茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十一回 昌高の蘭学教室

浄岸院(薩摩藩邸から、茂姫に父が薩摩に向かうという知らせがもたらされました。)
茂姫は文を読みながら、こう呟いていた。
「父上が薩摩へ・・・?」
そして、ここでも・・・。一橋治済が、
「薩摩へ?」
と聞くと、重豪はこう言った。
「はい。一度国元に帰り、様子を見てからまた江戸に戻ってきたいと思います。」
すると治済は察したように、
「もしや、藩士達の動きを探るためでは?」
と聞いた。すると重豪は、
「念のため、帰った方がよいと思いましてな。お登勢の様子も気になることですし。」
そう言うので治済が、
「はい。こちらのことは、任せられよ。」
と言うのを聞いて重豪は、
「ありがとうございます。」
そう言うのを、治済は頷きながら見つめていた。
それと同じ頃、茂姫は縁側に出て、傍に置いた文を心配そうに眺めていたのであった。


第二十一回 昌高の蘭学教室

一八〇〇(寛政一二)年正月。家斉は、ある女子を茂姫に紹介した。家斉は、
「この者は、お登勢という。新しい側室として迎え入れた。」
そう言って紹介し、その女子は手をつき、
登勢とせと申します。御台様には恐れ入りますが、側室としての役割、しかと果たす所存にございます。」
と言うので茂姫は、
「お登勢・・・。」
そう呟いた。そして茂姫は微笑んで、
「わたくしの母と同じ名じゃ・・・。」
と言うのだった。登勢も顔を上げると、
「そのことは、公方様より伺っております。何とも、気強いお方であったとか。」
と言った。それを聞いて茂姫は、
「気強い?」
そう言った後で笑い、
「そうかもしれぬな。」
と言っていた。家斉は、
「そうじゃ。この者は今、懐妊しておる。」
そう言うので茂姫は、不意に登勢を見た。登勢も頷くので茂姫は、
「そうですか。それはめでたい。」
と言うと家斉の方を向き、こう言った。
「上様。この者に苦労をかけぬよう、どうかお願い致します。」
そして、頭を下げた。家斉はそれを聞き、
「わかっておる。」
と言った。茂姫は顔を上げて、微笑んでいたのだった。
一方で斉宣は重豪の部屋に入ると、
「お呼びでしょうか、父上。」
と言うと、重豪は言った。
「お享のことで、話があるでの。」
「お享、ですか?」
斉宣はそう言うと、あつの顔を思い出した。重豪は続けて、
「斉宣。夫婦にならぬか。」
そう言うのを聞き、斉宣は驚いた。
「夫婦・・・、にございますか?」
斉宣がそう言って聞くと、重豪は続けた。
「正室がおらぬそなたが、不憫に思えての。どうじゃ、あの者はなかなか気立てがよい。生まれも旗本じゃ。良き縁じゃと思うが。」
それを聞いた斉宣は、
「暫し・・・、考えさせてもらえませぬか?」
と聞くと重豪は、
「よかろう。心が決まったら、いつでも待っておる。」
そう言うのを、斉宣は見つめていた。
その後、部屋に座って斉宣は腕を組んで考えていた。すると部屋に、
「失礼仕ります。」
と言いながら享が入ってきて、顔を上げるとこう言った。
「お殿様に、お客様がお見えにございます。」
それを見て斉宣が、
「すぐに参る。」
と言い、立ち上がった。
それは、中津藩主・奥平おくだいら昌高まさたかであった。昌高は斉宣の話を聞き、
「そうですか。兄上に縁談が?」
と言うので斉宣は恥ずかしそうに、
「まだ決まったわけではない。何故、父上は急にそのような話を持ってこられたのか・・・。」
そう言っていると、
「失礼致します。」
と言い、享がお茶を持って部屋に入ってきた。そして二人の前にお茶を置き、部屋を出て行った。それを見て昌高は、
「なかなかの方ではないですか。」
と言うと斉宣は少し顔を赤くし、話を逸らそうとした。
「して、今日は何故参ったのじゃ?」
