終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第二章41 邂逅。悦楽の世界
「どこだ、ここ……?」
航大が瞼を開くとそこは不思議な世界だった。
足元に広がるのはどこまでも続く青空。白い雲が点々と存在しており、風も吹かない世界であるのに、白い雲は遙か先を目指してゆっくりと進んでいる。
「どうなってんだ、これ……?」
訳の分からない場所に自分はいる。
まず、それを理解する航大。
意識を失う前、航大は確かに氷都市・ミノルアに居たはずだった。帝国ガリア騎士たちの権能によって『死の街』と化し、絶望が包む世界の中でユイという名前の少女と共に居たはずだった。
そこでグリモワールによる権能を使った代償によって意識を失い……そして、航大はこの世界へとやってきていた。
「本当に不思議な世界ですよね」
「――えっ?」
「こんな世界、私は見たことがありません。一体、貴方は何者なのでしょうか?」
その声は突如、航大の背後より発生した。
優しく、全てを包み込む慈愛に満ちた少女の声。
航大はその声を知っている。
ずっと脳裏に響いていたその声を、航大は誰よりもよく知っていた。
「……君は?」
「まさか、こんなに早くお会いできるとは思っていませんでした」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、そこには一人の少女が航大と同じように、青空へと足をしっかりと付けて存在していた。
透き通る海のように美しい水色の髪を腰まで伸ばし、簡素な純白のワンピースに身を包んだ少女は、慈愛に満ちた声のイメージそのままに、誰もを虜にする柔らかな笑みを浮かべて航大を見つめていた。
「私は、永久凍土の守り神・シュナ。貴方が辿り着いた氷山の聖堂にて眠っていた女神です」
「……め、女神?」
「ここは貴方の世界。神谷航大という人間だけが持ち得る、深層の世界です」
「……どうしてそんなところに、君が?」
「貴方の中に居場所を求め、眠りに付いたことで、私はこの場所に辿り着きました」
リエルも言っていた。
航大の中に女神が眠っていると。
思わず息を呑んでしまう美貌を持つ少女が自分の中にいる。その事実を、今この瞬間に航大は確かな実感と共に確信した。
「帝国の者によって、私が眠っていた北方の氷山は崩壊しました。それと共に私の肉体も消失しました」
「……やっぱり、あの水晶に眠っていたのは君?」
「……はい。あれは私が現世にて生きていくために使っていた身体です。しかし、今はもう絶えぬ炎の中に消えてしまいましたが」
「……そうだったのか。すまない、守れなくて」
「いいえ、あの子の力を持ってしても倒せなかった。それが確定した瞬間に私たちの敗北は確定していたようなものですから」
「……あの子?」
「ふふ、私の可愛い妹。リエルのことですよ」
少女は愛する妹の姿を思い返しているのか、その表情に浮かべる笑みを強くすると、口元に手を当てて小さく息を吐き出した。北方の地を守護する女神・シュナが見せる一挙手一投足に目を奪われ、航大は言葉を詰まらせてしまう。
「……あの子は元気にしていますか?」
「あ、あぁ……多分、元気だと思う」
「……そうですか。それならよかった」
少し遠い目をして、女神シュナは遙か先に広がる青空に視線を向ける。
その瞳の先で愛する妹の姿を浮かべているのか、シュナが浮かべる表情はどこか嬉しくもあり、どこか悲しげでもあった。
「私が貴方の世界に居続ける限り、あの子は力を貸してくれるでしょう。まだまだ子供ではありますが、面倒を見てやってください」
「いや、子供って……」
「ふふっ……私から見ればあの子はまだまだ子供ですよ」
そう言ってシュナはくすくすと表情を歪ませて笑った。
「まぁ、リエルのことは置いて……どうして俺はここにいる?」
