終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第一章10 誘拐された王女


 夕闇迫る街の中を、航大は一人で走っていた。

 一番街と二番街の中間に設けられた小高い丘の上、そこで事件は起きた。平和な街だと油断していた。ここは航大が生活をしていた現実世界の日本とは違う。平和に見えた街の中であったとしても、王族である王女の命を狙う輩が居ないとは限らない。それを失念していた。

「クソッ……軽率だった……」

 航大とシャーリーが城を出た時から後をつけていたのか、それとも一番街で歩き回っている途中で彼女を見つけたのか……どちらにせよ、誘拐の危険を一ミリも警戒せず、人気の少ないところへシャーリーを連れてきてしまった。

 街中を走り回りながら、航大は自分の無警戒な行動を恨む。

 一番街まで戻ってきたものの、シャーリーの姿はもちろんない。ここまで走りっぱなしだったせいもあり、足は重く、心臓は痛いくらいに早く鼓動を刻んでいる。時間は刻一刻と過ぎていき、既に城へ戻る予定の時間は過ぎてしまっている。

 これ以上、シャーリーの帰りが遅くなれば、さすがに城でも王女が行方不明になったと騒ぎになってしまう。そうなったら、シャーリーはもちろん、王女を連れ出して誘拐されたとして、航大に対する風当たりは間違いなく強くなる。むしろ、王女を連れ出したとして、重罪を科されるだろう。

「はぁ、はぁっ……ダメだ……どこにも居ない……」

 絶望的である。

 どれだけ探し回ったとしても、こんなに広い城下町で人を見つけることが難しいのは言うまでもない。

 ましてや、現実世界のように携帯電話が存在するわけでもない、異世界では自分の足で見つけ出すしか方法はない。時は一刻を争う。一番街から四番街まで全てを走り回っている時間なんか残されていない。

「……可能性が高いとすれば……四番街か……」

 四番街については、シルヴィアに簡単に説明されただけで、その場所がどういった所なのかを知らない。しかし、四番街は貧民街と呼ばれているらしく、シャーリーを狙う輩がいるとしたら、最も可能性が高いのかもしれない。

「……急がなきゃ」

 航大は自分の足に気合を入れ、再び走り出そうとする。
 そんな航大の背後から聞き慣れた声が聞こえてくる。

「……航大、見つけた」

「えっ? なんでユイが……?」

 自分の名前を呼ばれ、今すぐにでも走り出そうとしていた航大は、自分を呼び止める声に苛立たしさを感じながらも振り返る。
 すると、そこにはこの場所に居るはずのない姿があって、航大は目を見開いて驚く。

「お、お前っ……なんで、こんな場所に!?」

「……ルズナさんが王女様を迎えに行ってきてくださいって」

「……ルズナさん、が?」

 王国メイド長であるルズナは、ユイとシャーリーが入れ替わっていたことに気がついていた。それがどこのタイミングなのか、もし最初からだとしたら、どうしてルズナさんはシャーリーが抜け出すことを止めなかったのか……考えることは山ほどある。

 しかし、今は立ち止まっている場合ではない。

「考えるのは後だ! ユイ、一緒に来てくれるか?」

「……うん。航大が困ってるなら、私はそれを助けたい」

 事情を詳しく聞く事もなく、ユイは航大の言葉に力強く頷いてくれる。今はそんな何気ないやり取りが航大にとっては有難かった。

 ユイとの話もそこそこに、航大は踵を返して再び走り出す。
 走り出した航大の後ろを、ユイも走って追いかけてくる。一人ではない、一緒に戦ってくれる存在が近くにいる。そのことが航大に心の安堵と難題に立ち向かう勇気をくれるのであった。

◆◆◆◆◆

 ユイと合流して、走り出してからしばらくの時間が経った。
 一番街を抜け、閑静な住宅街が広がっている二番街を走る。

「……航大、大丈夫?」

「ひぃ、はぁっ、ぜぇっ……大丈夫じゃないけど、大丈夫……」

「……私が背負って走る?」

「……それはなんか、情けなさすぎるし……てか、俺を背負って走れるのかよ」

「……多分、簡単。むしろ、そっちの方が早いかも」

「くっそっ……まだ、大丈夫ッ!」

 時間が経つごとに、航大の足は重くなっていく。
 ただでさえ、現実世界でも運動をしていた方じゃない航大は、こんなに長距離を全速力で走ったのが初めてだった。何度も何度も立ち止まりそうになる心と身体に鞭を打ち、航大は走り続ける。

