茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第六回 姫の恋

茂姫は縁側に座り、文を読んでいた。そのすぐ後ろに侍女のひさが来て座ると、
「姫様、御文ですか?」
と言うと茂姫も、
「母から、元気にしておるかとな。母上は心配性故、よう文をくれるのじゃ。」
そう言い、文を折り畳んだ。
「されど、わたくしはふと不安に思うのじゃ。家斉様をお支えできるのか、そしてお世継ぎを儲けることができるのであろうかと・・・。」
それを聞いたひさは、こう言った。
「姫様ならば、大丈夫にございますよ。」
すると茂姫は振り返ってひさを見ると、
「そう言って励ましてくれるのは、ここではそなたぐらいじゃ。」
そう言うと、また庭の方を向くのだった。ひさは、
「姫様・・・。」
と呟いていると茂姫も、
「わたくしは、もっと強くならねば・・・。」
そう呟いていた。


第六回 姫の恋

誰かの手によって、誰かに帯の入った箱と文が手渡された。
「これを。」
手渡したのは、家斉の側室・おまんであった。それを見て同じく家斉の側室のおたのが、
「これを、わたくしに?」
と聞くと、お万がこう言った。
「姫君様からです。」
「何ゆえですか?」
お楽が聞くとお万が、
「以前、そなたが打掛を欲しそうに見ていたとの事。先日、その打掛の多くを何者かによって切られたため、この帯しか渡すことができぬと仰せでした。」
そう言うとお楽は、こう言うのだった。
「わたくしは、必要ありませぬ。それは姫様にお返し下さい。」
「まことに、宜しいのですね?」
お万が聞くとお楽が、
「姫様からの品など、欲しくはありませぬ。わたくしは、あのお方が嫌いです。」
そう言うのでお万は、
「何故?」
と聞くと、お楽はこう言った。
「徳川家の女の役目は、子を産むこと。なのにあの姫様は、公方様としょっちゅうお会いして・・・。御台様とお成り遊ばすお方にしては、決心が足りませぬかと。」
それを聞いたお万は、
「なるほど。」
と言うとお楽は続けて、
「しかも、噂では公方様と文のやり取りまでしていると聞きました。」
そう言うのだった。お万はそれを聞き、
「文?」
と尋ねるとお楽は庭を見つめながら、
「わたくしは、どうもあのお方のなさることが許せぬのです。」
そう言うのをお万は、
「文・・・。」
と呟きながら、見つめていたのだった。
帯を返しに来たお万の話を聞いて、縁側に座って庭を見ていた茂姫は、
「そうか。やはりな・・・。」
そう言うのでお万は、
「やはり?」
と、聞いた。すると茂姫は、振り向いてこう言った。
「予感がしたのです。お楽は・・・、わたくしを嫌うておる。」
そう言いながら茂姫は、庭に向き直った。お万は、それを見つめていた。
『しかも、噂では公方様と文のやり取りまでしていると聞きました。』
『わたくしは、どうもあのお方のなさることが許せぬのです。』
お万はそのことを思い出し、俯いて黙っていたのだった。
その頃、表では・・・。家斉が、
「改革じゃと?」
と聞くと、松平まつだいら定信さだのぶはこう言った。
「はい。それにつきましては、この国の民の暮らしを少しでも豊かにすることが第一にございます。」
それを聞いて家斉は、
「何か手はあるのか?」
と聞くと定信は、
「まずは、国から江戸へ出てきている者達を一時的にに地方へ帰し、作物の均衡を計ろうと考えております。そのほか、次の飢饉に備え、穀物などの備蓄を推進致しております。それらのことに関し、わたくしは、誇りを持って行いとう存じます。」
そう言うのを聞いて家斉は、
「一つ聞くが、そなたと田沼の政の違いは何じゃ?」
