茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第四十回 定永の密約

茂姫「喬子様。この度は、お帰り下さり、誠に嬉しく思うております。京では、大切なお方が亡くなり、さぞや心苦しかったことでしょう。」
喬子「わたくしは、徳川家を存続させるため、そして家慶さんの妻として、ここに戻って参ったのです。大奥のためでも、御台さんのためでもありませぬ。」
家斉「喬子は、徳川の人間になると言うたそうじゃ。」
茂姫「徳川の、人間・・・。」
家慶「そなたをこれからも、守り抜きたいのじゃ。」
茂姫「わたくしは、負けはせぬ。何があろうとも、どう思われようとも、あのお方の心を開かせてみせる。それが、次なるわたくしの使命なのじゃ!」
ひさ「はい。」
浄岸院(江戸城に戻ってきた喬子の心を開かせようと、茂姫は決心したのでございます。
    その一方で、また新たな動きがあったのでございます。)
日啓「溶の子を、お世継ぎにでございますか・・・。」
清茂「それにはまず、何処に嫁がせるかでござる。」
日啓「でも幕府側に知れたら、此度こそお終いにございますぞ。」
清茂「分かっております。そのくらいの覚悟がなければ、中野家や、この寺の発展は望めませぬ。」
浄岸院(揺れ動く戦いが、もう始まっておりました。)


第四十回 定永の密約

一八二〇(文政三)年一〇月。
浄岸院(喬子様がお戻り遊ばしてから二ヶ月余り、江戸には秋が訪れておりました。)
茂姫は、部屋で家斉に茶を点てていた。家斉が茶を飲んでいる間、茂姫は部屋から庭の紅葉を眺めていた。茂姫は、
「喬子様が戻られて、紅葉も去年までと違い、美しゅうございますね。」
と言った。家斉もそれを聞いて、茶碗を置いた。茂姫は続けて、
「また再び、お二人の間にお子が授かればよいのですが・・・。」
そう言うと家斉が、
「そなたは聞いておらぬか?」
と聞いてくるので茂姫も、
「えっ?」
と聞き返した。すると家斉は、こう話した。
「喬子は、家慶に側室を持てと申しておった。」
「側室・・・?」
茂姫が聞くと、家斉が話し始めた。
家慶と喬子が縁側に並んでいると、家慶は喬子の顔色を窺うように、
「喬子、どうした?」
と聞くと、喬子はこう言った。
「わたくしに・・・、次のお子を産めるでしょうか。」
すると家慶は微笑して、
「何を言っているのじゃ。」
と言うと、喬子は家慶を真剣な表情で見つめた。それを見て家慶も、少したじろいだ。喬子は続けて、
「お願いにございます。どうか、側室をお持ちくださいませ。もうわたくしには、子は産めませぬ。またあのようなことがあるのではないかと思うと、怖いのです。されどお世継ぎを儲けぬことには、徳川家は途絶えてしまいます。だからどうぞ、側室をお持ち遊ばしませ。」
そう言うので家慶も困ったように、
「そなた・・・。」
と言い、喬子を見つめた。喬子は、
「わたくしは、覚悟しております。仕方のないことやと。されど、わたくしが戻ってきたのは、あなた様の妻でいたいと、ただそれだけなのでございます。」
そう言うと家慶は、
「わしの妻は、そなただけじゃ。」
と言い、喬子を抱きしめていた。
その話を聞くと茂姫は、
「そうですか・・・。」
と呟いた。家斉が、
「あの者はどうするであろうのぅ。」
そう言っていると茂姫は真剣な顔になり、前に家斉が言ったことを思い出した。
『家慶が側室を持つことも認めておるそうじゃ。』
すると茂姫は顔を上げ、
「あの、上様。」
と言うと家斉が、
「何じゃ?」
そう聞くと、茂姫はこう聞いた。
「喬子様がもし、若様が側室をお持ちになることを認めておいでなのであれば、それはそれで、よいと思います。されど、喬子様の思いはどうなるのでございましょう?」
「思い・・・。」
家斉は、繰り返した。茂姫は続けて、
「わたくしも初めは、上様の側室に対して、恨みを持ったこともございました。それも次第になくなっていき、今は共に上様を支えたいと思うようになりました。でも喬子様は、純粋なお方にございます。もしも若様とその側室が仲睦まじくしていたら、今度こそあのお方は京に帰ってしまわれるのではないかとても不安なのです。」
