茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三十七回 災禍の日々

一八一四(文化一一)年一一月。江戸城の庭一面に落ち葉が広がっていた。その庭を、茂姫は宇多や女中などを連れて歩いていた。茂姫が下を見つめながら、
「もうすぐ冬じゃのぉ・・・。」
と呟いていると、遠くを目にしてこう言った。
「あれは・・・。」
茂姫が目にした方には、家慶と喬子が赤子を挟んで座っていた。仲睦まじそうな二人を見て茂姫は、
「何と、良きめおとじゃ。」
そう微笑みながら呟いていた。茂姫がその光景に見とれていると宇多が、
「御台様。」
と声をかけた。すると茂姫は気が付いたように、振り向いてこう言った。
「この平穏な暮らしがいつまでも続くよう、祈って参ろう。」
それを聞いた宇多も嬉しそうに、
「はい。」
と、頷いていた。茂姫はまた二人がいる方向を向いて、
「わたくし達も、良き手本を見せねばならぬ。」
そう呟いていたのであった。


第三十七回 災禍の日々

茂姫は廊下を歩いていた、茂姫は部屋の前で足を止めると、振り返ってこう聞いた。
「他の者達はどうしておる?」
すると宇多は答えた。
「はい。冬に備え、支度を始めております。」
それを聞いて茂姫は、
「呉々も身体をこわさぬようにと、側室達にも伝えておくように。」
と言うので宇多は、
「はい。承知致しました。」
そう言って、頭を下げた。すると茂姫は向こうを目にし、
「若様・・・!」
と言った。そこには、家慶が立っていたのだった。
その後、茂姫と家慶は部屋で向かい合った。茂姫が、
「どうなのですか?妻とお子は。」
と聞くと家慶は少し照れながら、
「はい・・・。上手くやっております。」
そう答えた。それを聞いて茂姫も嬉しそうに、
「そうですか・・・。大事なお世継ぎです。大切に、育てるのですよ。」
と言うと、家慶がこう言った。
「母上、そのことなのですが。」
「何ですか?」
「はい。竹千代が、この間から、具合があまり良くないのです。」
家慶がそう言うと茂姫は、
「具合が?」
と聞くと家慶は、
「はい。ここ数日、食べさせようとしてもろくに食べず、侍女達は困り果てております。」
そう言うので茂姫は心配そうに、
「医師には、診てもらったのですか?」
と聞いた。すると家慶は、
「はい。見せるには見せたのですが、医師にも原因がわからぬと。」
そう言うのを聞いて茂姫が、
「そうですか・・・。」
と言って考え込むと、顔を上げてこう言った。
「何か、良き薬がないか聞いてみます。それまで、様子を見守っていて下さい。」
それを聞いて家慶も、
「はい。」
と答えていたのだった。
浄岸院(しかし、その年もくれに差し迫った頃・・・。)
「竹千代が・・・、亡くなったじゃと?」
茂姫が、愕然と呟いた。宇多も俯いたまま、
「はい。」
と言うので茂姫は信じられぬといった顔で目に涙を溜め、立ち上がった。そしてそのまま、部屋を出て行くのだった。それを数名の女中が、追いかけていった。
茂姫が部屋に入ると、布団が敷かれていて、そこには遺体が寝かされている。その両側には、家慶と喬子がいた。家慶が入って来た茂姫を見て、
「母上・・・。」
と、呟いた。茂姫は、恐る恐る遺体に近付いた。そして家慶が、顔を覆っている白い布を捲った。そして、死体とは思えぬ綺麗な幼い顔があった。側についていた奥医師は、
「まことに、残念にございます。」
と言って、頭を下げていた。喬子は竹千代の手を握ったまま、ただ声を上げて泣いていた。茂姫は、それを黙って見ているしかなかった。
浄岸院(その僅か数日後。)
茂姫が振り返りざまに、
「またご懐妊?」
と聞くと、宇多はこう言った。
