茂姫〜うるわしき日々〜
第四十七回 父の死
一八三二(天保三)年一一月。茂姫は、女中を連れて庭を歩いていた。秋めく風が吹き、花が揺れた。茂姫はその場に腰を下ろすと、その花々を眺めていた。
『わしが信じるもの、それはつまり、己だけじゃ。』
家斉の言葉を思い出し、考え込んでいた。それを見てひさが、
「御台様?」
と声をかけると茂姫は気がつき、
「あ、いや・・・。」
そう言い、立ち上がった。そして庭を歩きながら、再び険しい表情をしていたのだった。
第四十七回 父の死
茂姫の話を聞いて家慶は、
「父上らしいですね・・・。」
と言うと、茂姫は言った。
「されど、以前の上様であればあのような人を引き離すようなことは。」
すると家慶は茂姫の前に座り、こう言った。
「父上は、元々身勝手なお人です。わたくしが直に話しても、聞く耳を持たないくらいですから。」
茂姫は、それを心配そうに見つめていた。
その後、茂姫は喬子のところにも行った。
「父上様が?」
喬子が聞くと茂姫は、
「はい。喬子様は、どう思われますか?」
と聞くと、喬子は言った。
「わたくしは・・・、お二人がお元気でいてくれたら宜しゅうございます。無理に将軍になろうとしても、後には苦難が待っているだけにございますから。」
茂姫は下を向き、
「そうですか・・・。」
と言うと顔を上げて作り笑顔で、
「そうでございますね。わたくしも、間違えていたのかもしれません。早く息子に将軍になって欲しい、そう思うばかり、焦っていたのかもしれませんね。喬子様のおかげで、氣分が晴れた気が致します。」
そう言うのを聞いた喬子も嬉しそうに、
「いいえ。」
と言った。すると茂姫は続け、
「喬子様・・・。あなたは本当に、変わられました。以前は、自ら心を閉ざしておられたのに、今では皆にも、わたくしにも優しくして下さいます。それは、若様という存在が、あなたを支えてくれていたのかもしれません。」
そう言うので喬子も、
「はい・・・。」
と答えていた。茂姫は更に続けて、
「今度は、あなたが若様を支えてあげて下さいませ。
そう言った。
「わたくしが・・・。」
喬子も、そう呟いた。そして茂姫は、こう言った。
「今の若様は、上様に心を閉ざしておいでにございます故。お次は喬子様が、あのお方を支え、少しでも多く、お側にいてあげて下さい。あのお方の、ただ一人の妻として。」
「つ、ま・・・。」
「はい、妻としてにございます。わたくしも上様に対し、そうしております。以前も、今も。」
それを聞くと喬子は一度下を向き、もう一度顔を上げた。
「母上様が仰せの通りに、わたくしなりに努めます。」
それを聞くと茂姫も安心したように、
「はい。今は、それが何よりにございます。」
と言い、二人は互いに見つめ合って笑っていたのであった。
浄岸院(一方、松平定永は桑名に戻ってきておりました。)
知らせを聞き、斉宣は定永に会いに行った。斉宣は、
「よくお戻りになられました。」
と言うと定永も、
「そちらは?」
そう聞いた。すると斉宣が、
「父上とも、共に語り合う機会が増えました。」
と、嬉しそうに答えた。それを聞いた定永は、
「相変わらず、お元気なのでしょうね。」
そう言うのを聞き、斉宣の顔が少し曇った。それを見て定永は、
「どうしたのですか?」
と聞くと、斉宣は言った。
「近頃、様子がおかしいのです。」
「おかしい?」
「はい。父上は昔から何を考えているのかわからないことがありましたが、近頃は、少し異常なのです。」
定永はそれを聞いていると、斉宣は定永を見つめて話し出した。
「この間も・・・。」
重豪は、また部屋に斉宣を呼んだ。重豪は庭を見ながら、
「そなたには、色々と迷惑をかけてきたな。」
そう言うので斉宣は、
「いえ、そのようなことは。」
と言うと重豪は振り返り、こう言った。
「それも、もうすぐ終わりじゃ。」
「えっ?」
斉宣はそう声をあげて戸惑っていると、重豪は部屋の中に入り、座った。
「次の宴には、昌高なども呼ぶとするかの。」
重豪は寒そうにしながら、そう呟いていた。斉宣は、それを怪訝そうに見ていたのだった。
その話を聞くと定永は、
「そうでしたか・・・。」
と、後悔したように言った。斉宣は、
「父上はもしかして、もう自分が永くないことを悟っておられるのかもしれません。」
そう言うと、定永はこう言った。
「あのように長寿になると、仕方ないのかもしれません。いつかは、やってくるものにございますから。」
斉宣は、黙ってそれを聞いていたのだった。
ある日の夜。茂姫は家斉の部屋に来ていた。茂姫は身の回りの整理を手伝いながら、
「峰から文が届きました。」
と言った。家斉は、
「そうか。」
とだけ、言った。茂姫は手を止め、
「今思えば、峰を救ったのはわたくしではなく、母であるあの者だったのかもしれませんね。」
そう言い、登勢のことを思い出した。
『どうか、あの子を、助けてあげて下さいませ。』
家斉も、
「そうじゃの。」
と言った。すると、茂姫はこう言った。
「親の死は、生きていく中で避けて通ることはできませぬ。されど、避けて通れぬからこそ、己の生き方を全うできるのだと思います。」
それを聞いた家斉も、
「避けて通れぬ道・・・。」
と、呟くのだった。茂姫は続けて、
「わたくしの父も、ずっとは生きていてくれぬのですね・・・。」
そう言うのを家斉は見て、こう言った。
「そなたの父上じゃ。きっと、そなたと一緒に逝きたいのであろう。」
「上様・・・。」
「身体を壊さぬように、出来る限りの事はやってこられた。そうであろう。」
それを聞くと茂姫も嬉しそうに、
「はい。」
と言って、頷いた。家斉は、
「今でも、ずっとそなたのことを見ていてくれるはずじゃ。」
そう言うのを聞き、茂姫はまた嬉しそうに頷いた。それから、また手を動かし始めた。それを、家斉もただ見つめていたのだった。
江戸、高輪邸。斉宣は、そこで昌高と再会していた。
「ご無沙汰しております、兄上。」
昌高は礼をすると、斉宣はこう言った。
「そなたは、隠居してから異人に会うことが多くなったとか。」
それを聞いて昌高は、
「はい!わたくしはあの日以来、より一層異文化に触れることが楽しみになりました。」
と言うのを聞いた斉宣は感心したように、
「何にせよ、生き甲斐を持つということは素晴らしいことじゃ。それに引き換え、わしなど幼い頃は学問や剣道ばかり、今となっては何をしたらよいかわからなくなる・・・。」
そう俯きながら言うと、昌高はこう言った。
「兄上の生き甲斐は、兄上自身でお決めになればよいと思います。」
それを聞き、斉宣は顔を上げた。昌高は続けて、
「今からでも、充分間に合いまする。好きなことを見つけ、それに専念できる余生を送ってみてはいかがでしょうか。」
と言うので斉宣は、
「昌高・・・。」
と呟き、昌高を見つめていた。二人は見つめ合っていると、家臣が走ってきてこう告げた。
「申し上げます。重豪様が、お二人をお呼びにございます。」
それを聞いた二人は、言われるがままに重豪の部屋に行った。重豪は二人を並んで座らせ、こう言った。
「今日は、そち達に渡したいものがある。」
斉宣は怪訝そうに、