「どうしてここに居る……貴方は面白いことを言いますね?」
「…………」
「さっきも言ったように、ここは神谷航大――貴方の内に存在する深層世界。この世界の王は神谷航大であり、自分の世界にどうして居るのか、そんなことは全て貴方自身が決めることではないですか」
「俺が自分で決めた……?」
「そう。この世界に存在する全ての物は、王である神谷航大が作り、定めたのです。それならば、ここにやってくるのもまた、貴方の意思なのですよ」
「なんだよ、それ……」
「上を見上げてごらんなさい」
「――ッ!?」
シュナの言葉に航大は頭上を見上げる。
すると、そこには『空』が存在しているのではなく、どこか見慣れた住宅街が広がる『街』が存在していた。
――上下が反転した世界。
航大が作り出した世界を一言で表すならそうなる。
しかも、頭上に広がっているのは異世界で見た街並みではない。それは紛れもなく航大が異世界にやってくる前に生活していた『神楽坂町』の街並みであった。
「――神谷航大。貴方は本当に不思議な人ですね」
「――えっ?」
その声がとても近くで聞こえてきて、航大は頭上を見ていた視線を声がする方へと戻す。
すると、すこし離れた場所に立っていた女神シュナの顔が視界いっぱいに広がっており、彼女が足音も気配もなく零距離の接近を果たしていたのだと瞬時に理解した。
「うわわッ!?」
「どうして逃げるのです? もっと貴方の顔を見せてください」
「い、いやッ……近いからッ!」
「ふふ、これくらいで照れるなんて照れ屋さんですね?」
お互いの吐息を感じるような距離に少女がいる。
異性との会話経験が乏しい航大は、ただ少女が近づいて来たというだけで激しく取り乱してしまう。
「私、とても興味深いんです。神谷航大という存在が」
「な、なんで近づいてくるんだよッ……」
「どうしてこんな世界が存在するのです? ここはどこ? 貴方はどこからやってきたのです?」
その瞳を好奇心で爛々と輝かせ、シュナは矢継ぎ早に言葉を紡ぐと、後ずさる航大を追いかけるようにして近づいてくる。
「あの大聖堂で貴方が行使した力。あれは私の力です」
「そ、そうなのか……」
「貴方が望むのであれば、私はいつでも力を貸しましょう。その見返りとして、私に貴方という存在を教えてください。頭上に広がるこの世界について、聞かせて下さい」
「ちょッ、ちょちょちょっと落ち着いてッ!」
興奮気味に言葉を発しては接近しようとする女神シュナを何とか落ち着けようとする航大。
「むぅ……どうして逃げるのです? 私はただ知りたいだけなのにッ……」
逃げる航大を見て、シュナは頬を膨らませると子供のように拗ねた様子を見せてくる。
彼女は航大よりもいくつか年上といった印象を持たせる外見と話し方をしていたのだが、案外子供っぽい部分があるのだと航大は理解した。
そのギャップは可愛らしく、少し胸が高鳴るのを感じる航大だが、彼女が女神であることを思い出し、自分とは相容れない存在であるのだと再認識する。
「とにかく、ここが俺の世界だってことは分かったッ! なら、どうして俺は自分の世界とかいう場所に居るんだ?」
「――貴方は呼ばれたからやってきたのです。ちなみに、貴方を呼んだのは私ではありません」
「……じゃあ、誰だよ?」
「――気付きませんか? 貴方を呼んだ張本人が、ずっと後ろに居るのを」
「……後ろ?」
シュナはその顔に微笑を浮かべたまま、航大の背後を指差す。
彼女の白い指が指す先。そこを見るようにして航大はゆっくりと振り返っていく。
「――よぉ、やっと俺に気付いたか」
「なッ!?」
「なんでそんなに驚くんだよ? 俺はお前で、お前は俺だ。自分の姿を見て驚くなんておかしいとは思わないか?」
そこには影が存在していた。
確かに航大と同じ背格好をしている。
その顔も衣服も手足も……全てが漆黒の影に覆われていた。
