茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十二回 故郷の母

一八〇一(享和元)年六月。茂姫は、箱の蓋を開けた。
「わ~。」
茂姫がそう言っていると、宇多達も近寄って来た。宇多が、
「これは?」
と聞くと茂姫は、
「古里の母より、届いたのじゃ。薩摩の菓子ぞ。」
そう言って、喜んでいた。登勢もそれを見て、
「美味しそうにございますね。」
と言うと茂姫は、
「良かったら、そなた達もどうじゃ。」
そう言った。それを聞いて宇多は、
「よろしいのですか?」
と聞くと茂姫も笑って、
「勿論じゃ。」
そう言うので、皆は顔を見合わせて嬉しそうにしていた。そこへ、
「邪魔をするぞ。」
と言う声と共に、家斉が部屋に入って来たのだった。それを見ると皆は、慌てて頭を下げた。家斉が座ってから茂姫は顔を上げると、
「上様。恐れながら、此度は何用でございましょうか。」
と聞くと、家斉はこう言った。
「そなたに、会わせたい者がおる。」
茂姫は、
「えっ?」
と言い、家斉を見つめているのだった。


第二十二回 故郷の母

浄岸院(島津重豪殿が江戸を出て一年近くが過ぎ、薩摩の鶴丸城に帰られておりました。)
重豪は、鶴丸城の廊下を歩いていた。
重豪はお登勢に、
「此度の動乱、ちと厄介になりそうじゃ。」
そう言うのでお登勢は、
「では、反乱が起きるかも知れぬのですね?」
と聞くので、重豪は答えた。
「今は何とも・・・。だが、それを食い止めるのは斉宣であろうな。わしは、あの者を信じておる。」
それを聞いたお登勢は、
「はい・・・。」
と言い、重豪を見つめていたのだった。
その頃、斉宣は部屋であの時のことを思い出していた。
『いくら薩摩が七七万石の大国と言えど、放っておけば、藩が絶大な借金を負うは必定。』
『このままでは、薩摩は確実にお取り潰しかと。』
斉宣は、不安そうな目をしていた。すると、
「失礼致します。」
と言い、おあつが部屋に入ってきた。享は手をついて、
「夕餉の支度が調いましてございます。」
そう言っても反応を示さない斉宣を見て享が、
「旦那様?」
と聞くと斉宣はそれに気付き、
「あ、あぁ。すぐに参る。」
そう言うと享は、
「はい。」
と言い、頭を下げると部屋を出て行った。部屋を出ると、享も心配そうな顔をして立っていた。
一方、茂姫の前にはある女性が平伏していた。茂姫が、
「面を上げよ。」
と言うと、その女性は顔を上げてこう言った。
「わたくしが、公方様より茂姫様付老女となることを仰せつかった、唐橋からはしと申します。本日は、お会いできて誠に光栄と存じ上げます。これからも、どうぞ宜しゅうお願い申し上げ奉ります。」
それを聞いて茂姫が、
「大義である。」
そう言うと、唐橋が言った。
「まず・・・、わたくし共から御台様にお願いがございます。」
「願い・・・?」
茂姫が聞くと唐橋が続けて、
「公方様とは、あちらからからのお渡りの時以外は、お会いになってはなりませぬ。」
そう言うのを聞いた茂姫は驚き、
「それはどういうことじゃ?」
と聞くと、唐橋はこう言った。
「御台様が本来いるべき場所は、この大奥にございます。御台様自らが、表に行くなど有り得ませぬ故。」
茂姫は、それを黙って聞いていた。すると唐橋は、
「聞くところによりますれば・・・、御台様は側室達に正室と側室は同じであるという、誓いを立てられたとか。」
そう言うので茂姫は、
「それがどうした。」
と聞き返した。すると唐橋は、
「恐れながら、今の御台様は非常に珍しいお方であるとお見受け致しました。この唐橋、一心を込めて御台様にお仕えする所存にございます故、ご安心召されますよう。」