と聞くので、定信はこう答えた。
「田沼政権は、主に重商主義にございました。されど、わたくしは異国に頼ってばかりでは、この日本国は異国色に染まり、この国特有のいろが薄れていってしまいます。田沼様は以前、蘭学などを学ぶことを推進されておられたようですが、わたくしはそれを一切禁止とする所存にございます。あくまで、わたくしはこの国はこの国の彩を貫くべきと存じ上げます!」
それを聞いて家斉は少し笑い、
「大した奴じゃ。そなたの好きに行うがよい。」
そう言うので定信は、
「ははっ!」
と言い、頭を下げたのだった。
その夜、定信は大奥御年寄の大崎と一室で会話をしていた。大崎が、
「改革・・・、ですか?」
と聞くと定信は、こう言った。
「はい。もし宜しければ、あなたにもご協力をと思いまして。」
大崎はそれを聞くと、
「わたくしにできることなど・・・。」
そう言っていると定信は、
「大奥におられる方々の意見を集めて、わたくしにご報告頂けませぬか?それをお聞きして、改善すべきことなどを見出して参ります。」
と、言うのだった。大崎は俯いて少し考えた後、顔を上げて言った。
「わかりました。それが、あなた様のお力添いになるのであれば。」
それを聞いた定信は嬉しそうに、
「有り難うございます。」
と言って、大崎の手を握った。大崎もその手を見つめ、戸惑いながらも少し笑っていたのであった。
一方、薩摩藩邸では・・・。島津重豪が書状を読みながら、
「松平殿が、ついに動き出されたそうじゃ。」
そう言うと側にいたお登勢が、
「田沼様が失脚された時に流れた噂は、松平様によるものだとお聞きしました。それは、まことと思われますか?」
と聞くと、重豪は横に書状を置いて腕を組みながらこう言った。
「噂というのは、どこまで信じてよいのやら、分からぬようになってきたのぉ。」
するとお登勢も、こう言うのだった。
「わたくしもにございます。されどわたくしは、松平様ではないような気が致します。」
「何故じゃ?」
重豪が聞くとお登勢は、
「いえ。それは分かりませぬが・・・、何やらそのような気がするのでございます。」
そう言うのを聞いた重豪が笑い、こう言った。
「ハハッ、わしもじゃ。あのような方が、そのような不確かな噂を流すとは思えぬでの。」
それを聞き、お登勢も微笑んでいた。すると重豪が話を変え、
「そうじゃ。そなた、姫から返事は届いたか?」
そう尋ねるとお登勢の顔から笑みが消え、お登勢は、
「はい。」
とだけ答えた。それを聞いた重豪は、
「どうしたのじゃ?」
と聞くとお登勢は、
「いえ。」
そう言って、無理に笑顔を作った。それを不思議に思った重豪は、
「どうした、言うてみよ。」
と言った。するとお登勢が、こう言うのであった。
「わたくしは、あの子が心配でなりませぬ。」
「それは?」
重豪が聞くとお登勢が続け、
「文では、いつものように明るい返事をくれるのですが、わたくしにはそれがかえって不安になるのです。無理をしているのではないかと・・・。」
そう言うのを聞いた重豪は、
「側室のことか?」
と聞くと、お登勢は言った。
「はい。他にも、思い悩んでいることがあるような気がするのです。わたくしには、文で慰めることしかできませぬ故、それがとても今は辛うございます。」
それを聞いた重豪は笑顔を見せ、
「心配いらぬ。あやつは強い。昔、公方様に初めてお会いした時、屋敷を抜け出しておったではないか!於篤は、自分のことは自分で何とかするであろう。そなたは、ここから見守るだけでよいのじゃ。」
そう言うのでお登勢も笑顔を取り戻し、
「そうでございますね。」