そう言うので家斉は紅葉を眺めながら、
「そうじゃのぉ~。」
と、呟いていた。すると家斉は茂姫の方を見ると、
「それは、あやつ次第ではないか?」
そう言うので茂姫は暫く考え、こう言った。
「わたくしは、一度若様に話してみます。まことはどう思っておいでなのか、この耳で確かめとうございます。」
それを聞いた家斉は頷くと、茂姫も笑って家斉を見つめていたのだった。
茂姫はその後、家慶と向き合った。茂姫は、
「側室の件、あなたはどう考えているのですか?」
と聞くと、家慶がこう言った。
「喬子の気持ちは、有り難いと思います。されど、わたくしに左様なことはできませぬ。」
すると茂姫は、
「喬子様は、あなたに側室を持てと仰せられたのですよ?それに、そのことを伝えるためにどれ程の勇気がいったことか、わたくしにもわかる気が致します。」
そう言うので家慶は茂姫を見つめ、
「母上・・・。」
と言った。すると家慶は下を向き、こう話した。
「わたくしは、怖いのです。」
「怖い?」
茂姫が聞くと、家慶は言った。
「わたくしが側室を持てば、あの者は傷つくのではないかと。わたくしは、それが何よりも心配なのです。だから、あの者の気持ちを思うと、気が引けるのです。それに、あの者は、本当は辛い気持ちを隠しているのだと思います。自ら側室を持てと、まことの気持ちを隠してまでわたくしに気を遣って、それがどれ程辛いものか。」
それを聞いた茂姫は優しい表情をし、
「あなたは優しい。それだけで、喬子様を救っているのです。」
と言うので家慶が、
「救う・・・?」
そう繰り返すと、茂姫は言った。
「そのお優しが、あの方の救いとなれば、きっとわかって下さるでしょう。あなたの、御正室なのですから。」
「正室・・・?」
「喬子様は、あなたの妻として、共にいたいと、そう思っておられるのでしょう。その思いを無駄にしなければ、きっと今以上に心を通わせることができます。」
茂姫がそう言うので家慶は少し嬉しそうに、
「母上・・・。」
と言った。すると家慶は、
「そうですね・・・。母上に言われて、分かったような気が致します。」
そう言うので、茂姫も笑ってそれを見つめていたのであった。
浄岸院(年が明け、文政四年。)
一八二一(文政四)年正月、白河藩松平家。定永は、部屋で書状を読んでいた。定永は、
「これは・・・。」
と、呟いていた。
浄岸院(それは、白河藩が任されていた江戸湾警備の人数削減を求めたものでございました。)
定永はその夜、定信に話した。定永は、
「わたくしはもう、我慢出来ません。今よりも数を減らせば、今以上に藩に負荷がかかりまする。」
と言うので定信も、手を組んで考え込んでいた。定永は続けて、
「わたくしは、他の藩に頼み出ようと思います。引き受けてくれる藩も、きっとありましょう。」
そう言った。すると定信が眼を開き、
「わしに考えがある。」
と言うので定永は気になったように、
「考え・・・?」
そう言い、父を見つめていた。
浄岸院(その後、江戸では・・・。)
茂姫が何かの知らせを聞き、
「そうか・・・。」
と、微笑んでいた。すると前にいたお万が、
「はい。家慶様のご側室が、懐妊したとのことにございます。」
そう言うので茂姫も、
「喬子様は何と?」
と聞いた。するとお万が、
「ただただ、無事の出産を祈っておいでとか。」
そう言うのを聞いて茂姫は少し嬉しそうに、
「そうか・・・。」
と呟いた。すると、
「失礼仕ります。」
そういう声と共に、女中が入ってきて文を差し出した。
「白河藩の、松平定信様からでございます。」
女中が言うので茂姫は意外そうな顔をして、
「定信が・・・?」
と聞いた。その文を茂姫の側にいた花園はなぞのが受け取り、茂姫に渡した。茂姫はその文を広げ、読み始めた。そして、
「領地替え?」
と呟くとお万が、
「如何なさいました?」
そう聞くので茂姫は、
「あ、いや・・・。」
と言い、ただその文を見つめていたのだった。