「はい。三日ほど前から身体の調子が悪いと仰せになり、昨日医師に診てもらったところ、それがわかったそうにございます。」
それを聞くと茂姫は、
「そうであったか。喬子様の気持ちを考えると、わたくしはどうしてよいのかわからなくなる。わたくしに、何が出来るのか・・・。」
と言うので宇多も俯き、
「はい・・・。」
そう答えていたのだった。
その頃、部屋では家慶と喬子が話していた。家慶が喬子のお腹に手を当て、
「そなたが元気を出さねば、この子も生まれてきた時に笑えぬではないか。」
と言うと、喬子はこう言った。
「わたくしは、思うたのです。わたくしが、あの子を死なせてしまったのではないかと。」
「そなたが・・・?」
喬子は続けた。
「わたくしがもっと早うに様子に気付いていれば、あのようなことには。」
それを聞いて家慶が、
「そなたのせいなどではない。」
と言いきった。喬子が家慶を見ると、家慶はこう言った。
「もう己を責めるのはやめよ。そなた自身が、悲しみを引きずったままだと、これから生まれてくる子もまた、元気に生まれてくることはできぬ。そなたの思いは、きっとこの子にも通じるであろう。」
喬子はそれ聞いて、
「若様・・・。」
と呟くと、家慶も笑顔で頷いてこう言った。
「わたくしとて、そなたの気持ちは、わかっておる。安心するがよい。」
それを聞いた喬子は嬉しそうに、こう言った。
「次こそ・・・。次こそは、大きゅう育って欲しいと思います。」
それを聞き、家慶はまた頷いた。そこへ、
「失礼仕ります。」
と言い、茂姫が入って来た。茂姫が、
「二度目のご懐妊と聞き及び、このようなものをお持ち致しました。」
そう言うと、侍女達が玩具や着物が入った箱を持ってきた。それを見た家慶は、
「これは・・・、母上が?」
と聞くと茂姫は笑顔で、
「これくらいしかできませぬが、どうか受け取って下さい。」
そう言うので家慶は、
「痛み入ります。」
と言って頭を下げた。喬子も、同じように頭を下げていた。茂姫は、喬子の様子を同情したように伺っていたのであった。
浄岸院(一方、こちらでは・・・。)
白河藩の松平家。定永が、
「領地替え?他所の藩へ移るのですか?」
と怪訝そうに聞くと、定信がこう言った。
「幕府から、そのような話を持ちかけられた。言わば、三方領替えじゃ。」
「三方領替え・・・。」
定永は呟いた。すると定永が、
「わたくしは、もう暫く白河に残りとうございます。江戸湾警備の人数削減もあり、今は藩の財政が傾いております。それ故、幕府にお願いできないでしょうか。」
そう言うので定信が、
「人事を尽くし、天命を待つか・・・。」
と遠くを目にしながら呟くので定永も、
「はい!」
そう言って、定信を見つめた。
その夜。定永は机に向かい、文をしたためていた。
浄岸院(幕府より三方領替えを命じられていた定永は、幕府に当てて建白書をしたためたのでございます。
それから年が明け、二月七日。)
江戸城内に、産声が響いていた。喬子が、笑顔で赤子を抱いていた。
知らせを受けた茂姫は、
「そうか・・・。お産みになったか。」
と、安心したように言った。宇多も、
「喬子様も、すっかり笑顔を取り戻されたようにございます。」
そう言うので茂姫も嬉しそうに笑い、
「それは良かった。また、平和が訪れそうじゃな。」
と言うので宇多も、ひさと顔を見合わせながら嬉しそうにしていた。
浄岸院(生まれた赤子は、じゅうと名付けられたのでございます。)
子を抱いている喬子の手を、家慶が握った。それを見て喬子も、笑っていたのだった。
浄岸院(それとほぼ同じ頃、薩摩から藩主斉興が江戸の藩邸へと戻ってきておりました。)
斉興が上座にいると出迎えた昌高が、
