茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十七回 斉宣の反乱

斉宣「父上は、藩をお見捨てになることはない。断じてない!」
茂姫「鶴亀問答じゃと?」
浄岸院(文化二年、薩摩九代藩主・島津斉宣は鶴亀問答という書物を家臣達に提示。父である重豪殿は、贅沢を慎むべきだと言うことを主張します。)
斉宣「これからは父上を野放しにするわけには参らぬ。」
茂姫「何ゆえ、人は争いを求めるのでしょうか。何ゆえ、人は人を傷つけるのでございましょうか・・・。」
家斉「そなたの弟が薩摩の君主であれば、そなたの父は名君じゃな。」
茂姫「名君?」
家斉「己のしたことは、己で片をつける、そう感じておられるのであろう。君主は無論、名君に従うことになるがの。」
茂姫「わたくしは、誰を信じればよいのでしょうか。」
浄岸院(父と子、互いに思いがぶつかり合う中、茂姫が願ったこととは・・・。)


第二十七回 斉宣の反乱

一八〇七(文化四)年六月一一日。
浄岸院(斉宣が藩士二人に家老を命じてから、およそ半年後のこと。家斉様の側室・美尾の娘である浅姫が、御台所である茂姫の御養おやしないとなっておりました。)
茂姫の前には、美尾と浅姫あさひめが座っていた。茂姫が、
「これから、浅はわたくしが面倒を見る。そなたは、早う病を治すのじゃ。」
そう言うと美尾は、
「はい。ありがとう存じます。」
と言い、頭を下げた。それを聞くと茂姫は微笑み、
「これで、ほんに一安心じゃ。」
そう言っていると、美尾も顔を上げて微笑んでいた。。そして浅は、女中に連れられ、部屋を出て行った。そして、美尾だけが残った。すると美尾は真剣な顔になり、こう言った。
「もう一つ、宜しゅうございましょうか。」
それを聞いた茂姫は、
「何じゃ?」
と聞いた。そして美尾は続けて、
「わたくしの体のことは、浅には告げずに頂きたいのです。」
そう言うので茂姫は少々怪訝そうに、
「それは、何ゆえじゃ。」
と言うと、美尾はこう答えた。
「あの子を御台様に預けようと考えたのは、あの子に余計な心配をさせ党はなかったからです。わたくしは生まれつき病弱で、何の取り柄もないまま育ってきました。それ故、あの子には・・・。」
俯きながら話していた美尾はそこまで言うと顔を上げ、
「わたくしにはない、何かを見つけて欲しいのです。」
そう言うので茂姫も、
「そなたにはない、何かじゃと?」
と聞いていた。美尾は続け、
「わたくしのようには、なって欲しくないのでございます。どうか、お願い申し上げます。」
そう言うと、美尾は頭を下げた。それを、茂姫は何も言わずに見つめていたのであった。
浄岸院(その頃、薩摩では・・・。)
斉宣の所へは、家老の樺山と秩父が来ていた。樺山は、
「一刻の猶予もありませぬ。薩摩を守るのは、あなた様なのでございます!」
と言うと秩父も、
「どうか、お願い申し上げます!」
そう加えて言っていた。それを聞いて斉宣は、
「わしはそのつもりで、そち達を家老にしたわけではない。」
と言い返した。すると樺山と秩父は、
「まだ、お父上を信用しておられるのでしょうか。」
「あのお方を野放しにしてはおけぬと、仰せられたのは殿にございますぞ!」
そう言うので斉宣は立ち上がり、前に進み出た。咄嗟に二人は平伏すと、その間を通り抜け、廊下の前に立った。そして斉宣は、
「今は、できぬ。」
とだけ言い残し、そのまま部屋を出て行った。すると樺山は、ゆっくりと顔を上げ、斉宣がでていった方を睨むようにして見つめていたのだった。
一方、江戸にある薩摩藩邸でも同じような話がされていた。重豪の前には、市田盛常が来ていた。盛常は重豪に、こう言った。
「あの、殿はまことに大殿様を裏切るおつもりでございましょうか。」
それを聞いて、重豪は黙っていた。それを見かねた盛常は続けて、
「殿は、大殿様を藩政から引きずり下ろそうとお考えなのでございましょうか。」
そう言っていると、重豪は顔を上げてこう言った。
「盛常。そちに、頼みたいことがある。」
盛常はそれを聞き、