と言い、頭を下げるのだった。茂姫は、それを怪訝そうに見つめていた。
それと同じ頃、薩摩では重豪とお登勢、そしてお千万が話をしていた。重豪は、
「わしは、今年中には帰らねばならぬ。その前に、藩士達を城に集め、話を聞こうと思う。」
そう言うのでお登勢は、
「されど、もしも藩士達に下心などあれば・・・。」
と言うと重豪は笑い、
「案ずるでない。わしは大丈夫じゃ。まずは、そちの体を心配するがよい。」
そう言うのを聞いてお登勢は、
「はい。」
と答えるのを、隣からお千万も見つめていたのであった。そしてお登勢が苦しそうにすると重豪は、
「大事ないか?」
と聞くとお登勢は、
「はい。」
そう言うと重豪はお千万に、
「お千万、お登勢を部屋に。」
と言うのでお千万は、
「はい!」
そう言って、お登勢を支えた。お登勢は立ち上がると、目眩がして倒れた。それを見た重豪とお千万は、
「お登勢!」
「お登勢殿!」
と叫び、お登勢を支えるとお登勢は、小声でこう呟いた。
「於篤には・・・。」
「於篤が如何した?」
重豪はそう聞くと、お登勢はこう言った。
「このこと、於篤には、伝えないで下さいませ・・・。これ以上は、心配はかけられませぬ故・・・。」
それを聞いた重豪は二回程頷き、
「相わかった。於篤には伝えぬ。だから、そなたは安心して休んでおれ。」
と言うのを聞いて、お登勢は少し笑みを取り戻していた。それを、お千万も見つめていたのであった。
その夜、大奥の寝間では家斉と茂姫は、話をしていた。茂姫が、
「上様。あの、唐橋と申す女子は何者にございましょうか。わたくしは今まで、数多くの老女を見て参りましたが、あの者に関してはいまいち分かり兼ねます。あの腹の底に、何を隠しておるのやら。」
そう言うので家斉が、
「公卿の娘であるそうじゃ。」
と言った。茂姫はそれを聞いて驚き、
「公卿?」
と聞くと家斉は続けて、
「公卿で歌人の高松たかまつ公祐きんさち殿の娘で、京の行政などに精通しておる。」
そう言うと、茂姫は不満そうに言った。
「されど・・・、何ゆえそのような者が大奥に?」
すると家斉が、
「さぁのぅ。しっかり者故、その人柄が広まって、母上の耳にも届いたのであろうな。」
と言うのを聞いたして茂姫は、
「ならば、母上様がこの城に呼んだのですか?」
そう聞いた。すると家斉は、
「恐らくな。側室を目的とした中臈に加え、見込みがある老女なども招い入れておられる故な。」
と言うのを、茂姫も見つめていた。すると、家斉が、
「そろそろ、故郷が恋しくなってきたか?」
と聞くので茂姫は、
「えっ?」
そう聞くと、家斉は言った。
「薩摩に帰りとうはないか?」
それを聞いた茂姫は首を横に振り、
「いえ。わたくしは、この城で生きていくと決めたのです。」
そう言うので家斉は笑い、
「そう言うと思うた。」
と言った。すると家斉はまた、
「気にしておるのか?」
そう聞くので茂姫は、
「何をでしょう。」
と聞き返した。そして家斉は、こう言った。
「御台所といえば、以前までは公家から迎え入れていた。島津からの輿入れは、例外じゃ。それ故、母上はそなたに公家の祖法を教えようとした。唐橋を招き入れたのも、そのためじゃ。されどそなたは、そのことに不満を抱いておるのではないかと思うてな。」
それを聞きて茂姫は、
「いえ。わたくしは、気にしておりませぬ。母上様の御心を思うと、それに従うのは嫁の役割にございます。わたくしは、そう思います。」
と言うので家斉も、
「そうか。」
そう言って、寝床に着いていた。それを茂姫も、少し悲しそうに見ていたのだった。