「渡したいもの、ですか?」
と聞いた。重豪は頷き、横に置いてあった箱を斉宣の前に置いた。
「これは、江戸の職人に特注で作らせた布じゃ。そなたの好きに使うがよい。」
それを聞いて斉宣は、箱の蓋を開けた。そこには、灰色の布があった。すると重豪は、
「これは、昌高に。」
と言うと、本の束を渡した。そこには、『解体新書』と書かれていた。昌高は、
「これは・・・。」
そう呟くと、重豪は言った。
「『解体新書』、そなたが読みたいと申しておったであろう。だがそれは、近頃の蘭学者達により、新しく出版されたものじゃ。」
それを聞くと昌高は、
「ありがとうございます、父上。」
と言うと斉宣もつられて、
「ありがとうございます。」
そう言って、礼をしていた。すると斉宣は頭を上げながら、疑問に思ったことを聞いてみた。
「されど、何ゆえこのようなものを?」
すると、重豪は立ち上がった。そして、縁側に出ようと歩きながらこう言った。
「一度、そなた達にも何か贈ろうと思うての。」
そして、重豪は縁側に出て日の光を浴びた。
「このような清々しい日には、よきことをしたくなるのぉ・・・。」
重豪はそう言うと、こう続けた。
「姫に贈る品も、届けるとするかのぉ・・・。」
そう言った瞬間、重豪は自分の体の異変を感じた。そしてその場で跪くと、静かに倒れた。それを見た斉宣と昌高も、
「父上?」
「父上!」
そう言って立ち上がり、重豪のもとに駆け寄った。斉宣は、
「しっかりなされませ!」
と言い、昌高も、
「父上、大丈夫ですか?」
そう声をかけていた。そこへ、次々に家来達が駆け寄ってきたのであった。
浄岸院(そのことなど、知る由もない江戸城では・・・。)
茂姫は、庭に出ていた。ひさが、
「近頃、冷え込んで参りましたね。」
と言うと茂姫も、
「そうじゃの。」
そう答えていた。茂姫はその後、立って草花を眺めていたのだった。
その夜、家斉の部屋に誰かが来て声をかけた。
「失礼仕ります。」
そう声が聞こえるので、家斉は振り返った。すると、美代が入ってきた。家斉の前に、美代は座ると言った。
「先日、末の婚礼が執り行われたそうにございます。」
それを聞いた家斉は、
「そうか。」
と言った。すると美代は続けて、
「わたくしは、二人の子を嫁に出しました。もうわたくしの手元には、何も残っておりませぬ。」
そう言うと家斉が、
「母として・・・、できることをやったのか?」
と聞くと美代は、
「はい。わたくしにしてやれることは、娘二人の幸せを祈ることにございます。」
そう言った。それを聞いて家斉は、こう聞いた。
「父のためでも、己のためでもなく、娘のためか?」
「はい。」
美代も、そう答えた。そして美代は続けて、
「父上様達に何を言われようと、わたくしは二人を守りとうございます。この、命に代えても。」
そう言うのを聞いた家斉は、
「そなたの父を、裏切ってもか?」
と聞くと、美代は言った。
「はい。それにわたくしは、これからは己の意思でやりとうございます。」
すると家斉は笑い、
「それを、そなたの娘も望んでおろう。周りに構うことはない。己だけを、信じておればよい。」
そう言うと美代も嬉しそうに、
「ありがとうございます!」
と言い、頭を下げていた。それを、家斉も見ていたのだった。
その頃、重豪は寝かされていた。重豪は目を開けると、ぼやけた視界に斉宣と昌高が見えた。それを見て重豪は目を細め、
「そなた達も・・・、休まぬか。」
と言った。それを聞いて斉宣は、
「いえ、わたくし達は。」
そう言い、昌高を見た。昌高も、頷いた。重豪は上を向き、
「わしも・・・、気がつけば八五年以上も生きておったか・・・。」
と、呟いた。確かに、ここ数年、重豪の髪は一気に白く染まっていった。重豪は、
「長いようで・・・、短かったのぉ・・・。」
そう言っていると、斉宣は言った。
「父上、わたくし達がいつもおります。もう少し、もう少しでよいのです!だから・・・。」
すると昌高は、
「兄上。」
と言い、斉宣の肩を掴んだ。斉宣は、必死に涙を堪えていた。すると重豪は笑い、
「大丈夫じゃ・・・。まだ死にはせん・・・。」
そう言った。すると昌高は斉宣を強引に立ち上がらせ、部屋から連れ出していった。
部屋に戻ると、昌高は斉宣に言った。昌高は、斉宣を座らせるとこう言った。
「兄上。無理だと承知の上で話します。父上を、薩摩へ連れて帰っては頂けませぬか。」
「薩摩へ?」
斉宣が聞くと、昌高が言った。
「父上を、国元以外で死なせるわけには参らぬのです。どうか、お願い致します。」
それを聞くと、斉宣は難しい顔をして言った。
「それは・・・、無理であろう。」
すると昌高は斉宣の体を揺さぶりながら、
「やってみぬと、わからぬではないですか!」
と言うので、斉宣は昌高の両手を振り払い、言った。
「わたくしも、父上をこのような場所で死なせとうはない。しかし、もう父上はお一人で動くことはおろか、立つこともできぬかもしれぬ。それまでに・・・、弱っておいでなのじゃ。」
それを聞いた昌高は、
「もしや・・・、兄上はご自分が薩摩へ行ってはならぬと思っておいでなのでは?」
と聞くので斉宣も顔を上げ、
「えっ・・・。」
そう呟いた。昌高は続けて、
「そうなれば、国元へ帰ることが許されぬ幕府からの命に背いてしまう。よって、姉上との約束も破ってしまうことになる。そう考えているのではありませんか?」
と聞くので斉宣は少し戸惑った表情で、
「それは・・・。」
そう言っていると、昌高は言った。
「ならば、あのお方にお願いするしか道はありませぬ。」
「あのお方?」
斉宣はそう言って、昌高の顔を見つめていた。
斉宣が向かった先は、江戸城であった。斉宣は家斉に目通りすると家斉は、
「そなたの父君を、薩摩に帰したいじゃと?」
と聞いた。すると斉宣は、
「はい。父上を江戸で死なすのはもったいないと思うた次第にございます。」
そう言うので家斉は、
「それで、父君が喜ぶのか?」
と聞くと、斉宣は言った。
「はい。父上は、薩摩を愛しておられます。それ故、子としては父上を国元へ帰したいのでございます。できれば、すぐにでも取り計らって頂きとうございます。どうか何卒、お願い申し上げます!」
そして、斉宣は頭を下げた。
「何ゆえ、そこまでして急ぐのじゃ。」
家斉は聞くと、斉宣は顔を上げて答えた。
「父上は・・・、今は病に倒れておられます。わたくしは、この人生、後悔ばかりにございました。それ故、できるだけもう悔いは残したくないのでございます。あそこでああしていればよかったなどと、もう思いたくはないのでございます。父上に、もう一度薩摩を見せてやりたいのです。」
斉宣の目には、涙が潤んでいた。家斉は、
「まことに、父上のことを思うておるのじゃな。」
と言うと、斉宣はこう言うのだった。
「勿論にございます。いつでも、わたくしは、父上のためを思うております!」
すると家斉は立ち上がり、
「されど、病人を背負って国許へ帰るのは大変であろう。」
と言うので斉宣は、
「それは・・・。」
そう言って戸惑っていると、家斉はこう言った。
「そなたが、ずっと側についていてやれ。」
「えっ?」
