貴方たちの質問にも答えねばならぬのでしょう」
街から脱出しようとした航大たちの前に立ち塞がったのは、タキシードに身を包んだ初老の男性だった。皺が目立つ顔立ちに白髪が混じった黒髪が印象的な男性は、妖しく紅蓮に光る瞳で航大たちを見据えていた。
「何者か、その答えはとても簡単です。私はこの街で暮らしていた、しがない老人ですよ」
航大の問いかけに答える初老の男性はその手に持った片刃剣に目を落としながら、飄々とした様子を崩そうとはしない。
周囲を取り囲む異常な状況を目の当たりにしても、男性は一切取り乱すことはない。
「……しがない老人が、剣を持ってアンデットを切り刻むようなこと……考えにくいですね」
闇夜を駆ける老人は、その手に持つ剣で周囲に存在していたアンデットたちを躊躇うことなく切り刻んでいった。身体能力、剣の腕、その全てにおいて高い次元に存在していることは間違いなく、航大たちの警戒心は際限なく高まっていくばかりである。
生存者が存在した。
その事実は航大たちが待ち望んでいた結果ではあるものの、対峙する初老の男から放たれる殺気と、紅蓮に光る瞳を前にして、航大たちは目の前の男が『人間』とは似て非なる存在であることを察していた。
「……アンデット。なるほど、私のような、周りに群がる屍のような存在を、アンデットと呼ぶのですね。やれやれ、この年になっても知らないことばかりで困ってしまいますな」
「貴方の目的はなんですか?」
「……目的。その質問も今の私には難しい。私が生きる目的、そんなものは既に消えてしまったのですよ。あの時、消えぬ炎が街を包んだ時にね」
再びの問いかけに初老の男は目を細め、眉尻を下げて少し悲しげな表情を浮かべる。
「貴方はこの街に暮らしていた人……ってことで、いいんですね?」
「……はい。その認識で問題ございません。私は確かにこの街で生まれ、育って参りました」
航大の問いかけを初老の男はすらすらと答えていく。
こうして話していると、普通に生者と話している感覚に近いものを覚えるのだが、どうしても航大たちは対峙する男が生者であるという確信を得ることが出来なかった。それは、おおよそ普通の人間が持ち得ぬ『紅蓮の瞳』を、初老の男は持っているからだ。
航大たちを取り囲むようにしてぞろぞろと姿を見せるアンデット。かつて生者であった屍たちには共通しているものがあった。それが異様に赤く輝く紅蓮の瞳であり、目の前の男もまた同じものを持っているのだ。
「まぁ、今では街もこんな有様です。死者だけが存在を許された、地獄のような街。きっと、私は誰かに殺されるその時まで……この街に縛り付けられるのでしょうね」
「ということは、やはり貴方も……」
ようやく、航大たちが知りたかった事実が初老の男の口から語られようとしている。
彼が言葉を発する度に、航大たち一行の警戒度は高まっていくばかりであり、力が込められた両足はいつでも跳躍できる準備を整えている。
「そういうことです。無力な私は業炎に包まれ命を落としました。しかし、こうして街の人々と同じように望まぬ時間を与えられているのです」
「…………」
「さて、ここまでお話をしたのであれば、私が求めているものが分かりますね?」
語り終えた初老の男はそんな声音を漏らすと、ゆっくりと目を開き紅蓮に輝く瞳で航大たちを睨みつける。その瞳に込められているのは明確なる殺意と敵意であり、それを全身に浴びせられる航大たちはそれぞれが臨戦態勢を整えていく。
「しかし、五対一という戦いは些か分が悪いですね。こちらも一人、呼ばせて貰いましょうか」
「……呼ぶ?」
いつ戦いが始まってもおかしくはない。
そんな中で初老の男はニヤリとその唇を歪ませると、視線を僅かに反らす。
「…………」
すると、新たに姿を現す存在があった。
「ご紹介しましょう。私の孫にして、この街を統べる者でしたオリバーです」
「…………」
音もなく姿を現したのは焦げ茶色の短髪を綺麗に七三分けにした青年だった。見るからに真面目そうな青年もまた、その手には刃が握られており、また瞳は紅蓮に燃えている。
「自慢の孫でしてね、剣術の腕前にもそこそこの自身を持っています」
「……戦うのか?」
「もちろんでございます。生者を見ると放っておけないのが、今の私たちでございますから」
ペロリと唇を舐め、初老の男が一步を踏み出す。
「私の名前はクロウ。以後、お見知りおきを……」
戦いは避けられない。
先ほどの跳躍を見て、初老の男であるクロウから逃げることはほぼ不可能。
「やるしかねぇよ、航大。二手に分かれよう」
「分かった。俺がクロウさんと戦う」
航大の隣までやってきたライガは既に戦うための準備を整えていた。その視線は前方のクロウたちに固定しながら、どのように分かれて戦うかを航大に問いかける。
「……それなら、私は航大と戦う」
「ユイ、いけるか……?」
「……私はずっと航大と戦っていたい。貴方が戦うなら、私はその隣に居たいから」
航大の隣に立つのは表情を険しくした白髪の少女・ユイだった。
「ここは俺とユイに任せてくれ」
「いけるな?」
「当たり前だろ。そっちだって、人数が多い分有利なんだから、間違っても負けるんじゃねぇぞ」
ライガと拳を突き合わせ、それを合図にそれぞれが飛び散っていく。
「航大ッ、後で絶対に合流だからねッ!」