翌日、お富は菓子を焼いていた。その隣で常磐が、
「唐橋様は、御台様にほとほと手を焼いておられるご様子。」
そう言うのでお富も、
「所詮は薩摩の田舎娘であろう?まことに、御台所としての務めを果たしておるのであろうか。」
と言った。常磐は続けて、
「唐橋様は、京でもさぞ人気が高かったと。作法の教育など、様々なご活躍があったとか。」
そう言うのを聞いてお富は、
「御台所にも、作法を教えてくれるとよいがのぉ・・・。難しいであろうな、あの娘は。」
と言い、焼いた菓子を食べていた。
その頃、茂姫はお楽の部屋に行っていた。茂姫は、
「そちらの様子はどうじゃ?」
と聞くと、お楽は茂姫の顔を見ずに言った。
「大丈夫にございます。斯様なご心配はご無用故。」
すると茂姫は、こう言った。
「上様は、わたくしが島津の出であると言うことを気にしているのではないか、ご心配されておいでのご様子。母上様もなかなか認めて下さらぬ。それ故、少しばかり不安になるのじゃ。」
するとお楽はやっと茂姫の方を見ると、
「何故それをわたくしに?」
と聞いた。すると茂姫は、
「あ、いや。そなたがわたくしを嫌うておるのは存じておるが、それはわたくしが京の出ではなく薩摩の出である故か?」
そう言うのでお楽は庭の方を見て、
「わかりませぬ。」
そう答えた。お楽は続けて、
「ただ、何故ここに来て御台様が京以外の方なのかが、分かり兼ねます。今になって島津の姫君を徳川家に輿入れさせるなど、そこまで将軍家は勢力が衰えておるのでしょうか。」
と言うのを、茂姫は見ていた。お楽は振り向き、
「されど、そのような心配をしておられる時ではないと存じます。力を合わせよと言ったのは、御台様ですよ?その本人が、恐れながら、情けのうございます。」
という言葉を発した。それを聞いた茂姫はふっと笑い、
「そうじゃな。」
そう言い、立ち上がると自分の部屋へ帰ってしまった。それを、お楽も黙って見つめていたのだった。
一方、薩摩では話し合いが行われていた、家老・市田いちだ盛常もりつねは、
「やはり、兄上様は藩のために藩政を行っておられる。それ故、謀反を企てるなど無礼千万!」
そう言うと藩士・樺山かばやま主税ちからは、
「まだお目覚めではないようですな。これ以上、重豪様を野放しにしていたら、藩は間違いなくお取り潰しかと。」
と言った。それを聞いた盛常は動揺を必死に押さえ、
「されどわたくしは、あの方を信じておる!」
と言い、立ち上がって樺山を見下ろした。
「そなたとは、もうこれが最後じゃ!二度と顔を見せるでない!」
そして、盛常は部屋を出て行った。その後、樺山は部屋で一人、笑みを浮かべていたのだった。
浄岸院(そうこうしている内に、茂姫の母・お登勢の容態が悪化したとの知らせは、江戸にも届けられました。)
文を読み終えた斉宣は顔を上げ、
「母上様が・・・!?」
と、呟いていた。
その知らせは、江戸城大奥にも届いたのである。茂姫が立ち上がり、
「母上が!?」
と言うと、走って部屋を出て行こうとした。すると唐橋が振り返り、
「どちらへ!?」
そう聞いた。茂姫が、
「すぐに籠を出せ。母上のもとに参る。」
と言うと唐橋は、
「生憎、お母上は江戸にはおられません。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「あぁ、そうであった。ならば、上様の所へ参る。薩摩に帰られるよう、取り計らって頂くのじゃ!」
と言うと唐橋が、
「なりませぬ!先日申し上げたこと、もうお忘れですか!」
そう言うのだった。茂姫は、それを悔しそうに見つめていたのだった。