その後、茂姫は家斉に話した。
「幕府に、領地替えを求めてきているそうにございます。」
茂姫はそう言うと家斉は、
「そうじゃのぉ。」
と言い、茂姫はこう聞いた。
「上様は、如何なさるおつもりですか?定信は、上様が将軍になった際、誰よりも近くであなた様を支えてこられたお方。恩義はあるはずです。」
すると家斉が、
「そうは言うが、藩を手放すということは、民を見捨てるということにもなり兼ねぬからのぉ。」
と言うと茂姫が、
「されど、領地替えは藩を交替するということにございます故、新しく入った藩主が国を治めることになりましょう。」
そう言った。すると家斉は、
「しかし、その者はもう同じ場所へは戻って来れぬ。即ち、藩と共に民をも手放すのじゃ。」
と言うと茂姫は、
「そのような・・・!」
そう言っていると、家斉がこう言った。
「しかしまぁ、あの者らしいの。」
家斉がそう言っているのを、茂姫はただ見つめていたのであった。
松平家では、定永が定信から話を聞かされた。
「わしから幕府に、領地替えのお許しを願い出た。」
それを聞いて定永は驚き、
「そんな・・・、わたくしは納得がいきません!」
と言うと定信が、
「他に、手立てがあるというのか。」
そう聞いてくるので定永は暫く黙り、こう言った。
「・・・あります。」
それを聞き、定信は定永を見つめた。定永は続け、
「佐倉藩の、堀田殿に警備を引き受けて下さるよう、願い出ようかと思います。佐倉藩は、我が藩と同規模故、引き受けてもらえるかと。」
そう言うので、定信はこう言った。
「わしが思うに、転封は免れぬであろう。」
それを聞いた定永が、
「しかし、この藩を残して去るなど・・・。」
と言うのを聞き、定信はこう言った。
「それが、定めというものじゃ。」
「定め・・・。」
定永はそう言いながら、父である定信を見つめていたのだった。
薩摩藩邸では、斉宣がいつものように書を読んでいた。すると広郷が来て、
「失礼致します。斉宣様に、お客人が。」
と言うので斉宣は書を閉じ、
「直ぐに参る。」
そう言うと、立ち上がった。部屋に入ると斉宣は、
「定永殿・・・。」
と呟いた。すると定永は、
「急にお邪魔して、申し訳ない。」
そう言うと斉宣は座りながら、
「よいのです。して、今日は何か?」
と聞いた。すると定永が、こう言った。
「また、江戸湾警備の人手が減らされました。」
それを聞いた斉宣が、
「もしや、薩摩の手を借りたいと?」
と聞いた。すると定永は慌てたように、
「いや。わたくしは、佐倉藩に転封について話してみようと思いまして。」
そう言うので斉宣は、
「転封?治める藩を、替えるということですか?」
と聞くと、定永言った。
「いえ。あくまで、話だけでも持ち掛けてみようかということです。ちちからも、進められました。」
それを聞いて斉宣が、
「そうですか・・・。」
と言っていると、定永はこう言うのだった。
「ただ・・・、怖いのです。」
「怖い、ですか?」
斉宣が聞くと、定永はこう言った。
「受けれてもらえるかということもあるのですが、父上が偉業をなしてこられただけに、わたくしに何ができるのかと。また、他の藩からも白い目で見られるような気がして・・・。」
それを聞いた斉宣は薄く微笑み、
「それは、皆も同じです。」
と言うので、定永は顔を上げて斉宣を見た。斉宣は続けて、
「わたくしも、父から家督を継いだ時はとても戸惑いました。されど、次第にわかるようになったのです。この時、父ならどう対処するか・・・。最後は、行き違ってしまいましたが。」
と言い、笑顔で誤魔化した。それを聞いた定永も笑い、
「そうですね。いやー、わたくしは何故あれ程悩んでいたのでしょうか。あなたに言われて、やる気が出ました。ありがとうございます。」
そう言うので斉宣も、
「そのような。わたくしは何も。」
と言った。そして二人は、笑いながら見つめ合っていたのであった。
浄岸院(そして、定永殿は佐倉藩主・堀田ほった正愛まさちかに目通りしたのでございます。)
正愛は定永に、
