茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三十二回 お楽の遺言

お富「御台所を殺せ。」
茂姫「わたくしは、あの者が哀れでなりません。」
重豪「お富様?」
治済「あの者は、姫様に対して悪い印象を持っておりましたものでな。」
お富「わたくしを裏切りよって!」
宇多・お万「おやめ下さいませ!」
家慶「わしが一生、そなたを支えて参る。」
家斉「わしはまだ譲るつもりはない。」
茂姫「お譲りにならぬのは、家慶様のことを何より大切にされているからでは?今の家慶様が未熟者故、まだ譲るわけにはゆかぬ。いつ誰が見てもこの国を任せられる、そう思った時に譲るおつもりでは?」
女中「お楽様!」
茂姫「お楽!」
お楽は、苦しそうにしていた。その様子を、宇多も心配そうに見ていた。茂姫は、お楽を支え続けていたのだった。


第三十二回 お楽の遺言

一八一〇(文化七)年四月。江戸城大奥の庭では、桜が舞っていた。しかし茂姫は、不安そうな表情で部屋で立っていた。すると、宇多が走ってきた。それを見るなり茂姫は、
「お楽の様子は?」
と聞くと宇多は座り、
「はい。今は、大分落ち着いておられます。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうか・・・。」
と言い、少し表情を和らげていた。そこへ、
「失礼致します。」
そう言う、男性の声が聞こえた。扉が開くと、男は頭を上げた。それは、次期将軍・家慶であった。それを見た茂姫は少し驚いたように、
「家慶様。如何されました?」
と言い、家慶のもとに駆け寄った。家慶は、
「母上は、大丈夫にございましょうか。お見舞いに行っても、会って下さらぬのです。」
そう言うので茂姫は、
「ご安心下さい。少し、疲れが出ただけでしょう。きっと良くなりますよ。」
と言うと、家慶はこう言った。
「それともう一つ、父上です。」
「上様が、何か?」
茂姫が聞くと家慶が、
「実は今日・・・。」
と言い、話し始めた。
家斉が表で、老中二人から話を聞いていた。家斉の側には、家慶もいた。家斉は、
「異国船じゃと?」
と聞くと安藤信成が、
「はい。二年前に起きた、イギリス軍艦が長崎港に侵入した事件以降、これまでに三度も異国船が日本の領内に入ってきているのでございます。異国は、この国に開国を求めてきているのではないかと。」
そう言うと隣で土井どい利厚としあつも、
「それは、あちらからからの挑発ではないかと。」
と言うのを聞いて家斉は、
「まだ騒ぐことではなかろう。その方らも、少し頭を冷やすがよい。」
そう言った。利厚は、
「しかし・・・!」
と言っていると、家慶は家斉の方を向いてこう言った。
「しかし父上。いつ、異国から戦を仕掛けられるかわかりませぬ。今のうちに、手を打っておいた方が宜しいかと。」
すると家斉は、
「家慶。」
と言い、家慶の方を見た。家斉は続け、
「今の将軍はわしじゃ。これから一切、政に口を挟むでない。」
そう言うのを、家慶は驚いたように見つめていた。
その話を聞いた茂姫は、
「そうですか・・・。でもそれは、上様もお考えあって・・・。」
と言いかけると家慶は、
「そうでしょうか。父上は、あまりにも勝手だと存じます。」
そう言うのを、茂姫は仕方なさそうに見ていたのだった。
浄岸院(それから、数日が経った薩摩藩邸では。)
重豪は、広郷に話しかけていた。
「今年の桜も、一段と見事であったな。」
それを聞いて広郷は、
「はい。江戸の桜は、薩摩のものとはまた違った魅力がございます。」
と言うと重豪は、
「薩摩か・・・。」
そう愛おしそうに呟いた。広郷がそれを見て、
「どうかされましたか?」
と聞くと、重豪がこう言った。
「薩摩と言えば・・・、享のことが気にかかっておる。」
広郷はそれを聞き、
「斉宣様の、御正室にございますか?」
と聞くと重豪は、
「あぁ。あの者を、薩摩に置き去りにしてしもうたからな。斉宣とも離縁させた故、もう江戸に来ることもないであろう。」
そう言うのを広郷も、
「はぁ。」
と答え、重豪はその後も申し訳なさそうな表情をしていたのだった。
