茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三十回 さらば故郷

重豪「そなたに、隠居を命じる。」
  「享とも離縁し、残りの一生を江戸で暮らすのじゃ。」
浄岸院(薩摩藩前代藩主・島津重豪は息子の斉宣に対し、隠居を命じました。)
家斉「薩摩のことは、もう気にしておらぬのか?」
茂姫「もう大丈夫にございます。」
浄岸院(一方、茂姫は薩摩と徳川、両方の板挟みの位置におりました。)
茂姫「我が父の子が有馬越前守のところに養子入りする際、その折りを利用して薩摩からの使いを通さなかったと聞いておる。それは、父から頼まれてそうしたのか?」
牧野忠精「御台様は、薩摩の誇りにございます。」
茂姫「誇り・・・。」
  「父上は藩主であられた時から今日まで、本当にそち達のことを思うて来られた。それでも信用できぬと申すならば、今すぐにでも薩摩から去ることじゃ!」
  「わたくしは、今でも薩摩のことを思うことがあります。斉宣殿一人に薩摩を任せるのは心配だから、父は今も尚、藩政に手を加えられているのだと思うておりました。されど、それは違うのでしょうか。」
  「叔父上様が!?」
  「これ以上、薩摩が荒れぬと良いがな・・・。」


第三十回 さらば故郷

一八〇九(文化六)年七月。斉宣は一人、暗い部屋で胡座をかき、目を閉じていた。すると部屋の戸が開き、お千万が心配そうに入って来た。お千万は斉宣の前に座り、
「嫡男の斉興様が、当主の座に就かれたそうです。」
と、告げた。すると斉宣は目を開け、こう言った。
「母上・・・。わたくしは、もう二度と古里を見ることができぬのでしょうか・・・。」
それを聞くとお千万は、
「お父上は、もうあのような騒ぎを二度と起こさぬためと仰せのようです。」
と言った。斉宣は、
「わたくしはまだ三六です。まだ藩主として、やりたいことが沢山あったというのに・・・。何故、何故このような・・・。」
そう言いながら、悔し涙を流した。お千万はそっと手を斉宣に当て、
「わたくしから、お父上にお話ししてみます。あなたが、古里の薩摩へと帰れるようにと。」
と言うので、斉宣は顔を上げてお千万を見た。
「母上・・・。」
「薩摩は、あなたにとっても特別な場所です。その土を、二度と踏めぬというのは、あまりにも悲しいことです。わたくしが、お父上にお願いして参ります。どうか、ご安心なされませ。」
お千万が言うので、斉宣はそれを見つめていたのだった。
その頃、重豪は一橋邸にいた。
「それは、あまりにも理不尽ではございますまいか。」
治済がそう言うと、重豪は言った。
「あの者は、薩摩を裏切ったも当然。これからは、藩主・斉興の後見役として一橋様にお願いしたのです。何卒、宜しゅうお願い申します。」
重豪は、頭を浅く下げた。それを聞くと治済は、
「わかりました。そこまで言われるのでしたら、お受け致しましょう。その代わり・・・。」
重豪は顔を上げ、
「その代わり・・・?」
と聞くと、治済はこう言った。
「斉宣殿を、あまりお咎めにならぬよう。」
重豪はそれを聞き、
「何ゆえにございますか?」
と聞くと、治済はこう言った。
「弟をしたっておられる、御台様を咎めるに値するかと。」
それを聞き、重豪は考え込んだ表情になっていたのであった。
その頃、大奥でも茂姫がこう話していた。
「斉宣殿が隠居となった今、薩摩はまだ若き斉興殿が藩主となる。それには、必ずや父の後見があるであろう。そうなった時、斉宣殿の居場所は何処にあるのか。」
宇多は、
「心配なのですか?」
そう聞くと、茂姫はこう言った。