斉宣は思わず聞き返すと、家斉は笑顔で言った。
「国許へは帰らず、片時も離れずに看病してやるがよい。」
「さ、されど・・・!」
斉宣は言うと家斉は、
「安心せよ。そなたの父君に伝えるがよい。薩摩は、必ず見せると。」
と言い、部屋を出て行った。それを、斉宣は戸惑った表情で見送っていたのだった。
その話を聞いた茂姫は、
「父上が!?」
と言うと、家斉は言った。
「あぁ。わしはのぉ、そなたの言う通りじゃと思うた。」
「えっ?」
「親の死は、長く生きれば生きるほど、避けて通れぬ道となる。弟も、必死なのであろう。」
それを聞くと、茂姫は言った。
「わたくしも、怖くなる時がございます。母上の時に感じた悲しみが、また一度来ようとしているのだと。父上も、いつかは見送ることになるのだと・・・。」
それを聞くと、家斉は言った。
「そなたらしゅうもないのぉ。」
すると茂姫は、家斉の方を見た。家斉も茂姫を見て、こう続けた。
「この世に悔いを残さず、安らかに眠って欲しい。そう思うのが、子ではないのか?」
「上様・・・。」
茂姫はそう言い、家斉を見つめた。家斉は前を向き、
「わしも、母上、父上と見送り、思うたのじゃ。己は、一体何をしてやれたのか・・・。答えはすぐに出たがの。」
そう言うので茂姫は、
「何ですか?」
と聞くと、家斉は茂姫の方を向いて言った。
「共にいることじゃ。」
「共にいること・・・。」
「共にいて、弱い方を支える。それが、親子というものかもしれぬ。離れて暮らしているのであれば、定期的に文を送り、心を分かつのじゃ。」
「心を、分かつ・・・。」
茂姫はそう繰り返していると、家斉はこう言った。
「そうじゃ。時には邪魔な存在になる時もあるが、それ故に共にいられる時間が愛おしいのじゃ。」
それを聞いた茂姫も微笑み、
「ほんに・・・、そうでございますね。」
と言った。家斉の目線は、ずっと遠くを見つめているようであった。
その後、茂姫は部屋で祈っていた。茂姫の後ろには、ひさとたきが座っていた。茂姫は目を開けると、
「わたくしは、父から教わったことを、世に残したい。父上は・・・、わたくしのただ一人の父上故。」
そう言った。そして茂姫は再び目を閉じ、
「父上に、もう一度会いたい・・・。」
と言っているのを見て、ひさとたきは同情したように顔を見合わせていた。茂姫も、暫くはそのまま祈り続けていたのだった。
一方、重豪がいる屋敷では、斉宣は昌高に事情を話した。すると昌高は納得したように、
「そうですか・・・。ほんにあのお方は、優しゅうございますね。」
と言っているとふと疑問に思ったのか、
「されど、薩摩を見せるとは何のことでございましょう。」
そう言うと斉宣も首を傾げながら、
「さぁ・・・。」
と言っていた。そこへ家来が来て、こう告げた。
「申し上げます。江戸城より、贈り物が届けられております。」
それを聞いた二人は、一瞬顔を見合わせていた。
部屋へ行き、黒い箱の蓋を開けた。箱の中を見ると昌高は、
「これは・・・!」
と、声を上げた。斉宣も、黙って暫く中を見つめていた。
その後、重豪の部屋に行くと、斉宣は箱の中から巻物を取り出して畳に置いた。起き上がっている重豪は、それをまじまじと見つめていた。そして斉宣は、
「父上、これを・・・。」
と言い、巻物を広げた。すると重豪は驚いたように、
「これは・・・。」
そう呟いた。そこには、薩摩の風景が描かれた浮世絵があった。それを見た重豪は目を細めると、
「これは・・・、薩摩か?」
と、尋ねた。それを聞くと斉宣は頷き、
「はい。公方様からにございます。」
そう答えた。それを聞くと重豪は嬉しそうに、
「そうか・・・。この、緑豊かな美しい薩摩を、もう一度見てみたかったのぉ・・・。」
と、絵を見つめながら呟くので、斉宣も涙を堪えた。重豪は斉宣を見つめ、
「わしは、そなたに助けらればかりおる。そなたから、藩主の座を取り上げてしもうたというのに。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「わたくしは、父上の子にございます。父上のお側に、少しでも長くいて、寝る間も惜しんで看病するのがまことの親子でがありませぬか?」
と言った。斉宣の声は、震えている。それを聞いた重豪は、
「すまぬな・・・。最後まで、迷惑かけてしもうて・・・。」
そう言うので、斉宣はこう言った。
「何を仰せられます。どうか、これからも看病させて下さい。」
それを聞いた重豪は、
「わしは、恵まれておる。我が子に、ここまでのことをしてもらえる父親は、わしくらいじゃ。」
と言い、笑顔になった。それを見て斉宣も少し気分が和らいだのか、釣られて笑顔になった。斉宣は、
「さ、父上。」
そう言うと、重豪を支えてまた寝かせた。
浄岸院(言葉の通り、斉宣は寝る間も惜しみ、重豪殿の看病を続けたのでございました。)
斉宣は看病していると、重豪は目を開け、ずっと上を見つめていた。そう、天井には薩摩が描かれた絵画が貼られていたのであった。
一八三三(天保四)年。
浄岸院(重豪殿の病状が悪化したのは、年が明けて間もなくのこと。)
重豪の床の周りには、斉宣、昌高の他に、斉興と斉彬も集まった。重豪は、ゆっくりと目を開けた。それを見て斉宣達は、
「父上。」
「父上!」
「お祖父様!」
「おじじ様!」
と、声をかけた。それを見た重豪は、
「これは・・・、たくさん集まったものじゃ・・・。」
そう言うと、斉宣は言った。
「皆、父上のことを気にかけておりました故。」
すると重豪は、こう言った。
「わしは・・・、そなた達だけのことを、考えておった。」
「それは?」
斉宣が聞くと重豪は、
「わしは、この人生、色々なものに出会った。蘭学や洋学、そして同じ考えを持つ同志達。わしはそれらに出会い、強く心を打たれた。そしてそなた達も、わしと同じように学問を学び、そして幕府に意見を言えるようにもなった。わしはそれを見て、後悔はしなかった。」
と言うので斉宣は、
「父上・・・。」
そう呟いた。そして重豪は、
「そして最後に、わしからはそなた達に話がある。」
と言うので、他の三人も瞬きも忘れ、重豪を見つめていた。するとまず、重豪は斉彬を見て話した。
「斉彬・・・。わしは、そなたに何かを感じておる。斉興が隠居した後はそなたが薩摩の頭となり、薩摩を率いていってくれ。」
それを聞いた斉彬は、
「はい!」
と、答えた。すると重豪は次に斉興を見ると、こう言った。
「斉興・・・。斉彬のこれからを、どうか支えていってくれ。」
斉興も、
「お任せ下さい。」
と、答えていた。そして、重豪は次に昌高を見て言った。
「昌高・・・。わしの子の中で、最初に蘭学に興味を持ったのは、そなたであったな。これからも多くの異人と会い、その文化をこの国に広めていってくれ。そなたであれば、叶うであろう。」
昌高はそれを聞き、
「はい。」
と言った。そして重豪は最後に斉宣を見ると、
「斉宣・・・。このような父でありながら、わしを最後までつきっきりで看病してくれた。礼を言う。」
そう言うのを聞いて斉宣も、
「はい、わかっております。」
そう言った。そして重豪は上を向くと、