その頃、別室には斉宣の弟・昌高が兄を訪ねてきていた。斉宣は硝子でできた綺麗な杯を手に取りながら、
「これは見事じゃ。」
と言っていると昌高は、
「わたくしも、気に入っております。」
そう言った。斉宣は、
「これも、長崎で手に入れたのか?」
と聞くと昌高は、
「はい。皆、何故異国を嫌うのか、わたくしにはよくわかりません。」
そう言うので、斉宣もこう言った。
「いつか、鎖国がなくなって国を開く時が来れば良いな。」
それを聞き、昌高は嬉しそうに笑っていた。すると、
「失礼します。」
と言い、お千万が入って来た。斉宣はそれを見て、
「母上。如何しましたか?」
と聞くと、お千万は懐から文を取り出して斉宣に差し出した。
「薩摩から、届いたものにございます。」
「薩摩から?」
斉宣はそう言って、宛名を見た。そこには何と、『享』と書かれていたのだ。それを見て斉宣は、
「享・・・。」
そう呟いていた。それを昌高も、少し心配そうな顔で見ていたのだった。
その後、斉宣は縁側に座って文を読んでいた。そこにはこう書かれていた。
『殿。如何お過ごしでございましょうか。わたくしは、変わりありません。この度、文を書き送ったのは、殿に最後のお願いがあるからでございます。わたくしのことは、どうか忘れて下さい。』
「享・・・。」
斉宣はそう呟き、悔しそうにしていた。
『幕府からの御命で、今は薩摩に帰れぬと聞きます。もしも今、わたくしが殿の心中にいるのなら、その中のわたくしをどうか消して下さいませ。これ以上、殿の邪魔になりとうはございません。殿には、まっすぐに進んでいって欲しいのです。この文も、読み終えたら火に投じて下さい。どうかこの勝手な願い、お聞き届け下さい。享。』
読み終えた後、斉宣は泣きながらその文を抱きしめていた。そしてそれから暫くの間、斉宣は泣き続けていたのだった。
その頃、薩摩の城では享が部屋から庭に出ていた。そして、遠くを見つめていた。それは、まるで江戸の方を目にしているようであった。
戻って、お富は知らせを受けていた。
「お楽が、倒れたじゃと?」
知らせに来た女中が、
「はい。」
と答えるのでお富は、
「そうか・・・。もしや、御台所が復讐のために。」
そう言うと、女中にこう言った。
「その方ら、御台所に目を光らせるのじゃ。何があっても、目を離すでないぞ?」
それを聞いた女中達は、
「はい!」
と言い、下がっていった。その後でお富は、
「あの者は、放っておけば何をしでかすかわからぬでの。」
とも呟いていたのだった。
その時、茂姫は丁度お楽の所に見舞いに行っていた。茂姫は茶碗を渡すと、
「気分はどうじゃ?」
と、優しく問うた。それを聞いてお楽は、
「はい。」
そうとだけ答えていた。茂姫は微笑んで、
「何かあれば、遠慮なく呼ぶがよい。」
と言うのを聞いてお楽は茂姫に、
「何故、御台様はそんなにお優しいのですか?」
そう言うので、茂姫は動きを止めてお楽を見た。すると茂姫は、
「わからぬ・・・。されど、どうしてもそなたを嫌いになれぬのじゃ。そなただけではない。この大奥、そしてこの城の者全てが、わたくしのかけがえのない存在なのじゃ。」
そう言うのを聞いたお楽が、
「かけがえのない・・・。」
と、繰り返した。茂姫は、
「わたくしは九つの時、この城へ上がった。それ以来、この江戸城大奥がわたくしのもう一つの古里。故に、かけがえのない場所なのじゃ。」
そう言うのを、お楽は見ていた。するとお楽は急に姿勢を改め、手をついた。茂姫が不思議そうに見ていると。お楽はこう言った。
「わたくしから御台様に、お願いがございます。」
それを聞いて茂姫は、
「何じゃ?」
と尋ねると、お楽は続けた。
「家慶を、御台様の子にして頂きとうございます。」
それを聞き、茂姫は驚いた。
「家慶様を、わたくしの・・・。」
そう呟くと、お楽は続けた。
「次なる公方様が御台様のお子であれば、世間から白い目で見られることもなくなります。側室の子ではなく、正室の子として、徳川将軍家を継がせてやりたいのでございます。御台様ならば、その願い、お引き受け頂けるかと。」
それを聞き、茂姫は暫く黙って考えていた。そして漸く口を開き、