と言って重豪を見ると、重豪もお登勢を見て笑っていた。
浄岸院(間もなく年が明け、婚礼が行われる年の新年になりました。)
一八八九(天明九)年、一月。茂姫は庭に出て、花々を眺めていた。ひさは後ろで、
「姫様。いよいよにございますね。公方様との、婚礼の儀は。」
と言うと茂姫は、
「思えば、この城に上がった時、奥方様から婚礼の日まで、家斉様に会うてはならぬと言われておったのに。わたくしは、その命に背いてしもうた。」
そう言うのを聞いて、ひさは尋ねた。
「何故、お富の方様は姫様と公方様を会わせぬようにしたのでしょう?」
すると茂姫は立ち上がり、ひさの方を振り向いてこう言った。
「わたくしが初めて家斉様とお会いした時、“わたくしは嫁には行かぬ”と言うてしもうたのじゃ。」
「えっ?」
ひさが聞き返すと、茂姫は思い返すように話し始めた。
『貴方様と一緒になるのは、私でないとならないのですか?』
『何ゆえじゃ。』
『私は、江戸が嫌いにございます。このお家が嫌いにございます。私は、嫌々薩摩から来たというのに、やりたくもない学問や芸道をやらされて、もう帰りとうございます。』
『私は、これ以上何処にも行きたくありませぬ。それ故・・・。』
『どうしたい。』
『それ故・・・、私は、嫁にはなりませぬ!』
於篤(茂姫の幼名)は、立ち上がってその場を走り去ってしまった。
『於篤!』
お登勢がそう言って呼び止めても止まらない於篤を、心配そうに見つめていた。
すると茂姫は、
「わたくしは、愚かであった。何故あのような振る舞いをしたのか、未だに解らぬ。ただ、あのお方がわたくしの光となって下さったのじゃ。」
そう言うので話を聞いていたひさは、
「光・・・?」
と尋ねると、茂姫は話を続けるのだった。
『何故そう言いきれるのですか?女子であっても、戦に加わったり、政に意見したいのです。』
於篤が言うと、豊千代(家斉)は言った。
『それは、そなたを女子として生んだ親が悪いのじゃ。そなたがそう思うのならば、そなたの母上を恨むがよい。女子は、男の道具として扱われる運命故な。』
『ならば、何故、この世界には!男と女がいるのですか!』
『女子は、子を産むためだけの道具なのですか?ならば、私は誰の嫁にもなりません。私は、道具にはなりませぬ!!』
話し終えると茂姫は、
「今思えば、わたくしの為にあぁ言っておられたのかもしれぬ。わたくしを強くする為に・・・。」
と言っていると、ひさがこう言うのだった。
「されど、姫様は昔から強かったではございませんか。自らの夫とお成り遊ばすお方の前で、屋敷を抜け出すなんて・・・。」
それを聞いて茂姫は笑い、
「ほんに、そうじゃな・・・。」
と言い、暫く茂姫とひさは互いに笑いあっていた。茂姫は笑うのをやめると、
「奥方様が、わたくしをお気に召されぬのも、あれが原因であろうな。」
そう言い、遠くを見つめていたのであった。
その後、お楽は縁側で書を読んでいた。すると侍女が来て、こう言った。
「失礼致します。お楽様宛てに、文が参りました。」
それを聞いてお楽は、侍女の方を見た。侍女から文が手渡されると、お楽は無表情のまま宛名を見た。するとそこには何と、「家斉」と書かれていた。それを見てお楽は驚いた表情で、侍女と見つめ合った。
その夜、お楽は嬉しそうにしながら墨をすって、返事を書いていた。
その情報は、お富に知らされた。
「お楽が、公方様から文をじゃと?」
お富が聞くと、お楽の所へ文を持ってきた侍女は、
「はい。」
と言うので、お富は疑ったようにこう言うのだった。
「そなた・・・、まことに公方様かどうか調べてはくれぬか?」
「はい?」