「あぁ。それより、許せぬのは近思録党の者達じゃ。いくら市田家が他方と比べて優遇を受けていたとしても、薩摩から追い出すなど。斉宣殿も藩士とはいえ、逆らえなかったのであろう。」
それを、宇多とひさは心配そうに見つめていた。そこへ、
「失礼致します。」
と言いながら唐橋が来て、
「若君様がお見えにございます。」
そう言うので茂姫は少しばかり驚いたように、
「家慶様が・・・?」
と言い、唐橋を見つめていた。
その後、茂姫は家慶と向き合って話した。茂姫は、
「どうされました?」
と聞くと家慶が、
「御台様は、母上のことをどう思いますか?」
そう聞いた。
「お楽、ですか?」
家慶は続けて、
「母上は、御台様に強い警戒心を抱いているようです。この前も、会わぬようにと言われました。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうですか・・・。」
と言い、続けてこう言った。
「あの者は・・・、昔からわたくしのことを嫌うておりましたから。」
「そうなのですか?」
家慶はそう聞くと、茂姫が答えた。
「はい。」
『わたくしは、あなた様が嫌いにございます。』
『やはり御台様が嫌いです。』
そして茂姫は、こう続けた。
「以前までは、それはわたくしが諸大名家の出であるからだと思っておりました。されど今思えば、あなたを、将軍にしたかっただけなのかもしれませんね。」
すると、家慶がこう言った。
「御台様も、それは同じだったのでしょうね。」
それを聞いた茂姫は、
「はい・・・。されど今、国元の藩主が変わり、大変なことになっております。わたくしは・・・、誰を信じてよいのかわかりません・・・。」
と言うので、家慶がこう言った。
「他人が信じられぬのであれば、まずは、自分を信じることだと思います。」
「自分を・・・?」
「はい。そうすることで、受け入れられることもきっと見つかりましょう。」
それを聞いて茂姫は、
「あなたと話していると・・・、とても心が和みます。」
と言うので家慶は若干照れ笑い、俯いていた。茂姫もそれを見て、笑っていた。その様子を、遠くの陰からお楽も立ち聞きしていたのであった。
薩摩藩邸では、斉宣が重豪の部屋に来ていた。斉宣が手をつきながら、
「父上に、お聞きしたきことがあって参りました。」
そう言うので重豪は、
「何じゃ?」
と聞き、斉宣は息を呑んで話し出そうとした。すると赤子の泣き声と、廊下を子をあやしながら歩いてくる娘の声が聞こえてきた。すると、重豪の部屋には斉興の正室・弥姫いよひめが赤子を抱きながら入って来た。赤子は泣き止まず、弥姫が重豪にすり寄った。
義祖父おじ上様。邦丸が、泣き止んでくれませぬ!」
弥姫がそう言い、斉興の嫡男・邦丸くにまるを重豪に手渡した。重豪は邦丸を抱き、
「おぉ、よしよし。」
そう言い、邦丸に対して笑顔を見せた。すると、邦丸は泣くのをやめ、笑顔になった。弥姫はそれを見て、
「義祖父上様の手にかかれば、邦丸もよう笑いまするなぁ。」
そう言って感心すると、重豪は笑顔のままこう言った。
「なーに、もう三人目じゃ。」
そして弥姫に再び手渡すと、弥姫も邦丸を抱きながら部屋を後にした。斉宣は、呆気にとられた様子でそれを見ていた。重豪は斉宣を見ると、
「どうじゃ。斉興の嫡男、邦丸じゃ。今年の三月に生まれたばかりでな、なかなか愛らしいでのぉ。」
そう言うので斉宣は、
「そうですか・・・。」
とだけ、答えていた。すると重豪は、
「時にそなた、今日はわしに聞きたいことがあると申したな。」
そう言って聞くので、斉宣は言った。
「はい。もう、わたくしが言う筋合いはないのは重々に承知の上で、申し上げます。」
「申してみよ。」