その後、茂姫は縁側に出て御守りを見つめていた。その様子を、部屋の中から、宇多も心配そうに見ていた。そして茂姫は、
「母上に、会いたい・・・。」
そう呟いていたのだった。
浄岸院(それから一月余りが経ち・・・。)
鶴丸城の廊下を、斉宣が小走りになりながら歩いていた。斉宣が部屋の前まで来ると、部屋から奥平昌髙が出てきて、
「兄上、こちらにございます。」
と言うので斉宣は少し驚いたように、
「昌髙。」
そう呼んだ。二人は中に入ると、重豪がいてその横には布団が敷いてあり、お登勢が横になっていた。重豪は斉宣を見て、
「おぉ。来たか。」
そう言うと、斉宣と昌髙は重豪の隣に座った。斉宣が重豪に、
「父上。母上様の様子は?」
と聞くと、重豪は答えた。
「心配ない。今は、だいぶ落ち着いておる。」
それを聞いた斉宣は、安心そうに今は眠っているお登勢を見つめていた。すると重豪が、
「そうじゃ。江戸の様子はどうなっておる。」
と聞くと斉宣が、
「いえ、特には。」
そう答えた。それを聞いて重豪は、
「そうか・・・。」
と言うのを見て、昌髙がこう聞いた。
「何か、おありなのですか?」
すると重豪は、
「いや。わしも斉宣もおらぬとなれば、薩摩藩邸が心配での。」
そう言うので、斉宣がこう言った。
「わたくしは、やはり母上様が心配です。せめて病がよくなるまで、この城にいとうございます。」
それを聞いた重豪は微笑み、
「そうじゃな。されど、心配なのが・・・。」
と言うので斉宣は、
「はい。」
と答えた。そして重豪は続けて、
「於篤じゃ。」
そう言うのだった。
「姉上ですか?」
斉宣が聞くと重豪は、
「あぁ。知らせを送っておいたが、心配しておらぬか心配でのぉ。」
そう言うので斉宣は、
「はい・・・。」
と言って、重豪を見つめていたのであった。
茂姫は江戸城大奥で、ただ御守を見つめて座っていた。すると、
「失礼仕ります。」
と言う声が聞こえ、茂姫は顔を上げると、唐橋が来て頭を下げた。唐橋は顔を上げ、
「公方様が、御台様をお呼びとのこと。」
そう言うので茂姫は表情を変えず、
「え・・・。」
と呟いていた。
茂姫は、表で家斉の前の下座に座っていた。茂姫は、
「上様。」
と言いかけると家斉が、
「そなたの母君のこと、聞いた。辛いであろう。」
そう言うので茂姫も、
「はい。」
と、答えた。すると家斉が、
「だがそんな辛い時にこそ、親の気持ちを大事にするのじゃ。」
そう言うのを聞いて茂姫はまた、
「はい。」
と答えた。すると茂姫は手をつき、
「上様に、お願いがございます。」
そう言うので家斉は、
「何じゃ。」
と、聞き返した。すると茂姫は、
「それは・・・。」
そう言いかけると、家斉はこう言った。
「相分かった!そなたの願い、聞き届けよう。」
それを聞いた茂姫は、
「あの、まだ何も・・・。」
と言うと、家斉がこう言った。
「そなたの考えそうなことじゃ。」
それを聞いた茂姫も嬉しそうになり、
「はい!」
と答え、家斉を見つめていたのであった。
浄岸院(更に一月余り後の一〇月。)
鶴丸城の一室で、重豪と斉宣が話をしていた。斉宣は、
「藩士達は、やはり父上を恨んでおるのですか?」
と聞くと重豪は、こう言った。
「明日にでも、この城に家臣達を集めたいと思う。」
それを聞いた斉宣が、
「されど、父上にもしものことがあったら、わたくしは・・・。」
と言いかけると重豪は、
「案ずるでない。わしはこの耳で、藩士や家臣の者達の意見を聞きたい。そしてその上で、自ら判断したい。」
そう言うのを、斉宣も聞いていた。すると家来が部屋の前に来て、
「殿と大殿様に、お客様にございます。」
そう言うので重豪は、