「はぁ、はぁっ……あれが四番街……」

「……みたい。なんか、すごく暗い感じ」

 走り続けていると、薄っすらと前方に四番街が見えてきた。商店の明るさが眩しい一番街や、住宅街から漏れる暖かい光りに満ちている二番街とは全く違う雰囲気が眼前に広がっていた。
    夕闇が迫ろうとしている時刻だと言うのに、四番街には極端に明かりが少なかった。そこだけが、暗闇に包まれているような錯覚を覚えるほどに、四番街には明かりが少なく、ボロボロな木造住宅が多いことも相まって、その不気味さは益々強くなっていくばかりだ。

「あそこにシャーリーが……?」

「……航大、急いだほうが良いかも」

「あぁ、俺もそう思ってたとこだ……」

 あの場に一秒でも長くシャーリーを居させてはいけない。
 脳裏をよぎる最悪な結末を振り払い、航大とユイは表情に険しさを増して、走る速度をさらに早めていく。

◆◆◆◆◆

「ここが四番街……」

「……すごい負のオーラに満ちてる」

「なんで城下町にこんな場所が……いくらなんでも、こんなの……」

 どれくらい走っただろうか。あまりにも長い時間を走っていた気がするが、気付けば航大とユイは四番街と呼ばれる場所へと辿り着いていた。焦燥感に駆られるがままにやってきた場所は、航大たちが予想していたよりも悪い方向に驚きをもたらしていた。

 二番街と四番街の境界線には川が流れていた。川を渡ればそこはすぐに四番街となっていて、検問などは存在しなかったが、航大にとってこの場所は城下町の中でも隔離されているように感じられた。
四番街に足を踏み入れ、異様に静かな街の雰囲気に生唾を飲む。

「……あちこちから、視線を感じる」

「まじかよ、よそ者は入るなってことか……」

「……あっちからも、こっちからも……どの視線もすごい敵意に満ちてる」

「まぁ、歓迎はされないと思ってたけど……そんなにか……」

 ハイラント王国にこんな場所が広がっているなんて航大には想像できなかった。こうして歩を進めている間も、これが何かの悪い冗談であったら良いと考えているほどだ。

 少し前まで滞在していた一番街や二番街は活気と幸福に満ちていた。
 誰もが笑みを浮かべ、お酒を飲み、食べ物を食べる。そして仲の良い友人や知人と談笑する。そんな現実世界で航大も見たことがある普遍的な日常生活が広がっていた。
 しかし、そんな航大にとっての普通が、この場所には皆無だった。