「それは・・・、そなたの考えなのか?」
と聞くとお楽は真剣な眼差しで、
「勿論にございます。」
そう答えた。それを聞いた茂姫は優しい表情で、
「わかった。まずは上様に、お話ししてみよう。」
そう言うとお楽は、
「ありがとうございます。」
と言い、頭を下げた。茂姫も、それを見つめていたのだった。
薩摩藩邸では、斉宣が縁側に座っていた。そこへお千万が来て、座った。
「斉宣・・・。」
と声をかけると、斉宣はゆっくりと振り返った。そして、
「母上・・・。わたくしは、思うたのです。あの者の幸せを考えると、この方が良かったのだと。」
そう言った。お千万は首を横に細かく振り、
「そのような・・・。」
と言っていると斉宣は続け、
「わたくしは、享と約束しました。必ず守ると。されど、その約束は果たせなかった。あやつも、それはわかっているはずです。きっと、わしを恨んでおりましょう。」
そう言うのでお千万は、こう言った。
「そのようなことは。あの文にも書いてあったように、そなたのことを何より大切に考えております。そのお気持ちを、無駄にしてはなりませぬ。」
それを聞いて斉宣はお千万を見つめて、
「母上・・・。」
と、呟いた。お千万は、
「そなたは、そなたにしかできないことをやったのです。それだけは、紛れもない事実です。お父上も、お認めになる日が必ず来ることでしょう。」
そう言うのを聞いた斉宣は嬉しそうに笑い、
「はい。」
と答えると、お千万も嬉しそうにしていた。斉宣はその後、庭に向き直っていたのだった。
その後、江戸城では家斉と茂姫が話していた。家斉は茂姫から話を聞き、
「家慶をそなたの子に?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「お楽は、誰よりも家慶様のことを思っております。それを思えば、わたくしはその話をお受けしたいと存じ上げます。」
家斉は立ち上がり、庭に出た。茂姫が、
「上様?」
と聞くと家斉は振り返り、
「家慶は、何というておる。」
そう聞くので茂姫は、
「まだ申しておりません。先に、上様からお許しを頂きたく、申しました。どうか、何卒宜しくお願い申し上げます。それから、お楽の気持ちをどうかお察し下さいませ。」
と言って、頭を下げた。すると家斉は、
「よかろう。」
と言うと茂姫は嬉しそうに顔を上げ、
「まことにございますか?」
そう聞くと家斉も、
「まことじゃ。」
と答えた。茂姫は、
「ありがとうございます!」
そう言い、もう一度頭を下げていた。家斉は庭の木を見つめながら、
「将軍の母になる、か。」
と、呟いた。それを、茂姫も縁側から見ていたのだった。
その後、お富は驚いたように聞いた。
「若君様を、御台所の子にじゃと?」
それを知らせに来たのは側室・お蝶であった。お蝶は、
「これは、お楽様の願い入れだとか。」
そう言うのを聞いてお富は、
「もしや・・・、またもや御台所が勝手に持ち出したのであろう。」
と言っているのを、その横で女中達も見ていた。そしてお富は、
「負け犬は・・・、何をしてくるかわかったものでない・・・。」
そう呟いていたのだった。
ある知らせを聞いた茂姫は、
「家慶様をもらい受ける話は、取りやめじゃと?」
と聞くと、唐橋がこう言った。
「何と申しましょうか。公方様の気が急に変わったとのことでして。」
それを聞いた茂姫が、
「それでは納得がいかぬ。もう一度、上様に会う。」
と言って立ち上がろうとすると唐橋が、
「お待ち下さい。公方様は・・・、今はお会いになれぬとのこと。」
そう言うのだった。
「どういう意味じゃ。」
茂姫は聞くと、唐橋は答えた。
「ここのところ、表では毎日慌ただしい様子が続いており、会うに会えぬと伺っております。」
茂姫は憤りを堪えたような視線を、唐橋に送っていたのであった。
浄岸院(そして時は流れ、文化七年五月一四日。老中として幕政に力を尽くした、安藤信成が病に倒れ、回復の兆しが見られぬまま急死。)
信成の亡骸は、小部屋で寂しく寝かされていた。
表の家斉の所へは、牧野が足を運んでいた。
「安藤老中亡き後は、わたくしが幕政を率いていく覚悟にございます。どうかそのおつもりで、ご安心召されませ。」
