茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三十三回 二人の母

お楽「御台様は、大奥の鏡にございます。」
  「鏡のように、ありのままのお姿でおられる。これは、到底誰も真似できませぬ。どうかこれからもその生き方、貫いて下さいませ。」
茂姫「わたくしは決めたのじゃ。お楽の遺言を守ると。」
  「あの者の身体に気付いていながら、何故あのようなことを!」
  「お楽は、家慶様を、この徳川家を何より大切に考えていたと思います。それを、それを、おわかりでなかったのですか!?」
お富「ええい、黙れ!黙れ黙れ黙れ!!」
茂姫「これ以上、あの者を苦しめないで下さいませ。あの者が、天で安らかに過ごせるよう、もう終わりにしてやって下さい。どうか、自由にしてやって下さいませ。お願い申し上げます。」
家慶「その話はお心だけに留めて頂きとう存じます。」
茂姫「わたくしは諦めてはおりませぬ。家慶様に今一度お話しし、お心をお開き遊ばされるよう、努めてみたいと思います。」
家斉「あの者は、一筋縄ではいかんぞ。」
茂姫「だからこそ、わたくしはやってみとうございます。」


第三十三回 二人の母

一八一〇(文化七)年六月のある日、江戸では雨が降っていた。仏間では、皆がいつものように朝の参拝をしていた。茂姫も、家斉の後ろで手を合わせていたのだった。
部屋に戻ると、茂姫は宇多に聞いた。
「家慶様と喬子様は、うまくいっておるか?」
すると宇多は、
「はい。段々と、お慣れ遊ばしたようにございます。」
そう言うので茂姫は少々嬉しそうに、
「そうか・・・。あれから半年、これから、更にようなればよいが。」
と言うと宇多も、
「あのお二人なら、きっと大丈夫ですよ。」
そう言い、励ました。すると茂姫は思い出したように、顔をしかめた。
「問題は・・・、あれじゃな。」
すると宇多は、
「恐れながら、あれとはお楽様の遺言のことでございましょうか。」
と聞くので、茂姫はこう言った。
「それもあるが、家慶様と上様のことじゃ。お二人の仲は、一向に良くなる気配がないと聞く。どうしたものか・・・。」
それを聞いて宇多も、
「はい・・・。」
そう答えていた。茂姫も、心配そうに前を見つめていたのだった。
茂姫が表へ足を運ぶと、向こうの縁側に家慶が座っていた。それに気が付いた家慶は、茂姫の方を目にすると、
「御台様・・・。」
と呟いていた。
そしてその後、部屋で二人は向き合って話をした。茂姫が、
「単刀直入に申します。わたくしは、あなたの母上の遺言を守ろうと思います。」
と言うので家慶は少し困ったように、
「前にも申しましたように、わたくしは御台様をどうしても母とは呼べぬのです。」
そう言うと茂姫は、こう言った。
「それでも構いませぬ。されど、お楽は、わたくしに言ったのです。家慶様の、母になって欲しいと。」
すると家慶は、
「申し訳ございません。もう、これ以上は母上の話を聞きとうはありませぬ。」
と言い、立ち上がった。茂姫が、
「あの・・・。」
そう言っても、家慶はそのまま部屋を出て行った。茂姫は、何も言えずにただそれを見つめていたのであった。
その話を家斉にすると、家斉はこう言った。
「まだやっておったか。」
茂姫はそれを聞き、
「申したはずです。わたくしは、まだ諦めておらぬと。」
そう言うのを聞いて家斉は、
「諦めることも、時には必要となってこよう。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「されど、このままでは、わたくしの気が治まりません!これは、あの者のためなのです。」
それを聞き、家斉は言った。
「言い忘れておったが・・・、その話はわしも以前より存じておった。」
「えっ?」
茂姫は思わず声を上げると家斉が、
「わしがあの者の見舞いに行った時、言うておったのじゃ。」
そう言うので、茂姫は驚いてこう聞いた。
「上様も、お楽に会われたのですか?」
すると家斉は身体を茂姫の方に向けると、
「当然じゃ。あやつは、わしにこう話しておった。」