しかし、航大はその影を見た瞬間に『それ』が自分自身であることを理解した。
「会いたかったぜ、俺」
「…………」
「ずっと、ずっと俺はお前の中に居たんだ。お前をずっと見てたんだぜ?」
「…………」
人間の形をした漆黒の影が言葉を紡ぐ。少々、言葉使いに違いはあるが、それは航大自身の声であることは間違いなかった。
「それは貴方が持つ『負』の力。『――のグリモワール』によって作られし存在」
「なんのグリモワールだって?」
背後から聞こえてきたシュナの言葉が鼓膜を震わせる。
しかしその言葉の一部が不自然な形で聞き取れないことに違和感を感じる。
「……まだ名前を知らないのですね。今はまだその時ではないということですか」
「へッ……自分が持つ力の名前も分かってねぇのか」
「……力の名前?」
「お前が持つ、あの本のことだよ。アレはいい物だぜ?」
航大の脳裏に漆黒の装丁をしたグリモワールが浮かぶ。
あの本に異形の力が存在していることを、航大はよく知っていた。
「あの本はお前に力をくれる。目の前の困難を打ち砕く力もあれば、世界をぶっ壊す力だって持っている」
「……世界をぶっ壊す?」
「そうだ。お前が使い方を間違えれば、世界なんてあっという間に崩壊しちまうような代物さ」
「…………」
「しかし、この世界で生きていくのならば、あの本に頼るしかないんだ。大切な物を守りたいならな」
与えられる情報の多さに頭がパンクしかける。
しかし、そんな航大の様子を気にかけることなく『影』は言葉を発し続ける。
「だからピンチになったら使うといい。そうすることで、俺はもっと力を得ることができる。そしていつか、俺と一緒に世界をぶっ壊そうぜ?」
「俺が……?」
「クックック……お前が無力である限り、俺は強くなる。そこの女もいつか取り込んでやるよ」
「ふふっ……そんなことはさせませんよ?」
影が放つ言葉に、女神シュナは微笑を持って答える。
禍々しき存在を前にしても、彼女は微笑みを浮かべるのをやめない。
「ちッ……つまんねぇ奴だぜ」
「ふふふっ……」
「もう、何がなんだか……」
意味の分からない世界に召喚され、そこで少女と出会い、そしてもう一人の自分と出会う。
普通の学生生活を送っていた航大は、次々にやってくる非現実的な光景に混乱を隠せない。
「まぁ、今は何も知らなくていい。時がくれば、嫌でも思い知ることになるだろうしな」
「…………」
「――そろそろ時間だ。もう戻れ」
「時間……?」
その言葉を合図に、航大は自分の身体が得体の知れない浮遊感に包まれるのを感じた。
急速に意識が遠のいていく感覚が襲ってきて、瞼を開くのもやっとだった。
「また会いましょう、航大」
「またな、俺」
笑みを浮かべ、別れの言葉を発する二人に声を返すこともできない。
抗いようのない倦怠感の中、航大の意識は深い闇の底へと落ちていく。
より明確な形を持つようになった深層世界。
自分の中に存在するもう一つの世界を垣間見ながら、航大の意識は急速に覚醒していくのであった。
◆◆◆◆◆
「はぁ……行っちゃいました。もっとお話したかったのに」
「まぁ、いくらでもチャンスはあるだろうさ」
姿を消した航大に思いを馳せつつ、深層世界に残る二つの影がそれぞれ言葉を発する。
「――それじゃ、さっきの続きを始めるとするか?」
「――そうですね」
王が消えても尚、存在し続ける世界の中で二人は向かい合い、不敵な笑みを浮かべる。
「世界の崩壊を止めるのが、私の役目」
「世界を滅ぼすのが、俺の役目」
静かに言葉を交わし合うシュナと影。そこには何の感情も篭められてはいない。
「私は何度でも貴方を殺しましょう」
「俺は何でも蘇る。そして、その度に強くなる」
「それでも、貴方をこのまま放置する訳にはいきません――さぁ、死になさい」
「――いくぜぇッ!」
少年の深層世界でぶつかり合う二つの影。
永遠に続く終わりなき戦いの果てに待つものは何か。