「父上は、何ゆえ、今の藩を変えようとはなさらなかったのですか?」
斉宣がそう聞くので、重豪の顔色が変わった。そして重豪は、
「ならば逆に尋ねるが、何故そちは薩摩を変える必要があると思う。」
と聞くのだった。斉宣は、
「薩摩は今、強者と弱者に差がありすぎます。我々が裕福でいる中、どこかには貧しい暮らしを送っている者もきっとおります。そのような差をなくすため、わたくしは薩摩の財政から全て洗い流したかったのでございます!このままだと薩摩は、必ずや衰えていくでしょう。」
そう言うので、重豪はこう聞いた。
「ならば何故、あそこまでする必要があった。市田盛常をはじめ、以前から、薩摩に身を捧げてきた者達に次々と隠居を命じたのは、その方ではないか。」
「それは・・・。」
「わしの藩政に不満を持ったのは、近思録一派ではなく、そなた自身ではないのか?」
重豪がそう言うので斉宣は、
「それは違います。財政から変えるためには、それが一番よい策かと思った次第にございます。わたくしは、薩摩を守りたかった。ただそれだけなのです!」
そう言うのを聞き、重豪は立ち上がると廊下の手前まで歩いて行った。足を止めると重豪は、
「ならば、そなたはあの者達の不幸を考えたことはあるか。」
と言うので、斉宣は振り向いて重豪を見つめた。重豪は、
「そなたが望むのは、薩摩で暮らす民全ての幸せであろう。ならば、何故家老達の幸せを奪うような真似をした。」
そう言うので斉宣は、
「それは・・・。」
と言い、俯いて少し考えたような顔をした。すると不意を突くように重豪は、
「わしのせいだと言いたいのか?」
そう聞くのを聞いて、斉宣はまた顔を上げ、重豪を見た。すると重豪は、
「わしのせいにしたければ、するがよい。」
と言うと、部屋から出て行ってしまった。斉宣はその後、表情を変えずに下を見ていたのだった。
その後、斉宣はお千万の部屋へ行っていた。斉宣はお千万に、
「母上・・・。わたくしは、やっとわかりました。」
と言うとお千万は、
「えっ?」
そう聞き返した。斉宣は、
「もう、父上と解り合うことはないでしょう。わたくしの居場所は、もうないのです。斉興とも、暫くは顔も合わせられませぬ。顔も・・・。」
と言い、涙が溢れてきた。お千万はそれを見ると、優しく斉宣の肩に、そっと手を添えた。そして、こう言った。
「あなたは・・・、お国のためによくやりました。何も恥じることなどありませぬ。」
それを聞いた斉宣は、
「母上・・・。」
と言いながら、お千万を見た。お千万も、優しく頷いた。そして斉宣も、少し嬉しそうにお千万の手を握り返していたのだった。
茂姫はその頃、
「家慶様は、日に日に大人になっておられる。知らぬ間に、人は成長するものじゃな。」
と言っているのを聞いて宇多も、
「はい!」
そう答えていた。すると一人の女中が入って来、
「失礼仕ります。これを。」
と言い、文を差し出した。それを見て宇多は、
「御苦労であった。」
そう言うと、女中は頭を下げて下がっていった。宇多が書状を茂姫に手渡すと、茂姫はそれを広げた。読むと茂姫は怪訝そうに、
「これは・・・。」
と、呟いた。すると側で様子を見ていたひさが、
「恐れながら、何が書かれているのでございますか?」
と聞いた。すると茂姫が、
「薩摩に、帰らぬようにじゃと・・・?」
そう言うので宇多も、
「薩摩?」
と聞いた。茂姫は顔を上げ、
「斉宣殿が、薩摩に帰れぬよう父に頼んで欲しいと書いてある。それも、上様から・・・。」
そう言うのを聞き、宇多はまた声を上げた。
「公方様から!?」
ひさも、驚いた顔をした。茂姫は、
「とにかく、老中に会って確かめなければならぬ。」
