茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第十回 大奥の合戦

一七九一(寛政三)年、一月。茂姫は、猫を抱いていた。
「可愛い~。」
茂姫は愛らしそうにそう言うと側にいた家斉も、
「そうであろう。」
と言うと茂姫は、
「どうしたのですか?この猫。」
そう聞くと、家斉は言った。
「老中と知り合いの旗本の家で飼われておったが、訳あってこの城で飼うことになったのじゃ。」
茂姫はそれを聞きながら、猫を抱きながら撫でていた。家斉もそれを見て、
「そなた、気に入ったようじゃな。」
そう言うので茂姫も、
「はい!」
と答えていた。そして、二人は笑い合っていたのだった。
浄岸院(年が明け、茂姫はお城で平和に暮らしておりました。そう、あの事件が起きるまでは・・・。)


第十回 大奥の合戦

茂姫は部屋に戻ると、後ろからひさがこう言った。
「御台様は、動物がお好きなのですね。」
すると茂姫は、
「あぁ。薩摩のお城でも、母が飼っておった。」
そう言いながら、座った。ひさも座り、
「それは、何なのでございますか?」
と、興味津々に聞いた。すると茂姫は、
「これくらいの鳥じゃ。わたくしもよく、餌をやっておったのを、今でも覚えておる。」
そう、手を使って説明した。ひさや周りの侍女達も、それを笑って聞いていた。
その頃、お富は生け花をしていた。すると部屋の脇で控えていた年寄の常磐の隣に谷村たにむらという奥女中が来て、耳打ちをした。それを聞いた常磐が、
「側室ですと・・・!?」
と驚いた表情で言うと、谷村も頷いて小声でこう言った。
「はい。徳川家に仕える旗本の家柄の娘だとか。」
常磐は、
「で、どのような娘なのじゃ?」
と聞くと、谷村は答えた。
「この大奥には、よく芸の舞を披露しに来ていたとか・・・。」
それを聞いた常磐が、
「芸の舞・・・。」
と、呟くとこのような声が聞こえてきた。
「何をコソコソ話しておるのじゃ?」
その声の主は、生け花をしているお富だった。すると常磐と谷村は手をついて、
「いえ!」
と、声を揃えて言った。お富は手を止めることなく、
「側室など、珍しくもない。どのような娘だろうが、子を産めさえすればよいのじゃ。」
そう言うと常磐は、
「しかしながら、御台様のお気持ちも・・・。」
と言うと、お富はやっと手を止めた。そして、
「御台のぅ。別によいではないか、あの者には子は産めぬ故な。」
そうお富は言うと、再び花を生け始めた。それを聞いた常磐は不思議そうに、こう尋ねた。
「あの・・・。恐れながら、それはどういうことにございましょう。」
するとお富は、こう答えるのだった。
「わからぬ。ただ、そのような気がしてな。」
お富はまた手を止めると、前を睨み付けていた。常磐と谷村も、顔を見合わせていた。
浄岸院(その頃、薩摩では・・・。)
重豪は馬に乗って、丘に出ていた。重豪は被り物を上げると、
「久方ぶりの薩摩じゃ・・・。」
と、呟いていた。その後ろから、斉宣も馬に乗って来た。斉宣は、
「これが・・・。」
そう呟くと重豪は振り向いて、
「そなたは、初めてであろう。薩摩の景色を見るのは。」
と言うので、斉宣もこう言った。
「はい。江戸で生まれ育ちました故、薩摩はこれが初めてにございます。」
すると重豪は、
「まことによかったのか?江戸に残らんで。」
と聞くと斉宣は、
「はい。わたくしは、どうしても此処へ来とうございました。」
そう言うので重豪は笑いながら、
「於篤の故郷ふるさとか?」
と言うのを聞いて斉宣は赤くなり、
「いや・・・、まぁ。」
そう言うのを見て重豪は笑顔のまま前に目線を戻すと、空を仰いでいた。すると斉宣は馬を降り、目の前に広がる海と鮮やかな色を見せる桜島を見つめていた。暫くすると、後ろで葉が揺れた音がした。斉宣はそれに気付き、後ろを伺っていると、重豪が斉宣に対し、
「どうした。」
と聞いた。すると、草むらから人の手が現れたのだった。それを見た重豪は険しい顔付きで、
「誰じゃ。」
そう言うと、中から出てきたのは百姓と思われる男だった。
「そなたは・・・。」