 人が居ない。明かりがない。幸福感なぞ微塵も感じることができず、歩いているだけで区画全体を包み込む負のオーラに飲み込まれてしまいそうになる。

「これが貧民街。どうして国は、こんな場所を放置してるんだ」

 遠目に見えるハイラント城を見ながら、航大はそんなことを考える。

 シャーリーは四番街の現実を知らない。

 それは今回、城下町に出て彼女の反応を見れば分かる。一度も城の外に踏み出したことのない王女は、城下町に広がる闇についてあまりにも無知だった。

 それなら、こんな状況を生み出し、放置しているのは先代国王の時代から続いているのだろうか。いや、もしかしたらもっと前からなのかもしれない……。

 シャーリーは仕方ないとしても、先代国王は何故、こんな場所を放置していた?
 さすがにこの国の王族が一度も外に出ないなど、シャーリーを除いて有り得ない。

「はぁ……分からないことだらけだ」

「……航大、あまり長居はしないほうがいい」

「誰かが狙ってるのか?」

「……見えないところで影が動いてる。少しずつ、囲まれてる」

「まじかよ……」

「……シャーリーも心配。急ごう」

「急ぐったって……ここも相当広いぞ……」

「……本の力を使えばいい」

「本の力って……うわ、光ってる……いつの間に……」

 ユイの言葉に呼応するように、航大が持っている漆黒の装丁をした本……魔導書店でグリモワールと呼ばれた本がいつかの時のように強い輝きを放っていた。

「またアレが……」

「……そう、私に英霊の力を」

 森での光景が蘇る。

 光り輝く本を開いた時、全身に力が溢れ、気付けばユイは英霊の力をその身に憑依し魔獣と戦った。あの瞬間がまたやって来ようとしている。

「…………ッ」

 本を持つ指が震える。
 脳裏に最後の瞬間がよぎる。薄れる意識の中、ユイが魔獣に攻撃を受ける瞬間だ。
 あの光景は、航大の心に決して無視できない大きな衝撃を与えていた。

「……航大、大丈夫」

「ユイ……」

「……航大を守りたい。だから、私に力をちょうだい」

「分かったよ。ユイ、死ぬんじゃないぞ……」

「……私は死なない。貴方の剣となり、共に戦う」

 ユイの言葉が航大の背中を押す。正直に言えば、航大はまだ不安だった。彼女が戦うことになれば、怪我だって避けられない、最悪の場合はその命を散らしてしまうかもしれない。

 それもこれも、航大に戦う力がないからだ。

 ユイが覚悟を決めた表情でこちらを見るたびに、航大の心臓は痛いくらいに締め付けられる。

 異世界に来て、最も長い時間をユイと共に過ごしてきた。まだ出会って間もないのに、彼女はどこまでも献身的に航大を助けようとしてくれる。戦う力を持っていない航大は、この異世界で生きていくために、彼女の力を借り続けなければならない。

「……航大は無力なんかじゃない」

「…………」

「……私は、航大がいないと戦えない。私と航大は二人でやっと力になる。だから、自分だけ戦えないなんて言わないで。私だって貴方が居ないと戦えない」

「怪我、するかもしれないぞ……」

「……大丈夫」

「もしかしたら、死ぬかもしれないぞ」

「……絶対に死なない」

「はぁ……こりゃ、何言っても無駄だな」

 思わず笑みが漏れてしまう。
 彼女は航大がどんな弱音を吐いたとしても、それを全て受け入れ、劣等感の中に沈んでいこうとする身体を何度でも引き上げようとしてくるだろう。

    それは心に温もりを与える魔法の言葉。その言葉が聞けるのなら、航大はどんな困難にだって、立ち向かっていける……そんな気持ちが広がっていく。

「お話中、失礼するぜ」

 航大とユイが話をしていると、今まで無人だった街中のあちこちから、武装した集団が姿を現し始める。四番街の住民であることは一目で理解した。他の区画に住まう人間とは明らかに異質で悪に満ちた外見をしている。

 それぞれが何かしらの武器を所持していて、その狙いは航大とユイであることに間違いはなかった。

「金目のモンを置いていきな。大人しく渡せば、命だけは助けてやってもいいぜ」

「まぁ、その後は俺たちの奴隷として働くんだけどな、キャハハッ!」

 リーダー格らしい、大柄な男が汚い言葉を発する。
 それに呼応して、周囲を取り囲む明らかに下っ端風な男が続く。

「はぁ、これが四番街の歓迎か」

「……少し、手荒い気がするけど」

「ユイ、行くぞ」

「……うん。その言葉を待ってた」

 覚悟は決まった。
 異世界だから起こり得る『戦い』に立ち向かうことを、航大は決意する。死ぬ訳にはいかない。この先、どんな困難が待ち受けたとしても、どんな絶望的な場面に遭遇したとしても、どんな命の危機に直面しようとも――戦う。

「――英霊召喚」

 本を開く。

 その瞬間、航大の全身を得体の知れない力が包み込む。

 それはどこか暖かくて、どこか気持ちが悪い感覚。
 自分じゃない『何か』が、身体の中に侵入してきて、自分の何かを引き出そうと蠢いている感覚。

 真っ白だったグリモワールのページに文字が刻まれていく。
 それはあの時と全く同じ光景だった。


「……英霊シャーロック・ホームズッ!」


 航大の言葉が響き渡るのと、街中のならず者たちが動くのは同時だった。
 夕闇に支配されていた四番街を眩い光が包み込む。 
 今、この瞬間……現代世界の英霊が異世界に召喚されたのだ。

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