「お帰りなさいませ。此度の無事の江戸入り、皆安堵しておりまする。」
と言い、頭を下げた。斉興の傍らにいた重豪は、
「此度、薩摩から数名連れてきたというが。」
そう言うと昌高は顔を上げ、
「はい。皆、殿の警護に当てております。」
と言うのを聞いて重豪は、
「うむ。」
そう言い、斉興を見てこう聞いた。
「斉興は、藩主になって初めての国入りであったな。向こうはどうであった。」
それを聞いて斉興は、
「はい。やはり、上級の者と下級の者の格差が大きいと実感致しました。」
と言うのを聞き、重豪は怪訝そうな顔になった。すると斉興は、
「あ、いや。されどこれはおじじ様や父上のせいなどではなく、やはり生まれ持った運命なのかと。」
そう言った。それを、昌高もただ見つめていた。重豪は、
「そうか・・・。」
と呟いていた。斉興は、これからを考えるような目をしていたのだった。
浄岸院(その僅か三日後・・・。再び大奥に、悲劇が起こったのでございました。)
一八一五(文化一二)年二月一〇日。茂姫が、
「また・・・、亡くなった・・・。」
そう部屋で呟いていた。
浄岸院(せっかく生まれてきた新たな命が、消えてしまったのです。)
家慶が布を捲ると、赤子が眠っていた。その寝顔のような顔を見て喬子は、泣き崩れていた。家慶も今度ばかりは応えたのか、何も言えずに悔しそうな顔をしていたのだった。
翌朝。茂姫は、部屋で宇多に尋ねた。
「喬子様は、今はどうされておるのじゃ。」
宇多は首を傾げ、
「さぁ・・・。」
と答えた。茂姫はやるせなさそうに、
「せっかく揃えた道具も、また台無しになってしもうた。」
そう言っていると宇多の横にいたひさが、
「何か、わたくしたちにもして差し上げることはないのでしょうか。」
と言うのを聞いて茂姫が、
「そうじゃのぅ・・・。」
そう言って考えると、こう言った。
「やはり、本人に会って確かめることじゃ。」
すると茂姫は立ち上がり、部屋を出て行った。それを見て、二人も追いかけていった。
喬子は、部屋で上の空であった。そこへ、
「失礼致します。」
と言い、茂姫が現れた。茂姫は喬子の前に座ると、
「喬子様。此度の一件、まことに、お悔やみ申し上げます。」
そう言って、礼をした。喬子も、黙ってそれを見つめていた。茂姫は顔を上げると、
「されど、いつまでも落ち込んでいるわけには参らぬでしょう。どうか、元気をお出し下さい。そうすれば、喬子様もまた次の・・・。」
と言いかけると、喬子が言った。
「わたくしの気持ちは、他の誰が理解できるものではあらしゃいません。」
「喬子様・・・、されど・・・。」
また茂姫が言おうとすると喬子は聞かず、
「もう!ほっといて下さい。わたくしは、二人の子を亡くしたのです。その悲しみが如何に深いものか、誰にも、御台さんにもわかりませぬ。」
そう言って立ち上がり、部屋を出て行こうとした。茂姫が慌てて、
「喬子様!」
と呼ぶと、喬子は振り返らずに行ってしまった。茂姫はその後、思い詰めたような表情になっていた。それを後ろで、宇多も心配そうに見つめていたのであった。
その後、喬子は一人部屋で机に伏せて泣いていた。するとふと、父の言葉が蘇った。
『江戸に行っても、しっかりやるのやぞ。』
それを思い出すと、喬子はまた顔を机に伏せて泣き続けていたのだった。
その頃、茂姫は縁側に立って庭を見つめていた。そして茂姫は、こう呟いていた。
「喬子様の悲しみは、思うた以上に深かった・・・。」
それを聞いて宇多も後ろに座りながら、
「はい。」
と、答えていた。茂姫は目に涙を溜めながら、
「我が子を亡くすこと以上に、辛いことなどない。敦之助の時に、初めてそう思うた。喬子様は、わたくしが以前感じた悲しみを、二人分味わっておいでなのじゃな・・・。」