家斉は、それを黙って聞いていた。牧野は続け、
「時に公方様は、家慶様を御台様のお子にしようとお考えだとか。」
そう言うので家斉が、
「それが何じゃ。」
と聞くと、牧野は言った。
「されど、御側室の子を御台様のお子にしようというのは、先例のないことにございまして。反対する者も、大勢おりますかと。」
すると家斉は、
「そちが何とかすればよいであろう。それを考えることも、その方の役目ではないか?」
と言うと牧野は、
「はぁ・・・。」
そう言って困り果てていた。家斉が立って部屋を出て行った後も、牧野は困ったような表情をしていたのであった。
浄岸院(それから更に数日後。)
お楽は、部屋で寝ていた。すると戸が開き、茂姫が入って来た。お楽はそれを見て起き上がろうとすると茂姫は身体を支え、
「そのままでよい。」
と言うとお楽は、
「申し訳ございませぬ。」
そう言い、また身体を寝かせた。するとお楽は茂姫に、
「家慶様を御台様の子にとのお話、無理であったとお聞きしました。」
と言うのを聞き、茂姫は安心させるかのようにこう言った。
「大丈夫じゃ。わたくしは、そなたとの約束は必ず守る。案ずるでない。」
それを聞いたお楽は、
「御台様は・・・、お優しゅうございますね。あのような、無礼なことを申してきたというのに・・・。昔、御台様のお召し物を切った時も、疑われませんでした。何ゆえ、そのようにお優しいのか、わたくしにはわかりません・・・。御台様は、大奥の鏡にございます。」
と言った。茂姫が、
「鏡?」
そう聞くと、お楽はこう言った。
「鏡のように、ありのままのお姿でおられる。これは、到底誰も真似できませぬ。どうかこれからもその生き方、貫いて下さいませ。わたくしは・・・、己のことしか考えぬ愚かな人間です。」
「そのようなことはない。」
茂姫は、涙ながらに言った。するとお楽は続け、
「わたくしは、御台様のそのお優しさが、恨めしゅうございました。それ故、あのようなことを・・・。どうか、お許し下さいませ・・・。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「わかっておる。」
と言い、涙を零している。すると戸が開き、
「母上!」
そう言いながら、家慶が駆け込んできた。お楽はそれを見ると家慶の頬を触り、
「敏次郎・・・。」
と、昔の名を呼んだ。それを聞いた家慶は笑顔を作り、
「はい。」
そう答えた。お楽が、
「わたくしは・・・、そなたに何もしてあげられなんだ。」
と言うので家慶は首を横に振り、
「そのようなことはありませぬ。母上は、わたくしの自慢の母上にございます!」
そう言い、お楽の手を握った。お楽は、
「そうじゃ・・・。家慶、引き出しの中から、栞を取ってくれぬか?」
と言うのを聞き、家慶がその部屋の机から、上の引き出しを開くと、中には古い栞があった。家慶がそれを取り出し、
「これに、ございますか?」
と聞くと、お楽はこう言った。
「そなたは覚えておらぬかもしれませんが・・・、それは以前・・・、御台様のお子が、わたくしにくれた花で作ったものです・・・。それを、そなたに、わたくしの形見として、持っていて欲しいのです。」
それを聞くと家慶は、
「母上・・・。」
と言い、涙を浮かべながらお楽を見つめていた。そしてお楽は、
「わたくしは・・・、そなたを生んで良かった・・・。そなたは・・・、わたくしの誇りじゃ。」
そう言うので、家慶の目から涙が零れた。茂姫も涙を流しながら、それを見続けていた。すると最後にお楽は茂姫を見て、
「御台様・・・。家慶のこと、どうか、お願い致します。」
そう言うと茂姫は頷き、
「任せるがよい。」
と言うと、お楽は微笑んだ。家慶がその後も泣きながらお楽の手を握り続けているのを、茂姫は何も言わずに見つめ続けていたのだった。
浄岸院(そして、翌日のこと。)
一八一〇(文化七)年五月二〇日、夜。茂姫が知らせを聞き、
「そうか。今日であったか・・・。」
と言った。宇多は、
「お楽様は、静かにお眠り遊ばしたそうにございます。」
そう言うと茂姫が、
「家慶様には?」
と聞くと、宇多は答えた。
「既にお伝えしてあります。」