そう言うと、立ち上がったのだった。
茂姫は、部屋に牧野を呼び出した。茂姫は、
「此度、わたくしのもとに上様からの書状が届いた。されど、これは上様のものではない。字の形が、少し違うておる。これは一体、どういうことじゃ?」
そう聞くと、牧野はこう言った。
「しかし、それは公方様御自ら、お書きになったものと聞いております。恐らくは・・・。」
それを聞いた茂姫は全て悟ったように、
「恐らくのぉ・・・。さては、また安藤などの仕業か。」
そう言うので、牧野は下を向いた。茂姫は続けて、
「確かに、薩摩の一件は端から見ても許し難いものじゃ。」
そう言った後、衝動的に盛常のことを思い出した。
『わたくしは必ずや、殿のお心を動かしてご覧に入れます。そして、薩摩は、このわたくしが守り抜いて見せます!』
そして茂姫は、
「市田殿は、立派であった。薩摩を、必死に守ろうとお考えであった。それを、隠居に追い込んだ挙句、薩摩から追放したのだからな。されど、そなた達老中のすることはいつも強引じゃ。はっきり言えば、許す許せぬの問題ではなく、言語道断じゃ!」
そう言うので牧野は、
「ははっ!」
と言って、頭を下げた。茂姫は、
「しかも、上様の名を偽造して送るなど、上様がお知りになったら、それに関わった者は皆、切腹か、もうこの城には上がれなくなるであろう。そのこと、他の者たちにしかと申し伝えよ。」
そう言うのを聞いた牧野が、
「承知致しましてございます。」
と言って頭を下げると、それを茂姫は黙って見ていたのだった。
斉宣は、変わらずに薩摩藩邸にいた。家臣が来て、
「御無礼仕ります。お客人が、目通りを願うておりまする。」
と言うので斉宣が、
「誰じゃ。」
そう聞くと、家来はこう答えた。
「島津淡路守殿と仰せです。」
それを聞いて斉宣は、
「淡路守・・・?」
と、呟いていたのだった。
斉宣が部屋へ行くとそこにいた男に、
「どうされたのです?」
と聞いた。そこにいたのは、佐土原藩主・島津しまづ忠持ただもちであった。忠持が、
「ちと、殿のことが心配になりましてな。隠居させられ、嫡男の斉興様に家督を譲らされたとか。」
そう言うのを聞き、斉宣は言った。
「全て、わたくしの力不足なのです。わたくしが、父上の言うことを聞き入れてさえいれば・・・。」
すると忠持が、
「悔いがあるのですか?」
と聞くので斉宣は、
「悔い・・・?」
そう聞き返した。忠持は続けて、
「話は、こちらにも聞こえておりました。近思録党を率いて、薩摩の改革を行おうとしたと。私はその話を聞いて、殿の勇気を感じました。」
と言った。
「勇気・・・。」
斉宣も、そう繰り返した。そして忠持は、
「正直、初めてお会いした時は不安でした。これからの薩摩を、この方に任せてよいのかと・・・。されど、その時にわかりました。わたくしの、考えすぎであったと。あなたこそ、薩摩を担うに相応しい人物にございます。今は藩主の座にいなくても、斉興様を支え、薩摩のこれからの改革にあなた様は携わっていけると、わたくしはそう思いました。」
そう言うので斉宣は少し嬉しそうに、
「忠持殿・・・。」
と言っていた。忠持は最後に、
「これからの薩摩を、どうかお頼み申し上げます。」
そう言うので、斉宣もこう言った。
「勿論にございます。誰に何を言われようと、わたくしはこれからも薩摩のためだけを思って生きて参ります。」
それを聞いた忠持は、大きく頷いた。斉宣もそれを見て、微笑んでいたのであった。
そして、江戸城では茂姫と家斉が話をしていた。茂姫は家斉に、
「上様は、どう思われますか?」
と聞くと家斉が、
「何がじゃ。」
そう聞き返すので、茂姫は言った。