「今日は、どういった用件でございましょう?」
と聞くと、定永はこう言った。
「我が白河藩は、今人手不足という大事に達しております。そのため、同か佐倉藩への転封を申し入れたいのです。」
それを聞いた正愛は驚いたように、
「お待ち下さい。何故、我が藩なのです?」
と聞くと、定永は答えた。
「佐倉藩は、白河藩が警備を任されている江戸湾にも近く、大きさもさほど変わりませぬ。そのため、どうかお願い致します!」
そして定永は、頭を下げた。それを聞いて正愛は、
「折角にございますが、お断り申し上げます。」
と言うので、定永は顔を上げた。正愛は続けて、
「そのような理由であれば、お受けできません。我が佐倉藩も、今で精一杯なのです。御免!」
そう言うと軽く頭を下げ、立ち上がって部屋を出て行った。定永はその後、一人部屋で悔しそうな表情を浮かべていた。
その夜。定永は、父と話した。定信はそれを聞き、
「そうか・・・。無理であったか。」
そう言うと定永が、
「されどわたくしは、まだ諦めてはおりませぬ。何としてでも、認めさせます。」
と言うので定信も頷き、
「そうじゃ。その意気じゃ。」
そう言うと立ち上がり、部屋を出ていった。すると定信は、小声でこう呟いた。
「頑張るのじゃ、定永。」
一方、部屋を出た定永は廊下を暫く歩くと立ち止まり、そこから月を眺めていた。そして暫く、満月を眺めていたのであった。
一方、佐倉藩では話し合いが行われていた。堅田藩主・年寄の堀田ほった正敦まさあつは、
「まったくもって、不可解にございます。我が藩に転封を申し出るなど。」
そう言うと、正愛がこう言った。
「しかし、それを受けてしまってはこちらにも負荷がかかってしまう。」
すると正敦は、
「当然も当然。易々と引き受けてはなりませんぞ!」
と言った。すると正愛が、
「松平殿のお父上は昔、幕府の老中として優秀だったと聞く。」
そう言うと、正敦がこう言った。
「しかしその息子には、あまり父のように人々を震撼させるものを感じませぬ。所詮は、諸藩の藩主。これからも別段、変わりはないでしょう。」
それを聞いた正愛は、こう言った。
「しかしわたくしは、あれで引き下がらぬと思うのじゃ。」
「それは?」
正敦が聞くと正愛は笑い、
「あ、いや。そのような気がしただけじゃ。」
と言って目をそらすのを、正敦は気になったように見つめていた。
その頃、大奥では茂姫や他の中臈達が茶菓子を食していた。お万が、
「若君様も、やっと喬子様にお渡りがあったそうにございます。」
そう言うので茂姫が、
「まことに、あれでよかったのであろうか?」
と聞くと、ひさもこう言った。
「喬子様もお認めであれば、あとはお世継ぎだけにございますね。」
するとお万が、
「また、お美代辺りがしゃしゃり出ぬとようございますが・・・。」
と言うのを聞き、茂姫は考えていた。するとひさが、
「そう言えば、老中の方がよく大奥に出向いているとか。」
そう言うので茂姫が怪訝そうに、
「老中がじゃと?」
と聞いた。するとひさは少し焦ったように、
「あ、はい。」
そう言っていると、茂姫の前にいた登勢もこう言った。
「わたくしも、聞いたことがあります。夜になると、中臈と密会しているとの噂も。」
「密会じゃと?」
茂姫が聞くとお万が、
「他の女子達にも、影響が出ぬとよいのですが。」
そう言うのを聞き、茂姫は不安そうにしていたのだった。
その夜。三人の女中が仕事を終えて部屋に戻ろうとしていた。前にいた二人の女中は、
「御奉公と言ってもやらされるのは雑用ばっかり。早く御年寄の方達みたいに威張り散らしてみたいわ。」
「でも、なれる人は限られているのよね。」
と、文句を言っていた。それを後ろで樽を持ちながら歩いていたたきという女子は、それを聞いていた。そして角を曲がった時、歩いてきた男と接触し、樽が落ち、中の水がその男にかかった。男は、
「お主、何をしておる!」
と言うのでたきは手をついて、
「申し訳ございませぬ!」
そう言って頭を下げた。それは、老中・大久保おおくぼ忠真ただざねであった。大久保は、
「許さぬ。」