それを聞いて茂姫は安心したように、
「そうか。」
と言い、遠くを見つめていた。その横でひさも、それを見ていた。
その頃、縁側で家慶は栞を眺めていた。
『そなたは・・・、わたくしの誇りじゃ。』
不意に、お楽の言葉を思い出した。その後も、ただ庭を見つめていた。
茂姫も、誰もいない自分の部屋で立ちながら仏壇を眺めていた。その後、膝をがくっと落とし、仏壇の前に座り込んだ。そして、息を殺して泣いていたのだった。
その翌朝、表の家斉の前には、老中の牧野が来ていた。牧野は、
「公方様。諸大名から、異国船に関する建白書を募って参りました。」
そう言うと紙を一つ取り、読み上げた。
「まずは話し合い、あちらの意見を確認し・・・。」
読み上げている間、家斉は上の空だった。そして、茂姫の言葉を思い返した。
『わたくしは、あの者が哀れでなりません。』
『お楽は、誰よりも家慶様のことを思っております。』
『上様、お楽の気持ちを、どうかお解り下さいませ!』
すると牧野が気が付いたように、
「上様?」
と聞くと家斉は、
「あ、あぁ。続けよ。」
そう言うと牧野が少々躊躇ったように、
「あ、はぁ。」
と言って続きを読み始めた。家斉はその後も、それを聞き流していた。
そしてその頃、茂姫は縁側に立って宇多と話をしていた。
「わたくしは、お楽の気持ちを無駄にはしとうない。」
すると宇多が、
「もう一度、上様にお願いするのですか?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「上様は、もうおわかりじゃ。」
「えっ?」
宇多が声を上げると、茂姫は続けた。
「わたくしは決めたのじゃ。お楽の遺言を守ると。あの者は、わたくしに本当のことを話してくれた。それ故、わたくしはあの者を今まで以上に好きになったのじゃ。」
それを聞いた宇多は微笑んで、
「はい・・・。」
と言い、茂姫を見つめていた。茂姫は、
「されど、これからどうすればよいのか・・・。」
そう言って弱気になっていると宇多が、
「恐れながら、御台様。」
と言うので、茂姫は何かと振り向いた。宇多は続けて、
「わたくしは、御台様にお仕えして二〇年ほどになります。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「もう、そのようになるか。」
と言うと、宇多は更に続けた。
「これまでの間、あなた様は幾度も難を乗り越えてこられました。そのお姿を、わたくしは何度も見て参りました。だから申します。この先も、誰がどうしようと、何に邪魔をされても、御台様だからこそ出来ることが、きっとあると思います!わたくしは、そう強く信じております!」
それを聞いた茂姫は宇多を見つめながら、
「宇多・・・。」
と言い、少し笑ってこう言った。
「そうじゃな。わたくしにしか出来ぬこと・・・、以前他の者にも言われたことがある。そなたの言う通りかもしれぬ。それには、まず今できることをやるのみじゃ!参るぞ。」
そう言い、向きを変えて走り出した。宇多もそれを見ると急いで立ち上がり、
「御台様!どちらに行かれるのでございますか!」
と言いながら、追いかけていったのであった。
茂姫が向かった先は、お富の部屋であった。茂姫はお富の前で手をつき、後ろにいた宇多達に言った。
「その方らは外すがよい。」
それを聞き、宇多や他の女中達は下がっていった。そして、戸が完全に閉められた。お富はそれを見て、
「これはまた、二人だけで話がしたいとはどういった風の吹き回しで?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「母上様に、是非ともお尋ねしたきことがございます。あの・・・。」
茂姫はそう言いかけるとお富は予測してましたと言わんばかりに、
「お楽のことなら知りませんよ。」
と言った。茂姫は続け、
「はい。お楽は生前、わたくしに遺言を残しました。それは、わたくしが家慶様の母代わりになれというものにございました。それを、どうしてもおわかり頂きたく存じます。」
そう言うのを聞いたお富は、
「遺書などおありなのですか?」
と聞くと茂姫は、