侍女はそう聞き返すとお富は、
「別の者が、公方様の名を借りてやっているのかもしれぬ・・・。」
と、呟くようにして言った。
一方、薩摩藩邸では重豪の部屋に島津しまづ斉宣なりのぶ(薩摩藩九代藩主)が、
「父上!」
と、言いながら入って来た。重豪が、
「どうした?」
そう聞くと斉宣は、
「松平様が、蘭学禁止の方針を示されたというのは?」
と聞き返すのだった。それを聞いた重豪は、
「まだ公にはなっておらぬが、松平殿は異国を嫌うておいでじゃ。それ故、近々異国の学問を学ぶことが禁じられるのは免れぬのであろう。」
と言うと斉宣は不快そうな顔をして、
「そんな・・・。」
そう呟いていたのだった。
表では、家斉の所に老中・鳥居とりい忠意ただおきが来ていた。家斉が、
「して、その噂は誰から聞いた。」
と聞くと忠意が、
「老中の中でなら、知らぬ者はおりませぬ。田沼殿を失脚させる引き金となった噂を流したのは、松平であると。」
そう言うのを聞いて、
「そうか。」
と言っていると、忠意は続けてこう言った。
「あの者は、幕閣に入る前は、田沼政権を散々批判しておりました故、まずそれに相違ないと。」
忠意の話を聞いた家斉は、
「そうかのぉ・・・。」
と言い、斜め上を見つめていた。
その後、家斉は一人の老中を呼び出していた。その老中は、家斉の前で平伏していた。家斉は、
「そなたに、聞きたいことがある。」
そう言うのだった。その老中は、水野みずの忠友ただともであった。水野は少し顔を上げて家斉を見ると、
「何に・・・、ございましょう。」
と聞いた。すると家斉は、こう言うのだった。
「世間の連中は、松平が田沼を陥れるための噂を流したと言うておるそうじゃの。」
「はい・・・。」
水野は、恐る恐るそう言った。すると家斉は立ち上がり、背を向けて後ろに掛かっている掛軸を見つめながらこう言った。
「されどわしは、あの者が左様な噂を流すとは思えぬでの。」
それを聞き、平伏している水野の頬に汗が伝った。家斉は振り返って水野を見ると、
「そなた、何か知っているのではないか?」
と聞いた。すると水野はバッと顔を上げ、
「申し訳ございません!」
そう言うと、再びバッと平伏すのだった。そして水野は顔を上げ、
「わたくしは、あの方の政が嫌でございました。賄賂賄賂で、ご自身はまるで頂点にいるように振る舞ってばかり・・・。それに何より、わたくしに金を貸して欲しいとまで言うてきたのです。」
そう言うのを聞いた家斉は、
「何・・・?」
と聞くと、水野は話し始めた。
『お金を・・・、ですか?』
水は聞くと、田沼は言った。
『あぁ。ちと、酒を飲むのに使いすぎてな。』
『されど・・・。』
水野がそう言いかけると田沼が聞かずに、
『よいではないか。』
そう言うと、水野の肩に手を置いて言うのだった。
『何かあった時に、また頼むぞ。』
それを、水野は驚いた表情で見つめていた。
水野は話し終えると、
「逆らっては、家がお取潰しになってしまいます。それ故、あの方を幕閣から降ろすしかなくなったのでございます。」
そう言い、座ったまま家斉に詰め寄った。そして水野は手をつくと、
「田沼様の噂を流したのは、全てわたくしにございます!わたくしは、どんな処罰でも受ける所存にございます。どうか、どうかお願い申し上げます!」
そう言って、また平伏した。すると家斉はしゃがみ、水野の肩に触れてこう言った。
「分かった。そなたにその気持ちがあるだけで十分じゃ。」
すると、水野は顔を上げて家斉を見た。家斉は水野を見つめながら、こう言った。
「自宅にて、謹慎じゃ。」
それを聞いた水野忠友は、
「有り難うございます!」