そう言い、話し始めた。
お楽は家斉を見つめ、こう言っていた。
「上様。わたくしが死んだら、御台様を、家慶の母君として下さいませ。」
「御台を?」
「わたくしは、あの方に酷いことばかりしてきました。これが、せめてもの罪滅ぼしなのでございます。どうか、宜しく願い致します。」
お楽はそう言った後、頭を下げた。家斉は、
「しかし、家慶が拒むのではないか?」
そう聞くとお楽は、
「それでも、お願いしたいのです。家慶を説得できるのは、あなた様と、御台様だけなのです。それに・・・。」
と言うので、家斉はお楽を見つめていた。そしてお楽は続けて、
「わたくしは、己を許すことができません。どうしても、わたくしはわたくしを許せぬのです。」
そう言うので、家斉は言った。
「わかった。その話、考えておく。」
それを聞いたお楽は、
「ありがとうございます!」
と言い、もう一度頭を下げていたのだった。
その話を聞いた茂姫は、
「ならば尚更、そうするしかありませぬ。」
と言うと家斉は、
「しかしのぉ、御台。家慶はなかなか頑固故、どうやっても受け入れるとは思えぬが。」
そう言った。茂姫は、
「それは、やってみないとわかりませぬ!」
と言い、家斉を見つめた。家斉もそれを見つめていると、茂姫は真剣な表情で見つめ返してくるのだった。
浄岸院(所変わって、ここは中野家。この時代、中野家と言えば九〇〇〇石の旗本で、風流に富み、一一代将軍・家斉公にもお目通りが叶う家柄にございました。その中の清茂殿は・・・。)
中野家当主・中野なかの清茂きよしげは、小部屋で茶を点てていた。すると、
「失礼致します。」
と言い、一〇代前半頃の娘が戸を開けて頭を下げた。その娘はまた顔を上げると、
「父上様、お呼びでございましょうか。」
そう言った。それは、清茂の養女・美代みよであった。清茂は美代を見るなり、
「おぉ、来たか。入れ入れ。」
と言うと美代は戸を閉め、父の前に座った。清茂は、茶を点て続けた。美代は、
「あのぉ・・・、父上様?用があって呼んだのでは?」
そう聞くと、清茂は点てた茶を美代に差し出しながらこう言った。
「そなた、もうそれなりの年頃であろう?嫁ぎ先も、追々決めておかなくてはならぬと思うてのぉ。」
「嫁ぎ先?わたくしにはまだ早うございます。」
美代はそう言って茶碗に手を伸ばした時、清茂はあることを言った。
「徳川家はどうじゃ?」
それを聞いて美代は手を引っ込めて膝に置くと、こう言った。
「それは、何のご冗談にございますか!?」
清茂は続けて、
「それだけではない。公方様との間に、男子を儲けてな。それを次のお世継ぎにと、公方様にお願い申し上げるのじゃ。」
そう言うので美代は思わず、
「要するに父上様は・・・、わたくしに将軍の側室になれと仰せなのですか?」
と聞くと、清茂は言った。
「そうなる。だが、ただ側室になるだけではないぞ。公方様との間に・・・。」
そう言い終わらないうちに美代が、
「わたくしは嫌でございます!」
と言うと、今まで手元を見て話していた清茂は顔を上げた。美代は続け、
「わたくしは、正室として嫁ぎとうございます。例え将軍家であっても、側室などまっぴら御免ございます!」
そう言うと一礼し、立ち上がって部屋を風のように出て行った。清茂は、何も気にすることなく、薄気味悪く笑って茶を点てていたのであった。
茂姫は部屋に座っていると、ひさが来てこう言った。
「御台様。若君様がお見えにございますが。」
それを聞いて茂姫は、
「家慶様が・・・?」
と呟き、立ち上がった。
家慶は栞を差し出すと、こう言った。
「これは、もうわたくしには必要ございません。御台様に、持っていて頂きとうございます。」
それを見た茂姫は、
「これは、お楽の形見。わたくしではなく、あなたが持つべきものではありませんか。」
と言うので家慶は、
「もう、母上のことは忘れたいのです。」
と言った。茂姫はそれを聞いて、
「それは、何ゆえ?」
そう聞くと、家慶は言った。
「わたくしは、今でも母上の夢を見ます。夢の中で、悲しそうにわたくしを見つめてくるのです。それがどうしても、耐えられなくて・・・。」