「いえ。特には。」
そう答えるので、お富がこう言った。
「そうですか・・・。されど遺書があったならばまだしも、お聞きになっただけだと仰るのなら、それは信じがたきこと。」
すると茂姫は、
「それはごもっともにございます。しかしながら・・・。」
と言いかけるのを遮るようにお富は、
「されど遺書があろうがなかろうが、前例のなきことにございまするな。」
そう言うのを聞いて茂姫は顔を曇らせ、
「それは・・・。」
と言っているとお富は、
「故に、公方様もきっとお許し下さらぬであろう。」
そう言うと茂姫が、
「上様は、お受け下さいました。」
と言うのでお富が、
「ならば、母であるこのわたくしがよく申しておきます。」
そう言い、立ち上がって部屋を出て行こうとすると茂姫はこう言った。
「お話は、まだございます。」
お富は茂姫を見ると、
「それは?」
と、尋ねた。茂姫は続けて、
「以前、お楽がわたくしに毒を盛ろうと部屋を尋ねてきたことがございます。そのことで、何かご存知ではないかと。」
そう言うのでお富が、
「わたくしが、命じたとでも言いたいのか?」
と聞くと茂姫は顔を上げ、お富を見た。お富も、見つめ返してくる。茂姫は、
「恐れながら、お楽はそう申しておりました。」
と言うのを聞き、お富は急に笑い出した。するとお富は表情を一変させ、
「そうじゃ。お楽にそなたを殺すよう、命じたのはわたくしじゃ。されど、まさかあの者がそなたに付く日が来るとはな。」
そう言うので、茂姫はこう聞いた。
「あの者の、身体の具合に関しては?」
「知らぬ。」
「ならば、倒れる以前、おかしなことなどは?」
「何もない。」
お富は、正そう答えるだけだった。茂姫は、
「恐れながら、申し上げます。お楽とより密接な関係であったのならば、お気づきにならぬはずはないと思います。まことのことを、教えて頂きとう存じます。」
そう言うのでお富はとうとう、
「・・・そうじゃ。あの者の病のことは、薄々気付いておった。」
と言うのを聞いた茂姫が、
「何故ですか・・・?あの者の身体に気付いていながら、何故あのようなことを!」
そう言った。お富も、
「そなたに何がわかる!わたくしは、あの者を信頼しておったのじゃ。それ故、あの者の心を揺さぶったそちをわたくしは大嫌いなのじゃ!昔以上にな!」
と言うので、茂姫はこう言った。
「わたくしの願いは、遺言を守りたい、それだけなのです!お楽は、家慶様を、この徳川家を何より大切に考えていたと思います。それを、それを、おわかりでなかったのですか!?それとも知っていて、あのようなことをさせようとしたのでございますか!」
それを聞くとお富は、
「ええい、黙れ!黙れ黙れ黙れ!!」
と言いながら、部屋の隅に立てかけてあった棒を持ち出し、茂姫に振りかざした。茂姫はそれを辛うじて交わすと、その横にあった別の棒でお富の攻撃を防いだ。そしてそれを使ってお富の持っていた長い棒を振りはらい、衝撃で倒れ込んだお富の首辺りに突きつけた。お富は、呆然と茂姫を見た。茂姫も、棒をその場に捨てた。茂姫は座り、
「お願いにございます。これ以上、あの者を苦しめないで下さいませ。あの者が、天で安らかに過ごせるよう、もう終わりにしてやって下さい。どうか、自由にしてやって下さいませ。お願い申し上げます。」
と言うと、深々と頭を下げた。それをただ呆然と見ていたお富は、暫くすると我に返ったように、
「ええい、忌々しい!」
と言い、立ち上がって部屋を出て行った。茂姫はその後も、暫くは頭を下げたまま上げたなかったのである。
その後、茂姫は家慶に話した。
「御台様が、母上の代わりを?」
家慶が聞くと茂姫は、
「はい。あなたの母君が、そう仰せであった。わたくしは、その遺言を是非とも守りとうございます。」
そう言うのを聞くと家慶が、
「母上は、わたくしを将軍にするために、大奥へ上がったと聞いております。御台様は、母を憎いと思ったことがないのですか?」
と聞いてくるので、茂姫は言った。
「ありませぬ。何故だかわたくしは、あの者の気持ちがわかった気がしたのです。女子の戦には、何か不思議な力があると思うのです。わたくしは、その戦に敗れました。気持ちは、あなたの母の方が上であった、それだけなのです。」