「はっ?」
と言い、重豪を見つめていた。
「母上が、江戸へ?」
それを聞いた斉宣がそう言うと、家来はこう言った。
「はい。薩摩藩邸にいたはずのお登勢様が亡くなり、寂しいから、ということでございました。」
その話を聞いた斉宣は下を向きながら、少し考えたような表情をしていた。
薩摩藩邸では、重豪が部屋で碁を打っていた。その後ろに座っていた盛常が、
「何ゆえ、長い間別居していた殿のお母上様を江戸に?」
と聞くと、重豪はこう言った。
「理由は二つある。一つはお登勢が身まかってから、この屋敷におる側室達を束ねる者がおらぬからじゃ。そしてもう一つは、斉宣はあの者と手を組んで、薩摩の状況について調べることもできよう。」
それを聞いた盛常は、
「もしや、それを邪魔しようと?」
と聞くと、重豪がこう言った。
「言うたであろう。わしはわしで手を打つ。」
そして、重豪は碁を強く打った。それを、盛常は驚いたような目で見つめていたのであった。
斉宣はその後、母と会っていた。斉宣が、
「母上。父上は、わたくしが母上と組んで何かするのを恐れて母上を呼んだのだと思います。」
と言うとお千万は落ち着いた表情で、
「でも、それはお父上のお考えあってのこと。わたくしは、どうも思っておりません。」
と言うのだった。斉宣は、
「母上・・・。」
そう言うとお千万は、
「大丈夫です。あなたも、いずれ江戸にいらっしゃるのでしょう?」
と言うので斉宣も、
「はい。」
そう答えた。お千万は斉宣の肩を持つと、
「心配いりませぬ。お父上には、わたくしから申しておきます。あなたは、薩摩を、お父上を守りたいだけなのだと。」
そう言うので斉宣は少し嬉しそうに、
「母上。わたくしは、話せば父上はわかって下さると思います。」
と言うのを聞いてお千万も頷き、
「きっと、そうに決まっております。」
そう言うのを聞き、斉宣も嬉しそうに頷いてお千万を見つめていたのだった。
その夜。寝間で茂姫は、家斉にこう言った。
「上様。以前、上様はわたくしに、斉宣殿が君主ならば、父上は名君であると仰せられました。そして、君主は名君に従うことになるとも仰いました。」
「それが、何じゃ?」
家斉が聞くと茂姫は、
「あれから、色々と考えたのです。父は名君であっても、隠居の身。それでも君主は、まことに父に従わなければならないのでしょうか。」
そう聞くので家斉は、
「わしの、父上の話をしておらぬかったかのぉ。」
と言った。それを聞いて茂姫は、
「父上様ですか?」
そう聞くと、家斉は話し始めた。
「父上は、わしが幼い頃から厳しく、だらけておるとすぐに怒鳴っておられた。」
茂姫は意外そうな顔をし、
「あの、お父上様がですか?」
と聞くと家斉が、
「あぁ。わしは今でも、父上に頭が上がらぬ。」
そう言うので茂姫は、こう言った。
「尊号の一件の時も、その思いからだったのですね。」
それを聞いた家斉は、
「そうかも知れぬ。」
と言うと布団に入りながら、
「親というものは、そういうものじゃ。信じるか信じないかは、そなた次第じゃがの。」
そう言うと、布団に入って横になった。すると茂姫は、
「上様。上様は、父上様がおられなかったらどうなっていたと思われますか?」
と聞いた。それを聞いた家斉は起き上がると、
「そうじゃのぉ。とても、考えられぬ。それ程、わしにとって父上は大きな存在なのじゃ。」
そう言い、また体を倒した。それを、微笑んで茂姫も見つめていた。
ある日、重豪はある人物を部屋に呼んでいた。重豪は庭を眺めながら、こう言った。
「此度の一件、何としてでも阻止せねばならぬ。」
それを聞いた藩士・調所ずしょ広郷ひろさとは、
「お殿様が、家臣達を率いて江戸においで遊ばすことにございますか?」
と聞くと重豪は振り返り、
「そうじゃ。そちは、どう考えておる。」
そう聞き返した。すると調所は、
「あのお方がどうお考えであろうと、大殿様には逆らえますまい。」
と言うと重豪は暫く考え、部屋に戻って座につきながらこう言った。
「しかしのぉ、広郷。わしは、事はそう簡単に治まらぬと思う。」