「それで・・・、わたくしにこれを?」
「それが手元にあるから、見るのだと思います。わたくしのどこかで、きっとまだ母上が生きておられるようで・・・。」
すると茂姫は栞を手にすると、家慶の手に握らせた。
「これは、わたくしの子が摘んだ花で、お楽が作ったものにございます。そして、あの者があなたへと授けたものでもあるのです。これは、あなたが持っていて下さい。」
それを、家慶もただ見つめていたのだった。
茂姫はその後、このことを家斉に話した。茂姫は、
「わたくしは、あの方が心配でなりません。」
と言っていると、家斉は言った。
「もう、親心か・・・。」
それを聞いた茂姫はこう言った。
「そうではありません。宜しゅうございましょうか。わたくしは、上様の妻にございます。それ故、家慶様はわたくしの子でもあるのです。わたくしは、お楽に言われました。」
『御台様は、大奥の鏡にございます。』
「鏡のように、ありのままのお姿でおられる。これは、到底誰も真似できませぬ。どうかこれからもその生き方、貫いて下さいませ。』
茂姫は続けて、
「わたくしは、己の生き方を貫きとう存じます。故に、家慶様のお心を、きっと開いてご覧に入れます。どうかそのこと、御承知願います。」
そう言うので家斉は腕を組み、
「未だに、強さを磨く、か・・・。まるで昔に戻ったみたいじゃ。」
と言い、中へ入っていく。茂姫はその言葉に、
「えっ?」
そう言ってためらいを見せたが、その後で理解したのか笑顔で見送っていたのであった。
その夜。家慶は目を覚ますと、光が差した。家慶は飛び起きると、目の前にお楽が家慶を見て座っている。それを見た家慶は、
「母上・・・。」
そう言って、お楽の所へ行こうとすると、お楽立ち上がって向こうへ行く。それを引き止めようと、
「母上!」
と家慶が声をかけても、お楽は振り返すことなく庭に消えていった。家慶が目を目を覚まし、起き上がると、部屋の外には老中が控えているだけだった。今のは、夢だったのだ。家慶は荒い息を吐きながら、箪笥の方へ言った。そして棚を引くと、仕舞っていた栞を取り出した。そして老中が仮眠を取っているのを見計らい、家慶は縁側に立つと思い切り栞を投げた。家慶は、ただその方向を見つめていたのだった。
その頃、薩摩藩邸では斉宣がお千万と話していた。斉宣が、
「最近、お体の具合がそぐわぬと聞きました。」
と、心配そうに言った。それを聞いたお千万が、
「大したことではありませんよ。」
そう答えた。すると斉宣は、
「母上。わたくしは、今や隠居の身。藩のために、何もできることはありません。せめて、母上のことを気にかけたいのです。」
と言うので、お千万は斉宣を見た。斉宣は続け、
「今のわたくしにできることは、それくらいですから。」
そう言った。お千万は縫い物をしながら、
「わかっております。あなたが側にいてくれるだけで、どれほど心強いか。」
と言うと斉宣は、こう言った。
「わたくしは、もう何処にも行きません。薩摩にも帰れぬのであれば、わたくしの居場所は此処だけなのです。と言っても、此処でも少々息苦しいですが。」
するとお千万は斉宣の方に身体を向け、
「斉宣。」
と呼びかけた。
「はい。」
斉宣が答えると、お千万はこう言った。
「あなたは、宝です。」
「宝?」
そう斉宣が聞くとお千万は続けて、
「あなたは、いつもわたくしを心配してくれておる。それだけで、どれ程嬉しいかしれたものではありません。それ故、わたくしにとっての、宝なのです。」
と言った。それを聞いた斉宣は、
「母上・・・。」
そう呟くと、お千万は急に咳き込んだ。斉宣は咄嗟に、
「母上!?」
と言い、お千万の身体を支えた。お千万は微笑し、
「大丈夫です。ただの風邪です。」
そう言うので、斉宣も安堵した表情を見せていた。お千万が部屋を出て行った後、不意に斉宣は重豪が言ったことを思い出した。
『わしのせいにしたければ、するがよい。』
すると、斉宣は不安そうな顔をしていたのである。