斉宣が聞くと、昌高は答えた。
「はい。兄上に、少し相談がありまして。」
「相談?」
すると、昌高はこう言った。
「はい。異国のものを集めた、わたくしだけの部屋を作りとうございます。」
「部屋を?」
「はい。そこで、主に子供達に蘭学を教えたいと考えておりまして・・・。」
昌高がそう言うのを聞いて斉宣も嬉しそうに、
「そうか。されど、何故それをわしに?」
と聞くと、昌高はこう言った。
「長崎の出島から、オランダ製の品々を買おうと思っているのですが、薩摩より使者を送って頂きたいのです。」
「薩摩から、長崎へ?」
「はい。薩摩は、七七万石の大国にございます。それに幸い、兄上は開国派にございます。幕府は許して下さいませぬ故、薩摩であればと。」
斉宣はそれを聞いて、
「そなたの頼みとあらば、わかった。すぐに送ろう。」
そう言うのを聞いて昌高は、
「ありがとう存じます!」
と言うので、斉宣も嬉しそうに昌高を見つめていたのだった。
浄岸院(その後、大奥ではまたもや幼い命が消えておリました。)
宇多は、小さな仏壇の前で拝んでいた。すると茂姫が部屋に入ってきて、後ろから宇多を見つめていた。すると宇多はそれに気づき、体ごと振り返った。宇多は茂姫を見つめて、
「御台様。」
と言うと茂姫は、ゆっくりと宇多の前に座り、
「これで、三回目であろう。今は辛いであろうが、これからまた、授かることを願おう。」
そう言うので宇多は、
「ありがとうございます。」
と、言いながら軽く頭を下げた。宇多は顔を上げると、
「されどわたくしは、悲しんでおりませぬ。これが、己に定められた運命であると心得ております。」
そう言うので茂姫は、
「そなた・・・。」
と言い、宇多を見つめた。すると宇多は微笑し、
「御台様のお気遣いは、嬉しゅうございます。また子が授かることを、心より祈っております。」
そう言うので茂姫も、
「あぁ。」
と言い、微笑み返していた。宇多も、それを同じ表情のまま見続けていたのであった。
浄岸院(よくないことの後には、よいことが起こるものにございます。お宇多の子が、僅か三ヶ月でこの世を去ったおよそ一月後のこと。)
一八〇〇(寛政一二)年四月四日、大奥には産声が響いていた。新しい側室・登勢が子を産んだのである。茂姫は登勢に、
「具合はどうじゃ?」
と尋ねると、登勢は答えた。
「大丈夫にございます。」
登勢は、生まれたての赤子を見つめていた。
浄岸院(この娘は峰と名付けられ、のちに水戸藩に嫁ぎ、大奥にも尽力することとなります。)
その頃、茂姫の母・お登勢は重豪の文を読んでいた。
『そちらの様子は如何じゃ。わしももうすぐ、薩摩へ参る。気になることあらば、文で知らせてくれ。良くないことが起こる前に、防ぐ必要がある故な。』
それを読みながら、お登勢はあることを思い出していた。
『重豪様は、薩摩を我が物にしようとなさっておいでなのではと。』
『お登勢様が薩摩に戻られたのも、重豪様に国元の様子を知らせるためではないかと。』
そして、お登勢は段々ととても不安そうな顔になっていったのであった。
斉宣は、重豪のところに行っていた。重豪は、
「薩摩へ帰る日取りが決まった。」
そう言うのを聞いて斉宣は、こう言った。
「父上。わたくしも、ともに同行することはできますでしょうか。」
それを聞いて重豪は、
「何故じゃ。」
と尋ねた。すると斉宣は、
「わたくしも、藩の様子が気になっております。一刻も早く、藩の動乱を整えとうございます。」
そう言うので重豪は、
「それには及ばぬ。何かあれば、知らせる。そなたは、江戸におるがよい。」
と、言うのだった。すると斉宣は、
「恐れながら藩士達は、父上を恐れております。父上は、ご自分の政策のためにお金を使われてお出でだと、皆そう言っております。」
そう言うので、重豪は顔を険しくしてこう言った。