「わしは・・・、己の人生の中でそなた達と出会えて、幸せであった・・・。それはそなた達が・・・、わしの、誇り故じゃ。」
と言うのを聞き、四人は涙を目に溜めていた。最初に涙を零したのは、斉彬だった。重豪は安心した表情でこう言った。
「わしにはもう・・・、未練などない・・・。それは、皆のおかげじゃ・・・。」
そして、重豪は目を閉じた。すると斉彬が、
「おじじ様・・・、おじじ様!」
と言い、泣きながら重豪の体を揺さぶっていた。昌高と斉興も、耐えきれずに涙を流していた。斉宣も、溢れんばかりの涙を必死に堪えていた。重豪は、目を閉じながら笑っているようにも見えたのだった。
その話は、茂姫にもすぐに届けられた。
「父上が・・・。」
茂姫が呟くと、知らせに来た家来がこう言った。
「はい。一月、一五日にございました。」
それを聞き、茂姫は無表情のまま黙っていた。
その後、家斉の部屋に行った。家斉はそれを聞くと、
「そうであったか・・・。」
と言うと開き直ったように、
「ま、歳も歳であったからのぉ。」
そう言って茂姫を見ると、茂姫は下を見つめながらこう言った。
「わたくしの父上は、情の熱いお方。それ故、ずっといてくれるものと思っておりました。」
家斉はそれを聞き、
「実際、そうもいかぬであろう。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「覚悟はしておりましたが、今のわたくしには、耐え切れぬのです。わかったいたことなのに・・・、これ程までに胸が苦しくなるとは・・・。」
茂姫は、辛そうに言った。それを聞いて家斉は、
「父上も、そなたに会いたかったのではないか?」
と聞くと、茂姫は顔を上げた。家斉は、
「唯一後悔があるとすれば、それだけであろう。そなたの父上は、そういうお方であった。」
そう言うのを聞くと、茂姫はこう言った。
「されど、父上はきっと、会いに来て下さいます。そのような気がするのです。」
それを聞くと家斉は向こうを向き、
「そうかもしれぬのぉ。」
と言った。そして茂姫は、こう呟いていた。
「わたくしの生まれ故郷、薩摩の父が・・・、亡くなってしまわれたのですね・・・。」
それを家斉も聞き、ずっと向こうを見つめていた。
茂姫は部屋に帰ると、暫く立ち止まった。部屋には、夕日が揚々と差し込んでくる。そしてゆっくりと座り、声を殺して泣いた。真冬の風が、庭いっぱいに吹いていたのであった。
その後、斉宣は昌高と屋敷で話していた。
「そうか、戻るのか。」
斉宣が言うと昌高は、
「はい。明日、中津に向けて出発致します。」
と言った。斉宣が黙っていると昌高が、
「兄上。先日は、すみませんでした。」
そう言うので斉宣が、
「何のことじゃ?」
と聞くと、昌高はこう言った。
「父上を、薩摩へお帰ししたいと言った時のことにございます。わたくしは、我を見失っておりました。今思い返せば、恥ずかしゅうございます。」
それを聞くと、斉宣も言った。
「いや、それはわしも同じであった。すまぬ。」
それを見つめていた昌高は思い出したように、
「そう言えば、姉上に送る品は。」
と言うと斉宣は、
「もう送った。今頃、届いておろう。」
そう言うのを、昌高も笑顔で見つめていたのだった。
その頃、茂姫は部屋にいるとひさが入って来、
「あの、御台様にお届けものが届いております。」
そう言った。それを、茂姫は反応を示さずにただ見つめていた。
茂姫は夕方、一人でその箱の蓋を開けた。そこには黄色い布と文が入っていた。茂姫はその文を手に取り、読み始めたのだった。
『姉上。お久しぶりです。先日、父上が亡くなりました。これは、父上が姉上に送ろうとしていた生地にございます。遅れましたが、父上の遺言によれば、自由に使ってよいとのことにございます。』
茂姫は、黄色い布をめくってみた。すると、綺麗な柄の華やかな生地が見えてきた。茂姫はその生地を撫で、手触りを確かめた。そして、愛おしそうな表情をした。続きには、こうあった。
『それから、わたくしも父上から頂いた布で作った品を入れておきました。』
茂姫は、箱の隅に灰色の小さい袋があることに気付いた。茂姫は、その袋を取り、中のものを出してみた。それは、木彫りの仏であった。
『これは、父上が昔、わたくしに作って下さったものにございます。これを、父上の形見として、姉上に持っていて頂きとうございます。父上も、姉上に会いたがっておいででした故、これを父上とお思い下さい。さすれば、父上は姉上の中で生き続けられるでしょう。わたくしは、それをお祈り致しております。』
斉宣も、夕暮れの部屋で筆を走らせていた。
茂姫はその文を読みながら、再び涙を流していた。
『そなたの戦場は、城にある。』
『城?』
『夫を支え、子を作ることじゃ。それこそが、女子の戦と言うもの。』
『はい!』
自分が城に上がる日、重豪はそう言ってくれた。
『わたくしは何処へ行こうと、何をしようと、母上の子にございます。』
『於篤・・・。』
母のお登勢のために薩摩へ帰った時も、母との再会を隣で見守ってくれていたのは重豪であった。茂姫はそれらを思い出しながら片手で口を押さえ、
「父上・・・。」
と呟き、泣いていたのだった。
その夜、茂姫は家斉と月を眺めていた。
「わたくしは・・・、昔、父上に教わりました。女子の戦は、ここだと。夫を支え、子を作ることが、わたくしにとっての戦であると。ほんに、その通りでございました。わたくしはここに来て、辛いことも、悲しいことも多ございました。されどわたくしは、父上に言われたように、上様を支えるために必死になり、己の役目を全うしようとしておりました。それ故、今もこうして上様のお側におれるのだと思います。」
茂姫は家斉を見て言うと、家斉も言った。
「されどそのそなたを支えておったのは、そなたの父上だったのかもしれぬのぉ。」
「父上が・・・?」
茂姫は聞くと、家斉は言った。
「親というのは、子に気づかれぬところで見ておるものじゃ。見ておらぬようで、ちゃんと見ておるのじゃ。」
それを聞くと茂姫も嬉しそうに、
「そうでございますね。上様も、母上様達に見られておりましたね。」
と言うのを聞き、家斉は少し恥ずかしそうにした。すると茂姫は、
「ならば上様も、若様のことはしっかり見ているのでございましょう?」
そう聞くと家斉は、
「あ、あぁ・・・。」
と言った。茂姫は、
「ならば、もう少し信じても宜しいではありませぬか。」
そう言うので家斉は、
「そうじゃのぉ・・・。」
と答え、夜空で輝いている月を眺めていた。二人はその後も、暫く同じように月を見つめていたのであった。
次回予告
茂姫「父上はわたくしに生きる希望を与えて下された。」
乗寛「お世継ぎを?」
家斉「家慶に、家督を譲ろうと思う。」
茂姫「よくぞご決断なさいました。」
家慶「父上は、やはり身勝手すぎます。」
茂姫「心を開かねば、あちらも開いてはくれませぬ。」
水野忠邦「これは一大事にございますぞ。」
茂姫「新しいお寺じゃと?」
清茂「公方様直々のお許しが出た。」
家斉「そなたと話がしたい。」
茂姫「この時を、お待ちしておりました。」
次回 第四十八回「父から息子へ」 どうぞ、ご期待下さい!