「客?誰じゃ。」
と聞くとその家来は気まずそうな声で、こう言った。
「そ、その、それが・・・。」
それを聞いた途端、重豪の顔色が変わった。
「まさか・・・。」
重豪は、斉宣と共に部屋に行った。そこに、一人の娘が平伏していた。重豪と斉宣が座につくと、その娘は顔を上げた。そう、茂姫であった。それを見て斉宣は驚き、
「姉上!?」
と声を上げた。しかし重豪はそのような顔は見せず、微笑しながらこう言った。
「やはり来たか。」
茂姫はまた軽く頭を下げると、
「お久しぶりにございます。」
と言った。重豪は、
「母のことが心配で参ったのか。」
そう聞くと、茂姫が言った。
「それもございます。なれど、薩摩の者達が父上が藩主だった頃に行われていた政治に、不満を抱いているということも知りました。恐れながらそれは、まことにございましょうか。」
それを聞いた重豪は顔を険しくさせ、
「あぁ、そのようじゃ。」
と言った。そして茂姫は、
「それはただの言いがかりに過ぎぬとは思いますが、父上にも心当たりがおありにございましょうか。」
そう聞くので重豪は、
「要するにそなたは、己が将軍御台所になったことを悔いておるのか?」
と聞き返した。茂姫はそれを聞いて、
「いえ。ただ、父上のまことの目的が何なのか、気になっただけにございます。藩士達を苦しめ、不満を抱かせてまで、何故わたくしが御台所など。」
そう言うので、重豪は言った。
「そなたは、浄岸院様を知っているか?」
「浄岸院様・・・?」
「あぁ。わしの祖母に当たるお方で、そなたが生まれる前の年に身まかられた。わしの教育者で、まるで母御のように可愛がって下さった。公家の家に生まれ、やがては八代将軍・吉宗公の養女にお成り遊ばされた。その後、島津家に嫁がれ、最後はこの城で亡くなられた。そのお方の遺言を、お登勢が聞いておる。もし女子が生まれれば、徳川家縁の家柄に嫁がせるようにと。」
それを聞いて茂姫は、
「徳川家、縁のお家柄に・・・。」
と、繰り返していた。
浄岸院『そなたがここにおるのは、他でもない、わたくしの遺言故じゃ。』
重豪『、浄岸院様が死の間際にこう申された。“いつか、そなたの娘を徳川家縁の家柄に嫁がせて欲しい”と。わしはそのご遺言を守り、そなたを一橋家に嫁がせようとした。』
すると茂姫は微笑し、
「その話は以前、父上からお聞きしたことがございます。」
と言うので重豪も、
「おぉ、そうであったかの。」
そう言った。茂姫は、
「その時は、御台所の話は詳しくされておりませんでしたが、これで分かったような気が致します。その時に、父上に言われました。大事なのは、わたくしが上様の理解者になることだと。」
と言うと重豪も、
「覚えておるぞ。」
そう言うので、茂姫はこう言った。
「わたくしは今まで、浄岸院様の遺言とは言え、父上がご自身のためにわたくしを御台所の座に座らせたのだとばかり思っておりました。されど、それは間違いでした。父上は、他のどなたよりも、わたくしを愛し、そして、薩摩を愛しておられます。そのことは、間違いないと存じます。」
茂姫が、そう涙を浮かべながら言った。それを聞いた重豪は、
「無論じゃ。」
と言うのを聞き、茂姫は笑みを浮かべ、涙をこぼしていた。それを、斉宣も見つめていたのだった。
翌日、重豪は広間に家臣達を呼んでいた。重豪の傍らには、斉宣がいた。
「面を上げよ。」
重豪が言うと、皆は一斉に顔を上げた。重豪が、
「そち達の意見を聞こう。」
そう言うと、先頭にいた樺山が、
「大殿様が薩摩藩主であらせられた頃、幾度の施設建設に加え、異国からの商人の招聘、更には島津の姫君様を御台様にするなど、藩の財政など全く気にしておられぬご様子。」