そう言っているのを、宇多も見つめていた。茂姫は、涙を流していた。
一方、薩摩藩邸では斉宣の所に斉興が来ていた。斉興が斉宣に文を渡し、
「これを、父上にと。」
そう言うので、斉宣は宛名を見た。そこには、『享』という文字が書かれていた。斉宣は、
「これは・・・。」
と呟くと、斉興がこう言った。
「父上に、渡して欲しいと頼まれたのです。これで最後だと。」
それを聞いた斉宣は、
「享・・・。」
と呟き、思い出した。
『来てしまいました。』
『わたくしのことは、どうか忘れて下さい。』
『お父上様に、御意志を伝えてみてはどうですか?』
『どうか、動乱が起こらぬよう、願うております。』
斉宣はそれらを思い出すと、
「あの者は、まっすぐな女子であったな。」
と言うので斉興も、
「父上のことを、頼むとも仰せでございました。」
そう言うのを聞いた斉宣は斉興を見て、
「享が、そう言っておったのか?」
と聞くと、斉興がこう言った。
「はい。父上には、過去にとらわれず、まっすぐに進んで欲しいとも。」
それを聞くと斉宣は嬉しそうに、
「あの者らしいの・・・。」
と言い、文をただ見つめていた。
その後、斉興が重豪にそのことを報告すると重豪は、
「ほぅ、うまくいったか。」
と言うので、斉興がこう言った。
「はい。たいそう、嬉しがっておいででした。」
重豪はそれを聞き、
「わしが書いた文であることは?」
と聞くと斉興が、
「それは、言ってはならぬのでございましょう?」
そう言うので重豪は笑い出し、
「そうじゃな。」
と言って、続けてこう言った。
「何にせよ、あやつと茂は、素直さだけが売りじゃの。」
それを、斉興も嬉しそうな顔で見つめていたのであった。
大奥ではある日、広間で女性達がお菓子を配っていた。上座に座っていた茂姫がふと側を見ると、喬子の姿があった。宇多が喬子の所へお菓子を持って行き、
「喬子様。お一つ、如何でございましょう。」
と言うと喬子は首を振り、
「わたくしは結構です。」
そう答えるのだった。宇多は茂姫の所に戻ってくると、
「ここ暫く、ずっとあのようなのです。」
と言うので、茂姫はゆっくりと立ち上がった。そして茂姫が喬子の前に座ると、
「わたくしに出来ることがあれば、何でも仰って下さいませ。」
と言った。それを、向かい側でお万をはじめ、側室達も緊迫したように見つめていた。喬子が茂姫に答えずにいると、茂姫が笑ってこう言った。
「いつまでも落ち込んでおられると、ご自身のお身体にも触りますよ。」
それでも喬子は答えずにいるので茂姫が、
「喬子様。」
と呼んだ瞬間、
「もう関わらんといて下さい。」
と、喬子が俯きながら言った。喬子は顔を上げ、続けた。
「ほっといて下さいと、前にも申したはずです。わたくしの気持ちなど理解しておられぬ故、左様なことを仰せになれるのです。」
それを聞いた茂姫は首を細かく振って、
「違います。わたくしはただ・・・。」
と言うと喬子は、
「今更綺麗事は結構です。」
そう言うので、茂姫は黙って喬子を見つめた。喬子は続け、
「わたくしは・・・、わたくしの気持ちは・・・、わたくしにしかわからぬのです。」
と言った。茂姫は菓子が載った皿を取り、差し出しながらこう言った。
「ならば、せめてお一つ召し上がって下さい。これを食べれば、必ず元気に・・・。」
茂姫が言いかけると、喬子は片手で皿を払った。すると菓子が、ころころと畳を転がった。周りにいた女性達は、呆然とその光景を見つめた。茂姫が、
「喬子様・・・、何ゆえ・・・。」
そう言うと、喬子がこう言った。
「お願いやから・・・、もうわたくしに関わらんといて下さい。」
すると、茂姫がこう言った。