それを聞くと調所は、
「何ゆえですか?」
と聞くと重豪が、
「わしが招いた財政圧迫のせいで、あの者に苦労をかけた。それ故、あの者を支持する者達がわしを恨み、腸を煮え繰り返しておろう。さすれば、いつ江戸に来てもおかしくはない。」
そう言うのを聞いて調所は、
「大殿様は、如何なさるおつもりですか?」
と聞くと、重豪は言った。
「今は、それを考える時じゃ。あの者のことは、わしが一番よく知っておる。お千万を江戸に呼んだのも、あの者と繋がって薩摩の状況を探るのではないかと思うたからじゃ。」
それを聞き、調所は重豪を見ていた。重豪は続け、
「だがわしの行ったことは、全て薩摩のためにしたことじゃ。それだけは、誰が何と言おうと紛れもない事実である。」
そう言い、前を見つめていたのだった。
茂姫は、縁側に座っていた。すると唐橋が来て、
「御台様。牧野老中が、お目通りを願うております。」
と言うので茂姫が振り向き、
「老中じゃと?」
そう聞いていた。
茂姫は上座につき、
「面を上げよ。」
そう言うと、老中が顔を上げた。それは、牧野まきの忠精ただきよであった。それを見た茂姫は驚いたような顔で、
「新次郎・・・?」
と呟いた。そして茂姫は立ち上がり、
「そなた、もしや新次郎か?」
そう聞くと牧野は、
「はい!」
と、笑顔で答えた。
『姫様!大勢の大衆が、城に侵入いたしました!』
茂姫も、嬉しそうにした。
浄岸院(これは、茂姫と牧野のおよそ二〇年ぶりの再会でございました。)
その後、部屋で茂姫と牧野は話をした。牧野は、
「薩摩での一件、耳に致しました。」
と言うと茂姫も、
「弟の島津斉宣が、藩士二人に家老職を命じた件か。」
そう言うので牧野は、
「はい!」
と、答えた。そして、牧野は続けた。
「恐れながら、御台様。」
「何じゃ?」
「その話は、何方から耳にされたのでしょうか。」
茂姫は、
「父から、文で知らされた。何ゆえ、そのような道を選んでしもうたのやらと、酷く残念がっておられた。ただ、わたくしはどうしても信じられぬのじゃ。」
そう言うので牧野は、
「それは、何ゆえにございますか?」
と聞いた。すると茂姫は、
「斉宣殿は、父と同じで薩摩のことを一番に考えておる。それ故、此度の一件がどうしても信じがたいのじゃ・・・。」
そう言うのだった。それを聞いて牧野は、こう言った。
「それは、お二人の目指すものが違うからでは?」
「目指すものが違う?」
「はい。お互いの、思い描く薩摩が異なる故、亀裂が生じるのかと思います。」
「成る程・・・。そちの考え、あっておるかも知れぬ。」
牧野の話を聞き、茂姫はそう言った。牧野は、
「一度、お二人に文を書き送っては如何でしょうか。わたくしの考えでよければ。」
そう言うので茂姫は、
「あぁ。礼を申す。」
と言うので牧野は少々赤くなり、
「そのような。もったいなきお言葉、痛み入ります。」
そう言い、頭を下げた。それを、茂姫は笑って見つめていたのであった。
その頃、松平定信は書状を読んでいた。そこへ一人の家臣が来て、
「殿。お客人がお見えにございます。」
と言うので定信が、
「通せ。」
そう言うと家臣は下がり、そこに入ってきたのは奥平昌高であった。昌高は定信の前に座ると、定信がこう言った。
「中津藩奥平家当主の、昌高殿か。」
それを聞いて昌高も、
「はい。」
と答えた。定信は、
「今日は、何のご用件じゃ?」
そう聞くと昌高は、こう言った。
「本日は、かつて幕府に一番通じておられた松平様に、お願いがあり参りました。」
定信はそれを聞いて、
「何でござろう。」
と言うと昌高は、
「薩摩のことにございます。」
そう言うので定信が、
「薩摩?」
と聞くと、昌高は言った。
「我が兄、斉宣は、薩摩の藩政を変えようとしております。しかし、それは父を裏切ることではないかという声も度々耳にします。そこで、父と兄が会って話し合えるよう、対策を練って頂きたいのです。」
それを聞いた定信は、
「そういうことであったか・・・。」
と呟くと昌高は、
「お願いにございます!」