と言って、刀に手をかけた。たきは、
「どうかお許し下さいませ!」
そう言い、必死に懇願した。二人の女中も戻ってきて一緒に手をつき、
「お願い致します、お許し下さいませ!」
と言って頭を下げた。するとその声を聞きつけた茂姫が女中を連れて、
「何の騒ぎじゃ。」
そう尋ねた。すると大久保が、
「御台様。この者が、わしに水をかけたのでございます。」
と言うとたきは、
「決してわざとではございませぬ!」
そう言うので大久保は、
「ええい、黙れ。このままでは、気がおさまらぬ!」
と言っているので、茂姫は大久保にこう聞いた。
「そう言うそなたは、ここで何をしておったのじゃ。」
すると大久保の顔色が変わり、
「それは・・・。」
そう言っていると、茂姫は思い出したようにこう言った。
「まさか・・・、ここに目当ての女子でもおるのか?」
それを聞いた大久保は慌てた様子で、
「そのような!」
と言うと、たきの側にいた一人の女中がこう言った。
「わたくしも、聞いたことがございます。大久保様は、女子を持て余していると。」
それを聞いた大久保は、
「おのれ、どこでそれを!」
と言った。それを聞いて茂姫は、
「それはまことなのか?」
そう言うので大久保は諦めたように跪き、
「申し訳ございませぬ!」
と言うのだった。それを見て茂姫は、
「ならば、認めるのか?」
そう聞くと大久保は顔を上げ、
「はい!」
と答えた。茂姫は、
「公方様には伝えておく。どのような罰が下っても仕方なかろう。よいな?」
そう言うのを聞いて大久保は、
「は、ははぁ。」
と言い、頭を下げていた。それを、たきも見つめていたのだった。
翌日。大久保は、家斉に召し出された。大久保は頭を下げて、
「申し訳ございませぬ!」
と言った。すると家斉は、
「そなたも、大人げないことをしたものじゃのぉ。」
そう言って呆れていると、大久保はこう言った。
「これからは己の役目を心得、それを全ういたしまする故、此度だけは御勘弁の程を!」
すると家斉は、
「わかった。許そう。」
と言うので、大久保は顔を上げた。家斉は大久保を見つめ、
「此度は御台に感謝せねばな。」
そう言うのを聞いた大久保は、
「はっ?」
と言い、家斉を見つめていた。
その頃、茂姫は縁側に立っていた。すると、
「失礼致します。」
と言い、ある女中が来て頭を下げた。それは、たきであった。たきは顔を上げると、
「この度は危ないところを救って下さり、ありがとう存じます。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「そなたは、何故大奥に入ったのじゃ?」
それを聞いてたきは困ったように、
「何故・・・、と言われましても・・・。」
と言っていると茂姫は笑顔でたきの方を見ると、
「よい。それより、名は何といった?」
そう聞くと、たきは答えた。
「あ・・・、たきと申します。」
すると、茂姫はこのようなことを言った。
「たきか・・・。そなたは将来、この大奥一千人を取り仕切ることになるやもしれぬな。何やら、そのような気がするのじゃ。」
そう言うのでたきは微笑して、
「わたくしにそのような素質など・・・。」
と言うと茂姫は、
「わたくしにはわかる。きっとそなたは、この大奥で大きいことを成し遂げるであろう。それにそなたは、わたくしの母に似ておる。」
そう言うのを、たきは見つめていた。そして茂姫は目線を庭に戻すと、散ってゆく桜をただ眺めていたのであった。
戻って松平家では、定信と定永が再び話していた。定永は、
「父上。わたくしはもう一度、佐倉藩の堀田殿に会って参ります。何事もなく引き下がるのは、父上の顔に泥を塗ってしまうようで・・・。」
そう言うのを聞いて定信は、
「定永・・・。」
と呟いた。定永は顔を上げると、
「わたくしは、己の思いを貫きとうございます。この藩のためにも、父上のためにも。」
そう言うと、定信がこう言った。
「行ってもまた断られたらどうするつもりじゃ。」
「それは・・・。」
定永はそう言って固まるので定信が、
「わしに一つ、提案がある。」