その答えが出るのは――まだ先の話。
航大が瞼を開くとそこは不思議な世界だった。
足元に広がるのはどこまでも続く青空。白い雲が点々と存在しており、風も吹かない世界であるのに、白い雲は遙か先を目指してゆっくりと進んでいる。
「どうなってんだ、これ……?」
訳の分からない場所に自分はいる。
まず、それを理解する航大。
意識を失う前、航大は確かに氷都市・ミノルアに居たはずだった。帝国ガリア騎士たちの権能によって『死の街』と化し、絶望が包む世界の中でユイという名前の少女と共に居たはずだった。
そこでグリモワールによる権能を使った代償によって意識を失い……そして、航大はこの世界へとやってきていた。
「本当に不思議な世界ですよね」
「――えっ?」
「こんな世界、私は見たことがありません。一体、貴方は何者なのでしょうか?」
その声は突如、航大の背後より発生した。
優しく、全てを包み込む慈愛に満ちた少女の声。
航大はその声を知っている。
ずっと脳裏に響いていたその声を、航大は誰よりもよく知っていた。
「……君は?」
「まさか、こんなに早くお会いできるとは思っていませんでした」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、そこには一人の少女が航大と同じように、青空へと足をしっかりと付けて存在していた。
透き通る海のように美しい水色の髪を腰まで伸ばし、簡素な純白のワンピースに身を包んだ少女は、慈愛に満ちた声のイメージそのままに、誰もを虜にする柔らかな笑みを浮かべて航大を見つめていた。
「私は、永久凍土の守り神・シュナ。貴方が辿り着いた氷山の聖堂にて眠っていた女神です」
「……め、女神?」
「ここは貴方の世界。神谷航大という人間だけが持ち得る、深層の世界です」
「……どうしてそんなところに、君が?」
「貴方の中に居場所を求め、眠りに付いたことで、私はこの場所に辿り着きました」
リエルも言っていた。
航大の中に女神が眠っていると。
思わず息を呑んでしまう美貌を持つ少女が自分の中にいる。その事実を、今この瞬間に航大は確かな実感と共に確信した。
「帝国の者によって、私が眠っていた北方の氷山は崩壊しました。それと共に私の肉体も消失しました」
「……やっぱり、あの水晶に眠っていたのは君?」
「……はい。あれは私が現世にて生きていくために使っていた身体です。しかし、今はもう絶えぬ炎の中に消えてしまいましたが」
「……そうだったのか。すまない、守れなくて」
「いいえ、あの子の力を持ってしても倒せなかった。それが確定した瞬間に私たちの敗北は確定していたようなものですから」
「……あの子?」
「ふふ、私の可愛い妹。リエルのことですよ」
少女は愛する妹の姿を思い返しているのか、その表情に浮かべる笑みを強くすると、口元に手を当てて小さく息を吐き出した。北方の地を守護する女神・シュナが見せる一挙手一投足に目を奪われ、航大は言葉を詰まらせてしまう。
「……あの子は元気にしていますか?」
「あ、あぁ……多分、元気だと思う」
「……そうですか。それならよかった」
少し遠い目をして、女神シュナは遙か先に広がる青空に視線を向ける。
その瞳の先で愛する妹の姿を浮かべているのか、シュナが浮かべる表情はどこか嬉しくもあり、どこか悲しげでもあった。
「私が貴方の世界に居続ける限り、あの子は力を貸してくれるでしょう。まだまだ子供ではありますが、面倒を見てやってください」
「いや、子供って……」
「ふふっ……私から見ればあの子はまだまだ子供ですよ」
そう言ってシュナはくすくすと表情を歪ませて笑った。
「まぁ、リエルのことは置いて……どうして俺はここにいる?」
「どうしてここに居る……貴方は面白いことを言いますね?」
「…………」
