茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第十二回 大崎の秘密

大崎『わたくしは、どのような処分もお受け致します。』
茂姫『上様、どうかあの二人から詳しい話をお聞き下さい。そして、どうか適切な御沙汰を。』
定信『全ては、わたくしがしたことにございます。わたくしがどのような沙汰でもお受けする覚悟にございます!』
家斉『許す。』
大崎『お許し下さい。されど、わたくしはもうここにはおられぬのです。』
茂姫『そなたは、大奥の要じゃ。そなたはこれからも、この大奥を支えていかなければならぬのじゃ。』
大崎『・・・、はい。』
女中『大崎様のお姿が、見当たりませぬ!』
茂姫『大崎、大崎!』


第十二回 大崎の秘密

茂姫は、自室にて呟いていた。
「大崎は、どこへ向かったのじゃ。」
すると宇多が部屋に飛び込んできた。
「御台様!」
宇多は茂姫の前に座ると,こう言った。
「大崎様は、江戸の御実家にて、身を寄せているそうです。」
それを聞いた茂姫が、
「まことか?」
と聞くと、宇多は頷いた。茂姫は、
「して、何処にあるのじゃ?」
そう聞くと宇多は首を横に振り、
「それまでは・・・、まだ・・・。」
そう言うので茂姫はがっくり肩を落とし、
「そうか・・・。」
と、呟いていた。すると女中が来て、
「失礼仕ります。」
そう言い、茂姫に近付いてきた。
「大崎様のお部屋より、このようなものが。」
女中は、抹茶色をしたくしを差し出した。茂姫は、
「これは・・・。」
そう言い、くしを手に取ってそれを見つめていた。
その後で、茂姫は定信に見せてこう言った。
「これに、見覚えはありませんか。」
すると定信は、
「これは・・・、わたくしが以前、あの方にあげたものにございます。」
と言うので茂姫はやっぱりというような顔で、
「やはり、そうでしたか・・・。」
そう言った。茂姫は続けて、
「大崎が、城から抜け出したようなのですが、何か存じませんか?」
そう言うのを聞いて、定信は答えた。
「申し訳ありませぬ。」
「そうですか・・・。」
茂姫はそう言うと定信は、
「こうなったのは、わたくしにも責任がございます。できる限りのことなら、致す所存にございます。何かお手伝い出来ることがありましたら、何なりと仰って下さいませ。」
そう言うので茂姫は微笑し、
「ありがとう。」
と言い、浅く頭を下げた。定信は、
「滅相もございません。」
と言って、茂姫を見つめていた。
重豪はその頃。文を読んでいた。すると部屋に斉宣が入って来て、
「父上。」
と声をかけた。すると重豪は顔を上げ、
「於篤から、また文が届いてな。」
そう言うので斉宣は座りながら、
「それは、どのような内容で?」
と聞くと重豪は、
「大崎殿が、大奥から姿を消したそうじゃ。島流しのご処分は免れたものの、己が許せなかったのであろうな。」
と言った。すると斉宣が、
「何か訳があるのでは?」
と言うので重豪も上を見つめて、
「訳か、・・・。」
そう呟いた。斉宣は、
「その方は多分、大切な人を傷付けたくなかったのだと思います。」
と言うので重豪は、
「どういうことじゃ?」
そう聞くと斉宣は、
「あいや、ただ。そのような気がしただけで・・・。」
そう言うのを聞いた重豪は声を出して笑い出し、
「そうか。」
と言って、赤くなって恥ずかしそうにする斉宣を見つめていた。
その頃、茂姫は考えていた。
「大崎は、何故この城を去ったのか、まるでわからぬ。罪は許されたのじゃぞ?」
茂姫はそう呟いていると、隣にいた宇多もこう呟いた。
「このことに関しては、公方様はご存知なんでしょうか。」
それを聞いた茂姫は、
「そうか・・・。上様であれば、何か知っておいでかもしれぬ!」
と言い、立ち上がって出て行った。それを、数人の女中が追っていった。
その後,茂姫は家斉に聞いた。
「何か、よき案はございませんでしょうか。」
すると家斉は餅を焼きながら、
「さぁのぅ・・・。」
と呟いた。家斉がそうしていても、茂姫は普通に続けて、
「あの者は、何ゆえ罪が許されたのにも拘わらず、あのようなことを・・・。」
そう言っていると家斉が振り向いて茂姫の顔を見ると、こう聞いた。
「会いに行かぬのか?」
「わたくしが・・・?」
茂姫が、怪訝そうな顔で聞き返した。家斉は、