重豪は言うと百姓は二人に気が付き、
「こ、これはお殿様とご隠居様。失礼仕りもした。」
そう言うので重豪は、
「何があったのじゃ。」
と聞いた。すると、百姓はこう答えたのだった。
「いやぁ、近頃は日照り続きで、作物が全然、実りもはん。頑張って耕しても、作物が実らんと、みんなお腹を空かせちょります。どうか、おいどん達を、助けてつかぁさい!お願い申し上げます。」
百姓はそう言って頭を深く下げると、
「お殿様!」
「ご隠居様!」
と言いながら、他の百姓も来て深く頭を下げた。斉宣と重豪は、真剣な顔で必死にお願いする百姓達を見つめていたのだった。
そんなある日、江戸では茂姫が生け花をしていた。すると、
「綺麗な花でございますね。」
と、言う声が後ろの方でした。茂姫は振り向かずに、
「そうであろう。わたくしも気に入っておるのじゃ。」
そう言い終えてから、振り向いた。するとそこには、宇多うた(中臈)がいたのだった。茂姫はそれを見て驚き、
「そなた・・・。」
と、声を上げた。
その後、茂姫は部屋で宇多と向き合った。宇多が、
「本日より、この大奥で、中臈として上がらせて頂きました。」
そう言うので茂姫は、
「何のつもりじゃ。まさか、また公方様に近付こうと思うておるのではあるまいな。」
と言うと宇多は笑い、
「まさか。わたくしはただ、ここに来たかったのです。」
そう言うので茂姫は、
「何故じゃ?」
と、聞いた。すると宇多は、
「それはわたくしが、あなた様のお側にお仕えしたいと思うた次第でございます。」
そう言うのだった。茂姫は怪訝そうな顔をし、
「わたくしの・・・?」
と聞くと宇多も、
「はい。」
そう答えた。宇多は手をつくと、
「本日より、わたくしが御台様の側近です。」
と言うのを、茂姫も怪訝そうな表情のまま見つめていた。すると、
「御台。」
と言いながら、猫を抱いた家斉が入って来た。家斉は、
「何じゃ。お宇多も来ておったのか。」
そう言い、茂姫の隣に座った。宇多は、
「可愛い猫にございますね。」
と言うので家斉は、
「そうであろう。」
そう言っていると、猫は家斉の腕を離れた。襖の近くまで行くと、廊下を偶然通りかかったお楽の前で止まった。お楽が猫を抱きかかえると、部屋にいる家斉に差し出した。家斉が、
「そなた、猫は嫌いか?」
と尋ねるとお楽は、
「はい、嫌いにございます。幼き頃に、噛まれてからは。わたくしはこれにて。」
そう言い残すと、部屋を去っていった。茂姫も黙ってそれを見ていた。家斉は何も気にしていなさそうに、無邪気に猫を撫でていた。宇多も、笑って猫を見つめていた。
一方、薩摩の鶴丸城つるまるじょうの一室で重豪は斉宣と話していた。重豪が、
「やはり、気になるのぉ。」
と呟くと斉宣が、
「百姓達が話していたことにございますか?」
そう聞くと重豪は、
「あぁ。何とかしてやらねばならぬ。」
と言った。すると斉宣が、
「倉を建てては如何ですか?」
そう言うので重豪は怪訝そうに、聞き返した。
「倉?」
「はい。そこに、食物を保存しておくのです。次、飢饉が襲ってきた時のために残しておけば・・・。あ、いや、まずはそこに残しておく穀物などを作らなければ・・・。」
斉宣がそう言っていると、重豪が笑い出した。
「成る程。そなたの考えは、まさに松平老中そのものじゃ。」
それを聞いた斉宣が、
「松平老中、ですか?」
と聞くと重豪は、
「あぁ、そうじゃ。」
そう言い、斉宣を見つめていた。斉宣も、気になったように父を見つめ返していたのだった。
そして大奥では、茂姫が庭で文を読みながら、ため息をついていた。その後ろで宇多が、
「どうかされたのですか?」
と聞くと茂姫が振り向き、こう答えた。
「薩摩の作物が、不作のようじゃ。」
すると、それを聞いた宇多がこう言った。
「確か天明の飢饉の際に、次の飢饉に備えて松平老中が倉を建てられたそうです。」
「倉を?」
茂姫が聞くと、宇多がこう続けた。
「はい。いつ飢饉が襲って来ても、倉に食べ物を保存しておけば、作物が実らなくなっても食い扶持が立てられます。それ故、倉を建てたと、父から聞いたことがあります。」
それを聞いていた茂姫は、