「さっきも言ったように、ここは神谷航大――貴方の内に存在する深層世界。この世界の王は神谷航大であり、自分の世界にどうして居るのか、そんなことは全て貴方自身が決めることではないですか」
「俺が自分で決めた……?」
「そう。この世界に存在する全ての物は、王である神谷航大が作り、定めたのです。それならば、ここにやってくるのもまた、貴方の意思なのですよ」
「なんだよ、それ……」
「上を見上げてごらんなさい」
「――ッ!?」
シュナの言葉に航大は頭上を見上げる。
すると、そこには『空』が存在しているのではなく、どこか見慣れた住宅街が広がる『街』が存在していた。
――上下が反転した世界。
航大が作り出した世界を一言で表すならそうなる。
しかも、頭上に広がっているのは異世界で見た街並みではない。それは紛れもなく航大が異世界にやってくる前に生活していた『神楽坂町』の街並みであった。
「――神谷航大。貴方は本当に不思議な人ですね」
「――えっ?」
その声がとても近くで聞こえてきて、航大は頭上を見ていた視線を声がする方へと戻す。
すると、すこし離れた場所に立っていた女神シュナの顔が視界いっぱいに広がっており、彼女が足音も気配もなく零距離の接近を果たしていたのだと瞬時に理解した。
「うわわッ!?」
「どうして逃げるのです? もっと貴方の顔を見せてください」
「い、いやッ……近いからッ!」
「ふふ、これくらいで照れるなんて照れ屋さんですね?」
お互いの吐息を感じるような距離に少女がいる。
異性との会話経験が乏しい航大は、ただ少女が近づいて来たというだけで激しく取り乱してしまう。
「私、とても興味深いんです。神谷航大という存在が」
「な、なんで近づいてくるんだよッ……」
「どうしてこんな世界が存在するのです? ここはどこ? 貴方はどこからやってきたのです?」
その瞳を好奇心で爛々と輝かせ、シュナは矢継ぎ早に言葉を紡ぐと、後ずさる航大を追いかけるようにして近づいてくる。
「あの大聖堂で貴方が行使した力。あれは私の力です」
「そ、そうなのか……」
「貴方が望むのであれば、私はいつでも力を貸しましょう。その見返りとして、私に貴方という存在を教えてください。頭上に広がるこの世界について、聞かせて下さい」
「ちょッ、ちょちょちょっと落ち着いてッ!」
興奮気味に言葉を発しては接近しようとする女神シュナを何とか落ち着けようとする航大。
「むぅ……どうして逃げるのです? 私はただ知りたいだけなのにッ……」
逃げる航大を見て、シュナは頬を膨らませると子供のように拗ねた様子を見せてくる。
彼女は航大よりもいくつか年上といった印象を持たせる外見と話し方をしていたのだが、案外子供っぽい部分があるのだと航大は理解した。
そのギャップは可愛らしく、少し胸が高鳴るのを感じる航大だが、彼女が女神であることを思い出し、自分とは相容れない存在であるのだと再認識する。
「とにかく、ここが俺の世界だってことは分かったッ! なら、どうして俺は自分の世界とかいう場所に居るんだ?」
「――貴方は呼ばれたからやってきたのです。ちなみに、貴方を呼んだのは私ではありません」
「……じゃあ、誰だよ?」
「――気付きませんか? 貴方を呼んだ張本人が、ずっと後ろに居るのを」
「……後ろ?」
シュナはその顔に微笑を浮かべたまま、航大の背後を指差す。
彼女の白い指が指す先。そこを見るようにして航大はゆっくりと振り返っていく。
「――よぉ、やっと俺に気付いたか」
「なッ!?」
「なんでそんなに驚くんだよ? 俺はお前で、お前は俺だ。自分の姿を見て驚くなんておかしいとは思わないか?」
そこには影が存在していた。
確かに航大と同じ背格好をしている。
その顔も衣服も手足も……全てが漆黒の影に覆われていた。
しかし、航大はその影を見た瞬間に『それ』が自分自身であることを理解した。
「会いたかったぜ、俺」
「…………」
「ずっと、ずっと俺はお前の中に居たんだ。お前をずっと見てたんだぜ?」