そう言い、頭を下げた。定信は腕を組みながら、それを見つめていたのであった。
斉宣は、部屋で何やら悩んだような表情をしていた。その横で、
「旦那様?」
と享が声をかけると斉宣は気が付いたように、
「何じゃ?」
そう聞くと、享はこう言った。
「あ、いえ。ただ、旦那様はこの先、如何なさるおつもりかと思いまして。」
それを聞いた斉宣は、
「いずれ、父上と会うつもりじゃ。話せば、きっと互いの言い分を理解し合えるであろう。」
と言うので享は、
「時に、江戸においで遊ばす御台様はさぞ心苦しいでしょうね。」
そう言うので斉宣は、
「姉上じゃと?」
と聞いた。すると、享はこう言った。
「お二人の板挟みとなり、どうすることもできぬ己のやるせなさと日々葛藤されておいでだと思います。それは、あなた様を弟として案じておられるからでしょう。」
それを聞いた斉宣は、
「姉上は、お強い。どんなことがあっても、折れぬ心を持っておられる。」
と言うので享は、
「折れぬ、心・・・?」
そう呟いた。斉宣は、茂姫がこの城に一時帰った時に言った言葉を思い出した。
『わたくしを将軍家に輿入れさせたのも、ご自分のためではない。皆のためじゃ。父上は藩主であられた時から今日まで、本当にそち達のことを思うて来られた。それでも信用できぬと申すならば、今すぐにでも薩摩から去ることじゃ!』
すると斉宣は立ち上がり、
「薩摩はわしが守る。姉上を傷つけぬ為にもな。」
と言うのを、享も心配をそうに見つめていたのだった。
茂姫は部屋にいると、唐橋が来てこう言った。
「御台様。お客様がお見えにございます。」
「客?」
茂姫は、怪訝そうに聞いていた。
その後、その客が平伏していると茂姫は声をかけた。
「面を上げよ。」
すると、その者は顔を上げた。それを見て茂姫は、
「叔父上様・・・。」
と呟いた。それは、盛常だった。茂姫は立ち上がり、盛常に駆け寄るとこう言った。
「よう参られました。薩摩の様子は、どうなのですか?」
茂姫の問いかけに、盛常はこう言った。
「それが、家老になった樺山と秩父を中心に藩士達が動き始め、近い内に江戸に来るのではないかという噂まで立ち始めております。」
それを聞いた茂姫が、
「して、藩士達の目的は?」
と聞くと、盛常は答えた。
「それはわかりません。されど、騒動が江戸間で及ぶとなると、どうすればよいのか・・・。」
それを聞いて茂姫は、
「わたくしも、幾度もお二人に嘆願書を書き送りました。されど、未だ返答はございません。もし親子の間で争いが起こるようなことがあれば、わたくしは・・・。」
と言いかけると、盛常はそれを遮るようにこう言った。
「大丈夫にございます。後のことは、わたくしにお任せ下さい。」
「叔父上様・・・。」
茂姫はそう言い、盛常を見つめた。盛常も茂姫をしかと見つめながら、
「此度の登城、元幕閣の松平定信様に取り計らって頂きました。」
「松平殿に?」
茂姫が聞くと、盛常は続けてこう言った。
「ご安心下さい。わたくしは必ずや、殿のお心を動かしてご覧に入れます。そして、薩摩は、このわたくしが守り抜いて見せます!」
それを聞いた茂姫は、
「そのお言葉、信じて宜しゅうございましょうか。」
と聞くと盛常は頷き、
「はい。」
と答えた。それを聞いた茂姫は、笑っていた。それを見て盛常も笑い出し、互いに笑い合っていたのであった。
その後、宇多が部屋を覗きに来ると茂姫は部屋の中の仏壇の前で、祈っていた。それを部屋の外で見つめながら、お富の話を思い出した。
『何か不審な動きあらば、すぐにわたくしに伝えよ。』
宇多が下がろうとすると、
「お宇多。」
と、声をかけられた。宇多は振り向くと、茂姫がこちらを見ている。茂姫は、
「如何したのじゃ。」
そう聞くと、宇多は暫く茂姫を見ていた。
その後、宇多は茂姫に打ち明けていた。
「母上様が?」
茂姫が聞くと宇多は、
「はい。薩摩の件が大奥に及ばぬよう、御台様を見張るようにと。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そうであったか・・・。」
