茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十五回 薩摩、動く

ある朝、仏間ではいつものように参拝が行われていた。家斉が退室する際、本を数冊、茂姫の所に置いた。それを見た茂姫は、
「あの、これは?」
と聞くと、家斉は言った。
「儒学書じゃ。上に立つもののあり方や、民の治め方などについても書かれておる。そなたにも、読ませとうなっての。」
それを聞いた茂姫は、
「ありがとう存じます。」
と言い、頭を下げた。それを、怪訝そうな顔でお富も見ていた。そして、家斉は仏間から退いた。
その後、お富は部屋で家斉に問うた。
「何故なのです?何故、御台所にあのようなものを。」
家斉は座りながら、
「よいではありませんか。母上が心配なさることではありません。」
そう言うとお富は、
「されど、今の御台様は薩摩の出。あのようなものを読ませては、きっとまた薩摩風がでるかと。」
と言うので家斉は、
「前から気になっておりましたが、母上は、薩摩がお嫌いなのですか?」
そう言って聞くとお富は、
「そういうわけではありませぬが・・・。」
と答えた。それを聞いて家斉は、
「御台はそのこと、重々承知でございましょう。江戸に来て、わしに嫁いだ頃から、故郷を捨てたも同然。それを覚悟した上で、今があるのでは?」
そう言うのを聞いてお富は、
「しかしながら公方様。あの方は昔は礼儀知らずの田舎娘。到底、そのような覚悟があるとは思いがたいのですが。」
と言うと、家斉はこう言った。
「母上は相変わらず、疑り深うございますな。」
そう言うのを聞いたお富は、
「そうでしょうか。」
と言っていた。家斉も、それを見て少し考えていた。
その頃、茂姫は部屋で家斉からもらった儒学書をひたすら黙読していたのであった。


第二十五回 薩摩、動く

一八〇五(文化二)年一月。茂姫は、部屋で唐橋にこう聞いていた。
「あれから二月か。その後、若君と宮様の様子はどうじゃ?」
すると、唐橋はこう答えた。
「はい。お二人とも、日々学問に励んでおられるそうにございます。」
それを聞いて茂姫は安心したように、
「そうか。御婚礼の日が決まるまで、待つしかないようじゃな。」
そう言っているのを、隣で宇多とひさも見つめていた。そこへ女中が来て、
「失礼仕ります。薩摩藩邸より、御台様宛に文が参っております。」
と言うのを聞いた茂姫は、
「薩摩藩邸じゃと?」
そう聞き返していた。
その後、茂姫は個室で一人、文を手に取って宛名を見ると、そこには「島津重豪」と書かれていた。それを見て茂姫は、
「父上・・・?」
と呟き、読み始めた。
『茂、久方ぶりじゃの。息災でおるか。わしは今、薩摩藩邸で国元の様子を探っておる。そなたにもいずれ、話そうと思うておった。間もなく、薩摩は二つに割れるであろう。』
それを見た茂姫は思わず、
「えっ・・・。」
と、呟いた。そして続きには、こうあった。
『驚くのも、無理はないであろうな。薩摩藩士達は、わしがまだ藩政に関わっておることが、気に食わぬらしい。それは、わしが藩主の座にあった頃、大量の費用を使うたからである。施設の建立や商人の招聘、そしてそなたを御台所として徳川家に輿入れさせた。しかしわしは、藩のことを考えておらぬ訳ではない。まずはそのことを、わかって欲しいのじゃ。』
それを読んで茂姫は、
「父上・・・。」
そう呟いていた。そして最後には、
『斉宣は、まだ薩摩の城におるが、いずれまた参勤交代などで江戸に来るであろう。その時は、薩摩の様子を詳しく聞こうと思うておる。国が乱れても、わしがそなたの薩摩を守り抜いてみせる。』
そう書いてあったので茂姫は、
「薩摩が、乱れる・・・?」
と、涙ながらに呟いていた。茂姫は、戸を開け外に出ると、まだ冷たい風が頬に当たった。そして茂姫はその後、空を見上げていたのであった。
その頃、重豪は薩摩藩邸で、難しい顔をしていた。
一方、斉宣は薩摩の鶴丸城にいた。斉宣の横から、
「殿?」
と、享が声をかけた。斉宣は、
「何じゃ?」