家慶が、
「そうですか・・・。しかし、その話はお心だけに留めて頂きとう存じます。」
そう言うので茂姫が、
「えっ?」
と尋ねると家慶は、
「そのお言葉だけで、嬉しゅうございました。では、これにて。」
そう言い、頭を下げると、立ち上がって部屋を出て行った。その後、茂姫は複雑な気持ちを抱えていたのであった。
その夜。家慶から喬子へ、大奥にお渡りがあった。
寝室で、家慶は喬子たかこにこう話していた。
「母上は、最期までわしのことを思っておられた。これまで母上の気持ちなど、考えたこともなかった。それ故、何もできなかった己が情けなくてならぬ。」
それを聞いた喬子が、
「わたくしも・・・、それは同じにございます。」
と言った。家慶が、
「そなたも?」
そう聞くと、喬子がこう言った。
「わたくしは、古里の父にまだ何もしておりませぬ。今頃、心配ばかりかけているのとちゃいますやろか。」
すると家慶が、
「そのようなことはない。そなたの父君も、そなたを信じて江戸へ送り出したのであろう。」
と言うと喬子は、
「信じて・・・。」
そう繰り返した。家慶は喬子を見つめながら、
「あぁ。」
と言うと、茂姫のことを思い出した。
『わたくしは、その遺言を是非とも守りとうございます。』
それから家慶が黙っていると喬子が、
「如何なさいました?」
と聞くので家慶は、
「あ、あぁ。何でもない、すまぬ。」
そう答えた。すると家慶は、
「わしは、そなたを守ると決めた。今は、それしか考えられぬのじゃ。」
と言うのを聞き、喬子もこう言った。
「わたくしも・・・、決めたことがございます。」
そう言うので家慶は、
「それは何じゃ。」
と聞くと、喬子は言った。
「わたくしは、早く家慶さんの、子を抱きとうございます。」
それを聞いた家慶は笑顔で、
「わかっておる。」
と言い、喬子を胸に抱き寄せた。喬子も、それに素直に応えていたのだった。
ある日、京では喬子の父・有栖川宮ありすがわのみや織仁おりひとが、三条さんじょう実起さねおきと話していた。織仁が、
「楽宮が幕府に嫁いだというのに、幕府は開国を望んでおると聞く。」
そう言っていると実起が、
「今国を開けば、いつ戦が起きてもおかしくあらしゃいませぬ。何とか、幕府に鎖国を貫くように頼んでみます。」
と言うのを聞き、織仁がこう言った。
「もし異国と幕府の間で戦が起これば、大奥もそれに巻き込まれるであろう。そうなれば、楽宮が可哀想でならぬ。」
それを、実起も心配そうに見ていたのだった。
その頃、茂姫と家斉は話をしていた。茂姫は、
「家慶様は、わたくしが母になることを望んではおられないとお見受け致しました。」
そう言うと家斉は庭に立って、
「そうか。」
と答えると茂姫は、
「されど、わたくしは諦めてはおりませぬ。家慶様に今一度お話しし、お心をお開き遊ばされるよう、努めてみたいと思います。」
そう言うので家斉は振り返り、
「あの者は、一筋縄ではいかんぞ。」
と言うのを聞き、茂姫はこう答えた。
「わかっております。だからこそ、わたくしはやってみとうございます。」
それを聞いた家斉はまた空を見上げ、
「天におるお楽も、きっと喜んでいるであろうな。」
と言うので茂姫も、
「はい。」
そう言い、上を見上げた。その後、二人は目を輝かせながら、青空を眺めていたのであった。


次回予告
お楽「わたくしは、己を許すことができません。」
茂姫「このままでは、わたくしの気が治まりません!」
家斉「御台は、そなたのことを気にかけておった。」
家慶「御台様!」
お千万「あなたは、宝です。」
斉宣「母上・・・。」
美代「わたくしは嫌でございます!」
宇多「御台様が、見当たりませぬ!」
家慶「お許し下さいませ、母上様。」
茂姫「母上様?」
  「わたくしは、上様の妻にございます。それ故、家慶様はわたくしの子でもあるのです。」
  「わたくしは、己の生き方を貫きとう存じます。」



次回 第三十三回「二人の母」 どうぞ、ご期待下さい!

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