そう言うのを聞いた定永は、
「提案にございますか?」
と聞くと、定信は頷いていた。
その後、定永は再び佐倉藩主の堀田正愛に会った。
「江戸湾警備を、我が藩に託すですと?」
正愛が聞くと、定永がこう言った。
「はい。実は、我が藩を桑名に移すという話が参ってきております。」
それを聞いてすぐ側にいた正敦も、
「何と・・・!」
と、声を上げた。そして定永が、
「そうなれば、江戸湾警備を佐倉藩にやって頂きとうございます。何卒、お願い致します!」
と言い、頭を下げた。正愛と正敦は互いを見つめた。暫く沈黙が流れると、正愛がこう言った。
「わかりました。」
すると、定永は顔を上げた。予想外の対応に定永は少し戸惑ったように、
「宜しいのですか?」
と聞くと正愛が、
「お引受致します。」
そう言うのを聞いて定永は嬉しそうに笑い、
「ありがとうございます!」
と言って、軽く礼をした。すると定永はまた顔を上げると、
「もう一つ、お願いしても宜しいですか?」
そう言うのを聞いた正愛が、
「何でしょう。」
と聞いた。すると、定永はこう言うのだった。
「そのお話、呉々も内密に願いたいのです。」
それを聞いて正愛は、
「それは何故でございましょうか。」
と聞くと、定永は言った。
「今、このことが明からさまになると、きっと反対する者もおりましょう。これから両藩は、新たな改革を目指して取り組まねばならぬ時。それ故、各地で暴動など起これば、たちまち藩が乱れてしまいます。そうならぬよう、三人だけの間に留めておいてもらいたいのです。」
それを聞いて正愛は、
「そういうことであれば、そう致しましょう。」
と言うので定永は嬉しそうに、
「ありがとうございます!」
そう言い、また深々と頭を下げていたのだった。
帰った定永は定信に報告すると定信も嬉しそうに、
「そうか。うまくいったか。」
と言うと、定永はこう言った。
「これも全て、父上のお蔭にございます。」
それを聞くと定信は、
「そのようなことはない。わしはただ、助言したにすぎぬ。全部、そなたの手柄じゃ。よくやった!」
と言った。そして、二人は嬉しそうに見つめ合った。
浄岸院(それから半年後・・・。)
大奥には美代の父・中野清茂が来ていた。美代が、
「父上様。此度は、何の御用ですか?」
と聞くと、清茂がこう言った。
「あぁ、駿府でな・・・。」
「駿府?」
「あ、いや。そなたの娘達は元気にしておるか?」
清茂が聞くと美代が、
「はい。」
と答えると娘が二人、
「じじ上!」
と言いながら走ってきた。それはどちらも美代の子で、溶姫やすひめ末姫すえひめであった。清茂は二人を見ると、
「おぉ、元気にしておったか?」
と言い、二人を抱いた。すると侍女が来て、二人を連れて出ていった。すると美代が、
「また・・・、例の溶の嫁ぎ先の件ですか?」
そう聞くと、清茂は言った。
「あぁ。実は加賀の前田まえだ斉広なりなが様のご長男にと考えておる。」
すると、美代はこう言った。
「そのお話、お受けできません。」
すると清茂が、
「何故じゃ。」
と聞くと、美代は言った。
「娘の嫁ぎ先は、公方様がお決めになることでございます。それに父上は、溶が産んだ子を将軍にしようと目論んでおいでにございましょう。わたくしは、もうその話はたくさんにございます。」
すると、部屋の前を偶然お万が通りかかった。お万は、部屋の方に耳を傾けた。清茂がそれに気付くはずもなく、
「中野家と繋がりのある者が次の将軍になれば、きっとこの国は豊かになろう。そなたも、楽になれるのじゃ。どうか、そなたから公方様に頼んでみてはくれぬか。」
そう言うので、美代は黙った。清茂が、
「頼む。」
と言うと、美代は微かに頷いた。清茂も、安心したような笑みを浮かべていた。お万も、その会話を、ずっと聞いていたのだった。
「お美代が未だ父と繋がっておるじゃと?」
茂姫は言った。お万が、
「如何致しましょう。」
と聞くと茂姫が言った。
「そのままでよい。」
すると側にいたひさが、
「しかし・・・。」
と言うと、茂姫はこう言うのだった。