と言い、再び頭を下げたのだった。それを、家斉も少し微笑んで見ていた。水野は、平伏したまま暫く動かなかった。
浄岸院(こうして水野忠友は、一時幕府から身を退くこととなります。)
ある日、お楽はいつものように縁側に出て書を読んでいた。すると侍女の声がし、
「お楽様!」
そう呼ぶのでお楽は本を閉じ、嬉しそうに立ち上がって奥の部屋に入って行った。
その後、薄暗い部屋に灯りを灯し、お楽は文を読んでいた。
そして一方、別の侍女がお万に、
「こちらにございます。」
そう言って、ある文を手渡した。お万は、その文を見て笑っていた。
その頃、部屋では茂姫が母からの御守を見つめて座っていた。ひさが、
「姫様?」
と声をかけると茂姫は気が付き、
「あぁ、何じゃ?」
そう聞き返すとひさは、
「近頃、何をしていても上の空でございますよ?どうか、なされたのですか?」
と聞いた。すると茂姫は、こう言った。
「家斉様のあのお言葉が、気になっての。」
「それは、どのような?」
ひさは、顔を近付けるように聞いた。すると茂姫は思い出し、ひさに話した。
『知らぬうちに、わしはそなたを、好きになっておったのかもしれぬ。』
『えっ・・・。』
茂姫は、
「わたくしどうしても、あのお言葉が信じられぬ気がするのじゃ。」
と言うのを聞いたひさは、
「何を仰せです。公方様は、姫様のことを本気で好きなのでは?」
そう言うのを聞き、茂姫はこう言うのだった。
「のぅ、ひさ。・・・、確かめに参るぞ。」
するとひさは戸惑ったように、
「何処へ・・・、でございましょう?」
そう聞くと茂姫はひさをの方を見ると、
「家斉様の所じゃ。」
と言い、立ち上がって部屋を出て行くのでひさも後を追いかけた。
「姫様、なりませぬ!」
ひさがそう言っても、茂姫は止まるどころか、次第に速くなっていくのだった。
「何じゃ?」
家斉が聞くと、茂姫はこう答えた。
「わたくしは、家斉様のまことのお気持ちが知りとうございます。」
「気持ちじゃと?」
部屋の外では、ひさが心配そうに見守っていた。家斉は言うと茂姫が、
「あの時、家斉様はわたくしの事を好きかもしれぬと仰せられました。あれは、あなた様の、まことのお考えだったのでしょうか。」
そう言うと家斉は、こう聞き返した。
「それを聞いてどうなる。」
すると茂姫は少し戸惑ったように、
「わたくしは、間もなくあなた様の妻となります。その為に、知っておきたいのでございます。家斉様がわたくしの事を本当はどうお思いなのかを。昔、わたくしはあなた様と一緒になるのはわたくしでないとならぬのかと申しました。されど、わたくしは今となっては、あなた様と一緒になりとうございます。あの日、家斉様の口から出た言葉がまことなのであれば、わたくしもあなた様を好きになります。」
そう言った後茂姫が一旦黙ると家斉が、
「どうした?」
と聞くと、茂姫は姿勢を直してこう言った。
「わたくしには、わたくしの誇りがございます。」
「誇りじゃと?」
家斉が言うと、茂姫は続けて言った。
「わたくしは、その誇りを持って御台所としての役割を果たして参ります。たとえそれが宿命であろうとも、わたくしはあなた様の手足となり、あなた様をお支え致します。そしてあなたと共に、生きとうございます。」
家斉が、
「宿命か・・・。」
と上を見ながら呟いた後、茂姫を見てこう言った。
「わしがあの時言ったことはのぉ・・・。」
そう言って、言葉を詰まらせた。茂姫は、それを瞬きもせず見つめていた。すると家斉は、
「・・・、まことじゃ。」
と言うので、茂姫から一気に笑みが漏れた。それを見て、家斉も笑っていた。すると家斉が、