「自分のために?ばかな。わしは国ために使うておるのじゃ。藩校の設立は藩の子供に学問を教えるため、その他の政策も皆、藩のためにやったものじゃ。」
「では、姉上を御台所にやったのは?」
斉宣が聞くので重豪が、
「何・・・。」
と、声を上げた。斉宣は続けて、
「薩摩は大国故に、ある程度の収入はございます。されど、父上が以前行った藩政により、多くの者が苦しんでおります。そうなることは、父上もわかっておいでだったのでは?」
そう言うのを、重豪は黙って見ていた。斉宣は更に続けて、
「父上はわたくしに家督を譲られた今も、政に加わろうとしておいでです。それ程、わたくしの政策に期待が持てぬのでございましょうか。あくまで、藩主はわたくしにございます!」
そう言った。すると重豪は、こう言うのだった。
「ならば聞く。お主の知識だけで、藩を救えるのか?」
「え・・・。」
斉宣は、言葉を失った。重豪は続けて、
「己の力だけで、藩を守れるか?」
と言うので斉宣は、
「それは・・・。」
そう言って、目を下に反らした。重豪は、
「わしも、そうであった。亡き父上や、家来達の助けがあったからこそ、今の薩摩があるのじゃ。多少金は使い過ぎても、わしは何より藩のためを思うておる。それだけじゃ。」
そう言うと立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。それを、斉宣も見つめていたのであった。
斉宣はその後、部屋にいた。すると享が部屋に入ってきて、前に茶を置いた。
「父上は、わたくしを信頼しておらぬのであろうか。」
不意に、斉宣が呟いた。すると享は、
「左様なことは、ないと思います。」
と言うので斉宣は、
「え?」
と、聞き返した。享は続けて、
「大殿様は、わかっておいでだと思います。お殿様が、藩のことを誰よりも一生懸命に考えておられることを。」
そう言うので、斉宣が言った。
「わかったことのように申すな。」
それを聞いて享が、
「わかります。あなた様のお気持ちは。」
と言うので斉宣は怒って、
「黙れ。そなたに、何がわかるという。わしの悔しさも知らんくせに、偉そうなことを言うな。」
そう言うのだった。享は暫く黙った後、こう言った。
「申し訳ございません。されど、これだけはお聞き届け下さいませ。大殿様を、お父上を、もっと信じてよいのでは?」
そう言うのを、斉宣は見つめていたのであった。
茂姫は、側室達を集めていた。集まったのは、お万、お楽、宇多、お志賀、お蝶、登勢であった。茂姫は上座につき、三人ずつ向かい合わせに座らせると、こう言った。
「皆に集まってもろうたのは、今後の大奥について話し合いたかったからじゃ。」
お万がそれを聞き、
「今後の・・・、大奥についてですか。」
と聞くと、茂姫は続けた。
「これからは皆、度々こうして集まり、話し合いたいと思う。まずは、上様のお渡りについてじゃ。」
それを聞くと、お楽はその言葉に反応したように茂姫を見た。茂姫は更に続け、
「上様は、御台所のわたくしと、そなた達を同等に扱って下さると仰せであった。わたくしは構わぬ。それに、わたくしは思うたのじゃ。日によって、お渡りの相手を変えるということである。」
そう言うので、宇多も嬉しそうにした。茂姫は、
「むらが出ぬように、上様ご自身に順番を決めて頂き、その順に沿ってお渡りを行って頂く。そうすれば、一人に偏ることはない。どうじゃ?この案は。」
そう言うので宇多は真っ先に、
「ようございます!」
と言うと、声が上がった。
「お待ち下さい。」
それは、お蝶であった。お蝶は、
「御台様は、まことにそれで宜しいのでしょうか。」
そう言うと茂姫は、
「構わぬと申した。正室、側室の隔てなく大奥を守っていきたい故な。」
と、微笑みながら言った。するとお楽は手をついて体を茂姫の方に向けると、