『わしが信じるもの、それはつまり、己だけじゃ。』
家斉の言葉を思い出し、考え込んでいた。それを見てひさが、
「御台様?」
と声をかけると茂姫は気がつき、
「あ、いや・・・。」
そう言い、立ち上がった。そして庭を歩きながら、再び険しい表情をしていたのだった。
第四十七回 父の死
茂姫の話を聞いて家慶は、
「父上らしいですね・・・。」
と言うと、茂姫は言った。
「されど、以前の上様であればあのような人を引き離すようなことは。」
すると家慶は茂姫の前に座り、こう言った。
「父上は、元々身勝手なお人です。わたくしが直に話しても、聞く耳を持たないくらいですから。」
茂姫は、それを心配そうに見つめていた。
その後、茂姫は喬子のところにも行った。
「父上様が?」
喬子が聞くと茂姫は、
「はい。喬子様は、どう思われますか?」
と聞くと、喬子は言った。
「わたくしは・・・、お二人がお元気でいてくれたら宜しゅうございます。無理に将軍になろうとしても、後には苦難が待っているだけにございますから。」
茂姫は下を向き、
「そうですか・・・。」
と言うと顔を上げて作り笑顔で、
「そうでございますね。わたくしも、間違えていたのかもしれません。早く息子に将軍になって欲しい、そう思うばかり、焦っていたのかもしれませんね。喬子様のおかげで、氣分が晴れた気が致します。」
そう言うのを聞いた喬子も嬉しそうに、
「いいえ。」
と言った。すると茂姫は続け、
「喬子様・・・。あなたは本当に、変わられました。以前は、自ら心を閉ざしておられたのに、今では皆にも、わたくしにも優しくして下さいます。それは、若様という存在が、あなたを支えてくれていたのかもしれません。」
そう言うので喬子も、
「はい・・・。」
と答えていた。茂姫は更に続けて、
「今度は、あなたが若様を支えてあげて下さいませ。
そう言った。
「わたくしが・・・。」
喬子も、そう呟いた。そして茂姫は、こう言った。
「今の若様は、上様に心を閉ざしておいでにございます故。お次は喬子様が、あのお方を支え、少しでも多く、お側にいてあげて下さい。あのお方の、ただ一人の妻として。」
「つ、ま・・・。」
「はい、妻としてにございます。わたくしも上様に対し、そうしております。以前も、今も。」
それを聞くと喬子は一度下を向き、もう一度顔を上げた。
「母上様が仰せの通りに、わたくしなりに努めます。」
それを聞くと茂姫も安心したように、
「はい。今は、それが何よりにございます。」
と言い、二人は互いに見つめ合って笑っていたのであった。
浄岸院(一方、松平定永は桑名に戻ってきておりました。)
知らせを聞き、斉宣は定永に会いに行った。斉宣は、
「よくお戻りになられました。」
と言うと定永も、
「そちらは?」
そう聞いた。すると斉宣が、
「父上とも、共に語り合う機会が増えました。」
と、嬉しそうに答えた。それを聞いた定永は、
「相変わらず、お元気なのでしょうね。」
そう言うのを聞き、斉宣の顔が少し曇った。それを見て定永は、
「どうしたのですか?」
と聞くと、斉宣は言った。
「近頃、様子がおかしいのです。」
「おかしい?」
「はい。父上は昔から何を考えているのかわからないことがありましたが、近頃は、少し異常なのです。」
定永はそれを聞いていると、斉宣は定永を見つめて話し出した。
「この間も・・・。」
重豪は、また部屋に斉宣を呼んだ。重豪は庭を見ながら、
「そなたには、色々と迷惑をかけてきたな。」
そう言うので斉宣は、
「いえ、そのようなことは。」
と言うと重豪は振り返り、こう言った。
「それも、もうすぐ終わりじゃ。」
「えっ?」
斉宣はそう声をあげて戸惑っていると、重豪は部屋の中に入り、座った。
「次の宴には、昌高なども呼ぶとするかの。」
重豪は寒そうにしながら、そう呟いていた。斉宣は、それを怪訝そうに見ていたのだった。
その話を聞くと定永は、
「そうでしたか・・・。」
と、後悔したように言った。斉宣は、
「父上はもしかして、もう自分が永くないことを悟っておられるのかもしれません。」
そう言うと、定永はこう言った。
「あのように長寿になると、仕方ないのかもしれません。いつかは、やってくるものにございますから。」
斉宣は、黙ってそれを聞いていたのだった。
ある日の夜。茂姫は家斉の部屋に来ていた。茂姫は身の回りの整理を手伝いながら、
「峰から文が届きました。」
と言った。家斉は、
「そうか。」
とだけ、言った。茂姫は手を止め、
「今思えば、峰を救ったのはわたくしではなく、母であるあの者だったのかもしれませんね。」
そう言い、登勢のことを思い出した。
『どうか、あの子を、助けてあげて下さいませ。』
家斉も、
「そうじゃの。」
と言った。すると、茂姫はこう言った。
「親の死は、生きていく中で避けて通ることはできませぬ。されど、避けて通れぬからこそ、己の生き方を全うできるのだと思います。」
それを聞いた家斉も、
「避けて通れぬ道・・・。」
と、呟くのだった。茂姫は続けて、
「わたくしの父も、ずっとは生きていてくれぬのですね・・・。」
そう言うのを家斉は見て、こう言った。
「そなたの父上じゃ。きっと、そなたと一緒に逝きたいのであろう。」
「上様・・・。」
「身体を壊さぬように、出来る限りの事はやってこられた。そうであろう。」
それを聞くと茂姫も嬉しそうに、
「はい。」
と言って、頷いた。家斉は、
「今でも、ずっとそなたのことを見ていてくれるはずじゃ。」
そう言うのを聞き、茂姫はまた嬉しそうに頷いた。それから、また手を動かし始めた。それを、家斉もただ見つめていたのだった。
江戸、高輪邸。斉宣は、そこで昌高と再会していた。
「ご無沙汰しております、兄上。」
昌高は礼をすると、斉宣はこう言った。
「そなたは、隠居してから異人に会うことが多くなったとか。」
それを聞いて昌高は、
「はい!わたくしはあの日以来、より一層異文化に触れることが楽しみになりました。」
と言うのを聞いた斉宣は感心したように、
「何にせよ、生き甲斐を持つということは素晴らしいことじゃ。それに引き換え、わしなど幼い頃は学問や剣道ばかり、今となっては何をしたらよいかわからなくなる・・・。」
そう俯きながら言うと、昌高はこう言った。
「兄上の生き甲斐は、兄上自身でお決めになればよいと思います。」
それを聞き、斉宣は顔を上げた。昌高は続けて、
「今からでも、充分間に合いまする。好きなことを見つけ、それに専念できる余生を送ってみてはいかがでしょうか。」
と言うので斉宣は、
「昌高・・・。」
と呟き、昌高を見つめていた。二人は見つめ合っていると、家臣が走ってきてこう告げた。
「申し上げます。重豪様が、お二人をお呼びにございます。」
それを聞いた二人は、言われるがままに重豪の部屋に行った。重豪は二人を並んで座らせ、こう言った。
「今日は、そち達に渡したいものがある。」
斉宣は怪訝そうに、
「渡したいもの、ですか?」
と聞いた。重豪は頷き、横に置いてあった箱を斉宣の前に置いた。
「これは、江戸の職人に特注で作らせた布じゃ。そなたの好きに使うがよい。」