と言い、考えているような表情をした。すると宇多は、
「申し訳ございませぬ!」
そう言うと、頭を下げた。それを見て茂姫が、
「そなたが謝ることではない。」
と言うので、宇多は恐る恐る顔を上げた。茂姫は優しい表情をして、
「母上様には、わたくしから言っておく。そなたは、何も心配せんでよい。」
そう言うのを聞いた宇多は嬉しそうに、
「ありがとうございます!」
と言うと、茂姫も笑って宇多を見つめていたのだった。
その後、茂姫は縁側に出てこう呟いていた。
「徳川か、薩摩か、わたくしは何処へ行けばよいのじゃ。わたくしはいつの間にか、それを見失っておったのかも知れぬ。もうこれ以上、父上や、薩摩の者達を悲しませとうはない・・・。」
茂姫はその後、目に涙を浮かべていた。
その後、重豪の前にはお千万がいた。重豪が、
「江戸までの道中、御苦労であった。」
と言うと、お千万は頭を下げた。すると重豪が、
「時に、あちらの様子は何か知っておらぬか?」
そう聞くのでお千万は、
「殿は、あのこのことをどう思われていおいでなのですか?」
と、逆に聞き返した。それを聞いた重豪は、
「斉宣のことか?」
そう聞くとお千万は、続けてこう言った。
「あの子は、未だに殿を信じております。一度、話もしてみたいとも言っておりました。殿も、それは同じなのでしょうか。それとも、もう信じておいでではないのでございましょうか。」
それを聞いていた重豪はお千万から目をそらし、
「今は、何とも申せぬ。」
と言うので、お千万は重豪をまじまじと見つめた。重豪は続けて、
「我が子故、ちと心が揺れておるのじゃ。責められても、裏切られても、我が子であると言うことは変わりないからの。」
そう言うのを、お千万は意外そうに見つめていた。すると重豪は、
「今日は、疲れておろう。下がって休むがよい。」
と言っても、お千万は固まって動かなかった。重豪が、
「どうした?」
そう聞くとお千万は気が付いたように、
「あ、いえ。ただ、殿がそのようなこと仰せになるとは思いませんでした故。」
と言うと重豪は笑顔になり、
「そうか。」
そう言うと続けて、
「それは、そなたに久方ぶりに会えたからかもしれぬな。下がってよいぞ。」
と言うとお千万は今度は、
「はい。」
そう言って頭を下げると、立ち上がってそのまま部屋を出て行った。その後、重豪から笑顔が消え、険しい顔つきになっていたのであった。
一方、斉宣の部屋には例の二人が来ていた。斉宣が、
「今日は何じゃ。」
と尋ねると、樺山はある文書を差し出した。
「それは何じゃ。」
斉宣が聞くと樺山は、こう言った。
「これは、近思録といって朱子学の書物にございます。」
それを聞いて斉宣が、
「近思録?」
と聞き返すと、今度は秩父がこう言った。
「これは、平安の終わり頃、宋の儒教者らによって編纂されし、朱子学の入門書にございます。」
すると斉宣が、
「それが、どうかしたのか?」
と聞くと、樺山はこう言うのだった。
「これをお読みになれば、我々の考えをご理解頂けるかと。」
それを聞いた斉宣は怪訝そうに、
「どういう意味じゃ。」
と言うので、樺山は言った。
「これには、主君のあり方、また、国を治めるための方法が記されております。」
「国を治める・・・?」
斉宣はそれを聞き、そう繰り返していた。秩父は続けて、
「我々は、同じ思想を持った同志達を募り、党を結成致しました。」
そう言うので、斉宣は思わず声を上げた。
「党じゃと?」
すると、部屋には薩摩藩士が数人入って来た。そして藩士達は、二人の後ろに横並びに座った。その中には、伊地知季安もいたのだった。斉宣がそれを黙って見ていると、樺山が声を張り上げてこう言った。
「我らが、近思録党にございます!」
そして、秩父が紙を掲げた。そこには、「近思録党」とはっきり書かれていた。それを見て斉宣が、
「近思録党・・・。」
と呟いた。樺山は続けて、
「殿にも、しかと目を通して頂きとう存じます。これは、これからの薩摩を大きく変えていくことになるやも知れませぬ故。」
そう言うと斉宣は呆気にとられて、
「薩摩を、変える・・・?」