「わたくしは・・・、喬子様のことが心配なのでございます。子を亡くした辛さは、わたくしにも良くわかります。ならばこそ、悲しみを乗り越える意味があると存じます。」
それを聞いた喬子は、
「心配される筋合いなどございません。わたくしの気持ちなど、おわかりでないくせに、何故そのようなことを仰せになれるのですか。」
と言うと茂姫が、
「わかります。」
そう言った瞬間に喬子は、
「いいえ!」
と言うので、茂姫は驚いたように喬子を見つめた。喬子は下を向き、
「わたくしの今の気持ちは、誰にもわからぬのです。」
そう言うのを聞き、茂姫がこう言った。
「わたくしも、己の子を亡くしました。」
それを聞いた喬子は、顔を上げて茂姫を見た。茂姫は続けて、
「わたくしの子は、他家に養子に入りましたが、その後、病にかかり、四歳でこの世を去りました。なので喬子様のお気持ちは、痛いほどようわかります。子を亡くす悲しみは、誰も同じかと。」
そう言うと、喬子は言った。
「四歳?わたくしは・・・、わたくしの子は、二年も生きられなかったというのに!!」
喬子はそう言うと激しく立ち上がり、走るようにして部屋を出て行った。それを、その場にいた女性達もただ呆然と見つめていた。茂姫も、少し悔しそうな表情で見送っていたのであった。
その後、茂姫は家斉の部屋に行った。茂姫が、
「わたくしは・・・、喬子様のまことのお気持ちを、理解しきれていなかったのやもしれません。」
と言うと家斉が、
「そなたにしては、やけに弱気ではないか。」
そう言った。茂姫が、
「わたくしにできることあらば、何かして差し上げたいと思うのですが、それが返ってあの方の心を閉ざしてしまうのではないかとも思えてならぬのです。」
と続けると、家斉もこう呟いた。
「出来ることのぉ・・・。」
茂姫は、
「上様は、何ができるとお思いですか?」
と聞くと家斉が、
「さぁのぅ・・・。見守ることしかできぬのであれば、そうするしかないであろう。」
そう言うのを聞いて茂姫は家斉を見つめながら、
「見守る・・・。」
と、繰り返した。家斉も茂姫を見て、
「まず、真っ先にできることをやらねばなるまい。」
そう言うので茂姫は嬉しそうに、
「はい!」
と答えていたのだった。
一方、松平家では定永が定信にこう言った。
「父上。暫くは、白河でやっていけることになりました。」
それを聞いて定信は、
「ほぉ、良かったの。」
と言うと定永は、
「わたくしがこうして今、藩主としていられるのは、父上のお陰にございます。」
そう言うので、定信は不思議そうに定永を見た。定永は、
「父上が藩主時代、築き上げてきた国が豊かなのは、良き政を行っておられたからにございます。わたくしも、その行いに恥じぬよう、誇りを持ってやって参りたいと思います。」
と言った。それを聞いて定信は感心したように、
「ハァー、そなたも大きゅうなったものじゃのぅ。」
そう言うので、定永は下を向いて照れていた。それを、定信も嬉しそうに見つめていた。
茂姫は夕方、縁側に座って前を見つめていた。そして、
「見守る、か・・・。」
と呟いていた。するとひさが来て、
「御台様。」
そう言うのを聞いて茂姫が振り向くと、ひさは言った。
「御台様に、お客様が来ておられます。」
茂姫は、表情を変えずにそれを見ていた。
茂姫が部屋に入ると、そこには昌高がいた。
「昌高殿・・・。」
茂姫がそう言うと昌高は頭を下げ、
「お久しぶりにございます。」
と言って頭を下げた。茂姫が前に座ると、
「今日は、どうしたのですか?」
と聞くと昌高は、
「はい。」
そう言って話を始めた。
それを聞き終えた茂姫は、
「そうですか・・・。まだ、苦しいのですね。」