と言った。その様子を、部屋の外から茂姫も聞いていた。斉宣は樺山に、
「その方、無礼であるぞ!」
そう言うと樺山は、
「恐れながら、藩士は皆、そう申しております。」
と言うと、樺山のすぐ後ろにいた薩摩藩士・秩父ちちぶ季保すえやすも、
「中には、貧しい暮らしを強いられ、ろくに食べられない者も多くおりもす。」
そう言った。すると樺山が続け、
「それに、もう一つ気になることが。」
と言うので重豪が、
「申してみよ。」
そう言った。すると樺山が、
「それは、市田様にございます。」
と、言うのだった。重豪が怪訝そうに、
「市田じゃと?」
そう聞くと、樺山は続けてこう言った。
「はい。本来であれば、斉宣様の母君であるお千万様が江戸に残られるはず。されどその方を追い出し、あろうことか家老職の市田盛常様の姉上であるお登勢様を江戸に残された。これは、御台所様でいらっしゃる茂姫様の母君である故にございますか?」
「そうだとしたら、何とする。」
「これ以上、市田家の方に好き勝手されとうはございませぬ故。」
それを聞いた重豪は、
「好き勝手じゃと!?」
と言うと樺山は続け、こう言った。
「大殿様は、市田様をたいそうお気に召してのご様子。一所持に取り立てたのも、そのためかと。されど、これ以上そのような贔屓があっては、お登勢様の病が悪化した時、市田家はお家取り潰しになり兼ねません。」
その時、女性の声が上がった。
「母上の悪口を言う者は誰じゃ!ここは島津本家なるぞ!」
その声に、皆反応した。すると前の襖が開き、入って来たのは茂姫であった。そして、重豪がこう言うのだった。
「わしの娘、茂姫である。」
それを聞いた皆は動揺し、
「御台様が何故このような場所に?」
「将軍家におられるはず・・・。」
「いつ帰ってこられたのじゃ?」
と、口々に言った。そして茂姫は、樺山の前に座った。
「その方に聞く。本当に、父上がそのように軽いお気持ちでそうしたと思うか?」
それを聞いた樺山は、
「そう申しますと・・・、どのようなお気持ちで?」
と、逆に聞き返した。すると茂姫は、
「そち達で考えるがよい。」
そう言い、立ち上がると重豪の隣に座った。そして茂姫は続けて、
「わたくしは、父上を疑う者達を許さぬ。父上は、まことに薩摩を愛しておいでじゃ。わたくしを将軍家に輿入れさせたのも、ご自分のためではない。皆のためじゃ。父上は藩主であられた時から今日まで、本当にそち達のことを思うて来られた。それでも信用できぬと申すならば、今すぐにでも薩摩から去ることじゃ!わたくしから、ここまでである。」
そう言うので感服したのか、皆は一斉に、
「ははぁっ!」
と言い、頭を深く下げた。しかし樺山だけは、下げた後に、密かに茂姫を睨むようにして見つめていたのであった。
その頃、お富にある知らせが届いていた。それは・・・。
「御台が薩摩に帰った?」
すると常磐が申し訳なさそうに、
「はい。母君の、見舞いとのこと。」
そう言うのでお富が立ち上がり、
「そのような話、聞いておらぬぞ!」
と言うと常磐が更に頭を下げ、
「申し訳ございません!」
そう言っているとお富は、
「御台所が・・・、薩摩に・・・?」
と呟いていた。すると、
「お待ち下さい。」
と言う声と共に、唐橋が女中を連れて入って来た。唐橋が顔を上げると、こう言った。
「その話、公方様直々のお取り計らいとのことにございます。」
それを聞いたお富は驚き、
「公方様が?」
と聞くと、唐橋は言った。
「御台様のお気持ちを、察しておられたご様子にて。」
それを聞いてお富は、唐橋を見つめていたのだった。