「倉か・・・。」
と、呟いていた。
ある日、薩摩藩邸の一室ではお登勢が文らしきものを読んでいた。読み終えると、お登勢はゆっくりと顔を上げ、前を見つめていた。
薩摩では斉宣が外に出ると、百姓達が何かを立てている途中だった。斉宣は重豪を見つけ、
「父上。」
と声をかけると、重豪は振り向き、こう言った。
「あぁ。そなたの言うとおり、倉を設けようと思うてな。」
「されど、保存する物が実らなくては・・・。」
斉宣が心配そうにそう言うと、重豪はこう答えた。
「それは、これから考えればよい。今できることを、今やっておればよいのじゃ。」
「はぁ・・・。」
斉宣はそう答え、生き生きとしている百姓達を見ていた。重豪も、笑顔で倉が建つのを見守っていた。
そして茂姫のもとにも、知らせが届いた。茂姫がその手紙を読み終えると、
「父が、薩摩の農民のために、倉を建てられたと。」
そう言うと、皆は少し歓声を上げ、宇多は、
「それはようございましたね。」
と言った。茂姫は、
「まことに倉が建つとは、思いも寄らなんだ。」
そう言うので宇多が、
「これで薩摩は、一安心にございますね。」
と言うので茂姫は、
「そなたが申しておったことは、まことだったのじゃな。」
そう言うお宇多は笑みを浮かべ、
「はい!」
と、答えていたのだった。ひさも、その様子を見て笑っていた。
その夜、宇多は明かりを灯しながら見回りをしていていた。暫く足を止め、庭を眺めながら夜風に吹かれていた。すると、何やら不気味な音がしてきた。宇多は気になって、廊下の角から向こうを覗いた。すると、あちらで女性がうずくまり、何かをしているようであった。宇多は、目を凝らして見てみる。しかし、薄暗くて女性の顔まではわからない。女性は立ち上がり、向こうへ去っていった。宇多は、黙ってそれを見ていた。
翌朝、何やら城中が騒がしかった。茂姫はひさ達に、
「どうしたのじゃ?」
と尋ねるとひさ達は、
「さぁ・・・。」
そう言い、首を傾げていた。茂姫は気になって廊下へ出ると、走ってきた女中に問うた。
「何があったのじゃ?」
すると、女中はこう言った。
「公方様の猫が、いなくなったのでございます。」
それを聞いて茂姫も驚いた顔で、
「えっ・・・。」
と、呟いた。女中は再び、走って向こうへ行ってしまった。それを見ていた宇多は、昨夜のことを話そうと試みた。宇多は茂姫に近寄り、
「あの・・・、御台様。」
そう言い、茂姫が振り向こうとしたその時だった。大奥中に、女性の声が響き渡ったのだ。
「皆様-!殺生にございます-!!」
その声に、再び茂姫は視線を戻した。茂姫の後ろに座っていた女中達は互いに顔を見合わせ、
「えっ・・・。」
「殺生・・・?」
などと言っていた。茂姫は、驚いた表情のまま、向こうを見つめていた。
その後、改まって詳しい話を聞いた茂姫は、
「殺生・・・?」
と聞くと、報告しに来た大崎がこう答えた。
「はい。公方様に飼われていた猫が先ほど、西の丸の庭で死んだ状態で捨てられているのが発見されたとのことにございます。」
それを聞いたひさが、
「公方様の猫が、死んだ・・・?」
と呟き、両手で顔を覆い隠した。茂姫は、
「して、上様の方は如何に?」
と聞くと大崎は、
「今朝から誰とも口をお聞きにならずに、部屋へ閉じ籠もってのご様子。老中達やわたくしも度々お部屋を訪ねておりますが、お返事さえもままならぬ状態で・・・。」
そう言うのを聞いた茂姫は同情したような顔付きで、
「そうか・・・。あれほど可愛がっておいでであったのじゃ、無理もなかろう。」
と言った。大崎は、
「それでは、失礼仕ります。」
そう言うと、立ち上がって部屋を出て行った。茂姫は大崎が下がると、
「大切なものを失う悲しみは・・・、動物とて同じことじゃ。」
と呟くのを、隣で宇多も見つめていたのだった。
お富は生け花の手を止めると、
「公方様の猫が死んだ?」
そう言うと、お楽が答えた。
「はい。庭で死んでいるのが、中臈達により発見されました。」
お富はふと気が付いたように、
「それ故、わたくしが今朝挨拶に行った時、部屋に入れてくれなんだわけじゃ。」
そう独り言のように呟くと、お楽はこう言った。