「あの者は、そなたが来てくれるのを待っておるのであろう。そなたが会いに行かぬと、あの者も前に進めずに立ち止ったままじゃ。」
そう言うので茂姫は、
「されど、わたくしにはあの者が何処におるのか分かっておりませぬ。それに・・・。」
と言っていると、家斉はこう言うのだった。
「それには及ばぬ。定信が今、調べておるところじゃ。」
「定信殿が?」
茂姫がそう聞くと、家斉はこう言った。
「あやつを救えるのは、そなただけじゃ。会いに行って、確かめてくるがよい。」
茂姫は戸惑ったように、
「されど・・・。」
と言っていると家斉が、
「怖いか?」
そう聞くので茂姫は強がったように、
「怖くなどありません。」
と答えた。家斉は、
「確かに、母上に知られたら大騒ぎになるの。」
そう言うので茂姫は、
「上様・・・。」
と、呟いた。家斉は、茂姫の顔をまじまじと見つめていた。茂姫も、それに反応するように家斉を見つめ返していた。すると家斉が、
「弱虫は、そなたじゃな。」
と言うので茂姫は、鼻で吹き出した。茂姫は、
「上様と同じにございます。」
そう嫌味っぽく、強がってみせた。それを見て家斉も笑い出し、
「そうじゃな。」
と言うのであった。その後、暫く二人で笑い合っていた。餅も、いい色に膨らんでいたのだった。
その後、茂姫はいつものように縁側に腰掛け、庭を見つめていた。宇多が、
「御台様が、会いに行かれぬのですか?」
と聞くと、茂姫は答えた。
「あぁ。公方様のお心遣いを、無駄にはできぬからな。」
それを聞いて宇多は、
「勇気がおありですね。御台所とあろうお方が、城を出るなど、前代未聞にございます故。大崎様も、さぞや驚かれるでしょうね。わたくしも、お供して宜しゅうございましょうか。」
と尋ねると茂姫が宇多を見ると、
「いや。そなたは、わたくしがおらぬ間、留守を頼む。すまぬな。」
そう言うので宇多も、
「いえ。承知致しました。」
と、答えるのを見て茂姫は安心したような顔付きで、庭に目を戻していた。
一方、薩摩藩邸ではある話があった。重豪と茂姫の母・お登勢は廊下に立って話をしていた。
「縁談、ですか?」
お登勢が尋ねると、重豪は庭を見つめながら答えた。
「あぁ。もう斉宣も一九じゃ。そろそろ、嫁をやらねばならぬと思うてな。」
するとお登勢が、
「でも先日、契を交わした侍女がお子を生みました。」
と言うのを聞き、重豪は振り返ってこう言った。
「あれは、正室ではない。斉宣は、ろくに女子と契を交わしたことがない。幼き頃から、学問ばかりやらせておったからの。何処かよい家柄の娘はおらぬかのぉ。」
重豪はそう言うと、部屋に入って行こうとした。するとお登勢は後ろから、
「近衛様は如何でしょう?」
と聞くと重豪は、こう答えた。
「あいにく、近衛様のところの姫樣方はそれぞれ嫁入り先が決まっておる。」
更に重豪は振り向くと笑いながら続けて、
「それに、於篤が輿入れの際、近衛家とは養子縁組を行っておる。それ故、それを相手の方が気にするといかんからの。」
そう言うと、重豪は完全に部屋へ入って行った。それを、心配そうにお登勢も見つめていたのであった。
その頃、お楽は部屋で女中から話を聞いていた。
「御台様が、大崎様の実家へ参られるそうにございます。」
それを聞き、お楽は無表情で、
「そうか。」
と、答えた。女中が不思議がって、
「お楽様?」
と聞くとお楽は立ち上がって縁側の前に立つと、こう言い出した。
「何故、わたくしのところへ来て下さらぬのじゃ!」
「えっ?」
女中は聞くとお楽は振り返って、こう言うのだった。
「公方様じゃ!きっと、御台所によって足止めされておるのであろう。きっと魔術か何かを使って、皆の心を操っておるのじゃ。あのお宇多とか申す娘もそうじゃ。御台所は、それで全ての者を己の言いなりにしておるに相違ない。」
お楽は女中の前に迫ると、こう言った。
「よいか?そなた、御台所を探れ。そして何をしておるか、わたくしに知らせるのじゃ!」
それを聞いた女中が、
「は、はい!」
と言い、頭を下げると部屋を出て行った。お楽はその後、
「御台所よりも先に、わたくしが子を産む。そして、次のお世継ぎにするのじゃ・・・!」
と、呟いていたのであった。
一七九二(寛政四)年五月一九日。大崎はある屋敷の庭で、花を見つめていた。
『そなたは、大奥の要じゃ。そなたはこれからも、この大奥を支えていかなければならぬのじゃ。』