そう聞くと、享は不安そうに言った。
「薩摩は、これからどうなるのでしょうか。噂では、これから国が二つに割れると。」
それを聞いて斉宣は、こう言った。
「案ずるな。わしは、父上を裏切るつもりはない。よって、国が割れることもなくなる。」
すると享は、
「では、江戸へはいつ行かれるのでしょう。」
と聞くと斉宣は、
「次の参勤交代の時になるであろうな。それまでは、薩摩に残り、こちらの様子を父上に報告せねばならぬ。」
そう言った。享は、
「お父上様も、案じておられましょう。どうか、動乱が起こらぬよう、願うております。」
と言うので斉宣は、
「大丈夫じゃ。わしを、信じてくれ。」
そう言うのを聞いて享も笑顔になり、
「はい。」
と言って頷くと、斉宣も笑顔で頷いていたのだった。
浄岸院(しかし、その頃・・・。)
ある屋敷で、藩士達が集まっていた。樺山が藩士達の前に座り、
「大殿様は、いまだ薩摩の藩政を牛耳っておられる。これを食い止めるには、やはり我々が動くほかないと思う。」
そう言っていると、秩父季保が、
「そればかりではなく、三年ほど前、造士館で教えておられた赤崎貞幹様が亡くなった後、一度は身を退いておられた山本正誼様が跡を引き継がれたとか。しかも噂によれば、その山本様は重豪様の忠実なしもべであったとか。」
そう言った。それを聞いて樺山は、
「あぁ。このままでは、薩摩は大殿様の言いなりになり兼ねぬであろう。」
と言っていると藩士達の後ろの方から、
「恐れながら、申し上げます。」
そう言う声が聞こえた。樺山は目を向けると、声を上げた薩摩藩士・伊地知いじち季安すえやすは、こう言った。
「今は、派手な動きを見せぬ方がよいと存じます。時を見計らい、江戸に行くべきと心得ます。」
「江戸へ?」
樺山が聞くと季安は、
「はい。そこで、大殿様の動きを探る方がよいかと。」
そう言うのを聞いた樺山は、腕組みをしながら考えていたのであった。
茂姫は、書物を家斉に返していた。茂姫は、
「上様。」
と言って差し出すと家斉が、
「どうであった?」
そう尋ねると、茂姫は答えた。
「はい。主君の贅沢を許してはいけないこと、わたくしも同感に思いました。上に立つ者ならば、常に下にいる民のことを考えなければなりません。そういうお方が、まことの忠義を尽くされるのではないかと。」
それを聞いていた家斉は、
「主君心得というわけか。」
と言うので茂姫は、こう言った。
「心得と言いましょうか、わたくしは使命かと存じます。」
「使命?」
「はい。民がお腹を空かせ、働いてもろくに収入が得られぬのに、わたくし達が何をすることなくご飯を食べられるのは、やはり可笑しゅうございます。これでは、絶対王政の一つに過ぎません。民の気持ちになり、そして助けるのが上様の、わたくし達の務めではないかと思います。」
それを聞いた家斉は、
「絶対王政のぅ・・・。」
と、呟いた。茂姫は家斉を見つめていると、家斉はこう言った。
「そうじゃ。昔、そなたに刀を預けたことがあったな。」
それを聞いた茂姫は、
「あぁ、一橋様の。それがどうかしましたか?」
と言うと家斉は、
「いや。その刀が、いつもそなたを見守っておるのやもしれぬな。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「左様に、ございますね。」
と返して、笑っていたのだった。
その後、茂姫は部屋に戻り、床の間の前に掛かっていた御簾を上げた。それを見ていたひさが、
「御台様?」
と声をかけると、床の間には掛け軸と家斉からもらった刀が飾ってあった。茂姫はそれを見つめ、あの時のことを思い出していた。
『これは、お返しいたします。』
『その刀をそなたの部屋に飾るがよい。』
『そなたにもらって欲しいのじゃ。』
刀を見つめ、茂姫は微笑んでいた。
そして、薩摩藩邸で重豪と薩摩藩小松家当主・小松こまつ清宗きよむねが話をしていた。重豪は庭を眺めながら、こう言った。
「実を申せば、あの時斉宣に家督を譲ったことを悔いておる。」
「はっ?」