その頃、家斉の所にはこの男が会いに来ていた。個室で中野清茂は茶を点て、家斉に献上した。家斉は、それを飲み干した。家斉が飲み終わると、清茂がこう言った。
「公方様も、大変でしょうなぁ。お世継ぎが決まった後も、絶えず子を作っておいでだとか。」
それを聞いた家斉は、
「それが如何したのじゃ。」
と聞くと、清茂は言った。
「いえいえ。将軍の権威を余に見せつけるためにも、子を作ることは言ってみれば、政より大事にございます。そこで、わたくしに提案がございます。」
「何じゃ。」
「家慶様の、次なるお世継ぎも、公方様の子から選ぶということにございます。幸い、家慶様にはまだお子はおられませぬ。これは、良き機会かと。」
家斉は黙って聞いていると清茂は、
「今度、わたくしの養女をこのお城へ上げようと考えておりますが、なかなか妖艶な娘故、お気に召すかと・・・。」
そう言うので、家斉は言った。
「御台の気持ちも聞いて見ねばならぬ。」
それを聞いた清茂は慌てた様子で、
「いやいや。どうかそれには及びませぬ。全て、このわたくしにお任せ頂きとう存じます。」
と言うと、家斉は清茂を見つめていたのであった。
一方、茂姫は家慶と話をしていた。茂姫が、
「近頃、調子は如何ですか?」
と聞くと家慶は少し元気がなさそうに、
「はい。」
そう答えた。それを見て不思議に思った茂姫は切り替えて、
「母からもらった栞は、大切にしていますか?」
と聞くと、家慶は少しばかり戸惑い、
「はい。」
そう答えた。それを見た茂姫は、
「家慶様。」
と言うので家慶が、
「はい!」
そう返事をすると、茂姫がこう言った。
「わたくしは、隠し事は嫌いにございます。」
それを聞いた家慶は、
「あの栞は・・・、捨てました。」
と言うので茂姫は驚き、
「捨てた?」
そう聞くと、家慶は言った。
「また、母上の夢を見ました。相も変わらず、わたくしを冷たい視線で見ておいででした。」
茂姫は、
「それ故、捨てたと・・・。」
と言うと家慶は、
「申し訳ございませんでした。されど、あれはわたくしが持っていても母上を悲しませるだけではないかと思うのです。御台様には、関わりのないことにございます。」
そう言い、頭を下げると立ち上がって行ってしまった。茂姫は、それを少し虚しそうな表情で見つめていたのだった。
その頃、薩摩藩邸の斉宣は部屋で書を読んでいた。すると家来が来、
「失礼仕ります、斉興様がおいでにございます。」
そう言うので斉宣は、
「斉興が?」
と、驚いてそれを見た。家来が下がると、薩摩藩一〇代藩主・島津しまづ斉興なりおきが入って来たのだった。それを見て斉宣が、
「如何したのじゃ。」
と聞くと、斉興は斉宣の正面に座るとこう言った。
「父上。父上の心中、お察し申し上げます。あの騒動、父上が起こしたわけではないのは、重々承知しております。全て、あの藩士達の責任にございます。」
「それは・・・。」
「お祖父上が下された命は、あまりにも重うございます。されど、これだけはおわかり願いとう存じます。あのお方は、父上を憎んでなどおりませぬ。」
斉宣がそれを聞いて、
「父上が・・・?」
そう呟くと、斉興は言った。
「あれからお祖父上は、財政に目を配るようになりました。それ故、父上の存在は強かったのです。今日は、そのことをどうしても伝えたくて参りました。だから、お祖父上を、お許し下さいませ。」
斉興はそう言うと、頭を下げた。それを見た斉宣は、
「そのようなことは、とうに存じておった。」
そう言うので斉興が顔を上げると、斉宣が頷いた。そして斉宣は、
「わたくしも、そなたと同じ気持ちじゃ。」
と言うと斉興がもう一度頭を下げ、部屋を出て行った。斉宣もその後、嬉しそうに前を見つめていたのであった。
茂姫は、縁側に出て何か考えていた。
『あの栞は・・・、捨てました。』
家慶のことを思い出すと、茂姫は決心したように向こうへ行った。宇多が戻って来て、
「御台様?」
と言って部屋を見回すと、その部屋には誰もいなかったのである。
それと同じ頃、家慶も部屋で考え事をしていた。すると男が来て、
「若君様。公方様がお呼びにございます。」
と言うのを、家慶は聞いていた。