茂姫が言ったことを、思い出していた。
浄岸院(大崎は、お宇多の言う通り、江戸のにある実家にて身を寄せていたのです。)
すると侍女が来て、こう告げた。
「申し上げます。大崎様にお会いしたいと言うお方が参っておられます。」
大崎は振り向いて、こう聞いた。
「それは、誰じゃ?」
すると侍女が、
「それが・・・。」
と話すのを、不思議そうに大崎は聞いていた。
大崎は部屋で頭を下げていると、客が部屋に入って来た。恐る恐る大崎が顔を上げると、大崎は呟いたのだった。
「御台様・・・。」
それは、茂姫であった。茂姫は上座に座ると、大崎はまた頭を下げた。茂姫は、
「お沙汰が下った日の夜、そなたは城から姿を消した。それは何故じゃ?」
と聞くと大崎は顔を伏せたまま、
「申し訳ございませぬ。ただ、やはり息が苦しゅうて。」
そう言うのを、茂姫も暫く黙って見つめていた。
「時に定信は・・・、そなたに手を出したことを悔いておった。」
茂姫は続けて、こう言うのだった。
「如何なる理由があろうとも、老中が大奥の者に手を出すなど言語道断。それに、下におる者が幕府を信用しなくなるであろう。そうなれば世は荒れ、二百年もの間治めてきた徳川の時代も、もしかすると終わるかもしれぬ。そうなった時に責めを負うのは、やはり松平定信なのじゃ。」
茂姫が言い終わる前に、大崎はこう言うのだった。
「悪いのは全てこのわたくしにございます!」
それを聞いて茂姫は、大崎を見つめた。大崎はやっと顔を上げると、こう言い出した。
「わたくしは、定信様をお慕いしておりました。」
「お慕い・・・?」
茂姫が呟くと、大崎は続けてこう言った。
「ならぬとは、わかっておりました。大奥を守りたい、その一心でお城に上がった時から考えておりました。されど、あの方に出会うてから、守られたいと思う気持の方が強うなっていったのでございます。あの方も、このようなわたくしを十分に理解して下さいました。それ故、怖かったのです。」
「怖かった?」
茂姫は聞いた。すると大崎は続け、
「あの方がわたくしから離れて行ったら、わたくしに何が残るのだろうと・・・。」
そう言って、涙を浮べた。それを見て茂姫も、
「そなた・・・。」
と言い、大崎を見つめると大崎も姿勢を変え、
「わたくしは、あの方を信じておりました。ただ、それによって他の誰かを傷付けてしまうのではないかという思いも芽生えました。でもあの方は、そのようなことはないと仰せでした。わたくしは、自分に甘え過ぎていたのだと思います。ですからもう、あの城には戻りません。恐れながら、あの方にそうお伝え下さい。お願い致します。」
そう言い、頭を下げた。茂姫も、それを同情したような視線を送っていた。
「・・・わかった。」
茂姫は言うと大崎も、
「ありがとう存じます。」
そう言った。すると茂姫は不意をつくような形で、
「なら、そなたから伝えるがよい。」
と言うのを聞き、大崎から笑みが消えた。茂姫は大崎の後ろを見つめ、
「入るがよい。」
そう言うので、大崎は思わず振り返った。すると定信が、部屋に現れた。大崎は、驚いたような目で定信を見つめると、定信も大崎を見つめていた。
定信は大崎の前に座った。大崎が再び視線を茂姫に戻すと、茂姫はこう言った。
「これは、この者の意向じゃ。そなたの居場所などは、この者が調べてくれた。」
それを聞いた大崎は定信を見つめて、
「そうですか・・・。わたくしなどの為に、城を出るなど・・・。」
そう言うので定信は、
「よいのです。あなたが無事なのがわかり、ようございました。」
と言った。すると大崎は、
「わたくしは、愚か者です・・・。罪が許されたにも拘らず、このような勝手な真似を。どうか、お許し下さいませ。」
そう言うのを聞いた定信は、こう言うのだった。
「愚かであったのは、わたくしの方にございます。こうなったのは全て、わたくしの責任にございます。あなたは、どうか大奥に戻って下さい。公方様へは、わたくしから話して参ります。」
それを聞いた大崎は、こう答えた。
「お心遣い、感謝致します。されど、それはできぬのです。」
それを聞いた定信は、
「何故ですか?」
と尋ねると、大崎はこう答えた。