清宗が聞くと、重豪は続けてこう言った。
「藩士達は、斉宣に家督を譲っておきながら、未だ藩を動かしているわしを恨んでおるようじゃ。斉宣も、板挟みの日々であろう。」
それを聞いて清宗も、
「はぁ・・・。」
と答えていた。そして重豪は、
「されど、これだけは言える。わしはあやつを信じておる。あやつがわしを、いや藩を裏切るわけがないと、わしは信じたいのじゃ。」
そう言うのを聞いて清宗は、
「はい!」
と、気持ちを込めて答えた。重豪は振り返り、
「あやつが幼き頃、そうであった。何かあるごとに、わしの所へ来ての。」
そう言うので清宗が、
「そうでございましたか。」
と答えた。重豪は中に入り、座に座ると、
「藩士達の口車に乗るとは思いがたい。」
そう言っているのを、清宗は見つめていたのだった。
その頃、斉宣が鶴丸城の部屋にいると、家来が来てこう言った。
「殿、お客人にございます。」
それを聞いた斉宣は、
「通せ。」
と言うと家来は、
「はっ。」
そう言うと、下がった。それとほぼ同時に、男が入って来た。それは、薩摩藩家老の市田いちだ盛常もりつねであった。それを見て斉宣は驚いたように、
「叔父上様。どうされましたか?」
と聞くと、盛常は斉宣を見つめていた。
その後、斉宣は盛常から詳しい話を聞いた。
「江戸に?」
斉宣が聞くと盛常は、
「大殿のお申し付けなのです。江戸に参れと。」
そう言うので斉宣も、
「父上が・・・。」
と、呟いていた。暫く沈黙が続いた跡、盛常はこう言った。
「一つ、お聞きしても宜しいか?」
それを聞いた斉宣は、
「何ですか?」
と聞くと盛常は、
「その。斉宣殿が、藩士達と共に大殿を藩政から遠ざけようとしているのではないかという話が。」
そう言うのを聞いた斉宣は目を丸くし、
「そのようなことは。」
と言うと、盛常は続けた。
「わたくしを江戸に呼び寄せたのも、それを探るためではないかと。」
それを聞いて斉宣は、
「違います。そのようなことは、断じてありません。」
と言うので、盛常は笑ってこう言った。
「わかっております。そのような話、はなからあてにしておりません。どうかお忘れ下さるよう。」
盛常はそう言って軽く頭を下げると、立ち上がって部屋を出て行った。それを、斉宣も見ていた。
その後、享はその話を聞き、
「そのような・・・、何かのお間違いでは?」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「わしにも、何が何だかわからぬのじゃ。わしは、父上をこの上なく信頼しておる。それ故、裏切るなど到底できるはずもない。父上も、きっと同じ考えのはずじゃ。」
すると享は、
「されど、万一の時は・・・。」
と言っていると、斉宣はこう言った。
「この前も言ったはずじゃ。わしを信じよと。」
それを聞いて享は焦りを見せ、
「これは、お許し下さい。」
と言い、頭を下げた。それを見て斉宣は、
「わしは、皆に辛い思いはさせとうない。そなたも同じじゃ。」
そう言うのを聞いて、享は顔を上げた。すると、斉宣は笑みを見せて頷いた。それを見た享も、嬉しそうに微笑んでいたのであった。
重豪はその後、江戸の薩摩藩邸内で文を読んでいた。すると、
「失礼致します。」
と言う声と共に、戸が開くと男が平伏していた。その男は顔を上げた。それは、盛常であった。それを見た重豪は、
「おぉ、来たか。」
そう言うと盛常も、
「はっ。」
と答えた。すると重豪は、
「近う寄れ。」
そう言うので、盛常は部屋に入った。重豪のすぐ前まで来ると、重豪は盛常にこう言った。
「茂からまた文が来ての。」
「御台様からでございますか?」
「あぁ。わしらのことを案じてくれておる。」
すると、盛常はこう聞いた。
「あの。此度は、どのようなご用件で?」
それを聞いて重豪は、
「いや、実はの・・・。」
と言うのを、盛常は不思議そうに見ていた。
その後、盛常はある人物に呼ばれた。それは、小松清宗であった。清宗は、
「そなたを江戸に呼ぶようにお願いしたのは、わしである。」
と言うと盛常は驚いたような顔で、
