終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第三章21 悦楽の時

「――そ、そんな……どう、して……?」

 大陸全土を覆うアステナ大森林の中にひっそりと佇む洋館。そこに隠された地下室にて、航大は屋敷の主であり治癒術師として名を馳せるプリシラ・ネポルと邂逅を果たす。

 地下室へとやってきた航大を前にして、険しい表情を浮かべていた彼女は今、腹部を貫かれた末に絶命していた。夥しい量の鮮血が床を汚し、狭い地下室は血生臭い匂いで包まれている。

「俺が……やったのか……?」

 航大の身体にもたれかかっていたプリシラは、立っている状態を維持することができず、力ない様子で鮮血の上に倒れ伏した。

 プリシラが倒れゆく瞬間を、航大は呆然と見送ることしかできない。

 立ち尽くす航大の右手は真紅に染まっていた。それは眼前で倒れ伏す少女の鮮血であり、右手にはまだ身体を貫いた感覚と、体内で撹拌した臓物の柔らかくも弾力のある感覚が鮮明に残っていた。

「……どうして?」

 目の前の現実を受け入れることなど到底出来ず、航大は静寂の中で一人身体を震わせていた。憎しみの感情に支配された航大は自我を失った結果、少女を一人殺してしまった。

 異世界にやってきた今までも、人が目の前で命を散らす光景を何度か垣間見てきた。それは航大が直接手を下した結果によるものではなかった。

 しかし今回は違う。

 怒りや憎しみの感情に突き動かされた末に、航大は自らの手で人間を殺してしまったのだ。逃れようのない事実を前に航大は地下室で一人立ち尽くすことしかできないのだ。

『――よくやった』

「だ、誰だッ!」

 脳裏に響く声。

 地下室の惨状を見ても尚、その声は悦楽に染まっていて航大は脳裏に響く声を誰よりもよく知っていた。

『――誰ってことはないだろう。私とお前は一度邂逅を果たしている』

「――ッ!?」

 どこか楽しげな声を発する存在。それは夢の中で航大と邂逅を果たした『魔竜・ギヌス』のもので間違いなかった。どうして今、かつて世界を滅ぼした魔竜の声が聞こえるのか、航大は地下室中を見渡して異形の存在を探そうとする。

『――どこを探している?』

「――お前がッ、お前が俺の身体を乗っ取ったんだろうッ!」

『……乗っ取った? おかしなことを言うな。思い出してみろ、ついさっきのことだ』

「…………」

『――そこの忌々しい存在を滅したのは、貴様のその手だ。私は少し手を貸しただけに過ぎない』

 航大は自分の右手を見る。

 そこには乾き始めた鮮血がべっとりとこびり付いており、それを見る度に航大は自分が少女を殺したのだと嫌でも痛感することとなる。

『――貴様は力を手にした。それは禍々しい魔竜の力だ』

「……これが、魔竜の力?」

 曖昧な記憶の中、航大は自分の身体を支配した異形の力を思い出していた。

『――さぁ、その扉を開き私と同一の存在となるのだ。そうすれば、貴様は魔竜の力を得ることができる。その力を持ってすれば、あらゆる脅威から守りたいものを守れるだろう』

「……守りたいものを守る?」

『――そう。魔竜の力は世界を破滅させる力。無力だと嘆く貴様にとって、喉から手が出るほど欲しい力ではないか?』

「…………」

 脳裏に響く声は時間が経つごとに鮮明になっていく。
 それと同時に、航大は自分の深層に眠る『力』が悦楽の声を上げているのを感じる。
 深層世界に存在するもう一人の自分が、魔竜の力を欲しているのだ。

「…………」

 誰もいない。絶対の静寂が包む地下室で、航大は一歩を踏み出す。

 靴の裏で鮮血を踏む。力なく倒れる少女の身体を踏み越えていく。隠された地下室に唯一存在する扉。その奥に何が存在しているのか、待っているのかを航大は知らない。

 しかし、今の航大にはそんなことはどうでもよかった。

 扉の向こうには力がある。その力があれば、航大はあらゆるものを守ることができるのだ。もう目の前で大切なものを失わずに済む。

「……その、先は…………ダメ、で、す……」

「――ッ!?」

 魔竜の言葉に導かれるようにして扉へと近づく航大の背後から、震える声が聞こえてくる。地下室に存在しているのは、航大と屋敷の主・プリシラだけである。

「まさか、生きてるのか……?」

「はぁ、はあぁ……さ、さすがにッ……うぐッ……急だったので、致命傷は避けられませんでしたけどね……」

 声に振り返れば、そこには腹部から夥しい量の血液を噴出させるプリシラ・ネポルの姿があった。彼女は自我を失った航大によって、腹部を貫かれていたはずだった。地下室の床にはまだ血液が残っていて、彼女の腹部に空いた穴だって健在である。

「そんな馬鹿なッ……生きていられるはずがないッ!」

「あ、あはは……普通なら、そう、ですね…………でも、私はこう見えても……アステナ王国の……筆頭治癒術師……」

 ふらふらと立ち上がるプリシラは、力ない笑みを浮かべて立ち上がると吐血を繰り返しながら航大に言葉を投げかける。

 航大が貫いた腹部には淡い光が浮かんでいて、傷を癒そうとしているのが分かる。

『……ふん、目障りなネポルの末裔よ』

「うぐッ……あ、頭がッ……」

『――さぁ、魔竜の力を欲する者よ。あの邪魔者を今度こそ殺せ』

 苛立ちが込められた声が脳裏に響き、航大の右手に変化が現れる。魔竜の力を具現化したかのような漆黒の炎が手を包み込んでいて、航大は再び自分の身体を負の感情が支配していくのを感じていた。

「……まさ、か……貴方の中に、そんな力が……あったなんて……」

 魔竜の力に苦しむ航大を見て、その力を見抜けなかった自分に怒りを感じているのかプリシラは唇を強く噛み締めていた。

「逃、げろッ……このまま、じゃッ……またッ……俺はッ……」

「そう、ですね……逃げた方がッ……いい、かも……なんでしょうけど……」

「――ッ!?」

「……私はプリシラ・ネポル。遥か昔から、アステナ王国を……コハナ大陸をッ……こほっ、ごほっ……守護してきた、一族の末裔……」

「な、なにをッ……!?」

 プリシラは苦しげに言葉を紡ぎながら、一歩、また一歩と航大に近づいてくる。プリシラの力を持ってしても治癒することは出来ず、今は尽きようとしている寿命を長引かせているに過ぎない。

「……その扉を、開けてはならない……それは、命を賭けてでも……阻止しなくてはならない、のです……」

「――ッ!?」

 プリシラが航大の身体に抱きついてくる。それと同時に、航大は腹部に強い衝撃を感じていた。込み上げてくる嘔吐感、そして腹部に感じる強い痛み。それらが全身を襲ってきた瞬間、航大はプリシラに同じ手で殺されようとしているのだと理解した。

「はぁ、はぁ……名前も知らない人――私と一緒に、死んでください」

 その言葉と共に航大とプリシラの身体が冷たい地下室の床に倒れていく。

 身体が言うことを聞かない。生命を維持するために大切な物が抜け落ち、航大は自分がまもなく死ぬことを理解した。

「…………」

 薄れ行く意識の中、航大は眼前で共に倒れるプリシラの顔を見ていた。

 今度こそ、間違いなく彼女は死んでいる。最後の力を振り絞り、航大に致命傷を負わせたのだ。

 完全に光を失ったプリシラの顔を見ながら、航大の意識は深い闇の底へと落ちていくのであった。

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