と言うと、昌高は言った。
「はい。国元では、まだ貧困の差が激しく、援助を求めてきている者が大勢おります。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「わたくしにも、何かできることがあれば仰って下さいと、斉興殿にもお伝え下さい。」
と言うので昌高は笑顔で、
「はい。」
と答えた。すると茂姫はふと思い出したように、
「斉宣殿は、どうしておりますか?」
そう聞くと、昌高はこう言った。
「元気にしておられます。ただ、兄上はまだ父上との溝が深いままで。」
それを聞いて茂姫は、
「わたくしも、まだあの一件について完全に許すことはできません。されど、あれは斉宣殿にもお考えがあったこと。それ故、傷つけてしまったのではないかと、心配することがあります。」
と言うので昌高が、
「兄上は、まだ姉上のことを慕っておいでです。」
そう言った。それを聞いた茂姫が、
「えっ・・・。」
と言うと、昌髙が言った。
「兄上は、姉上に感謝しておられます。」
「そんな・・・。」
「だから、どうかご安心下さい。」
昌高がそう言うので茂姫も微笑して、
「わかりました。」
と答えていた。昌高はそれを見て、笑い返していたのだった。
一方ある日、中野家では清茂と日啓が向かい合って話をしていた。日啓が、
「将軍家跡継ぎとなられるはずの竹千代様が、僅か二つで亡くなられるとは。」
と言うと、清茂がこう言った。
「わたくしは、まだ望みを捨てたわけではござらぬ。」
日啓はそれを聞き、
「当てがあるのですか?」
と聞くと、清茂が顔を近付けると言った。
「お美代にございます。」
「お美代・・・。」
日啓もそう呟き、続けてこう言った。
「されど、あの一件は皆に知れ渡っているのでは・・・。」
すると清茂が、
「その通りにございます。ですから、あの者の娘、溶を使わぬ手はないかと。」
と言うので、日啓は言った。
「つまりは、溶が嫁ぎ、その先で産んだ子を世継ぎにすると。」
清茂が日啓を見つめながら、
「まだ焦ることはございませぬぞ。」
と言うので日啓も、
「はぁ・・・。」
そう言って、清茂を見つめていたのだった。
庭では、家斉が竹刀を素振りしていた。それを縁側で見ていたお富が、
「珍しゅうございますね、そなたが剣を振るうなど。」
と言うので、家斉が振りながらこう言った。
「近頃は、やっておりませなんだからなぁ。」
お富はそれを聞いて、
「家慶様のことが、気になっておられるのではないですか?」
と聞くので、家斉は振るのをやめてこう言った。
「左様なことはありませぬ。母上こそ、近頃お身体が優れぬそうではございませぬか。」
それを聞いたお富は、
「大したことではございませぬ。それより、せっかく生まれたお世継ぎが亡くなっては、家慶様も大変でございましょう。わたくしはまた、あなたのお子でも宜しいかと存じますが。」
と言うのを聞き、家斉は剣をまた振り始め、こう言った。
「それは、無理にございましょう。お美代の一件もあり、老中達は反対するに決まっております。」
それを聞いてお富は、
「お美代のぉ・・・。わたくしは、どうもあの者が気に入りませぬ。何しに上がったかと思えば、あのような下心を持ってあなたに近付いてきておったとは、無礼千万!この城に、残しておく意味すらなかったのではございませぬか。」
と言うので家斉は、
「わたくしは、別にどちらでようございます。どうなっても、この家は残るのですから。」
そう言うのでお富は、
「それはまぁ、そうかもしれませぬが・・・。」
と言った。家斉は、
「どちらにせよ、わたくしの役目はお家を守ることにございます。」
そう言い、竹刀を降り続けていたのだった。