「老中達のしたことにございます。上様の名を偽造し、薩摩藩邸に送ったのです。」
それを聞いて家斉は、
「まぁ、老中のしたこともわからぬでもないがの。」
と言うので茂姫は、
「上様は、腹が立たぬのですか?上様の名を騙るなど、無礼極まりないことにございます。」
そう言うのを聞き、家斉がこう聞いてきた。
「そなたはどうしたい。あの者を、薩摩に帰したいのか?」
それを聞くと茂姫は冷静な表情になり、暫く考え込んだ。すると一歩下がり、手をついてこう言った。
「上様。お願いがございます。」
「何じゃ。」
家斉が聞くと、茂姫は続けて言った。
「今一度、上様の御言葉で斉宣殿を二度と国元へ帰れぬよう、お命じ頂きたいのです。」
それを聞いた家斉は暫く黙って、こう聞いた。
「それは・・・、二度とあのような騒ぎを起こさせぬためか?」
すると茂姫は、
「それも一つにございますが、理由は他にもございます。」
と言った。家斉が、
「どのような理由なのじゃ?」
そう聞くと、茂姫は言った。
「もしも、薩摩に何かあった時、江戸から救援を出して頂くためにございます。江戸にいれば、何かと都合がつくかと。」
家斉はそれを聞き、
「なるほどのぉ・・・。されど何故そなたがそこまで考える。」
と質問すると茂姫は、
「薩摩は、わたくしの古里でもあります。それと、これは、己の使命にございます。どうか、お願い申し上げます。」
そう言い、頭を下げた。家斉は、
「使命、のぅ・・・。」
と呟いていたのだった。
その頃、老中達は表に集まって話していた。牧野は、
「だからわたくしは、反対したのです。御台様は、既にお見通しでございます。」
そう言うと土井どい利厚としあつも、
「もしも公方様がお怒りになれば、わたくし共は切腹してお詫びするしか・・・。」
と言い、安藤信成は腕を組んで考えていた。土井が途方に暮れたように、
「如何致しましょう・・・。」
そう言っていると信成が、
「よし。上様に全てお話しし、どのようなお咎めもお受け致す。」
と言うのを聞いて二人は、
「はっ。」
そう答えた。すると家臣が部屋に来て、
「失礼仕ります。公方様からでございます。」
と言い、三人に書状を差し出した。信成はその紙を広げ、目を疑った。
「許す・・・?」
それを聞き、牧野と土井は驚いた表情をした。そして土井は、
「何と・・・。公方様が、許されると?」
と聞いた。信成は書状を読みながら、
「そのようでござる。」
そう答えるので土井は、
「何とまぁ、心のお広い方にございますなぁ。」
と言っていた。牧野はあることを悟り、それを安心したような顔で見ていたのだった。
薩摩藩邸では、重豪の前に調所ずしょ広郷ひろさとが来て、
「大殿様。中津藩から、お客様がお見えにございます。」
そう言うので重豪が読んでいた書物を折りたたみ、
「通せ。」
と命じた。広郷は、
「はっ。」
そう言い、下がっていった。暫くして、重豪の前に奥平昌高が現れた。重豪はそれを見て、
「おぉ、昌高か。久しぶりじゃの。」
と言うと、昌高は重豪の前に座った。昌高は、
「今日は、父上にお願いがあって参りました。」
そう言うのを聞いて重豪は、
「斉宣のことか?」
と聞いた。すると昌高は、
「はい。佐土原藩御当主・忠持様から、お聞きしました。姉上様、雅姫様も、たいそう心配されておいでだとお伺いしました。」
そう言い、雅姫の顔を思い出した。そして昌高は続けて、
「父上。今一度、兄上を、お許し頂きたいのです。兄上は、薩摩のためを思って改革をなさろうとしておられたと、皆話しております。それは、父上もおわかりではないかと。」
と言うのを聞いて重豪は顔をそらし、黙っていた。昌高は、