「小松殿が?」
そう聞くと、清宗がこう言った。
「とうにご存知のことと思うが、薩摩では大殿様を藩政から降ろそうとする動きがあるらしい。」
「はい。」
「それで、そなたに願いがある。」
「それは?」
盛常は聞くと、清宗はこう言った。
「薩摩の殿と、密通して欲しい。」
「密通?」
「あぁ。大殿様には話さず、殿から薩摩の様子を聞き出し、そしてわしにだけ話してはもらえぬか?」
それを聞いて盛常は、
「はぁ・・・。」
と言い、困惑したような表情をしていたのだった。
茂姫が、縁側に出て書を読んでいた。すると宇多が、
「失礼致します。」
と言いながら来ると茂姫は振り向き、
「何じゃ?」
と聞くと、宇多はこう言った。
「御台様に、お目通りしたいという方が来ております。」
それを聞くと茂姫は、
「誰じゃ。」
と聞くと、宇多はこう言った。
「薩摩藩家老の、市田様と仰せでございます。」
「市田殿?」
茂姫は怪訝そうにそう呟くと、書を持って立ち上がった。
その後、部屋に行くと盛常が平伏していた。茂姫が上座から、
「面を上げよ。」
と言うと、盛常は顔を上げた。茂姫は優しく微笑み、
「あなたが、市田殿。以前、母から文で幾度か聞いておりました。」
そう言うと盛常は畏まったように、
「はっ。此度は、御台様にお目通り叶い、誠に嬉しゅう存じ奉ります。」
と言うので、茂姫はこう言った。
「苦しゅうない。あなたは、母上の弟君。言わば、わたくしの叔父上様に当たるお方。もっと気軽になさって下さいませ。」
それを聞いて盛常は、
「はっ。しかし・・・。」
と言っていると、茂姫は立ち上がって進み出ると、盛常のすぐ近くに座った。
「叔父上様。いつか、お話がしたいと思うておりました。母上に寄れば、たいそうご立派なお方であると聞き及んでおります。色々と、薩摩のお話などお聞かせ頂けませぬか?」
それを聞いた盛常は、こう言った。
「それは勿論のことながらしかし、此度参ったのはお父上から御台様に言づてを預かって参った次第にて。」
「言づて?」
茂姫が聞くと、盛常はこう言った。
「薩摩藩では今、藩士達が憤っております。」
それを聞いて茂姫は、
「存じております。父上が、藩主時代に膨大な費用を出費し、今でも藩政の座に居座っておられることを不満に思っているのだとか。」
そう言うと、盛常はこう言った。
「はい。藩士達の真の目的は、今のお殿様を動かすよりほかないと。」
それを聞いた茂姫は、
「それでは、斉宣殿を?」
と聞くと盛常は、
「御台様は、殿とは母は違えど、姉弟におわします。なので一筆、殿に嘆願書を書き送ってみては頂けぬかと、そういう言づてにございます。」
そう言うので茂姫は暫く黙って考えた後、こう言った。
「わかりました。父上の願いであれば、喜んでお受け致しますと、どうかお伝え下さいませ。」
それを聞いて盛常は、
「有り難う存じ上げます。」
と言って軽く頭を下げると茂姫も、
「こちらこそ、わざわざお越し頂いて、痛み入っております。」
そう言い、同じように頭を下げた。その後二人は、笑って見つめ合っていたのだった。
その頃、佐土原藩の島津家では、この二人が話をしていた。佐土原藩九代藩主・島津しまづ忠持ただもちが、
「薩摩も、大変なことになってきておるようじゃな。」
そう言って茶を飲んでいると、その隣にいた重豪の養女で忠持の正室・雅姫まさひめがこう言った。
「されど、何故父上様は今も藩政を担っておいでなのでしょう?」
それを聞くと、忠持がこう言った。
「まだ心配なのであろうな。我が子に藩政を全て任せるのが。」
「されど、それは信用しておいででないからでしょうか?」
雅姫は聞くと、忠持は言った。
「逆じゃ。信じておられるからこそ、どうして良いのかわからぬのであろう。あのお方が、大殿様を裏切らねばよいがな。」
それを聞いた雅姫が、こう言った。
「わたくしも、斉宣様には何度かお会いしました。されど、何と申しましょうか、とてもそのような方には見えませんでした。」
すると忠持は、
「人というのは、本性は他人には見せぬもの。今は、我々も信じるしかあるまい。」