「恐れながら、わたくしは辞退させて頂きます。」
そう言うので茂姫は、
「そなた・・・。何故じゃ。」
と言ってお楽を見つめると、お万もこう言った。
「わたくしも、そのような恐れ多いこと、できませぬ。」
それを聞いて茂姫は、
「よいのじゃ。」
と言うとお万は、
「御台様のお心だけで、留めておきまする故。」
そう言うと、頭を下げた。それを、宇多と登勢も見ていた。茂姫は、難しい顔をしていたのであった。
部屋に戻ってくると茂姫は、
「うまくいかぬものじゃな。」
と呟くと、後ろから宇多もこう言った。
「わたくしは、良き案だと思いました。いかにも、御台様らしいと。」
すると茂姫は振り返り、
「他の側室が受け入れてくれぬとなると、実行は難しいの。」
と言うと宇多も、
「はい・・・。」
そう言い、俯いていた。茂姫は、
「そうじゃ・・・。」
と言い、上を見上げた。
茂姫が行った先は、お富の所であった。茂姫は頭を軽く下げながら、
「今日は、母上様にお願いがあって参りました。」
と言うのでお富は、
「何じゃ。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「一橋家におられた時、他の側室の方達とはどのように過ごされておいでだったのか、お話しして頂きとう存じます。」
するとお富は立ち上がって、
「何故、わたくしがそのようなこと、そなたに話さなければならぬ。」
そう言うので茂姫は、
「母上様であれば、側室達との接し方などご存知かと思いまして。」
と言うのでお富は背を向け、
「知らぬ。左様なこと、自分で考えれば良いではないか。聞いて損したわ。」
そう言い、部屋を出て行った。茂姫は、それを何も言わずに見送っていたのだった。
茂姫はその後、自分の部屋に戻って考えていた。その様子を、登勢も部屋の外から見守っていた。そして登勢は部屋に入ると、それを見て茂姫は、
「そなた・・・。」
と呟いた。登勢は茂姫の前に座ると、
「わたくしに、一つ考えがございます。」
と言うので茂姫は、
「考え・・・?」
そう聞くと、登勢はこう言った。
「御台様のお母上様が、薩摩におられるとお聞きしました。その方に、お尋ねしてみては如何にございましょうか。」
それを聞いた茂姫は、
「母上に・・・?」
と、呟いた。すると茂姫は笑い、
「よいかもしれぬ。そなたは母と同じ名前故、まことの親戚のようじゃな。」
そう言うので登勢も、
「そのような・・・。」
と言って、笑っていた。
茂姫はその後、部屋で墨をすって、文を書いていた。
そしてそれを数ヶ月後、お登勢が薩摩の城で読んでいた。夕日が差し込む部屋の中、お登勢は文を読み終えると、愛おしそうに前を見つめていたのだった。
斉宣は、重豪の部屋に行っていた。斉宣は頭を下げながら、
「父上。先だっては、失礼致しました。」
そう言うので重豪は意外そうに、
「何じゃ、急に。」
と聞いた。すると斉宣は顔を上げて、こう言った。
「父上に言われて、目が覚めた気が致します。わたくしは、いつの間にかどこかで己を見失っていたようです。藩主でありながら、本当にすべきことも弁えず、申し訳ございません。」
それを聞いた重豪は、
「よい。わしの方こそ、すまんかったな。」
と言い、顔色を変えてこう続けた。
「時に、長崎に使者を使わせたそうじゃな。」
それを聞いて、斉宣は答えた。
「はい。長崎より、オランダ製の品々を買い集めるためでございます。」
「オランダ製じゃと?」
重豪が聞くと斉宣が、
「はい。昌髙が、様々なオランダ製品を部屋に飾り、そこで子ども達に蘭学を教えたいと言うてきたのでございます。それ故、薩摩から使者を出してほしいと。」
そう言うのを聞いた重豪は感心したように、
「そうか。昌髙がそのようなことを。」
と言うと斉宣は、