それを聞いて斉宣は、箱の蓋を開けた。そこには、灰色の布があった。すると重豪は、
「これは、昌高に。」
と言うと、本の束を渡した。そこには、『解体新書』と書かれていた。昌高は、
「これは・・・。」
そう呟くと、重豪は言った。
「『解体新書』、そなたが読みたいと申しておったであろう。だがそれは、近頃の蘭学者達により、新しく出版されたものじゃ。」
それを聞くと昌高は、
「ありがとうございます、父上。」
と言うと斉宣もつられて、
「ありがとうございます。」
そう言って、礼をしていた。すると斉宣は頭を上げながら、疑問に思ったことを聞いてみた。
「されど、何ゆえこのようなものを?」
すると、重豪は立ち上がった。そして、縁側に出ようと歩きながらこう言った。
「一度、そなた達にも何か贈ろうと思うての。」
そして、重豪は縁側に出て日の光を浴びた。
「このような清々しい日には、よきことをしたくなるのぉ・・・。」
重豪はそう言うと、こう続けた。
「姫に贈る品も、届けるとするかのぉ・・・。」
そう言った瞬間、重豪は自分の体の異変を感じた。そしてその場で跪くと、静かに倒れた。それを見た斉宣と昌高も、
「父上?」
「父上!」
そう言って立ち上がり、重豪のもとに駆け寄った。斉宣は、
「しっかりなされませ!」
と言い、昌高も、
「父上、大丈夫ですか?」
そう声をかけていた。そこへ、次々に家来達が駆け寄ってきたのであった。
浄岸院(そのことなど、知る由もない江戸城では・・・。)
茂姫は、庭に出ていた。ひさが、
「近頃、冷え込んで参りましたね。」
と言うと茂姫も、
「そうじゃの。」
そう答えていた。茂姫はその後、立って草花を眺めていたのだった。
その夜、家斉の部屋に誰かが来て声をかけた。
「失礼仕ります。」
そう声が聞こえるので、家斉は振り返った。すると、美代が入ってきた。家斉の前に、美代は座ると言った。
「先日、末の婚礼が執り行われたそうにございます。」
それを聞いた家斉は、
「そうか。」
と言った。すると美代は続けて、
「わたくしは、二人の子を嫁に出しました。もうわたくしの手元には、何も残っておりませぬ。」
そう言うと家斉が、
「母として・・・、できることをやったのか?」
と聞くと美代は、
「はい。わたくしにしてやれることは、娘二人の幸せを祈ることにございます。」
そう言った。それを聞いて家斉は、こう聞いた。
「父のためでも、己のためでもなく、娘のためか?」
「はい。」
美代も、そう答えた。そして美代は続けて、
「父上様達に何を言われようと、わたくしは二人を守りとうございます。この、命に代えても。」
そう言うのを聞いた家斉は、
「そなたの父を、裏切ってもか?」
と聞くと、美代は言った。
「はい。それにわたくしは、これからは己の意思でやりとうございます。」
すると家斉は笑い、
「それを、そなたの娘も望んでおろう。周りに構うことはない。己だけを、信じておればよい。」
そう言うと美代も嬉しそうに、
「ありがとうございます!」
と言い、頭を下げていた。それを、家斉も見ていたのだった。
その頃、重豪は寝かされていた。重豪は目を開けると、ぼやけた視界に斉宣と昌高が見えた。それを見て重豪は目を細め、
「そなた達も・・・、休まぬか。」
と言った。それを聞いて斉宣は、
「いえ、わたくし達は。」
そう言い、昌高を見た。昌高も、頷いた。重豪は上を向き、
「わしも・・・、気がつけば八五年以上も生きておったか・・・。」
と、呟いた。確かに、ここ数年、重豪の髪は一気に白く染まっていった。重豪は、
「長いようで・・・、短かったのぉ・・・。」
そう言っていると、斉宣は言った。
「父上、わたくし達がいつもおります。もう少し、もう少しでよいのです!だから・・・。」
すると昌高は、
「兄上。」
と言い、斉宣の肩を掴んだ。斉宣は、必死に涙を堪えていた。すると重豪は笑い、
「大丈夫じゃ・・・。まだ死にはせん・・・。」
そう言った。すると昌高は斉宣を強引に立ち上がらせ、部屋から連れ出していった。
部屋に戻ると、昌高は斉宣に言った。昌高は、斉宣を座らせるとこう言った。
「兄上。無理だと承知の上で話します。父上を、薩摩へ連れて帰っては頂けませぬか。」
「薩摩へ?」
斉宣が聞くと、昌高が言った。
「父上を、国元以外で死なせるわけには参らぬのです。どうか、お願い致します。」
それを聞くと、斉宣は難しい顔をして言った。
「それは・・・、無理であろう。」
すると昌高は斉宣の体を揺さぶりながら、
「やってみぬと、わからぬではないですか!」
と言うので、斉宣は昌高の両手を振り払い、言った。
「わたくしも、父上をこのような場所で死なせとうはない。しかし、もう父上はお一人で動くことはおろか、立つこともできぬかもしれぬ。それまでに・・・、弱っておいでなのじゃ。」
それを聞いた昌高は、
「もしや・・・、兄上はご自分が薩摩へ行ってはならぬと思っておいでなのでは?」
と聞くので斉宣も顔を上げ、
「えっ・・・。」
そう呟いた。昌高は続けて、
「そうなれば、国元へ帰ることが許されぬ幕府からの命に背いてしまう。よって、姉上との約束も破ってしまうことになる。そう考えているのではありませんか?」
と聞くので斉宣は少し戸惑った表情で、
「それは・・・。」
そう言っていると、昌高は言った。
「ならば、あのお方にお願いするしか道はありませぬ。」
「あのお方?」
斉宣はそう言って、昌高の顔を見つめていた。
斉宣が向かった先は、江戸城であった。斉宣は家斉に目通りすると家斉は、
「そなたの父君を、薩摩に帰したいじゃと?」
と聞いた。すると斉宣は、
「はい。父上を江戸で死なすのはもったいないと思うた次第にございます。」
そう言うので家斉は、
「それで、父君が喜ぶのか?」
と聞くと、斉宣は言った。
「はい。父上は、薩摩を愛しておられます。それ故、子としては父上を国元へ帰したいのでございます。できれば、すぐにでも取り計らって頂きとうございます。どうか何卒、お願い申し上げます!」
そして、斉宣は頭を下げた。
「何ゆえ、そこまでして急ぐのじゃ。」
家斉は聞くと、斉宣は顔を上げて答えた。
「父上は・・・、今は病に倒れておられます。わたくしは、この人生、後悔ばかりにございました。それ故、できるだけもう悔いは残したくないのでございます。あそこでああしていればよかったなどと、もう思いたくはないのでございます。父上に、もう一度薩摩を見せてやりたいのです。」
斉宣の目には、涙が潤んでいた。家斉は、
「まことに、父上のことを思うておるのじゃな。」
と言うと、斉宣はこう言うのだった。
「勿論にございます。いつでも、わたくしは、父上のためを思うております!」
すると家斉は立ち上がり、
「されど、病人を背負って国許へ帰るのは大変であろう。」
と言うので斉宣は、
「それは・・・。」
そう言って戸惑っていると、家斉はこう言った。
「そなたが、ずっと側についていてやれ。」
「えっ?」
斉宣は思わず聞き返すと、家斉は笑顔で言った。
「国許へは帰らず、片時も離れずに看病してやるがよい。」
「さ、されど・・・!」
斉宣は言うと家斉は、