と、呟いていた。樺山は、
「どうか、宜しくお願い申し上げます!」
そう言って頭を下げると皆も声を揃えて、
「宜しくお願い申し上げます!」
と言い、頭を下げた。そして、斉宣は少し俯いて戸惑ったような表情になっていたのだった。
浄岸院(『近思録』と呼ばれる朱子学書のことは、薩摩だけでなく、全国にまで及び・・・。)
茂姫は、
「近思録・・・。それはどういうことじゃ?」
と聞くと、宇多がこう答えるのだった。
「朱子学書で、今の清国より伝わったものだそうにございます。」
それを聞いた茂姫は、
「薩摩の者は、それで何をしようとしておるのじゃ・・・。」
と、呟いていた。するとそれを聞いていたひさが、
「そうまでして、薩摩のお殿様を動かしたいのでしょうか。」
そう言うので茂姫が、
「無理にでも、父上に刃向かうということか。」
と言うとひさは、
「いえ。ただ、そんな気が致しまして・・・。」
そう答えた。茂姫は立ち上がり、
「父上は、もう既にそのことを知っておられるであろう。故に、薩摩のことが気がかりじゃ。」
と言っているのを、二人も見つめているのであった。
重豪は、文を読みながら手が震えていた。重豪は、
「わしに敵対する藩士達が、近思録党なるものを作ったそうじゃ。」
と言うと盛常が、
「近思録にございますか?」
そう聞くと、重豪がこう言った。
「それを斉宣に読ませ、改革を進めるであろう。そうなれば、わしがこれまで築き上げてきた薩摩が壊れてしまう。」
それを、偶然部屋の前を通りかかったお千万が聞いていた。重豪はそれに気付かず、話を続けた。
「もし斉宣が、樺山達の思惑通りに動くようなことあらば、わしはわしの意志に従う。」
「どのように、なさるおつもりでしょうか。」
盛常は聞くと、重豪はこう言った。
「あの者を隠居させ、嫡男の斉興に家督を継がせる。」
それを部屋の外で聞いていたお千万は、目を丸くした。盛常が重豪に、
「殿を、藩政から降ろすということにございますか?」
と聞くと重豪は、
「あぁ。最悪の場合、そうなるであろうな。」
そう言っているのを部屋の外から聞いていたお千万は、思い詰めたような表情をしていたのであった。
一方、江戸城では家斉が、
「近思録のぉ。」
と笑顔で言っていると茂姫が、
「笑い事ではございませぬ。」
そう言うので、家斉は言った。
「いや、すまぬ。されど、薩摩の者も考えたものよのぉ。」
「何がでございますか?」
茂姫は、不思議そうに聞いた。すると家斉が、
「君主を説得するのに、朱子学書を掲げるとはな。」
と言うので茂姫が、
「上様は、どのようにお考えですか?」
そう聞くと家斉は、
「そうじゃのぉ・・・。」
と言って考えた後、こう言った。
「そなたの弟にとって、薩摩の改革をするということは即ち、父を裏切ることに値するのであろう?」
それを聞いた茂姫は、
「え・・・。はい、まぁ・・・。」
と言って答えると、家斉は言った。
「ならば、古来からある教えに従って改革を行えばどうなる。」
「さぁ・・・。」
茂姫がそう言って首を傾げると家斉は続けて、
「人々にとって、古くからの教えは己の親よりも尊いものであろう。よって、それに従うということはそれらの教えを守ることである。即ち、父上を裏切ったことにはならぬのではないか?」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「教えを、守る・・・?」
と、繰り返していた。茂姫は続けて、
「それが、父の思想と異なっていてもですか?」
そう聞くと家斉は、
「そこまでは考えておらぬ。」
と言った。茂姫はそれを聞き、
「いずれにしてもわたくしは、お二人を信じ、見守ることしかできませぬ故。」
そう言うと家斉が、
「また嘆願書を書くのか?」
と聞いた。すると茂姫は笑顔で、
「わたくしにできることといえば、そのくらいにございます。」
そう言い、立ち上がって部屋を出た。廊下を歩きながら茂姫は、家斉が言ったことを思い出したかのように、微笑んでいたのだった。
その頃、松平家では定信が、
「近思録じゃと?」