「……主様ッ!」
シルヴィアとリエルもまた航大の判断に従う形で、ライガを追って飛び出そうとする。その間際、心配そうな表情を彼に向けるのだが、航大の強い意志が込められた瞳を見て、それ以上はなにも言うことはなかった。
「オリバー、あちらのお客様のお相手を務めてあげなさい」
「…………」
クロウが指差すのは、ライガたちが跳躍していった方向であり、その指示に従う形でオリバーは言葉を発することなく飛び出していく。
「さぁ、始めましょうか。今宵の月はまだ明るい」
「……ユイ、英霊の力は使えるか?」
「いつでも大丈夫」
対峙するのは死する街で姿を変えられし異形の者。
紅蓮の瞳を持つ初老の男は、その皺が目立つ顔に笑みを浮かべ、血を求めて闇夜を駆ける。その手に持つのは月明かりを受けて鈍色に輝く片刃の剣であり、形は航大の世界では有名な『刀』に似ているものであった。
「私は血に飢えている。すぐに死んではくれるなよ?」
満月を背にして高く飛び上がったクロウは、これ以上にない笑みを浮かべて突き進んでくる。
「いくぞッ、ユイッ!」
「……うん。英霊よ、私に力をッ!」
胸の前で手を合わせたユイは、自らの中に存在する英霊・ブリュンヒルデの力を呼び起こそうとする。彼女の祈りに導かれるようにして、身体の奥深くから湧き上がってくる『力』があった。
「アスカッ、俺に力を貸してくれ。英霊憑依・氷神ッ!」
航大もまた戦うための力を呼び起こす。
かつて世界を魔竜の脅威から救った女神の力。
氷を支配する北方の大地の守護者。
氷獄の女神・シュナが持つ力を、航大はその身に纏っていく。瑠璃色の髪に青を基調としたローブマント、そして右手には氷の結晶が瞬く巨大な杖が握られている。
「ほう、そんな力を隠し持っていたのですね?」
「主よ、先に行くぞッ!」
「え、おいッ……いきなり飛び出すなってッ!」
英霊の力を取り込んだブリュンヒルデが地面を蹴って跳躍を開始する。
慎重に相手の出方を伺う戦いを想定していた航大だったが、英霊が取った行動によって瞬時に作戦を切り替えざるを得ない状況に追いやられてしまった。
「まずは貴方が私の相手をしてくれるのですかな?」
「私はワルキューレ・ブリュンヒルデ。その魂、貰い受けるッ!」
こちらへ直進するクロウに対して、ブリュンヒルデは一切臆する様子を見せることなく、真正面からの衝突へ向けて飛び続ける。白髪をポニーテールにした少女の手には白銀に輝く槍が握られている。それを武器に彼女は、紅蓮の瞳を瞬かせる初老の男を貫こうとする。
「高貴なる皇光の槍よ、悪を滅し、世界に光を灯せ――偉大なる聖光の槍ッ!」
闇夜を照らす聖なる光。
眩い光を帯びるのは少女が持つ白銀の槍である。
「――――ッ!」
数多の悪を貫く光の槍の前には、どんな悪も存在を許されることはない。
どんな過去が存在しようと、英霊が悪であると断定したのならば、白銀の槍で貫けないはずがない。英霊が放つ白銀の槍は、眩い輝きと共に紅蓮の瞳を持つ初老の男・クロウの身体をいとも容易く貫いていった。
「んなッ!?」
「…………ッ!?」
ブリュンヒルデが放つ光の一閃には一切の手加減が存在してはいなかった。
確かに相手を滅ぼすために放った攻撃ではあったが、まさか一撃で決着が着くとは想像もしていなかった。肌を切り裂き、人間の体内に鈍い音と共に埋没していく白銀の槍。その切っ先はクロウの腹から背中にかけて貫通した。
「……ごふッ」
突如として体内に侵入を果たした鋭利な刃物の影響で、クロウは皺が目立つ顔を顰めてその口から鮮血を吐き出す。
ずぶり。ずぶり。
血肉を掻き分けて命の灯火を消す刃の音がブリュンヒルデの鼓膜を震わせる。
彼女の瞳もまた驚愕に見開かれており、あまりにも呆気ない最期の瞬間を信じられないといった様子で見ていることしかできない。
「そう。これでいいのです。私を前にして一切の手加減は不要」
唇の端を鮮血で汚しながら、紅蓮の瞳を持つクロウは穏やかな笑みを浮かべる。
自分を本気で殺そうとする相手が現れたことが、自分を殺せる可能性を持つ存在が現れたことが、今の彼にとっては何よりも喜ばしい事実なのである。
「――しかし、まだ足りない」
冷え切った声音がブリュンヒルデと航大の鼓膜を震わせた。
その声は鼓膜を伝って航大たちの体内に侵入を果たすと、身体の内からゾッと心を震わせる。
月明かりを背に紅蓮の瞳を妖しく光らせるクロウは、その唇を歪ませると更なる戦いを求める。
「私を本当の意味で終わらせるには、まだ足りないのだよ」
声質が変わった。
「――くッ!」
最も近くでクロウと対峙していたブリュンヒルデは、全身を震わせる声音に思わず槍を引き抜くと一旦距離を取ろうとする。乱暴に身体から槍を引き抜かれ、クロウの身体からは再び鮮血が溢れ出るのだが、体内から流出する血液を見ても、クロウの表情は嬉しげに笑っているばかりである。
「さぁさぁ、今宵の戦いは始まったばかり。今度はこちらから行かせてもらおう」
ブリュンヒルデと共に地面に着地すると、皺が目立つ顔をくしゃくしゃに歪ませてクロウが飛ぶ。
死する街で勃発する戦い。
それは壮絶なる形でスタートするのであった。
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