「あの者は、誰よりも異国と渡り合うことを考えております。オランダの技術を真似て、日本独自の製品を作りたいと。わたくしも、その考えには同感にございます。」
そう言った。それを聞いて重豪は、
「ほぉ。そなたも、もっと異国の文化や芸術を取り入れたいと申すのじゃな?」
と言うと、斉宣はこう言った。
「はい。以前にも申し上げました通り、わたくしは開国すべきと存じます。異国から学ぶことで、見えてくる何かがあるのではないかとも思います。」
「何かとは何じゃ。」
重豪が顔をしかめながら聞くと、
「それはまだわかりませぬが、今の日本を変えるには、それが一番かと。」
と、斉宣は言った。重豪は、
「開国するためには、その何かを見つけることが先ではないか?」
そう聞くので斉宣は、
「それは・・・。」
と言い、言葉を詰まらせた。すると重豪は笑顔を見せ、
「よいよい。今は、その昌髙の部屋造りを手伝ってやれ。」
そう言うので斉宣は嬉しそうに、
「はい!」
と答えた。重豪も、それを見つめていたのであった。
その後、斉宣は部屋で享と話していた。享は、
「大殿様と打ち解けられたのですか?」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「あぁ。そなたのお陰じゃ、礼を言うぞ。」
それを聞いて享は、
「そのような。わたくしはただ、思ったことを話しただけにございます。」
と言うのを聞いて、斉宣は笑っていた。すると、あることを思い出した。
『お享、ですか?』
『夫婦にならぬか。』
斉宣はそのことを思い出し、考えた表情をしていると享は不思議に思い、
「どうなさいましたか?」
と聞くと斉宣はハッとし、
「いや。何でもない。」
そう言った。不思議に思いつつも、享は部屋を出ようと立ち上がろうとした。すると不意に斉宣が、
「享。」
と、声をかけた。享は、
「何でしょう。」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「あ、いや。父上が、言っておられたのじゃ。」
享は座り直すと、
「大殿様が、何を仰ったのですか?」
そう聞いてきた。後に引けない斉宣は思い切って、
「そなたと・・・、夫婦にならぬかと。」
と言うのを聞いて享は驚き、
「え・・・。」
そう声を上げた。斉宣が、
「驚くのも無理はない。わしも、戸惑ってしもうた。」
と言うと、享は斉宣にとって予想外のことを言い出した。
「わたくしは構いませぬ!」
「何?」
驚いた斉宣はそう言い、享を見た。享は少し恥ずかしそうに、
「わたくしは・・・、今以上にあなた様のお力となりとうございます。」
そう言うので斉宣は、
「そなた・・・。」
と、享を見つめながら呟いた。享は、
「わたくしで良ければ、妻にして下さいませ!」
そう言ってくるので、斉宣は享を見つめていたのだった。
一方、茂姫は大奥で文を読んでいた。
「御台様?」
と宇多が聞くと茂姫は、
「母に、お尋ねしたのじゃ。側室とどう付き合えばよいのか。」
そう言っているのを、同じ部屋から登勢も見ていた。茂姫は続け、
「やはり、母上らしい。相手を信じること、それにつきると。」
そう言うので宇多は、
「そうですか。」
と言っていた。茂姫は外の風景を眺めながら、
「母上は、今頃どうしておいでであろうか・・・。もう一度、お会いしたい。」
そう言うので宇多も、
「左様ですか・・・。」
と言って、茂姫を見つめていた。茂姫も、愛おしそうな目で遠くを見つめていたのだった。
その後、斉宣は奥平家を尋ねていた。昌髙は、
「こちらです。」
と言い、斉宣を案内した。そして、部屋の扉を開けた。そこには、外国製の置物やガラス杯が数え切れないほど並べられていた。それを見た斉宣は感動したように、
「これは・・・。」
と、呟いた。昌髙は、
「長崎より、買い集めてきた品々でございます。兄上には、一番にお見せしたいと思いまして。」