「…………」
人間の形をした漆黒の影が言葉を紡ぐ。少々、言葉使いに違いはあるが、それは航大自身の声であることは間違いなかった。
「それは貴方が持つ『負』の力。『――のグリモワール』によって作られし存在」
「なんのグリモワールだって?」
背後から聞こえてきたシュナの言葉が鼓膜を震わせる。
しかしその言葉の一部が不自然な形で聞き取れないことに違和感を感じる。
「……まだ名前を知らないのですね。今はまだその時ではないということですか」
「へッ……自分が持つ力の名前も分かってねぇのか」
「……力の名前?」
「お前が持つ、あの本のことだよ。アレはいい物だぜ?」
航大の脳裏に漆黒の装丁をしたグリモワールが浮かぶ。
あの本に異形の力が存在していることを、航大はよく知っていた。
「あの本はお前に力をくれる。目の前の困難を打ち砕く力もあれば、世界をぶっ壊す力だって持っている」
「……世界をぶっ壊す?」
「そうだ。お前が使い方を間違えれば、世界なんてあっという間に崩壊しちまうような代物さ」
「…………」
「しかし、この世界で生きていくのならば、あの本に頼るしかないんだ。大切な物を守りたいならな」
与えられる情報の多さに頭がパンクしかける。
しかし、そんな航大の様子を気にかけることなく『影』は言葉を発し続ける。
「だからピンチになったら使うといい。そうすることで、俺はもっと力を得ることができる。そしていつか、俺と一緒に世界をぶっ壊そうぜ?」
「俺が……?」
「クックック……お前が無力である限り、俺は強くなる。そこの女もいつか取り込んでやるよ」
「ふふっ……そんなことはさせませんよ?」
影が放つ言葉に、女神シュナは微笑を持って答える。
禍々しき存在を前にしても、彼女は微笑みを浮かべるのをやめない。
「ちッ……つまんねぇ奴だぜ」
「ふふふっ……」
「もう、何がなんだか……」
意味の分からない世界に召喚され、そこで少女と出会い、そしてもう一人の自分と出会う。
普通の学生生活を送っていた航大は、次々にやってくる非現実的な光景に混乱を隠せない。
「まぁ、今は何も知らなくていい。時がくれば、嫌でも思い知ることになるだろうしな」
「…………」
「――そろそろ時間だ。もう戻れ」
「時間……?」
その言葉を合図に、航大は自分の身体が得体の知れない浮遊感に包まれるのを感じた。
急速に意識が遠のいていく感覚が襲ってきて、瞼を開くのもやっとだった。
「また会いましょう、航大」
「またな、俺」
笑みを浮かべ、別れの言葉を発する二人に声を返すこともできない。
抗いようのない倦怠感の中、航大の意識は深い闇の底へと落ちていく。
より明確な形を持つようになった深層世界。
自分の中に存在するもう一つの世界を垣間見ながら、航大の意識は急速に覚醒していくのであった。
◆◆◆◆◆
「はぁ……行っちゃいました。もっとお話したかったのに」
「まぁ、いくらでもチャンスはあるだろうさ」
姿を消した航大に思いを馳せつつ、深層世界に残る二つの影がそれぞれ言葉を発する。
「――それじゃ、さっきの続きを始めるとするか?」
「――そうですね」
王が消えても尚、存在し続ける世界の中で二人は向かい合い、不敵な笑みを浮かべる。
「世界の崩壊を止めるのが、私の役目」
「世界を滅ぼすのが、俺の役目」
静かに言葉を交わし合うシュナと影。そこには何の感情も篭められてはいない。
「私は何度でも貴方を殺しましょう」
「俺は何でも蘇る。そして、その度に強くなる」
「それでも、貴方をこのまま放置する訳にはいきません――さぁ、死になさい」
「――いくぜぇッ!」
少年の深層世界でぶつかり合う二つの影。
永遠に続く終わりなき戦いの果てに待つものは何か。
その答えが出るのは――まだ先の話。
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