「それから、もう一つ話がございます。」
「何じゃ?」
お富が聞くとお楽が、
「それが昨夜、西の丸の廊下で御台様を見たと申す者がおります。」
と言いだしたのだ。お富はお楽を見つめて怪訝そうに、
「御台をじゃと?」
そう聞くと、お楽が続けてこう言った。
「その者の話によれば、猫を誘い出した後、御台様が、喉元を刺したと。」
するとお富は笑い出し、
「そのような話、信用できまい。」
と言い、生け花を続けた。すると、
「証拠があるのです。」
とお楽は言うと、懐から布で包まれた何かを差し出した。
「弥陀債マのお部屋で見つけました。」
お楽は布を広げると、そこからは何と赤い液体らしきものが付着した小刀が出てきたのだった。お富はそれを見ると、
「これは・・・。」
と、呟いた。お楽はお富の表情を伺い、俯くようにしてニヤリと笑った。お富はそれを気にせず、こう言うのだった。
「殺生をなさるならまだともかく、上様を悲しませるとは断じて許せぬ。」
そしてお富は勢いのあまり立ち上がり、
「あの小娘に、制裁を加えてやる!!」
そう、前を睨み付けるようにして言った。
その頃、薩摩の城では庭で農民達が跪いていた。一番先頭の農民が、
「この度は、まことに有り難う存じ上げます。」
そう言って頭を深く下げると、後ろの農民や百姓も同じように頭を下げていた。それを見た重豪は笑顔で頷き、
「これからのことは、そち達が皆で力を合わせて行うがよい。」
と言うと農民達は、
「ははぁっ!」
そう答えていた。すると曇り空から、滴が数滴降ってきた。農民達はそれを感じると、顔を上げて空を見上げた。すると、夕立のように雨が降り始めた。農民達が、
「おぉ・・・!」
と声を上げると、重毫も笑って、
「恵みの雨じゃな。」
そう言っているすぐ横で、斉宣も喜んでいる農民達を笑みを浮かべながら見つめていた。
一方、大奥では茂姫が庭を眺めていた。そこへひさが来ると、
「あの・・・。」
と声をかけるので、茂姫は振り向いた。するとひさが、こう言うのだった。
「お富様がお見えにございますが。」
それを聞いた茂姫は驚いた表情で、
「母上様が・・・?」
と言っていた。
茂姫が部屋に入ると、お富が待っていた。茂姫はお富の前に座ると、
「母上様、如何なさいましたか?」
そう聞くと、お富は言った。
「それが殺生を行った者の態度ですか。」
それを聞いて茂姫は怪訝そうに、こう尋ねた。
「あの・・・、何の話でございましょう?」
するとお富は続けて、
「昨夜、そなたを見たと申す者がおります。そなたが殺生をしたという事実は、もう既に大奥内に広まっております。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「わたくしは、殺生など・・・。」
と言うとお富は立ち上がり、
「証拠は、こちらにあります。明日、わたくしの部屋に来なされ。」
そう言って向こうへ行こうとすると、茂姫は呼び止めた。
「まことです!わたくしは、上様の猫を殺してなどおりませぬ。」
お富は振り向くと、
「まだそのように申されますか。まぁよい、明日になればわかることでしょう。」
そう言うと、音海は部屋を出て行った。茂姫は、それを目に涙を浮かべて見つめていた。その様子を、部屋の外から宇多が聞いていた。宇多は、いたたまれないような顔をしていた。
その頃、家斉は夕日を眺めていた。そこへ定信が来て、
「上様・・・。」
と言うと家斉は振り返り、
「何じゃ?」
そう聞くと定信は家斉が答えると予測していなかったのか、慌てたように、
「あ、いや・・・。」
と言って下を向くと、家斉は再び夕日に目を戻していた。それを、定信も心配そうに見ていたのだった。
お楽はその頃、女中から知らせを受けていた。
「明日、御台様がお富様のお部屋に来られるそうにございます。」
それを聞いたお楽は笑みを浮かべ、
「そうか。」
と言うと、女中はこう言った。
「されど、あの御台様が、まことに殺生などをしたのでございましょうか?」
それを聞いてお楽は、
「決まっておろう。御台様のお部屋から、動かぬ証拠が見つかったのじゃ。それを見つけたのは・・・。」