浄岸院(それから、数ヶ月が過ぎ・・・。)
茂姫は、知らせを聞いて安心したようにこう言った。
「そうか・・・、三度目の。」
すると宇多は、
「はい。今度こそは、そう意気込んでおられるそうにございます。」
と言うので、茂姫がこう言った。
「喬子様の強いお気持ちが、天に通じたのやもしれぬな。」
そう言うと、宇多やひさは笑っていたのだった。
一方、薩摩藩邸では重豪が縁側に出ていた。重豪は側にいた調所広郷に、
「のぅ、そちは斉宣がまだ幼かった頃を知っておるか?」
と聞くので広郷が、
「いえ。」
そう答えると、重豪はこう言った。
「あの者は昔、泣き虫での。わしが剣術を教える度、よくお千万に泣きついておった。今思えば、あの頃が懐かしいのぉ。」
それを聞いていた広郷も笑顔で、
「そうですか。」
と答えていた。すると重豪は広郷を見て、
「一番、あの頃に戻りたいと思うておるのは、あやつ自身なのかもしれぬな。」
そう言うと広郷が、
「えっ?」
と聞いた。そして重豪が中に入るのを、ずっと見ていたのだった。
浄岸院(そして更に年が明け・・・。)
一八一六(文化一三)年正月。この時空は曇り、雪が積もっていた。そのような中、茂姫は知らせを受けて信じられないというような顔をしていた。
「死産・・・。」
すると宇多も、真剣な表情でこう言った。
「はい。お産みになった時、既に弱っており、そのまま・・・。」
それを聞いた茂姫は、急に立ち上がり、部屋の外に出ようとした。宇多は振り返り、
「御台様、どちらに!」
と聞くと茂姫は、
「喬子様のお部屋じゃ!」
そう言うので、宇多は言った。
「今はなりませぬ!」
すると茂姫は振り返った。宇多は続け、
「今は、誰にもお会いになりたくないとのことにございます。心配された家慶様がお部屋をお訪ねになったところ、会うことを拒まれたそうでございます。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そんな・・・。」
と言い、
「どうすれば・・・、どうすればよいのじゃ・・・!」
そう涙を浮かべながら、悔しそうにしていたのだった。
その後、茂姫は仏間に赴いた。茂姫は仏壇の前で手を合わせ、目を閉じていた。心配そうに後ろからひさが茂姫の顔を覗くように、
「御台様?」
と言うと、茂姫は目を閉じながら言った。
「わたくしは、何もできなかった己が悔しゅうてならぬ。何故、神は左様な仕打ちをなさるのか。」
茂姫がそう言って涙を流しているのを、後ろで宇多やひさも見ていた。茂姫は目を開けると、
「わたくしは知りたい。人は何故、無力なのか。」
と言うと、仏を見つめながらこう呟いた。
「生まれても、すぐに消えてしまう命ほど、哀れなものはない。それは、誰でも、どのような状況であっても、変わらぬことじゃ。今までも、そして、この先もな。」
それを見て宇多も、
「御台様・・・。」
と呟いた。すると、誰かが部屋に来る気配を感じた。茂姫が恐る恐る振り返ると、部屋の前には喬子が立っていた。それを見て茂姫は少し驚いたように、
「喬子様・・・?」
と言って立とうとすると、喬子は身を翻して向こうへ行ってしまった。茂姫も急いで立ち上がり、
「喬子様!」
そう言って追いかけようとしたが、喬子は走ってどこかへ行ってしまった。茂姫は廊下に出て、喬子が走っていった方をただひたすら見つめていたのだった。
浄岸院(すると翌日。)
茂姫が、
「喬子様が、京へお帰りになる?」
と聞くと、宇多がこう言った。
「はい。ご本人の、ご希望だそうにございます。」
それを聞いた茂姫は、
「三人もお子を亡くされたのじゃ。無理もないであろう。」
と言うと、ひさがこう言った。
「されど、若君様はどうなるのでございましょうか。」