そう言うので斉宣は、
「凄い・・・。」
と言い、部屋をぐるっと見渡した。昌髙は、
「唯一交易が行われている長崎であれば、異国の情報を知ることができます。わたくしはここに、蘭学塾を設置したいと思っております。そこで、子供達に異国の素晴らしさを教えとうございます。」
そう言うので斉宣も、
「異国の、素晴らしさ・・・。」
と、繰り返した。そして昌髙は、前に進み出た。そして机においてあったグラスを手に取り、こう言うのだった。
「わたくしは、もっとオランダのことを世に広めたい。そして、いつかは異国に渡りたい。それが、わたくしの夢にございます。」
「夢・・・。」
斉宣は、待たそう繰り返した。昌髙は振り返り、斉宣を見つめてこう言った。
「兄上。この度は、力をお貸し頂いてありがとうございました。これで、ようやく己にしか出来ぬことを見つけられそうです。」
「己にしか、出来ぬこと・・・?」
「はい。兄上は、何かないのですか?」
昌髙が聞くと斉宣は、
「いや・・・。わしには、到底そのようなことは。」
と言っていると昌髙が、
「見つければよいではないですか。兄上なら、きっと何かを成し遂げられるでしょう。」
そう言った。斉宣は、
「されど、わしは大それたことは何一つ・・・。」
と言いかけると、昌髙は斉宣の前に行き、
「兄上。もっと、ご自分をお信じ下さい。」
そう言い、持っていたグラスを手渡した。それを見つめて斉宣は、
「信じる・・・。」
そう呟いた。昌髙は、
「信じていれば、夢はきっと叶うものです。」
と言うので斉宣は嬉しそうに笑い、
「そうかも知れぬな。」
と言うと昌髙も微笑み、
「はい。」
そう言っていた。斉宣は、暫くそのグラスを眺めていたのであった。
一方、茂姫は家斉に会っていた。
「蘭学ですか?」
茂姫が聞くと、家斉は本を手に取りながらこう言った。
「あぁ。老中には内緒で、父上から直に送ってもろうたのじゃ。」
「何ゆえですか?」
茂姫がそう聞くと家斉は、
「子供の頃にな、老中の部屋に忍び込んでは読んでおった。今になって、急に恋しゅうなったのじゃ。将軍になる前までは、のんびりしておったというに。」
そう言うので茂姫は、
「今でも、十分のんびりしておられるではありませんか。」
と言うのを聞いて家斉は笑い、
「そうじゃのぉ。」
そう言うと、家斉はこう聞いた。
「のぉ、御台。夢というのは、何じゃと思う。」
それを聞いた茂姫は、
「夢、ですか?」
と聞き返すと家斉は、
「あぁ。」
と、答えた。すると茂姫は暫く考えてから、
「夢というのは・・・、その人の生き甲斐となるものだと存じます。夢があるから、それを現実にしようと何か行動を起こすものであると思います。」
そう言うと、家斉はこう言った。
「わしの夢は・・・、異国へ行ってみたいのぉ。」
それを聞いた茂姫は、
「異国ですか?」
と聞くと、家斉は言った。
「そなたは、どう思うのじゃ。行動を起こせば、夢は叶うか。」
それを聞き、茂姫はこう答えた。
「はい。ただ、何もしなければ叶わないと思います。されど何かをすれば、夢はいつか現実になると、わたくしはそう思います。」
茂姫がそう言うのを聞いた家斉は、
「そういうものなのかもしれぬな。」
と言うのを聞いて茂姫も笑顔で、
「はい!」
と、答えた。それを見て、家斉も鼻で笑って、蘭学書を見ていた。それを、横から茂姫も見つめていたのであった。
浄岸院(そして、重豪殿が一時薩摩に帰国する日がやって参りました。)
重豪の前に、斉宣が座っていた。重豪は、
「斉宣。家中の皆を頼んだぞ。」
と言うと斉宣は頭を下げ、
「行ってらっしゃいませ。」
そう言った。重豪はそれを聞いて頷くと、斉宣は顔を上げてこう言った。
「それから、ご出発の前に・・・、お願い事がございます。」
重豪はそれを聞き、
「何じゃ。申してみよ。」