と聞くと森田が、
「はい、朱子学書だとのことにございます。」
そう言うので定信は不安そうに、
「何か、よくないことでも起きねばよいがな。」
と、呟いていたのだった。
浄岸院(それから、数日後の文化四年一〇月。)
斉宣が、藩士達の前に近思録を置いた。斉宣が、
「読ませてもろうた。そち達の考えは、理解したつもりじゃ。」
と言うので樺山は、
「では、お力を頂けるのですか!」
そう言うのを聴いた斉宣は、
「いや・・・、それは・・・。」
と言っていると、秩父がこう言った。
「迷っている暇は何処にもございませぬ。どうか、ご決断を頂きとう存じます!」
そして、藩士達は一斉に頭を下げた。すると斉宣が、
「薩摩を守るには、まずは薩摩全体を変えることじゃ。されど、あの考え方では父上のお考えとすれ違うてしまうのではないか。それに・・・。」
と言いかけると、樺山は顔を上げた。斉宣は続けて、
「このままでは江戸におられる姉上も・・・、姉上が追いつめられてしまう!」
そう言うと、樺山が手をついてこう言った。
「恐れながら殿、まことの気概とは、そういうものにございます。」
それを、斉宣も怪訝そうな顔で見ていた。そして斉宣は立ち上がり、藩士達を見回すと、こう言った。
「よい・・・。そちらの好きにするがよい。」
それを聞いた藩士達は一瞬驚いたように、
「ははぁっ!!」
と言って、頭を下げた。斉宣の息は、ますます荒くなっていったのだった。
夕方、茂姫は部屋で仏壇を見つめながら、
「薩摩は、これ以上ない苦しみを背負っておる。どうか、お守り下さいますよう。」
そう言い、数珠をかけた手を合わせていたのだった。
その頃、お富は一人、部屋で仏を眺めていた。すると、
「ご無礼致します。」
と言いながら、家斉が入って来た。お富が家斉の方を向くと家斉が座りながら、
「御台から聞きました。お宇多に、見張らせていたそうですね。」
そう言うのでお富が、
「それが何か?」
と聞いた。家斉がお富を見つめ、
「薩摩では、御台の弟が父と衝突しつつ、財政をどう立て直すか奔走しております。そのうち、騒動へと発展するやもしれませぬ。されど、それと御台は関係ありませぬ。」
そう言うのを聞いてお富は、
「されど万が一にも、このお城にまで騒ぎが広まれば、公方様とてただではすまされませぬ故・・・。」
と言いかけると家斉は、
「母上。御台は今や、徳川の女子。そろそろ、御台を疑うのはおやめ下され。これは、わたくしからの頼みにございます。」
そう言って、お富の言葉を遮った。それを聞いたお富は何も言えず、ゆっくり頷いた。家斉は微笑んで、
「おわかり頂けたのなら、ようございます。」
と言い、部屋を出て行った。お富は、それを不思議そうに見つめていたのだった。
茂姫は翌日、お菓子を側室達に振る舞っていた。茂姫は、
「どうじゃ?薩摩の父から届いたオランダの菓子じゃ。」
と言うと宇多は食べながら、
「美味しゅうございます!」
そう言うと、茂姫は登勢やお万にも聞いた。
「そなた達は、美味しいか?」
すると登勢とお万はそれぞれ、
「はい。」
「美味しゅうございます。」
と答えた。それを聞いて、茂姫は嬉しそうにしていた。そして茂姫自身も、菓子を摘んで食べていたのであった。
浄岸院(茂姫は、今しか感じられない、幸せな一時を過ごしておりました。)


次回予告
重豪「我が孫、斉興でござる。」
斉宣「隠居じゃと?」
治済「大変なことになって参りましたな。」
茂姫「叔父上様が!?」
盛常「わたくしは今まで、薩摩のことだけを考えて参りました。」
樺山「一番は、薩摩を一から作り直すことにございます。」
斉宣「一から・・・。」
茂姫「斉宣殿が、近思録党を許したじゃと?」
定信「わたくしは、重豪殿のお力を信じたい。」
家斉「そなたは、父に利用されたのだと思うか?」
茂姫「わたくしは、これが己に定められし運命だと心得ます。」



次回 第二十八回「近思録騒動」 どうぞ、ご期待下さい!

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