その夕方、鶴丸城のお登勢は布団に座っていた。その隣に、昌髙が座っていた。すると、足をとが聞こえ、部屋に重豪と斉宣が続いて入って来た。重豪はお登勢の側に座ると、
「気分はどうじゃ。」
と聞いた。するとお登勢は、
「はい。大丈夫にございます。」
そう言うので、重豪は笑ってこう言った。
「良かった。気分が優れぬと、驚いて更に悪くなってしまうやもしれぬからの。」
「それは?」
お登勢はきょとんとしながら、そう言って重豪を見つめた。すると重豪が縁側の方に向かって、
「入ってよいぞ。」
と、誰かを呼んだ。すると、ゆっくり誰かが部屋に入ってきた。女性の足が見えると、お登勢は驚いて上の方を見た。その部屋に入ってきたのは、茂姫であった。茂姫が姿を現すと、
「母上・・・。」
と、呟いた。茂姫はゆっくり進み、お登勢の前に座った。お登勢が茂姫を見つめ、
「於篤・・・。」
そう呟くと気が付いたように手をついて、
「あ、いえ。茂姫様。」
そう言うので茂姫も微笑み、
「於篤でようございます。お久しぶりです。」
と言うので、お登勢は笑いながら涙を浮かべた。その様子を、重豪、斉宣、昌髙も見ていた。茂姫も笑いながらお登勢を見つめているとお登勢が茂姫の手を握り、
「まるで・・・、夢のようです。」
と言うので茂姫も、
「わたくしもにございます。」
そう返すのだった。そしてお登勢は、こう言った。
「美しゅうなられましたね。」
「はい。」
茂姫が答えると、お登勢も嬉しそうにしていた。するとお登勢は、
「されど、今は徳川家のお方。このようなところにいてはなりませぬ。」
そう言うので茂姫は、
「よいのです。わたくしは、母上の娘なのですから!」
と言うので、お登勢は茂姫を見つめ続けた。茂姫も話を続け、
「わたくしは何処へ行こうと、何をしようと、母上の子にございます。」
そう言うのを聞いたお登勢は涙をこぼし、
「於篤・・・。」
と呟き、二人は抱き合った。それを見ていた斉宣と昌髙も、もらい泣きしていた。重豪も、二人を見つめ続けていたのだった。
そして茂姫が江戸に発った後、重豪とお登勢が縁側に座り、共に夕日を眺めていた。すると重豪が、
「茂は、わしらの誇りじゃな。」
と言うとお登勢が、
「ほんに、そうでございますね。」
そう返していた。重豪が、
「桜島は見たか?」
そう聞くとお登勢が、
「いえ、まだにございます。」
と言った。それを聞いた重豪が、
「ならば今から、見に行くとするか。」
そう言うのでお登勢は、
「今日は、気分が優れませぬ故。」
と答えるのを聞いて重豪は、
「そうか・・・。」
そう言い、夕日を眺めていた。するとお登勢は続け、
「あの子は、これから何かを成し得るでしょう。わたくしはあの子の母で・・・、ほんに幸せにございました。最期にあの子に会えたこと、きっと天からの思し召しにございますね。」
そう言うので重豪は、
「左様なことは申すな・・・!」
と言ってお登勢を見つめると、お登勢は重豪に寄りかかりながらこう言った。
「これからもあの子が幸せでいてくれたら・・・、わたくしは・・・。」
そして、お登勢は次第に目を閉じていた。それをすぐ側で見ていた重豪の目にも、涙が滲んだ。そして重豪は暫く、お登勢の手をずっと握りしめたまま、離さなかった。
浄岸院(茂姫の生みの母・お登勢が息を引き取ったのは、享和元年一〇月三〇日にございました。そしてその知らせが姫の元に届いたのは、茂姫が江戸に帰った後にございました。)
茂姫は城の縁側で文を読み、
「母上・・・。」
と言い、一人でただただむせび泣いていたのだった。
薩摩では、城の一室で斉宣と昌高が話をしていた。斉宣が縁側の前に胡座をかいて座り、