そう言うと夕日の方を向き、
「このわたくしである故な。」
と言っていた。
その後、お楽は部屋で一人になると花を生けていた。そしてお楽は不意に手を止め、
「御台所・・・。ふっ、いい気味じゃ。」
そう言い、茎を切った。お楽は、その後も一人で生け花を続けていたのであった。
翌日のこと。大奥では、ある声が響いていた。
「なりませぬ!」
宇多がそう言って茂姫の行く手を阻むと、茂姫もこう言った。
「何故じゃ。母上様が言われたのじゃ。行かぬわけにはいくまい。」
すると宇多が、
「お富様は、あなた様を陥れようとお考えなのです。公方様に、近付けなくするために。」
と言うので茂姫は顔を歪め、
「何じゃと?」
と聞くと宇多は、
「もうお分かりではないですか?これは、罠にございます。行けばあなた様の居場所がなくなり、城を追われることにもなりかねませぬ。今一度、お考え下さい。行ってはなりませぬ。」
そう言うのを聞いた茂姫は、少し考えた。そして顔を上げて宇多を見ると、宇多も頷いた。しかし茂姫は、
「これは、戦じゃ。わたくしは、逃げるようなことは出来ぬ。」
と言い、宇多を押し退け、お富の部屋に向かった。宇多は、
「御台様!」
そう言い、ひさと共に追いかけていった。
茂姫がお富の部屋に行き、お富の前に座ると、お富はこう言った。
「ほぅ、よく参ったな。」
茂姫の後ろには、宇多とひさがそれぞれ控えていた。部屋の脇には、大奥中の中臈や年寄が呼ばれていた。するとお富は立ち上がり、廊下の前に立つとこう言った。
「只今より、御台に制裁を与える。」
それを聞いた年寄達は、思わず声を上げた。お富は続けて、
「昨日、公方様の猫が殺されました。その前の日の夜、御台様のお姿を、猫が見つかった場所で見かけたという者がおります。」
そう言うとお楽が一歩前に出ると、
「それはわたくしにございます。」
と言うと、茂姫は驚いたようにお楽を見た。お富は茂姫を見て、
「どうじゃ?公方様が己より猫に夢中であった故、殺したのではないか?猫に嫉妬するとは、ほんに浅ましい限りじゃ。」
そう言うので茂姫は、こう言った。
「違います。わたくしは、殺生があったと聞いた時、誠に驚きました。わたくしもあの猫が大好きにございました。それは、上様もご存知のはずです。」
するとお富は態とらしく、
「そうじゃ。そなたの部屋から、このようなものが見つかっての。」
と言うと、お楽はお富に何かを手渡した。それは、布にくるんだ何かであった。お富は布を広げると、それは赤く染まった小刀であった。茂姫は、それを驚いた表情で見つめていた。年寄達は、
「それは・・・。」
「御台様のお部屋から・・・?」
と、動揺したように次々と声を上げていた。お富は茂姫の前に座ると、
「これが、動かぬ証拠にございます。」
と言い、茂姫に小刀を渡した。茂姫はその刀を手に取ると、それを見つめながら、
「わたくしは・・・、まことにやっておりませぬ。」
そう言うのでお富は、
「まだそのようなことを。己のしたことを否定するのは、如何なものかと。」
と言って、笑っていた。お楽も、それにつられて笑っていた。すると宇多は立ち上がり、
「違います!御台様ではありません。」
そう言うので、周りは騒然とした。お富は、
「何じゃと?」
そう言うと、宇多はこう言った。
「わたくしは、見たのでございます。殺生をしている方を。」
その言葉を聞き、茂姫は、
「え・・・。」
と声を発して、宇多の方を見た。また周りにいた、年寄達は騒然とした。宇多は続けて、
「しかし、わたくしが見たのは、御台様ではありません。」
そう言うとお富は再び立ち上がり、
「そなたの話など、信用できるはずがないではないか。」
と言うと、宇多はこう言うのであった。
「お富様は、御台様がお嫌い故、そのように仕立てたのではないですか?」
それを聞いたお富は、
「無礼な。わたくしが仕立てたじゃと?それこそ、どこに証拠があるのじゃ?」
と言うので宇多は、
「それは・・・。」
そう言って、言葉に詰まった。お富はニヤリと笑い、こう言った。
「やはりな。そちの方こそ、公方様に近付くために、この城に戻ってきたではないか。」