「わたくしは、罪を犯した身です。もう上には立てません。されど、あなたは違います。このようなわたくしの為にも、ここまでして下さったではありませぬか。幕府は、あなたのご活躍を願っております。あなたは、徳川幕府にはなくてはならない御方なのです。この御恩、わたくしは生涯忘れることはありません。あなた様の出会えて、よかったと思うております。」
それを、定信は涙を堪えながら見つめていた。すると大崎は正面を向いて、茂姫にこう言った。
「御台様。本日は誠に、ありがとうございました。」
大崎がそう言うと、頭を下げた。するとまた大崎は顔を上げ、
「わたくしは、御台様のことは決して忘れませぬ。今日のことも、決して・・・!」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「大崎・・・。まことに、よいのじゃな?」
と聞くと大崎は最後に、頷いた。そして定信の方を見て、
「さようなら。」
そう呟くようにして言った。定信も、
「どうか、お元気で。」
と言った。茂姫も、その様子を見て涙を浮べながら微笑んでいたのであった。
その日城に戻ると、二人は廊下を共に歩いていた。
「まことに・・・、あれでよかったのか?」
茂姫が聞くと定信は歩きながら、
「はい。おかげで、振り切れました。これで、己の役目に専念することができます。」
と言うと足を止め、定信は振り返って茂姫を見た。
「これも、御台様の御陰です。まことに、ありがとう存じます!」
定信はそう言うと、軽く頭を下げた。それを聞いて茂姫は、こう言った。
「あなたは・・・、これから江戸幕府を背負って立つお方です。これからは上様の足となって、この城を支えていって下さい。これは、この城に招かれし者への宿命にございます。」
すると定信は顔を上げて、
「はい!この命に変えても、お守り致す所存にございます。」
と言った。すると茂姫は嬉しそうに、
「よかった・・・。これでこそ、松平定信じゃ!」
と言うのを聞いて、定信も笑っていたのであった。
浄岸院(その二日後、強い地震により長崎の雲仙岳で噴火が発生。死者が一万人にのぼるなど、甚大な被害をもたらしました。)
その報告を聞いた家斉が、
「して、被害は如何なるものなのじゃ?」
と聞くと、定信はこう答えた。
「はい。死者は島原領、天草、肥後を合わせると一万五千人を超えております。幕府より、早急に救助を派遣致しました。」
それを聞いて家斉は、
「そうか。後のこと、宜しく頼むぞ。」
そう言うと定信も、
「はっ、お任せ下さいませ!」
と言い、頭を下げるのだった。
浄岸院(その一方で、薩摩藩邸では・・・。)
重豪が、斉宣を部屋に呼んで話をした。斉宣は驚いたように、
「わたくしに・・・、縁談が?」
そう聞くと重豪は、こう言うのだった。
「あぁ。幕府のお役人の娘でな、気立の良き娘じゃ。」
それを聞いた斉宣は、顔を曇らせた。それを見た重豪は、
「どうした?」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「その話、お断わりしたいのです。」
「何故じゃ?」
重豪も、怪訝そうにそう聞いた。すると斉宣は、
「わたくしはまだ、藩主としての役目もろくに果たせておりません。そのようなわたくしが、嫁をもらってよいのか・・・。」
と言うので重豪は、
「何を申すか。そなたはもう子供ではない。それにそなたは幼き頃より、人一倍学問に励んでおったではないか。そろそろ、嫁が来てもよい年頃じゃと思うてな。」
そう言うが斉宣は顔を下げて、
「申し訳ございません・・・。その話は・・・、お受け出来ません。」
と言うと立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。重豪が、
「斉宣!」
と呼び、溜息を吐いた。その様子を、心配そうにお登勢も見ていたのだった。
その後、斉宣は一人、部屋にいるとお登勢が入って来た。
「何故、あのようなことを?」
お登勢は座りながらそう尋ねると、斉宣は気が付いたように振り向き、
「お母上。」
と言った。そして斉宣は視線を元の位置に戻すと、こう聞き返すのだった。
「姉上は・・・、お城に上がる前、どのようなお気持ちだったのでしょう。」
「どのような?」
お登勢が聞き返すと、斉宣は続けてこう言った。
「相手のことを、どのように思っておられたのでしょうか。」
それを聞き、お登勢はこう言った。
「それは・・・、優しいお方を望んでおりましたでしょう。優しゅうて、頼もしいお方を・・・。」