と言うと斉宣は部屋の外に向かって、
「享。」
そう言うと、廊下から享が現れた。そして部屋の前に座ると、斉宣はこう言うのだった。
「以前、父上は享との夫婦の件をお話しされました。その話、お受けすることに致しました。」
それを聞いた重豪は嬉しそうに、
「まことか。」
と言うと、斉宣は頷いた。重豪は廊下に座っている享を見ると、享は頭を下げた。そして重豪は再び斉宣を見ると、
「本当に、よいのじゃな?」
と正すと斉宣は、
「はい。」
とだけ、答えるのだった。それを聞いた重豪は安心したように、
「ならば、享を宜しく頼んだぞ。」
そう言うのを聞いた斉宣は、
「はい!」
と返事をし、頭を下げた。それを重豪、そして後ろからは享も見ていたのだった。
その夜。茂姫は家斉と寝室で話をしていた。茂姫が、
「上様、よいのですか?」
と聞くと家斉は、
「何がじゃ。」
と聞き返した。茂姫は、
「上様は前に、側室も正室と同様に扱うというようなことを申されました。」
そう言った。それを聞いた家斉は、
「言ったが。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「ここのところ、どうなのですか?あまり、そのような話をお聞きしませぬが。もしやまた、わたくしに偏っておいでなのでは?」
それを聞くと、家斉はこう言った。
「そのようなことはない。昨夜は、お楽のところへ行った。」
それを聞いた茂姫は嬉しそうな顔で、
「まことにございますか?」
と聞くと家斉は、
「あぁ。」
そう答えた。すると茂姫は続けて、
「その前の日は?」
と聞いた。すると家斉は、
「お万のとこじゃ。」
そう言うので茂姫は疑ったように、
「その前の相手は?」
と聞くので家斉は嫌気がさしたように、まとめて答えた。
「お蝶のところにも行った。その前は、お志賀のところじゃ。」
「お登勢のところへは?」
茂姫が聞くと、家斉は黙った。それを見て茂姫は、
「行っておられぬのですね?」
と聞くので、家斉は気まずそうな顔をした。すると茂姫は、
「明日、行ってあげて下さい。きっと、あの者もあなた様のことを待っているはずです。」
そう言うので家斉は、
「そうじゃの。」
と言った。そして茂姫は、こう言うのだった。
「わたくしは、考えました。側室も、徳川家にとって大事な家族です。それ故、悲しませたくありません。わたくしは、この城の全ての者を大切にしていきとう存じます。それは、上様も同じかと。」
それを聞いた家斉は、
「あぁ。」
と言うので、茂姫も嬉しそうに笑いながらそれを見つめていたのであった。
浄岸院(その後、薩摩藩邸では婚儀が執り行われておりました。)
斉宣と享の婚儀が、華やかに執り行われていた。斉宣は隣に座っている、化粧をし、晴れ着を着た享を見た。享も気がついたように、斉宣を見つめてお辞儀をした。そして、前には島津家の年寄らしき男が座っていて、その男は二人に向かって礼をした。二人は、それを笑顔で見つめていた。
一方、薩摩の鶴丸城ではお登勢とお千万が話をしていた。お登勢は、
「殿が、参られるのですか?」
と聞くと、お千万はこう言った。
「はい。今日、知らせがありました。今まさに、江戸より向かっておられるとか。」
それを聞いたお登勢は目線をそらしながら、
「そうですか・・・。」
と呟いた。するとお千万は、こう言った。
「何か、良くないことがあるのやも知れませぬな。」
「良くないこと?」
お登勢は聞くとお千万が、
「いえ。そんな気がしただけにございます。それより、殿を迎える準備をしませぬと。」
そう言うのでお登勢も、
「はい。ご到着までに、もてなす食事も考えなくては。」
と言うと、お千万は笑って部屋を出て行った。その後、お登勢の顔からは笑みが消え、ただただ不安そうな表情になっていったのである。