宇多はそれを聞き、
「違います!わたくしはただ・・・。」
そう言っていると茂姫が、
「お宇多、もうよい。」
そう言うと、宇多は悔しそうに仕方なく座った。するとお富が茂姫に、こう言った。
「このようなことがあっては、もうこの城にはおれぬな。」
茂姫は黙ってその言葉を聞いていると、お楽は笑顔になった。茂姫がその場に刀を置き、ゆっくりと立ち上がるとお富は、
「公方様には、わたくしの方から話しておきます故、ご安心を。」
そう言った。茂姫は部屋を出て行こうとすると、
「お待ち下さい。」
と、男性の声が聞こえた。茂姫は顔を上げると、部屋に家斉が入って来た。それを見て、皆は一斉に頭を下げた。お富は家斉に、
「御台様は、このお城をお出になられるそうです。」
そう言うと、家斉は呆れたようにこう言った。
「母上。殺生を行ったのは、御台ではございません。」
「何ですと?」
お富はそう聞くと、家斉はこう言うのだった。
「先程、定信達に城中の部屋を調べさせたところ、このようなものが。」
家斉はそう言って、懐から紙に包まれた刀らしきものを出した。紙を広げると案の定、血痕のついた小刀であったのだ。家斉は、
「動物の血液は普通、固まると褐色になります。しかし、母上が御台に見せたものはまだ赤いではありませぬか。それ故、それは偽物にございます。」
そう言って、畳においてある小刀を指差した。家斉は続けて、
「それに、この刀は御台の部屋からではなく、お楽の部屋から出て参りました。」
そう言うので、お楽は青ざめたような表情に変わった。お富はお楽に、
「まことなのか?」
と尋ねると、お楽は呆然としたまま何も答えられなかった。家斉は、
「どうやらそのようで。」
そう言うと家斉は背を向けると、
「藪から棒に人を疑うのは、母上の悪い癖にございます。そろそろおやめ下さいませ。」
そう言い残し、部屋を出て行った。お富は震えているお楽を見ると、
「そなた・・・、わたくしを利用しようとしたのではあるまいか。」
と言うとお楽は慌てて座り直すと手をついて、
「申し訳ありませぬ!」
そう言って頭を下げ、立ち上がって走るように部屋を出て行った。茂姫も、それを見続けていた。
その夕方、茂姫は縁側に座って夕日を眺めていた。その後ろに宇多が来て、
「御台様・・・?」
と声をかけると、茂姫はこう言った。
「人は恨み合う生き物じゃ。」
「えっ?」
「憎しみが消えぬ限り・・・、この世から争いが消えることはない。」
茂姫はそう言うと、前をただ見つめていたのだった。
そして数日経ったある日の夕方、薩摩藩邸に重豪と斉宣は帰ってきていた。お登勢が二人を優しく迎え、
「薩摩からの長旅、お疲れ様でございました。夕餉の支度が調っております。」
そう言うと重豪は、
「そちらは、変わったことはなかったか?」
と聞くとお登勢は、
「はい。」
そう答えると重豪は、
「すぐに参る。」
と言い、部屋へ入っていった。斉宣はそれを見ていると、不意にお登勢と目が合った。するとお登勢が優しく微笑むので、斉宣も笑い返していた。
その後、斉宣は部屋でお登勢と向き合った。
「留守の間、姉上からお便りはありましたか?」
斉宣が聞くとお登勢が、
「はい。公方様とのご関係も良いとのこと。」
そう言うのを聞いた斉宣は安心したように笑い、
「そうですか。」
と呟いていた。お登勢が、
「時に、薩摩では雨が少なく、飢饉があったと。」
そう言うと斉宣から笑顔が消え、
「はい。わたくしは農民達が苦しんでいる姿を見て、何も出来ぬ己が恥ずかしゅうなりました。農民達が汗水垂らして作った作物を、武家の我々が当たり前のように食べるのは、少し違う気が致しました。わたくし達にも、何かしてやれることはあるはずです。わたくしは、それを見つけていきたい。そして少しでも、皆の力になりたい。」
そう言うのを見たお登勢は頷き、
「はい。」
とだけ、答えていた。斉宣の視線は、言うまでもなく、真剣であった。
その夜。江戸城では、寝室で茂姫と家斉が寝る前に話をしていた。茂姫は、
「上様。先日は、誠に有り難うございました。」
と言うと、家斉はこう言った。