そう言うのを、雅姫は見つめていたのであった。
そして更に大奥では、お富の耳にもその話は届いていた。
「薩摩が?」
お富は聞くと常磐は、
「はい。」
と答えるのだった。するとお富は菓子を食べながら、
「そうか・・・。やはり薩摩は、薩摩じゃのぉ。」
そう言った。すると何かを思いついたように、
「そうじゃ。」
と言い、一人で笑っていた。それを、周りの女達も不思議そうに見ていたのだった。
浄岸院(その頃・・・。)
松平定信は、
「薩摩からの使いじゃと?」
と聞くと、家臣の森田もりた満則みつのりがこう言った。
「はい。お目通り願いたいと。」
定信はそれを聞き、立ち上がった。
部屋に入ると、そこにいたのは盛常であった。定信はそれを見て、
「これは、盛常殿ではないか。」
そう言うと盛常も、
「お久しぶりにございます。」
と言った。定信は盛常の前に座り、
「薩摩の一件、耳にしております。」
そう言うと盛常は、
「はい。わたくしは家老職に就いてから、大殿様にずっとついて参りました。されど、近頃、ふと不安になります。己の知らぬところで、あの方を裏切ろうとしているもう一人の自分がいるのではないかと。それについて、松平様に御意見を賜りとうございます。」
と言うので、定信が暫く考え、こう言った。
「それは・・・、案ずるに及ばぬことと存ずるが。」
「それは、何ゆえ?」
盛常が聞くと、定信は言った。
「信じられぬ自分がいるのであれば、それを打ち消すほど、もっと強う信じればよいだけのこと。重豪様はあぁ見えて、繊細なお方じゃ。きっと、盛常殿の心中を察して頂けるであろう。」
それを聞いた盛常は嬉しそうに、
「有り難きお言葉、痛み入ります。わたくしは、間違うておりました。あなた様に言われ、目が覚めた気が致しまする。」
と言うので定信も、
「それはようござった。これからの薩摩を率いていくのは、盛常殿のようなお人じゃ。」
そう言うのを聞き、盛常はまた嬉しそうに定信を見ていたのであった。
そして斉宣の元へは、樺山と秩父が目通りを願い出てきていた。樺山は、
「大殿様が、薩摩を乗っ取られるのも、時間の問題かと存じ上げます。」
そう言うのを聞いた斉宣は顔をしかめて、
「父上が、薩摩を乗っ取るじゃと?」
と言うと、秩父もこう言うのだった。
「はい。そのためにも、一つ、お殿様が腰を上げられるべきです。」
それを聞くと斉宣は、
「そのような・・・。」
と呟いていた。それを、部屋の外で母のお千万も密かに、目を驚かせて聞いていたのであった。
その後、斉宣は部屋で文を読んでいた。
『斉宣殿。薩摩のこと、お聞きしました。わたくしは徳川家の人間故、特に何か言える立場ではありませんが、これだけはお聞き届け下さるよう、お願い致します。父上を、疑ってはなりません。姉としての、お願いにございます。』
それを読むと斉宣は顔を上げ、真剣な眼差しで前を見つめていたのだった。
その頃、茂姫は部屋にいると、
「失礼致します。」
と言う声と共に、部屋にお富が入ってきた。茂姫は、
「母上様、どうされました?」
そう聞くと、お富がこう言った。
「薩摩の一件、聞きました。さぞや、気にかかっておりましょう。」
それを聞いて茂姫は、
「はい、それはそうですが。」
と答えると、お富がこう言うのだった。
「お帰りになられては如何ですか?」
それを聞き、茂姫はお富を見つめた。お富は続けて、
「薩摩にお帰りになれば、お父上も喜びましょう。何せ、愛する娘とまた暮らせるのですから。それにもう、公方様のお側におられる意味もないのでは?子も産めぬのに。」
そう言うと、茂姫を横目で見た。茂姫も、お富を見つめ続けていた。更にお富は、
「そしてお楽を正室にし、次なる若君を正室の子にしさえすれば、何方からも文句は言われまい。良き案にございましょう?」
そう言うので茂姫は、
「されながら母上様、まことにそれが家慶様の幸せと言えましょうか。」
と聞くと、お富は言った。