家慶は家斉の部屋に行くと座り、
「何かご用でしょうか、父上。」
と聞いた。すると家斉は、
「御台は、まだそなたの母上になることを諦めておらぬそうじゃ。」
そう言うので家慶は、
「そうですか・・・。でも、わたくしはあのお方をどうしても母とは思えぬのです。わたくしが幼少の頃より、大切に思ってこられたことは存じております。しかし、それ故、母とは少し違うのです。」
と言うのを聞き、家斉は振り向いて家慶にこう言った。
「御台は、そなたのことを気にかけておった。」
「えっ。」
家慶が聞くと家斉は続け、
「人にはそれぞれ、人の気持ちに寄り添おうという心がある。それ故、信念を貫かねばならぬ時もあるのじゃ。」
そう言うので家慶も、
「信念・・・。」
と、繰り返した。家斉は、
「御台は、己の生き方を貫きたいと言うておった。そなたの心を開くために、必死なのじゃ。」
そう言っているのを、家慶は黙って聞いていた。その時である。誰かが、着物を揺らして走ってくる。それは、宇多であった。宇多が、
「大変にございます!」
と言うと家斉が、
「如何した。」
そう聞いた。宇多は座って家斉を見上げると、
「御台様が、見当たりませぬ!」
そう言うので家斉は、
「何?」
と聞き返した。家慶も、それを聞いて驚いていた。宇多は続け、
「大奥中を探しても、何処にもおられぬのです。表に、来ておいでなのかと。」
そう言うので、家斉は怪訝そうな顔になっていた。すると家慶はまさかといった顔をし、立ち上がって向こうへ走っていった。それを、家斉も見ていたのだった。
その頃、茂姫は庭で何かを探していた。木の枝をかき分け、奥へと進んでいく。
家慶は大奥の廊下を走りながら、
「御台様、御台様!」
と言っていた。
一方で宇多も、
「御台様?」
そう言いながら、探し回っていたのであった。
夕方、家慶は疲れて縁側に座り込んでいた。すると、カサカサと音がするので、そちらの方向を見た。そして、木と木の間から茂姫が現れたのだ。それを見て家慶は驚いたように、
「御台様・・・。」
と言い、駆け寄った。
「何をしておいでです!」
家慶がそう言うと茂姫は、
「これを・・・。」
と言い、懐から何かを取り出した。それは、家慶が投げ捨てた押し花の栞だったのだ。家慶は驚き、
「それは・・・!」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「これは・・・、あなたが本当は大切にしたかったものではないですか?」
茂姫は栞を差し出すと、家慶がそれを受け取った。茂姫が、
「お楽は・・・、これからもずっと、あなたのことを誇りに思うでしょう。あなたがそれを捨てたのは、まことの母であるお楽の遺言を守るため、そうではないのですか?」
と言うので、家慶は涙ぐんでこう言った。
「わたくしは・・・、わたくしは、愚かな息子です。母上の、気持ちまでも捨てようとしていたとは。」
茂姫が、
「あなたがしたことは、母が見ていれば決して許さぬと言うでしょう。されどそれは、あなたの心に、愛があったからにございます。」
そう言うので家慶は、
「愛・・・?」
と、繰り返した。茂姫は続けて、
「その愛が、あなたを強くさせたのだと、わたくしは思います。」
そう言うのを聞き、家慶はこう言った。
「そのような大それたことではありませぬ。」
家慶は茂姫を見つめると、こう続けた。
「御台様には、心配をおかけしました。お許し下さいませ、母上様。」
茂姫はそれを聞き、
「母上様?」
と繰り返し、驚きの表情を見せた。家慶は続けて、
「わたくしも、母上の遺言を守る決心がつきました。今日から御台様が、わたくしの母上にございます。」
そう言うので茂姫は嬉しそうに笑い、
「あなたは・・・、ほんに成長されましたね。」
と言うと家慶も、恥ずかしそうに笑っていた。その様子を、遠くから家斉と宇多も見ていた。二人は顔を合わせて、笑っていた。茂姫は目に涙を浮かべ、喜びを噛みしめていたのである。
中野清茂は屋敷で、美代を呼び出していた。
「江戸城へ?」
美代が聞くと、清茂がこう答えた。