「兄上は、今後の薩摩藩において誰も想像がつかぬ大きな事業を成し遂げられると、思っております。なので、まだ隠居にはお若すぎます。どうか、この願い、お聞き届けを。」
そう言うので重豪は、
「ならぬ。わしは、まだ許せぬのじゃ。あやつを、止められなかった己をの。」
と言うと立ち上がり、部屋を出て行った。それを、昌高は心配そうに見つめていたのだった。
その頃、お千万は斉宣に書状を差し出した。
「幕府からにございます。」
お千万がそう言うので斉宣は驚いたように、
「幕府から?」
と聞いていた。そして斉宣は書状を広げ、読み始めた。すると怪訝そうになり、
「薩摩に、帰れぬ・・・?」
と、呟いた。お千万は、
「将軍、家斉様から直々のお達しだとのこと。」
そう言うのを聞いた斉宣は、
「公方様が・・・。」
そう呟いていた。お千万は、こう言った。
「こうなれば、何を言っても無謀にございますね。されど、わたくしはあなたを一人にはしません。わたくしも、江戸に残りたいと思います。」
「母上・・・。」
斉宣はそう言うお千万を見て、呟いた。その後で、斉宣は悔しそうに、書状を握りしめていたのだった。
茂姫が、
「登城じゃと?」
と聞くと、唐橋がこう言った。
「はい。島津薩摩守様が、ご登城を願い出てきております。」
それを聞き、茂姫がこう言った。
「斉宣殿にしても、無理もない。此度は、わたくしが全て責任を負うと、上様に伝えて欲しい。」
それを聞いて唐橋は、
「承知、仕りました。」
と言い、頭を下げて出ていった。それを見て宇多は茂姫に、
「宜しいのですか?」
そう尋ねると茂姫は、
「よいのじゃ。わたくしも、確かめたいことがある故な。」
と言うのを、宇多は見ていたのだった。
浄岸院(そして、斉宣が江戸城に登城する日が来たのでございます。)
斉宣は頭を下げていると、茂姫が部屋に来て上座に着いた。茂姫は斉宣に優しい笑みを見せ、
「よう参られた。面をお上げ下さい。」
と言うと、斉宣は顔を上げた。斉宣は、
「此度は、御台様にお聞きしたきことがあり、参城仕りました。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「わかっております。その前に、わたくしからも聞きたいことがあります。」
と言うので斉宣は恐る恐る、
「それは・・・。」
そう聞くと、茂姫はこう言うのだった。
「薩摩藩筆頭として力を尽くされていた、家老・市田盛常殿に隠居の命を下したのは、己の意思ですか?それとも、近思録の者達に頼まれたからですか?」
すると斉宣は、こう聞き返した。
「もし、わたくしが己の意思だと申したら・・・。」
それを聞いた茂姫は、
「あの方は、わたくしの実の叔父上に当たる方。それ故に、薩摩のことをたいそうご立派にお考えにございました。もしも近思録党があなたにそうするよう勧めたのであれば、わたくしはこれからもあのも達を許しません。一方、あなたが己の意思で隠居を命じたのであればわたくしは、あなたを許すことはないでしょう。」
と言うのを聞き、斉宣は俯いた。茂姫が、
「わたくしは、これまで人を恨んだことがあまりありませぬ。しかし此度の一件は、何とも許し難いのです。どうか、ここではっきりと申して下さいませ。」
そう言うのを聞き、斉宣はこう言った。
「御台様・・・。いえ、姉上様。」
「はい。」
そして斉宣は茂姫を見て、
「あれは、わたくしの意思でしたことにございます。」
それを聞いて茂姫は、
「なんと・・・。」
と、声を漏らした。すると斉宣は続けて、こう言った。
「されどわたくしは、己のためではなく、薩摩のためにしたことにございます。古い藩政を洗い流し、無理な暮らしを強いられている民を、助けたかったのでございます。」