「母上様は、姉上に助けられたのであろうな。」
と呟くと後ろに座っていた昌高が、
「そうですね。母上はきっと、安心して天に昇られたのでしょう。」
そう返していた。斉宣は、
「ほんに、神の如きお人じゃ・・・。」
とまた呟いているのを、昌高は今度は黙って見つめていたのだった。
その一方、人の不幸を喜んでいる者がいた。樺山主税が自分の屋敷に、秩父季保を呼んでいた。樺山が、
「お登勢様が身まかられた。これで、我らの望みが出て参ったぞ!」
そう言うと秩父が、
「お登勢様が消えたとなると、重豪様が江戸にお戻り遊ばすのは時間の問題ですな!」
と言うと樺山は、
「兎に角、もっと多くの藩士を集めるのじゃ!我々がしなければならぬこと、それは大殿様を藩政の座から引きずり下ろすことである。そのためには、まずは・・・。」
そう言っていると、秩父が以心伝心の如く答えた。
「お殿様であられる斉宣様を、説得すること。」
それを聞いた樺山は頷き、
「今までの行動は序の口。これからが本番じゃ。」
そう言うと秩父も、
「おぉ!」
と、声を上げていた。すると樺山は、
「されど・・・。」
そう言い、茂姫の言ったことを思い出した。
『父上は藩主であられた時から今日まで、本当にそち達のことを思うて来られた。それでも信用できぬと申すならば、今すぐにでも薩摩から去ることじゃ!』
すると秩父が、
「されど御台様は、今は江戸。我々の動きとは、ほぼ無関係かと。」
そう言うので樺山は立ち上がり、
「そうじゃのぉ。」
と、言っていたのであった。
そうとも知らぬ茂姫は、部屋の仏壇の前で拝んでいた。そこへ、宇多が部屋に入ってきた。宇多は、
「大変にございます。」
と言いながら座った。すると茂姫が振り返り、
「何じゃ?」
そう聞いた。そうすると、宇多はこう答えたのだった。
「お富様が、お倒れ遊ばしたそうにございます。」
それを聞いた茂姫が、
「母上様が?」
と言い、立ち上がって部屋を出て行った。
お富の部屋に来ると、お富は寝ていた。その横には、家斉がついていた。茂姫が家斉の隣に座ると、家斉はこう言った。
「疲れが出ただけじゃ。今は休んでおられる。」
それを聞いて茂姫はほっとしたように、
「そうですか・・・。」
と言った。家斉は、
「わしも、母上にはいつも心配ばかりかけておったからのぉ。」
そう言うので茂姫は、
「そうですか・・・。」
と答えていた。すると、家斉はこう言った。
「親というものは、ようわからん生き物よのぉ。時に邪魔になったり、かと思えば無性に恋しゅうなったり・・・。」
それを聞くと茂姫も微笑して、
「ほんに、そうにございますね。」
と言って、お富を見ていたのだった。
その後、茂姫は自分の部屋の庭に出ていた。夕日に染まった庭に立ち、茂姫は懐からお登勢からもらった御守を出して見つめていた。そしてその御守を握りしめ、目を閉じ笑っていたのだった。


次回予告
茂姫「お花見ですか?」
家斉「宴じゃ!」
重豪「何故そなたを、嫡男にしたかわかるか?」
斉宣「それは・・・。」
定信「家慶様に御縁談?」
重豪「相手は、有栖川の姫宮様であるそうじゃ。」
美尾「強くなりたいと思うほど、自分を苦しめるのです。」
登勢「強く・・・。」
お富「笑止千万じゃな。」
茂姫「上様は己が自分勝手とは思わぬのですか?」
家斉「そなたのようには、なりたくはない。」
茂姫「この桜が散るたびに、わたくしは強くなりたい。」



次回 第二十三回「桜の約束」 どうぞ、ご期待下さい!

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