「あぁ。御奉公仕るのじゃ。」
それを聞いた美代は、
「何故・・・、何故ですか、父上様。わたくしは、前にも申したはず。側室にはならぬと。」
そう言うと、清茂はこう言った。
「将軍の母になれるかもしれぬのだぞ。」
「母・・・?」
「そなたの使命は、公方様との間にお子を儲けること。そしてそれを、家慶様の次のお世継ぎにと強く推すのじゃ。中野家の繁栄は、そなたの働き次第なのじゃ。」
それを聞いた美代は暫く考え、腹をくくったように手をつくと、
「父上様のお命とあらば、そのお役目、必ずや果たして参ります。」
清茂はそれを聞くと、
「そうか、頼んだぞ。」
そう言うと、美代はこう言った。
「ただ・・・、わたくしからも一つ、お願いがございます。」
「何じゃ。」
「わたくしが、男子を授かったとしたら、その時は父上様にもご協力を賜りとうございます。」
美代が言うので清茂は、
「無論じゃ。任せておけ。」
と言うと美代は、頭を下げた。清茂は、それを笑顔で見ていたのだった。
江戸城ではある日、家慶と正室・喬子たかこが並んで部屋の縁側に座っていた。家慶が、
「母上様は、わしのことを一番に思って下さっていた。」
そう独り言のように言うと喬子が、
「それ程までに、お優しい方なんですか?」
と言うと、家慶がこう言った。
「あぁ。わしはこれまで、あの方に心を開いておらぬかったのかもしれぬ。それに母上様は、ご自分が生んだ、幼くして亡くなってしまったわしの弟と同じように、わしのことを大切に思っておられる。あの時、わしはそう感じたのじゃ。今までの自分が、恥ずかしくもなった。」
それを聞いた喬子は、微笑した。
「羨ましゅうございます、家慶さんが。」
「何故じゃ?」
家慶が聞くと喬子は、
「そないに、自分以外の方を信じられるなど。」
と言うので、家慶は言った。
「そなたも、おるであろう。」
喬子はそれを聞き、
「わたくしは、まだまだにございます。されど、あなた様は大切にしようと思います。」
そう言うので、家慶は喬子を見た。すると、喬子も家慶の顔を見てこう言った。
「わたくしは・・・、早う子を抱きたいと思います。今は、それだけなのです。」
それを聞いた家慶は、微笑んで喬子の手を握った。それを見て喬子は少し戸惑いながらも、ゆっくりと家慶の肩に寄り添っていたのであった。
丁度その時、家斉と茂姫も縁側に出て話をしていた。家斉は縁側に立って、
「家慶も、一八で母を亡くして寂しかったのであろう。」
そう言うので、茂姫は言った。
「上様でも、人に同情なさることがあるのですね。」
それを聞いた家斉は微笑し、
「当たり前じゃ。」
と言った。すると家斉が、
「されど、わしにはまだ心を開かぬであろうな。」
そう独り言のよう言うので茂姫が、
「えっ?」
と言うと、家斉は振り返って言った。
「もしかするとあやつは、将軍になどなりとうないのかもしれぬな。」
そして家斉は部屋の中に入り、上座に座った。茂姫も身体の向きを変え、
「一度、お会いになってみては?」
と聞いた。すると家斉が、
「きっと、わしの言うことを理解しようとはせぬであろう。今までもそうであったではないか。」
そう言うので、茂姫も立ち上がって中に入り、家斉の前に座ってこう言った。
「ならば、わたくしが若様にお話し致します。そして、必ずやお心を開かせてみせます。どうか、わたくしにお任せ下さいませ。」
そして茂姫は頭を下げると家斉が向こうを見ながら、
「無理じゃと思うがのぉ・・・。」
と言うので茂姫は顔を上げ、
「それでも、わたくしはやりたいと存じます。」
そう言うので、家斉はそれを微笑しながら見ていたのだった。
一方、薩摩藩邸では重豪が書を読みながら側の斉興にこう話しかけた。
「そなた、斉宣と会うたのか?」
それを聞いて斉興は不意をつかれたように、
「え?あぁ、まぁ・・・。」
と言っていた。重豪はそれを見ると微笑し、再び書に目を戻していた。
その頃、斉宣は屋敷の縁側に座って空を眺めていた。脳裏に、茂姫の顔がよぎると、笑みを消していた。
浄岸院(そして、その年の暮れ・・・。)