その頃、重豪は薩摩に向かっていた。籠の中で重豪は、何やら険しい顔つきになっていたのであった。
浄岸院(そして、数日先のことにございました。)
斉宣が部屋にいると、家来が来て、
「殿。」
と言うと斉宣が、
「何じゃ。」
そう聞いた。すると家来はそのまま、
「殿に、お客人がお見えにございます。」
そう言うので斉宣は、
「客・・・?」
と言い、怪訝そうにそれを見つめていた。
そして斉宣は屋敷の表に行った。そこには、藩士であろう男が平伏していた。斉宣は上座に座ると、
「面を上げよ。」
そう言った。その藩士らしき男は、ゆっくりと顔を上げた。その男の名は、樺山かばやま主税ちからであった。樺山は、
「薩摩藩士、樺山主税と申します。お殿様には、ご機嫌麗しゅう存じ上げまする。」
そう言うと斉宣は怪訝そうに、
「わしに、何の用じゃ。」
と聞くと、樺山はこう答えた。
「率直に申し上げますと・・・、大殿様についてでございます。」
「父上が、どうかしたのか?」
斉宣がそう聞くと、樺山は言った。
「あなた様のお力をお借りし、大殿様を藩政から遠ざけたいと思います。」
それを聞いた斉宣は顔を驚かせ、
「何ゆえじゃ!」
と聞くと、樺山はこう答えた。
「あのお方は、藩主であらせられた頃、膨大な金額をお使い遊ばされました。いくら薩摩が七七万石の大国と言えど、放っておけば、藩が絶大な借金を負うは必定。こうなれば、あなた様のただではすまされるのでしょうな。」
斉宣は首を横に振り、
「父上は、そのようなことはなさらぬ。あくまで、国のために使ったと仰せじゃ!」
そう言い返すと樺山は、
「されど、もしものことがあらば。」
と言ってくると、斉宣はこう言った。
「そのような根拠がどこにある。そなたの、勝手なる解釈にすぎぬのではないか。」
すると、樺山はこう言ってとどめをさした。
「ならば仕方ありますまい。しかしながら・・・、このままでは、薩摩は確実にお取り潰しかと。」
それを聞いた斉宣は目を丸くし、
「何じゃと・・・!?」
と、声を上げた。樺山は、
「時がありませぬ!最悪の事態を招く前に、何とか対策を致しませぬと!」
そう言うのを聞き、斉宣は複雑そうな顔をしていた。それを、偶然部屋の外を通った享も聞いていたのだった。享は、驚いた表情になっていた。
その頃、茂姫は側室達を集めていた。茂姫は、
「わたくしは・・・、この城に来て良かったと思うておる。そして、わたくしはこの城を守りたい。薩摩の出であると馬鹿にされ、貶されようとも、わたくしは徳川家の御台所として、この大奥を平和にしていきたいのである。それは、皆とて同じことじゃと思う。皆で力を合わせ、この大奥を、この徳川家を、守っていこうと思う。それ故、まずは、互いに心を理解し合うことじゃ。」
そう言うのを聞いた側室達は、一斉に頭を下げた。茂姫は、それを真剣な眼差しで見つめていたのだった。
浄岸院(御台所として、この城を守りたい、茂姫はそう改めて思った瞬間にございました。)


次回予告
茂姫「わたくしは、この城で生きていくと決めたのです。」
お富「所詮は薩摩の田舎娘であろう?」
家斉「気にしておるのか?」
茂姫「いえ。」
斉宣「父上にもしものことがあったら、わたくしは。」
宇多「お倒れ遊ばしたそうにございます。」
茂姫「母上に、会いたい・・・。」
唐橋「なりませぬ!」
お楽「力を合わせよと言ったのは、御台様ですよ?」
茂姫「母上の悪口を言う者は誰じゃ!ここは島津本家なるぞ!」
お登勢「於篤・・・。」
茂姫「お久しぶりです。」
  「わたくしは、父上を疑う者達を許さぬ。それでも信用できぬと申すならば、今すぐにでも薩摩から去ることじゃ!」



次回 第二十二回「故郷の母」 どうぞ、ご期待下さい!

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