「安心せよ。そなたの父君に伝えるがよい。薩摩は、必ず見せると。」
と言い、部屋を出て行った。それを、斉宣は戸惑った表情で見送っていたのだった。
その話を聞いた茂姫は、
「父上が!?」
と言うと、家斉は言った。
「あぁ。わしはのぉ、そなたの言う通りじゃと思うた。」
「えっ?」
「親の死は、長く生きれば生きるほど、避けて通れぬ道となる。弟も、必死なのであろう。」
それを聞くと、茂姫は言った。
「わたくしも、怖くなる時がございます。母上の時に感じた悲しみが、また一度来ようとしているのだと。父上も、いつかは見送ることになるのだと・・・。」
それを聞くと、家斉は言った。
「そなたらしゅうもないのぉ。」
すると茂姫は、家斉の方を見た。家斉も茂姫を見て、こう続けた。
「この世に悔いを残さず、安らかに眠って欲しい。そう思うのが、子ではないのか?」
「上様・・・。」
茂姫はそう言い、家斉を見つめた。家斉は前を向き、
「わしも、母上、父上と見送り、思うたのじゃ。己は、一体何をしてやれたのか・・・。答えはすぐに出たがの。」
そう言うので茂姫は、
「何ですか?」
と聞くと、家斉は茂姫の方を向いて言った。
「共にいることじゃ。」
「共にいること・・・。」
「共にいて、弱い方を支える。それが、親子というものかもしれぬ。離れて暮らしているのであれば、定期的に文を送り、心を分かつのじゃ。」
「心を、分かつ・・・。」
茂姫はそう繰り返していると、家斉はこう言った。
「そうじゃ。時には邪魔な存在になる時もあるが、それ故に共にいられる時間が愛おしいのじゃ。」
それを聞いた茂姫も微笑み、
「ほんに・・・、そうでございますね。」
と言った。家斉の目線は、ずっと遠くを見つめているようであった。
その後、茂姫は部屋で祈っていた。茂姫の後ろには、ひさとたきが座っていた。茂姫は目を開けると、
「わたくしは、父から教わったことを、世に残したい。父上は・・・、わたくしのただ一人の父上故。」
そう言った。そして茂姫は再び目を閉じ、
「父上に、もう一度会いたい・・・。」
と言っているのを見て、ひさとたきは同情したように顔を見合わせていた。茂姫も、暫くはそのまま祈り続けていたのだった。
一方、重豪がいる屋敷では、斉宣は昌高に事情を話した。すると昌高は納得したように、
「そうですか・・・。ほんにあのお方は、優しゅうございますね。」
と言っているとふと疑問に思ったのか、
「されど、薩摩を見せるとは何のことでございましょう。」
そう言うと斉宣も首を傾げながら、
「さぁ・・・。」
と言っていた。そこへ家来が来て、こう告げた。
「申し上げます。江戸城より、贈り物が届けられております。」
それを聞いた二人は、一瞬顔を見合わせていた。
部屋へ行き、黒い箱の蓋を開けた。箱の中を見ると昌高は、
「これは・・・!」
と、声を上げた。斉宣も、黙って暫く中を見つめていた。
その後、重豪の部屋に行くと、斉宣は箱の中から巻物を取り出して畳に置いた。起き上がっている重豪は、それをまじまじと見つめていた。そして斉宣は、
「父上、これを・・・。」
と言い、巻物を広げた。すると重豪は驚いたように、
「これは・・・。」
そう呟いた。そこには、薩摩の風景が描かれた浮世絵があった。それを見た重豪は目を細めると、
「これは・・・、薩摩か?」
と、尋ねた。それを聞くと斉宣は頷き、
「はい。公方様からにございます。」
そう答えた。それを聞くと重豪は嬉しそうに、
「そうか・・・。この、緑豊かな美しい薩摩を、もう一度見てみたかったのぉ・・・。」
と、絵を見つめながら呟くので、斉宣も涙を堪えた。重豪は斉宣を見つめ、
「わしは、そなたに助けらればかりおる。そなたから、藩主の座を取り上げてしもうたというのに。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「わたくしは、父上の子にございます。父上のお側に、少しでも長くいて、寝る間も惜しんで看病するのがまことの親子でがありませぬか?」
と言った。斉宣の声は、震えている。それを聞いた重豪は、
「すまぬな・・・。最後まで、迷惑かけてしもうて・・・。」
そう言うので、斉宣はこう言った。
「何を仰せられます。どうか、これからも看病させて下さい。」
それを聞いた重豪は、
「わしは、恵まれておる。我が子に、ここまでのことをしてもらえる父親は、わしくらいじゃ。」
と言い、笑顔になった。それを見て斉宣も少し気分が和らいだのか、釣られて笑顔になった。斉宣は、
「さ、父上。」
そう言うと、重豪を支えてまた寝かせた。
浄岸院(言葉の通り、斉宣は寝る間も惜しみ、重豪殿の看病を続けたのでございました。)
斉宣は看病していると、重豪は目を開け、ずっと上を見つめていた。そう、天井には薩摩が描かれた絵画が貼られていたのであった。
一八三三(天保四)年。
浄岸院(重豪殿の病状が悪化したのは、年が明けて間もなくのこと。)
重豪の床の周りには、斉宣、昌高の他に、斉興と斉彬も集まった。重豪は、ゆっくりと目を開けた。それを見て斉宣達は、
「父上。」
「父上!」
「お祖父様!」
「おじじ様!」
と、声をかけた。それを見た重豪は、
「これは・・・、たくさん集まったものじゃ・・・。」
そう言うと、斉宣は言った。
「皆、父上のことを気にかけておりました故。」
すると重豪は、こう言った。
「わしは・・・、そなた達だけのことを、考えておった。」
「それは?」
斉宣が聞くと重豪は、
「わしは、この人生、色々なものに出会った。蘭学や洋学、そして同じ考えを持つ同志達。わしはそれらに出会い、強く心を打たれた。そしてそなた達も、わしと同じように学問を学び、そして幕府に意見を言えるようにもなった。わしはそれを見て、後悔はしなかった。」
と言うので斉宣は、
「父上・・・。」
そう呟いた。そして重豪は、
「そして最後に、わしからはそなた達に話がある。」
と言うので、他の三人も瞬きも忘れ、重豪を見つめていた。するとまず、重豪は斉彬を見て話した。
「斉彬・・・。わしは、そなたに何かを感じておる。斉興が隠居した後はそなたが薩摩の頭となり、薩摩を率いていってくれ。」
それを聞いた斉彬は、
「はい!」
と、答えた。すると重豪は次に斉興を見ると、こう言った。
「斉興・・・。斉彬のこれからを、どうか支えていってくれ。」
斉興も、
「お任せ下さい。」
と、答えていた。そして、重豪は次に昌高を見て言った。
「昌高・・・。わしの子の中で、最初に蘭学に興味を持ったのは、そなたであったな。これからも多くの異人と会い、その文化をこの国に広めていってくれ。そなたであれば、叶うであろう。」
昌高はそれを聞き、
「はい。」
と言った。そして重豪は最後に斉宣を見ると、
「斉宣・・・。このような父でありながら、わしを最後までつきっきりで看病してくれた。礼を言う。」
そう言うのを聞いて斉宣も、
「はい、わかっております。」
そう言った。そして重豪は上を向くと、
「わしは・・・、己の人生の中でそなた達と出会えて、幸せであった・・・。それはそなた達が・・・、わしの、誇り故じゃ。」