茂姫はそれを聞いて、
「父上の題から仕えている者達を薩摩から追い出してもですか!」
と言うので斉宣は、
「それしか道はなかったのです!」
そう言うのを聞き、茂姫は黙った。斉宣は続け、
「薩摩は・・・、姉上が思っている以上に今でも苦しい財政が続いております。あれは、言わば仕方のなかったこと。わたくしは、薩摩をもっと楽にしたかっただけなのでございます。」
そう言った。それを聞いていた茂姫は暫く黙っていると、立ち上がって斉宣の前に座った。そして、
「あなたの・・・、本当の気持ちが聞けてよかった。」
そう言うので斉宣も、茂姫を見つめた。そして茂姫は続けて、
「あなたが薩摩に帰れぬようにと、上様にお頼みしたのはわたくしにございます。」
そう言うので斉宣が、
「姉上が?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「はい。二度と、あのような騒ぎが起こらぬため、あなたを薩摩に返すわけには参らぬのです。」
「もう、あのようなことは。」
斉宣が言うと、茂姫はこう言った。
「そして、理由はもう一つ。次なる当主・斉興殿が万が一、藩の政を誤り、再びあのような騒ぎを引き起こしてしまったら、父上がなさったように、江戸から薩摩を鎮めて欲しいのです。」
「わたくしが、薩摩を鎮める?」
「はい。それは、経験したあなたにしか出来ぬことです。」
斉宣はそれを聞いて、
「わたくしにしか、出来ぬ・・・。」
と、繰り返した。そして茂姫が、
「それと・・・、ここからはわたくしのお願いにございます。」
そう言うのを聞き、斉宣は聞いた。
「お願い、にございますか?」
茂姫は頷き、こう言った。
「これは、許せない相手だからこそ言います。」
それを聞いて斉宣も、頷いた。茂姫は目に涙を浮かべながら、
「どうか・・・、どうか薩摩を、忘れないでいて下さいませ。」
と言うのだった。それを聞いて斉宣も涙を浮かべ、
「はい。勿論にございます。」
そう言った。それを聞いて茂姫は、嬉しそうに笑った。斉宣もそれを見て、笑っていた。そして茂姫は、それを見て安心したような表情で斉宣を見つめていたのであった。
夕方、宇多が家斉の部屋に行っていた。家斉が、
「御台の様子は。」
と聞くと宇多は、
「嬉しそうにございました。公方様に、感謝したいと。」
そう言うのを聞いて家斉は、
「あやつも、辛いであろうな。」
と言うので、宇多がこう言った。
「されど、御台様は本当にお強いと思います。様々なことを乗り越えられ、わたくし共にはとても真似できないことばかりでございます。」
すると家斉は振り返り、
「お宇多。そなたも、御台と出会うて長いであろう。」
そう言うので宇多は、
「はい。もう、二〇年ほどになります。」
と答えた。そして家斉は、
「その強さを、一番よく学んだのではないか?」
そう言うので宇多は、
「上様・・・。」
と、呟いた。宇多は気が付いたように、
「あ、申し訳ございませぬ。」
と言うと家斉は夕日を見上げながら、
「よい。そういえば家慶は、御台に心を開いておるそうじゃ。わしには、全くもって開かぬのにのぉ。」
そう言っているのを、宇多も微笑しながら見つめていたのだった。
斉宣はその頃、薩摩藩邸に帰ってきていた。部屋で、弟の昌高と話をしていた。昌高は、
「結局、帰れないのですか?」
そう聞くと、斉宣はこう言った。
「此度、姉上と話して思うたのじゃ。わしは帰れぬのではない。帰らぬのじゃ。」
それを聞くと昌高は微笑み、
「兄上は姉上と同じように、お強うなられた。」
と言うので、斉宣も嬉しそうにした。そして斉宣は立ち上がり、縁側の前に立った。そして、こう言うのだった。