それを聞いて茂姫は、
「それは・・・。」
と言っていると思い立ったように、
「そうじゃ・・・!」
そう呟くと、立ち上がって部屋を出て行った。宇多とひさも、それを追いかけた。
茂姫は喬子の部屋で、上座に座っている喬子にこう聞いた。
「喬子様。京にお帰りになる一件、お聞き致しました。お気持ちは、痛いほどよくわかります。されど、若様のお気持ちを考えるとわたくしは、このお城に留まって頂く方がよいかと存じます。」
すると喬子が、
「わたくしとて、辛うございます。なれどわたくしは、もうここにいる意味さえ感じられぬのでございます。」
と言うので茂姫は、
「意味・・・。」
そう繰り返すと喬子も、
「意味です。」
と答えた。茂姫は、
「しかしながら、喬子様はまだお若うございます。また、次の子をお産みになることが・・・。」
そう言いかけると、喬子はこう言った。
「わたくしは、もう自分に自信が持てませぬ。」
それを聞いて、茂姫は喬子を見つめた。喬子は続けて、
「わたくしは、京へ帰ります。それは、もう決めたことにございます。」
と言うのを、茂姫は何も言えずに見つめていた。すると家慶が部屋に駆け込んでくると、
「京に帰るとは、それはまことか?」
そう座りながら聞くと喬子は、
「まことにございます。」
と、答えるのだった。家慶は、
「わたくしが、そなたを守ると約束したではないか。あれはそなたのせいなどではない。今更京に帰るなどしなくともよいであろう。」
そう言うと、喬子はこう言った。
「わたくしはきっと、神さんに嫌われておるのです。それ故、何人産もうが同じことになるに決まっております。わたくしがここにおる限り、家慶さんにはお子はできませぬ。それ故、わたくしが京へ帰らねばならぬのです。これで、失礼致します。」
喬子はそう言って頭を下げると、立ち上がって部屋を出て行った。家慶は、何も言えずにただそれを見つめていた。茂姫も、そのような家慶の姿をただ見ていたのだった。
その後、茂姫は家慶と話した。茂姫は、
「喬子様は、かなりご自分を責めておられます。これは、誰が何と言おうと変わらぬでしょう。」
そう言うので、家慶が言った。
「されど、わたくしは諦めておりませぬ。必ず、あの者の心を開いてみせます。」
すると茂姫は、こう言った。
「されど、もしかしたらあの方を、一度京にお戻しすることこそが、一番の策なのかもしれませぬ。」
「母上・・・。」
家慶はそう言って茂姫を見つめると、茂姫は続けた。
「きっと、京で心が癒えたら喬子様は、いつの日か必ずや江戸に戻ってこられましょう。その日まで、待ちましょうぞ。」
それを聞いた家慶は暫く考えた後、顔を上げると、
「はい。」
と、返事をした。それを聞き、茂姫も笑っていた。
浄岸院(妻を想う気持ちと、妻を信じる気持ちが、入り交じっている家慶にございました。)


次回予告
茂姫「これが己の運命さだめだとあらば、まっすぐ突き進むのみにございます。」
喬子「わたくしがここにいる意味は、もうどこにもございませぬ。」
家斉「家慶に側室をじゃと?」
織仁「哀れや・・・。」
茂姫「母上様がお倒れに?」
治済「こうしてそなたと過ごすのは、何十年ぶりかのぉ。」
茂姫「どうか父上様を、このお城にお呼び頂きたいのです。」
家斉「わしは今思うた。家族の、絆じゃ。」
茂姫「絆・・・。」
  「大奥を出たいじゃと?」
斉宣「父上・・・?」
広郷「何をお考えなのですか?」
茂姫「わたくしに今必要なのは、解り合える、心じゃ。」



次回 第三十八回「愛情と絆」 どうぞ、ご期待下さい!

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