と言うのを聞き、四人は涙を目に溜めていた。最初に涙を零したのは、斉彬だった。重豪は安心した表情でこう言った。
「わしにはもう・・・、未練などない・・・。それは、皆のおかげじゃ・・・。」
そして、重豪は目を閉じた。すると斉彬が、
「おじじ様・・・、おじじ様!」
と言い、泣きながら重豪の体を揺さぶっていた。昌高と斉興も、耐えきれずに涙を流していた。斉宣も、溢れんばかりの涙を必死に堪えていた。重豪は、目を閉じながら笑っているようにも見えたのだった。
その話は、茂姫にもすぐに届けられた。
「父上が・・・。」
茂姫が呟くと、知らせに来た家来がこう言った。
「はい。一月、一五日にございました。」
それを聞き、茂姫は無表情のまま黙っていた。
その後、家斉の部屋に行った。家斉はそれを聞くと、
「そうであったか・・・。」
と言うと開き直ったように、
「ま、歳も歳であったからのぉ。」
そう言って茂姫を見ると、茂姫は下を見つめながらこう言った。
「わたくしの父上は、情の熱いお方。それ故、ずっといてくれるものと思っておりました。」
家斉はそれを聞き、
「実際、そうもいかぬであろう。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「覚悟はしておりましたが、今のわたくしには、耐え切れぬのです。わかったいたことなのに・・・、これ程までに胸が苦しくなるとは・・・。」
茂姫は、辛そうに言った。それを聞いて家斉は、
「父上も、そなたに会いたかったのではないか?」
と聞くと、茂姫は顔を上げた。家斉は、
「唯一後悔があるとすれば、それだけであろう。そなたの父上は、そういうお方であった。」
そう言うのを聞くと、茂姫はこう言った。
「されど、父上はきっと、会いに来て下さいます。そのような気がするのです。」
それを聞くと家斉は向こうを向き、
「そうかもしれぬのぉ。」
と言った。そして茂姫は、こう呟いていた。
「わたくしの生まれ故郷、薩摩の父が・・・、亡くなってしまわれたのですね・・・。」
それを家斉も聞き、ずっと向こうを見つめていた。
茂姫は部屋に帰ると、暫く立ち止まった。部屋には、夕日が揚々と差し込んでくる。そしてゆっくりと座り、声を殺して泣いた。真冬の風が、庭いっぱいに吹いていたのであった。
その後、斉宣は昌高と屋敷で話していた。
「そうか、戻るのか。」
斉宣が言うと昌高は、
「はい。明日、中津に向けて出発致します。」
と言った。斉宣が黙っていると昌高が、
「兄上。先日は、すみませんでした。」
そう言うので斉宣が、
「何のことじゃ?」
と聞くと、昌高はこう言った。
「父上を、薩摩へお帰ししたいと言った時のことにございます。わたくしは、我を見失っておりました。今思い返せば、恥ずかしゅうございます。」
それを聞くと、斉宣も言った。
「いや、それはわしも同じであった。すまぬ。」
それを見つめていた昌高は思い出したように、
「そう言えば、姉上に送る品は。」
と言うと斉宣は、
「もう送った。今頃、届いておろう。」
そう言うのを、昌高も笑顔で見つめていたのだった。
その頃、茂姫は部屋にいるとひさが入って来、
「あの、御台様にお届けものが届いております。」
そう言った。それを、茂姫は反応を示さずにただ見つめていた。
茂姫は夕方、一人でその箱の蓋を開けた。そこには黄色い布と文が入っていた。茂姫はその文を手に取り、読み始めたのだった。
『姉上。お久しぶりです。先日、父上が亡くなりました。これは、父上が姉上に送ろうとしていた生地にございます。遅れましたが、父上の遺言によれば、自由に使ってよいとのことにございます。』
茂姫は、黄色い布をめくってみた。すると、綺麗な柄の華やかな生地が見えてきた。茂姫はその生地を撫で、手触りを確かめた。そして、愛おしそうな表情をした。続きには、こうあった。
『それから、わたくしも父上から頂いた布で作った品を入れておきました。』
茂姫は、箱の隅に灰色の小さい袋があることに気付いた。茂姫は、その袋を取り、中のものを出してみた。それは、木彫りの仏であった。
『これは、父上が昔、わたくしに作って下さったものにございます。これを、父上の形見として、姉上に持っていて頂きとうございます。父上も、姉上に会いたがっておいででした故、これを父上とお思い下さい。さすれば、父上は姉上の中で生き続けられるでしょう。わたくしは、それをお祈り致しております。』
斉宣も、夕暮れの部屋で筆を走らせていた。
茂姫はその文を読みながら、再び涙を流していた。
『そなたの戦場は、城にある。』
『城?』
『夫を支え、子を作ることじゃ。それこそが、女子の戦と言うもの。』
『はい!』
自分が城に上がる日、重豪はそう言ってくれた。
『わたくしは何処へ行こうと、何をしようと、母上の子にございます。』
『於篤・・・。』
母のお登勢のために薩摩へ帰った時も、母との再会を隣で見守ってくれていたのは重豪であった。茂姫はそれらを思い出しながら片手で口を押さえ、
「父上・・・。」
と呟き、泣いていたのだった。
その夜、茂姫は家斉と月を眺めていた。
「わたくしは・・・、昔、父上に教わりました。女子の戦は、ここだと。夫を支え、子を作ることが、わたくしにとっての戦であると。ほんに、その通りでございました。わたくしはここに来て、辛いことも、悲しいことも多ございました。されどわたくしは、父上に言われたように、上様を支えるために必死になり、己の役目を全うしようとしておりました。それ故、今もこうして上様のお側におれるのだと思います。」
茂姫は家斉を見て言うと、家斉も言った。
「されどそのそなたを支えておったのは、そなたの父上だったのかもしれぬのぉ。」
「父上が・・・?」
茂姫は聞くと、家斉は言った。
「親というのは、子に気づかれぬところで見ておるものじゃ。見ておらぬようで、ちゃんと見ておるのじゃ。」
それを聞くと茂姫も嬉しそうに、
「そうでございますね。上様も、母上様達に見られておりましたね。」
と言うのを聞き、家斉は少し恥ずかしそうにした。すると茂姫は、
「ならば上様も、若様のことはしっかり見ているのでございましょう?」
そう聞くと家斉は、
「あ、あぁ・・・。」
と言った。茂姫は、
「ならば、もう少し信じても宜しいではありませぬか。」
そう言うので家斉は、
「そうじゃのぉ・・・。」
と答え、夜空で輝いている月を眺めていた。二人はその後も、暫く同じように月を見つめていたのであった。
次回予告
茂姫「父上はわたくしに生きる希望を与えて下された。」
乗寛「お世継ぎを?」
家斉「家慶に、家督を譲ろうと思う。」
茂姫「よくぞご決断なさいました。」
家慶「父上は、やはり身勝手すぎます。」
茂姫「心を開かねば、あちらも開いてはくれませぬ。」
水野忠邦「これは一大事にございますぞ。」
茂姫「新しいお寺じゃと?」
清茂「公方様直々のお許しが出た。」
家斉「そなたと話がしたい。」
茂姫「この時を、お待ちしておりました。」
次回 第四十八回「父から息子へ」 どうぞ、ご期待下さい!
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