「決まっておろう。側室の子より、正室の子の方がよい。されどそなたは敦之助以来、子を儲けておらぬではないか。お世継ぎも産めずして、まだ御台所の座に居座ることもないであろう?いっそのこと、薩摩へ帰ったらどうじゃ。このままでは、薩摩の騒動がこの大奥にも及びかねぬからな。そのこと、しかと考えておくがよい。」
そしてお富はそう言い切ると、部屋を出て行った。茂姫は、それを仕方なく目で見送っていた。それを部屋の外から、ひさが立ち聞きしていた。
夕方、そのことをひさはお万に言いに行ったのだった。お万はキセルを持ちながら、
「御台様が薩摩へ?」
と聞くとひさは、
「はい!確かに、お富様がそう仰せでした。」
そう言うと、お万はキセルを吸って、小さくこう言った。
「そのようなことは決してない。」
「えっ?」
ひさは聞くとお万が、
「そのようなこと、公方様がお許しになるはずがない。」
と言い、再びキセルを吸っていたのだった。
その夜、茂姫は家斉に言った。話を聞いた家斉が、
「薩摩へじゃと?」
と聞き返すと、茂姫はこう言った。
「はい。わたくしは、返す言葉もありませんでした。されどわたくしが帰ったところで、藩士達の勢いを止められるとは到底思えませぬ。」
それを聞くと、家斉は笑い出した。それを見て茂姫は、
「上様?何か可笑しゅうございましょうか。」
と言うと家斉が、
「いや、すまぬ。母上の話を、真に受けておるとはな。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「お楽を、正室にすればよいとも仰せでした。お世継ぎは、側室の子より、正室の子の方がよいと。」
それを聞くと家斉は、
「それも、母上の戯れ言じゃ。気にするでない。」
と言うと茂姫は、
「しかし、わたくしは不安でならぬのです。」
そう言うと家斉は、
「薩摩のことか?」
と聞いた。茂姫は、
「はい。父上と斉宣との間に諍いが起こらぬか、毎日そればかり考えております。」
そう言った。すると家斉は、
「されど、あの者はそのような図太い奴に見えぬかったのぉ。主君に従い、主君のためにまことの忠義を尽くす、そのような者に見えた。」
と言うので茂姫が、
「まことにございますか?」
そう聞くと、家斉は言った。
「あぁ。あやつであれば、大丈夫じゃ。信じてみるがよい。」
それを聞いて茂姫は少し嬉しそうに、
「はい!」
と、答えていた。すると家斉は、こう聞いてきた。
「昔そなた、どのようなことがあっても、わしを守ると言うたこととがあったな。」
それを聞いた茂姫は、思い出していた。
『わたくしは、覚悟を決めました。どんな事があっても、上様をお守り致します。』
そして茂姫は、
「申しましたが。」
と言うと、家斉は言った。
「わしも今、決めたことがあってのぉ。」
それを聞いて茂姫は、
「何にございましょう?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「今度はわしがそなたを守る。それ故、そなたは何も心配するに及ばぬ。」
それを聞いた茂姫は真顔になり、
「上様・・・。」
と、呟いた。そして家斉は、茂姫を抱きしめた。茂姫は、
「わたくしも・・・、その気持ちは変わっておりませぬ・・・。」
そう言った。家斉はそれから、ずっと茂姫を抱いていたのであった。
浄岸院(しかし、その数日後。)
鶴丸城で斉宣は、藩士達に紙を見せた。斉宣が、
「これは、鶴亀問答という文書の一部である。」
そう言うと、樺山達はその文書を見つめていた。斉宣は続けて、
「ここには、主君の贅沢よりも、民を重んじるべしと言う内容が書かれておる。父上は藩主時代、様々な事業を行われた。膨大な費用を使い、民を苦しめた。それに、隠居された今でも藩政を動かしておられる。それ故、これからは父上を野放しにするわけには参らぬ。」
そう言うのを聞き、藩主達は声を上げた。
「そうじゃ、そうじゃ!」
「しかし!」
斉宣はそう言って、藩士達を鎮めた。
「これだけは、言える。父上は、藩をお見捨てになることはない。断じてない!」
すると樺山は、