「わたくしは、これからは影となる。影の如く、密かに斉興を、いや薩摩を、支えて参る。」
それを聞いて昌高は、
「はい!」
と答えた。それを聞いて斉宣は振り返り、昌高を見ると、互いに笑い合っていたのだった。
重豪も自分の部屋の縁側に腰かけ、扇で扇いでいた。すると斉興が来て、
祖父おじ上。父上は?」
と聞くと、重豪はこう言った。
「あぁ。暫くは、会わぬ方がよい。互いのためにもな。」
それを聞いた斉興は、
「はぁ・・・。」
と答えていた。すると重豪は斉興を見て、こう言った。
「それに、そなたの後見役として薩摩を担うのは、於茂の義理の父・一橋治済様、そしてわしじゃ。そのこと、心しておくように。」
それを聞いて斉興は、
「はい。」
と、返していた。重豪は険しい表情で、
「薩摩に帰らぬ、か・・・。」
そう呟いているのを、斉興も不思議そうに見つめていたのだった。
そして一方、茂姫も夕日を浴びながら縁側に立っていた。茂姫は庭を眺めながら、言った。
「古里と別れるというのは、誰からしても、何とも寂しいものじゃ。わたくしも、二度と薩摩の地を踏まぬと覚悟を決め、日々をここで過ごしておる。しかし、一度も寂しいなどと思ったことはない。」
それを後ろで聞いていた宇多は、
「御台様・・・。」
と、呟いた。すると茂姫は、母・お登勢の言葉を思い出したのだった。
『今は徳川家のお方。このようなところにいてはなりませぬ。』
茂姫は続けて、
「それは・・・、この江戸が、わたくしのもう一つの古里だからかもしれぬな。わたくしは生涯、そのことを感じさせてくれた今日という日を忘れたりはせぬ。思い出させてくれた、この麗しき日をな。」
そう言うのを聞いた宇多も微笑んで、
「はい。」
と返していた。その横でひさも、笑って見ていた。茂姫の笑顔から、一筋の涙が零れたが、茂姫は拭おうとはせずにただただ日差しが反射している庭を眺めていたのだった。
日が沈む直前のこと、お楽は部屋に家慶を呼んだ。
「そなた、御台様に会ったそうですね。わたくしが、あれ程申し上げたのに。」
お楽が言うと家慶が、
「されど、母上。わたくしは、気付きました。あのお方は、母上が思っているような方ではない。凛々しいかと思うと、どこが幼い娘御のような振る舞いを見せたり、わたくしはあのお方が好きにございます。母上も、もっと信じてみては如何ですか?」
そう言うのを聞いてお楽は、
「信じる・・・?」
と聞き返すと家慶は頷き、
「はい。信じるのです。」
そう言った。お楽はそれを聞いて、反省したような表情になっていたのであった。
そして日が完全に落ちた夜。茂姫は縁側に座り、一人満月を眺めていたのだった。
浄岸院(苦難を乗り越え、日に日に成長する茂姫でしたが、この後も多くの至難が待ち受けていることを、この時は本人はおろか、誰にも知る由がなかったのでございます。)


次回予告
宇多「いよいよでございますね。」
茂姫「家慶様は、ご立派になられました。」
家慶「わたくしは、父上とは違います。」
家斉「あやつは、まだ若すぎる。」
茂姫「お譲りにならぬのは、家慶様のことを何より大切にされているからでは?」
有栖川宮織仁「楽宮が心配でならん。」
喬子「家慶さんのお側におりとう存じます。」
お富「御台所を殺せ。」
宇多・お万「おやめ下さいませ!」
お楽「わたくしがしたことにございます。」
茂姫「わたくしは、あの者達の全ての行いを許さぬ。」



次回 第三十一回「息子の婚礼」 どうぞ、ご期待下さい!

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