中野家には、美代の実父・僧の日啓にっけいが足を運んでいた。日啓が、
「この度は、誠にありがとう存じます。」
と言うと、清茂はこう言った。
「いやいや。お美代も、漸く決心してくれました。」
すると日啓は、
「後は、計画を練るだけにございますなぁ。」
と言うので清茂は、
「そうですな。」
そう答えると、日啓はこう言った。
「しかしまぁ、あなた様は凄いことを考えられましたな。」
それをを聞き、清茂もこう言った。
「はい。今の幕府は、衰えつつあります。今立て直さんことには、やがて滅んでしまいます。此処で中野家が名を上げることで、国を異国から守り、幕府をより繁栄できるかと。」
それを聞いた日啓は清茂に顔を近付け、
「もしも計画が現実のものとなれば、とてつもない権力となりましょう。」
と言うので、二人は顔を見合わせて笑っていた。
その後、日啓は美代と話をしていた。日啓は、
「そなたにはこれまで、散々な苦労をかけてきた。」
そう言うと美代は、
「いえ、そのようなことは。されど父上、何ゆえ、止めて下さらなかったのですか。父上様は御役人。わたくしが大奥へ上がれば、何か悪い噂が立つやもしれません。父上にも、その影響が及ぶかと。」
と言うのを聞いた日啓は、美代の前に座るとこう言った。
「なに、案ずるでない。何があろうと必ずや、わしがそなたを守ってみせる。安心せよ。」
すると、美代がこう言った。
「わたくしは・・・、己の子を将軍にする、そのお役目だけを考え、お城に上がります。」
それを聞いて日啓は嬉しそうに、
「そうじゃ、その意気じゃ。」
と、言っていた。その様子を、部屋の外から清茂も窺っていたのであった。
そして知らせは、茂姫の元に届いていた。茂姫が、
「上様に、新しい側室をじゃと?」
と聞くと、宇多も驚いたような顔をした。すると、唐橋はこう言った。
「はい。そのようなお話が。」
それを聞くと茂姫は、
「第一、側室というのは上様ご本人がお選びになるもの。初めから側室となるのが目的で、城へ上がるなどとは聞いたことがない。」
と言うと、唐橋は言った。
「されど、公方様は御承知遊ばしたとか。」
それを聞いた茂姫は驚き、
「それはどういうことじゃ。」
と聞くと、唐橋はこう言った。
「老中の話によりますれば、お城に上がるのは、公方様の側近、中野清茂様の御養女らしいのです。それ故、何か裏があるのではないかと噂されております。」
それを聞いた茂姫は真剣な顔で、
「中野殿の、養女・・・。」
と、繰り返した。唐橋は、
「わたくしも、そのことについて調べて参ります。前代未聞のお話故、きっと何かあるに違いありませぬ。なのでどうか、ご安心を。」
そう言うと茂姫が、
「上様には、側室が多い。されど、自分から近付いていった者は一人もおらぬ。この胸の痛みは、今までと違う気がするのじゃ。」
と、胸を押さえながら言った。それを、宇多も不安そうに見ていた。茂姫は続けて、
「何故であろう・・・。何故か、許せぬのじゃ。」
そう言うのを、唐橋も見つめていた。
夜。中野家の一室では美代が鏡に向かっていた。鏡を見ながら、美代は自分の髪からかんざしを抜く。そしてそれを手に持ち、暫く鏡に映る自分を眺めていたのだった。
浄岸院(この後、茂姫の考え方を変える、出会いが待っていたのでございます。)
茂姫はその後、部屋の中でただ一人、不安と戦っていたのである。


次回予告
家慶「父上は、オットセイにございます。」
茂姫「オットセイ?」
家斉「今日だけそなたが将軍じゃ。」
茂姫「わたくしは、あの者の本性を知りとうございます。」
中野清茂「これは、戦と心得よ。」
美代「戦・・・。」
  「公方様との間に子を授かった暁には・・・。」
定信「頼んだぞ!」
松平定永「はい!」
お千万「これは、わたくしから最後の願いです。」
斉宣「母上・・・。」
家慶「わたくしは、この将軍家を守りたい。」
茂姫「わたくしも、そう思います。」



次回 第三十四回「偽物将軍」 どうぞ、ご期待下さい!

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