「お楽のこと故、どうせあのようなことだと思ったのじゃ。」
茂姫はそれを聞いて、
「あの。お楽はこれから、どうなるのでしょうか。」
と言うと家斉が、こう聞き返した。
「そなたは、どうであって欲しいのじゃ?」
すると茂姫は、
「許してあげて頂きたいのです。」
そう言うと家斉は、
「何故じゃ?」
と聞くので、茂姫は答えた。
「それは・・・、わたくしがそう思うからにございます。」
「そう思う・・・、のぉ・・・。」
家斉は、そう呟いた。茂姫は続けて、
「己のやったことを、他の誰かの済にするのは簡単にございます。されど、それを証明することは難しゅうございます。上様があの時来て下さらなかったら、わたくしは今頃、この城にはおりません。わたくしは何が『まこと』で、何が『偽り』かを知りとうございます。」
そう言うので家斉は、
「知ってどうする。」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「わかりませぬ。ただ、わたくしは、『まこと』が何なのか知りとうございます!」
そう言うと、家斉が言うのだった。
「わしも同じじゃ。」
「えっ・・・。」
茂姫はそう言うと家斉は続け、
「わしとて、そなたと同じ思いじゃ。」
そう言うので茂姫は、
「上様・・・。」
と呟き、家斉を見つめていた。家斉は、
「今日は疲れた。」
そう言って布団に入ろうとした時、茂姫はこう言った。
「あの、上様。」
「何じゃ?」
「もう一つだけ、お話がございます。」
家斉は胡座をかき直すと、
「言うてみよ。」
そう言うと、茂姫は話した。
翌日、それを聞いた宇多が、
「わたくしが、公方様の側室に?」
そう言うので、茂姫は言った。
「あぁ。そなたはあの時、わたくしを庇ってくれたではないか。」
それを聞いた宇多は、
「そのような。わたくしは、見たままを申し上げただけにございます。」
と言うと茂姫は、
「いや、わたくしにはわかった。あれは、偽りではない、まことにわたくしのことを思うて言ってくれた言葉だと。」
そう言うのを聞いた宇多は、
「まこと、にございますか・・・。」
と言うと手をつき、
「有り難う存じ上げます!」
そう言い、頭を下げた。茂姫は、笑ってそれを見つめていた。
一七九一(寛政三)年一一月。宇多は、嬉しそうに廊下を歩いていた。すると、遠くで一人の女性と一人の男性が向き合っているのが見えた。宇多は、それに気が付き、気になって目を凝らして見てみた。
大崎が、
「やはり、あなた様は表にいるべきです。」
そう言うと定信が、
「それは、もうここには来るなと?」
と聞くと大崎が、こう言った。
「あなた様とわたくしは、いるべきところが異なるのです。では。」
大崎が行こうとすると、定信が大崎の腕を掴んだ。
「わたくしは構いませぬ。」
定信がそう言うと大崎は定信を見つめ、
「定信様・・・。」
そう言っていた。それを遠くから見ていた宇多は、慌てて走っていった。
茂姫が部屋にいると、宇多が飛び込んできた。
「御台様、大変にございます!」
宇多が茂姫の手を取ると、部屋から連れ出した。わけもわからないまま連れ出されると茂姫は、
「お宇多、如何したのじゃ!」
そう言うと宇多が、
「松平老中と大崎様が!」
と言い、先程の場所へ着くと、二人ともいなかった。宇多は、
「あれ・・・。」
そう言っているのを、茂姫も気になった表情で見つめていたのだった。


次回予告
茂姫「わたくしは、やはり二人を許すことは出来ません。」
定信「わたくしは、この徳川家のために尽くしております!」
重豪「どうやらわしの計算違いだったようじゃ。」
宇多「松平様の信用が下がれば、この国は荒れてしまいます。」
大崎「わたくしは、どのような処分もお受け致します。」
茂姫「あの者は、本気にございます!」
  「大崎!」
家斉「わしは、あやつを信じておる。」
宇多「おやめ下さい!」
茂姫「何とか、やめさせる手立てはないのでしょうか?」



次回 第十一回「定信と大崎」 どうぞ、ご期待下さい!

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