「今相手を刺激すれば、相手の思う壺じゃ。今は様子を窺う方がよいであろう。」
そして茂姫はお万を見ると、
「他の者には、そう伝えるように。よいな?」
と言うのでお万は、
「はい。」
と答えた。そして茂姫は、こう呟いていた。
「そうか・・・。まだ繋がっておったか・・・。」
その頃、駿府台の中野家では清茂と日啓が密会をしていた。日啓が、
「お美代の様子は?」
と聞くと、清茂がこう答えた。
「あぁ。何とか、受け入れてくれました。」
それを聞いた日啓は、
「そこで公方様がお味方になってくれたら、我らに怖いものなしですなぁ。」
と言った。清茂は、
「されど、御台様がお知りになったらきっと反対遊ばすでしょう。」
そう言うので、日啓も難しい顔をした。清茂が、
「兎にも角にも、早く婚約を成立させねば。」
と言うと日啓が、
「されど、溶はまだ九つにございます。」
そう言うのを聞いた清茂は、こう言った。
「早ければ早いほど、ようござる。ぐずぐずしておると、いつ邪魔が入るかわかったものではございませぬ。」
日啓が、
「それはそうですが・・・。」
と言うと、清茂は言った。
「わたくしに全てお任せあれ。日啓殿の寺も、今よりもきっと繁盛させてみせまする。」
それを、日啓はただ茫然と見つめていたのだった。
薩摩藩邸では、重豪が座っていた。重豪が書を読みながら、
「段々と、寒うなってきたな。」
と言うと斉興が、
「そうですね。」
そう答えると、重豪が言った。
「於茂は、今頃どうしておるであろうのぅ。」
と、不意に呟いた。すると斉興が、
「あの。伯母上は、どのようなお方なのですか?」
そう聞くと、重豪はこう言った。
「そうじゃのぅ。なかなか筋の通った、言うなれば前しか見ぬ女子であった。」
それを聞いて斉興が、
「前しか見ぬ・・・。」
と呟いた。すると重豪は、
「今あの者に一番会いたいと思っておるのはわしではなく、斉宣かもしれぬな。」
そう言うので斉興も笑い、
「そうでございますね。」
と言っていた。その頃、斉宣は自室から縁側に出て、夕暮れの空を眺めていたのだった。
その頃、茂姫も同じように大奥で縁側に立っていた。その側には、ひさとたきが座っていた。茂姫が二人に、こう話しかけた。
「のぅ。そち達は、海の向こうを見たいと思ったことはあるか?」
それを聞いてたきは、
「はい・・・。」
と答えた。茂姫は続けて、
「わたくしは見たい。海の向こうに広がる世界を。それにはまず、己と、他人を信じることから始めようと思う。信じることで、考え方も変わる。そうは思わぬか。」
そう言うのを聞き、二人は顔を見合わせた。そして茂姫は続けて、
「考え方が変われば、きっと見える世界も変わるであろう。わたくしは、もっと人を信じたい。もっともっと、広い世界を見るために。」
そう言うと、たきもこう言った。
「わたくしも、そう思います。ご自分の信じた道を行けば、どれ程よいか。」
茂姫はそれを聞いて庭を見つめながら、
「そうじゃな。つまらぬことでいがみ合うていても、何も始まらぬ。わたくしは、如何なる人とも腹を割って話し合うてみたいものじゃ。そち達ともな。」
そう言うので二人は、
「はい!」
と、答えた。茂姫はそれを聞き、笑っていた。
浄岸院(こうしている間にも、新たなる危機がすぐそこまで迫ってきていたのでございました。)


次回予告
茂姫「呪いじゃと?」
たき「呪い、でございますか。」
酒井忠進「立て続けにお子を亡くされては・・・。」
お万「先代将軍の御嫡男、家基様の呪いではないかとの噂も。」
喬子「他の者達にも、わたくしと同じ苦しみを味わってくれればと。」
家慶「これ程までに辛いとは。」
茂姫「まだ焦ることではない。」
定永「父上が、企んでいる・・・?」
茂姫「三方両替にございますか?」
定信「人にはそれぞれ、信念の貫き方がある。」
重豪「面白い。」
茂姫「わたくしにも、何かできることがあるはずじゃ。」



次回 第四十一回「呪われた大奥」 どうぞ、ご期待下さい!

コメント

コメントを書く

「歴史」の人気作品

書籍化作品