お登勢は思い出したように、こう続けた。
「実は、わたくしもそうでございました。薩摩のお城へ上がる前、わたくしの旦那様とお成り遊ばすお方が、どのようなお方なのかと、考えておりました。優しいお方であればよい、頼もしくて力のあるお方なら尚更よいと・・・。女子というのは、男性の方を良き方へと考えてしまうものなのです。」
それを聞いた斉宣が、
「それであれば、今のわたくしはそれとは正反対にございます。」
と言うのを、お登勢は黙って見つめた。斉宣は続けて、
「わたくしは、楽しみにして嫁に来て下さった方をがっかりさせてしまうことが、嫌なのです。わたくしは、もう少し強うならねばなりません。一家を支えられる程に。」
そう言うので、お登勢が言った。
「まことの強さとは・・・、そのようなものなのでしょうか。」
それを聞き、斉宣は振り返った。お登勢は続けて、
「あなたは、何でもかんでもお一人で解決なさろうとする人です。されど、他の人に己の弱さを曝け出せる人が、本当に強い人だと、わたくしは思います。」
そう言うのを聞いて斉宣は、
「お母上・・・。」
と、お登勢を見つめた。お登勢は最後に、
「あの子もきっと、それを望んでいると思います。」
と言うので斉宣は、
「姉上も?」
そう聞くと、お登勢は頷くのだった。それを見て、斉宣は心が軽くなったように、また視線を戻していた。お登勢も、それを笑顔で見つめていたのだった。
茂姫は、家斉に会っていた。茂姫は、
「定信殿のご様子は?」
と聞くと家斉は、
「時にそなたは、長崎で火山が噴火したのを知っておるか?」
そう聞くので、茂姫は答えた。
「はい。島原領などで死傷者が多数出て、大変な事態となっているとか。」
すると家斉は、こう言った。
「その対応をあやつに任せた。被災地に援護を送り、自らも出向いておる。」
それを聞いた茂姫は安心したように、
「そうですか・・・。」
と、言っていた。家斉は茂姫を見ると、
「して、あの者の反応はどうであったのじゃ?」
そう聞くので茂姫は、
「大崎は、もう自分は城に戻らぬと。」
と話した。家斉は、
「そうか・・・。」
と、溜息を吐くように言った。すると茂姫が、こう言った。
「でも、定信殿のことをこう申しておりました。」
『あなたは、徳川幕府にはなくてはならない御方なのです。』
茂姫は続けて、
「あと、定信殿を信じておるとも申しておりました。」
そう言うのを聞いた家斉は、
「人はすぐに人を信じようとする。それが、己を傷つけるのじゃ。」
と言った。すると茂姫は、
「そうでしょうか。わたくしは、人は誰かを信じることで、自らも前に進むことができると思います。昔、父がよう仰せでございました故。」
と言うので家斉は、
「そうかのぅ・・・。」
そう呟いていた。茂姫は、
「早く、上様のお子を見てみとうございます。」
そう言うので家斉は、
「何じゃ、急に。」
そう聞くと茂姫も、
「いえ。」
と言い、目を反らしていた。すると部屋にお楽が駆け込んで来、
「公方様!」
そう言うので家斉は笑いながら茂姫の方を見て、
「どうやら、そう思うておるのはそなただけではないみたいじゃな。」
と言うのを聞いて茂姫も、笑い返していた。
茂姫が帰った後、家斉はお楽と話をしていた。お楽は、
「公方様は、御台様のどこがお好きなのですか?」
と聞くと家斉は、
「何故そのようなことを聞く。」
そう言うとお楽は手をつき、こう言うのだった。
「私は、このお城に上がって五年になります。」
「そうであったかのぉ。」
「その間、公方様と二人きりでお話ししたのはほんの数回にございます。」
「それが何じゃ?」
家斉は言うとお楽は、
「何ゆえ、そこまでわたくし達と御台様との扱いが異なるのでしょうか。わたくしは、ずっと公方様のお子を授かりたいと思うておりました。されど、その兆しは一向に見えませぬ。公方様はやはり、御台様以外の者とは・・・。」
そう言いかけると、不意をつくように家斉はお楽を抱きしめた。お楽は一瞬驚くと、冷静になって家斉の背中に手を回した。そしてお楽は、
「公方様・・・。やっと、おわかり頂けたのですね。」
そう言うと、家斉も目を細めてどこか温かそうな顔をしていた。
茂姫は部屋で、お守りを手に取って眺めていた。その顔は、どこか物悲しそうに見えた。それを見ていたひさが心配そうに、