「しかし、殿に家督を譲っておきながら、藩政を牛耳っておられるのも事実。」
そう言うと、斉宣はこう言った。
「それは、まだわしが未熟者故じゃ。今日これをそちらに配ったは、皆に己の大切さをわかって欲しかったからじゃ。父上を無理矢理政から引きずり下ろすよりも、大切なことがあると、わしはそう思っておる。あとは、そなた達で考えるがよい。」
それを聞いた藩士達は手をついて、
「ははぁっ!」
と言い、頭を下げた。それを見て斉宣も、頷いていたのだった。
一方、茂姫のところに側室・美尾みおと登勢が来ていた。茂姫は、
「今日は、どうしたのじゃ。」
そう聞くと、美尾は俯いたまま黙っていた。すると登勢が、
「お美尾さん。」
と言って、促した。それを、茂姫も不思議そうに見つめていた。そして美尾は、ようやく顔を上げてこう言った。
「あの、浅についてですが。」
それを聞くと茂姫は、
「浅?あぁ、そなたの娘の姫か。」
と言った。すると美尾は頷き、
「是非とも、御台様に育てて頂きたいのです。」
そう言うので茂姫は不思議そうな目で見ると、
「それは、何ゆえじゃ?」
と聞いた。すると美尾は、
「わたくしは・・・。」
そう言って、また俯いてしまった。それを見ていた茂姫は、
「どうした?申してみよ。」
と言っていると、登勢も心配そうに美尾を見ていた。それを聞いて美尾は顔を上げると、
「・・・、病なのです。」
そう言うので茂姫は思わず、
「えっ?」
と、呟いた。美尾は続け、
「医師から、言われた通りだと、わたくしはもう永くはないそうです。されど、未だ幼い己の子を残して逝くのはやはり嫌にございます。寂しい思いを、させてしまうのではないかと。それ故、御台様にお願いしたいのです!」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「そのような・・・。何か、治すことはできぬのか?」
と聞くと、美尾は言った。
「今のところは、無理とのこと。」
それを聞いた茂姫は悲しそうな顔で暫く考え、こう言った。
「わかった。その話、お受け致そう。」
それを聞くと美尾は嬉しそうに、
「ありがとうございます。」
と言い、頭を下げた。登勢も後ろから、悲しそうな目で美尾を見つめていたのだった。
浄岸院(その、わずか数日後のこと。)
茂姫は立ち上がり、
「鶴亀問答じゃと?」
と聞くと、知らせに来た宇多はこう言った。
「はい。主君の贅沢を慎み、民のことを考えるというものらしいのです。薩摩のお殿様が、直々に家臣達に配ったそうにございます。」
それを聞くと茂姫は座り、
「何たることじゃ・・・。もはや、薩摩が二つに割れると言うことか?」
と自問していると、宇多はこう言った。
「されど、お殿様は父は薩摩を見捨てぬというようなことを仰せになったそうにございます。」
それを聞くと茂姫は、
「されど、何故じゃ?何故、斉宣殿はそのような者を藩士達に。」
と言って、ひたすら考えていたのだった。
その後、茂姫は縁側に立つと、御守を眺めてこう呟いていた。
「母上・・・。どうか教えて下さい。何ゆえ、人は争いを求めるのでしょうか。何ゆえ、人は人を傷つけるのでございましょうか・・・。」
そして茂姫は顔を上げ、空を見つめていた。
浄岸院(姉弟、そして親と子の間で荒波が起こり始めた、瞬間にございました。)


次回予告
茂姫「わたくしは許せぬ、己の無力さを。されど無力故、感じられることもある。」
重豪「わしは間違っておったか。」
清宗「あのお方を、やはり放っておくわけにはいきますまい。」
樺山「薩摩の生きる道は、それしかないのです!」
斉宣「家老を命ずる。」
盛常「まさか・・・。」
家斉「許せぬであろう。」
茂姫「わたくしは父を信じております!」
斉宣「わたくしは、間違っておるのでしょうか?」
重豪「何じゃと?」
茂姫「わたくしは、誰を信じればよいのでしょうか。」



次回 第二十六回「君主と名君」 どうぞ、ご期待下さい!

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