「御台様。どうかされましたか?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「大丈夫じゃ。少し、父が言うたことを思い出しておっただけじゃ。」
「父上様?」
「あぁ。」
先日、父が登城した際にこう言っていた。
『手立てを見つけられるのも、そなたにしかできぬとわしは信じておる。』
そして次に、茂姫は今日家斉が言ったことをも思い出した。
『人はすぐに人を信じようとする。それが、己を傷つけるのじゃ。』
思い出すと茂姫は、こう呟いた。
「わたくしは・・・、人は己のために誰かを信じる、そして誰かに信じてもらえるための手立てを探す・・・、そう信じておる。」
それを聞いたひさも、
「わたくしもにございます。」
と言うので、茂姫も微笑んだ。
『わたくしは、あの方を信じておりました。』
大崎の言ったことを思い出して茂姫は、
「信じておるからこそ、裏切れぬのじゃな。」
そう、呟くようにして言った。ひさも、黙ってそれを見ていた。茂姫は、手に持っているお守りを見つめ、軽く握りしめた。
一方、松平定信は江戸の薩摩藩邸に出向いていた。重豪は、
「長崎でのお働き、まことにご苦労でござった。」
そう言うと定信は、
「いえ。わたくしにできる限りのことをしたまでにございます。」
と言った。重豪は笑顔で、
「今後のお働きにも、期待しておりますぞ。今のあなたは、今の幕府にはなくてはならぬ存在にございます故。」
そう言うので定信は少し恥ずかしそうに、
「滅相もないことです。」
と言うのだった。すると重豪は、
「時に、公方様のご様子は?」
と聞くと定信は、
「以前のように、頼りにしておると仰せでした。」
そう言うのだった。重豪はほっとしたような表情で、
「そうでしたか。それはようございました。何にせよ、此度の一件でどうなることかと思いましたが・・・。」
そう言うのを聞いて定信は、
「その折は大変ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。」
と言うと重豪は、
「いやいや。こうして出向いて下さったのも、あなたの本心からとお察し致します。どうか、今後もお頼み申しますぞ。」
そう言うのを聞いて定信は、
「はっ!」
と言い、頭を軽く下げていた。それを、重豪も嬉しそうに見ていたのであった。
ある日、ある屋敷の一室で美しい娘が琴を弾いていた。すると父の曽根そね重辰しげときが入って来て、こう言った。
「幕府の松平老中は、職を外されなかったそうじゃ。」
それを聞いたその娘は、
「では、罪が許されたのですか?」
と聞いた。重辰は、
「あぁ。公方様から、直々にな。」
と言うのを聞いてその娘は、こう言った。
「お優しいのですね、今の公方様は。」
その娘は、微笑んだ。その娘は、重辰の娘でおちょうという名であった。
「わたくしも、そのような方に嫁ぎとうございます。」
すると重辰は、
「そなたは前に、徳川家に嫁ぎたいと申しておったな。」
と言うのでお蝶は笑い、
「そのような。徳川様は然り、力をお持ちでございます故。」
と言い、また琴を弾いていたのだった。
浄岸院(このお蝶という娘が、後に江戸城大奥で権力を振るうことになるなど、この時はまだ誰も存じ上げませんでした。)
その一方で、茂姫はまた家斉の隣で眠っていた。茂姫が目を開けて横を見ると、隣で家斉が寝息を立てていた。それを見て茂姫は、ただ笑っていた。
浄岸院(茂姫が家斉様との間に子を授かる日は、そう遠くなかったのでございます。)


次回予告
茂姫「お楽が懐妊?」
お楽「この子は、公方様とわたくしの証にございます。」
お万「お楽は、自分の子を次の将軍にしたいのです。」
茂姫「次の将軍・・・。」
家斉「そろそろ、世継ぎのことも考えねばな。」
茂姫「わたくしも、そろそろ生みとうございます。」
お富「全ては、将軍家のためです。」
茂姫「松平殿が、御役御免じゃと?」
定信「わたくしは、己の役目を全て果たしたと存じます。」
家斉「あやつをもう城においておくわけにはいかぬ。」
茂姫「何故今になって、そのような!」
  「上様は・・・、あとはわたくしが守ります。」



次回 第十三回「お楽の懐妊」 どうぞ、ご期待ください!

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