「のぉ、そなたとわしがめおとになるのも、宿命であると思うか?」
そう言って聞くので茂姫は、
「あ、はい。」
と答えた。すると家斉が、こう言うのだった。
「違うのぉ。宿命ではない。運命なのじゃ。」
「運命・・・、でございますか?」
すると家斉は頷き、
「天がそなたをここへ呼び、わしと引き合わせたのかも知れぬな。」
と言うので茂姫は俯き、
「天が・・・、わたくしをここに・・・?」
そう呟いていた。すると茂姫は嬉しくなり、頬を赤くしながら、
「家斉様と・・・、共に生きとうございます。」
と、言うのだった。するとそれを見ていた家斉が、
「どうやらわしは、勝手で、厚かましい女に弱いらしいのぉ。」
そう言うので茂姫は、
「えっ?」
と笑うのをやめて家斉を見ると、家斉が言った。
「わしは変わらぬ。そなたとの接し方も、このままじゃ。」
家斉は立ち上がると最後に、
「それを、分かっておくことじゃ。」
そう言いながら、部屋を後にした。残された茂姫はいつものような気の抜けた表情で溜息を吐いた後で、この日は笑みを浮べていた。
浄岸院(それと同じ頃・・・。)
お富の部屋には、お楽が呼ばれていた。お富が頭を下げているお楽を見つめながら、
「そなた、公坊様と文の遣り取りをしておるそうじゃな?」
と聞くとお楽は顔を上げずに、
「申し訳ございませぬ。されどあれは、初めは彼方から送られてきたのでございます。」
そう言っていると、お富は溜息を吐いてこう言った。
「常磐に調べさせてのぉ・・・。」
それを聞き、お楽はその姿勢のまま下からお富の顔を見た。お富は続けて、
「公坊様は、そなたに文など書いておらぬそうじゃ。」
そう言うのでお楽は完全に顔を上げて、こう聞いた。
「どういうことでしょう?」
するとお富は、
「そなたは騙されておったのじゃ。公坊様の名を借りて、そなたを弄んでおった。」
そう言うのを聞いたお楽は目が震え、
「どなたにございましょう・・・?」
と聞くと、お富は傍らに控えていた常磐の方を見た。すると常磐は、頷いた。そしてお富は再びお楽の方を見ると、
「お万じゃ。」
そう言うのであった。それを聞いたお楽は驚いたような表情をし、
「えっ・・・?」
と呟くと、お富は言った。
「そういうことじゃ。そもそも、公坊様がただの側室に文を書くなど、まことであれば有り得ぬこと。すまぬが、これが現実じゃ。」
するとお楽が認めぬと言わんばかりに首を横に振り、
「そんな・・・、違います。わたくしは・・・。」
そう言っているとお富は、
「そなたは、お万に遊ばれておったのじゃ。これが、その証拠じゃ。」
と言うと、常磐が出て来て懐から二枚の文を取り出した。その二枚を、お楽の前に並べた。お富は、
「これが、そなたの部屋にあった公坊様からの文、そしてこれが、公坊様がご本人が書いた写経。」
そう二枚の紙を指しながら説明し、お富は家斉が書いた写経を取ってお楽に見せると、
「これが、公坊様のまことの字じゃ。」
そう言うのだった。お楽は少し俯き、
「そのような・・・。」
と言うと立ち上がり、走るように部屋を出て行った。それを、お富は目で見送りながらこう呟いた。
「お万か・・・、恐るべし。」
それを、そのすぐ隣で常磐も不安そうな顔をして見ていたのだった。
お万が縁側に座っていると、
「お万様!」
と言う声がするので、お万は振り向いた。するとお楽が来て、
「何故にございますか!?」
そう言うのでお万は、
「何の話でしょう?」
と言って立ち上がった。するとお楽はお万の裾にしがみつき、
「何故、公方様の名を偽り、わたくしをからかおうとなされたのですか!」
そう言うとお万は、
「人聞きの悪いことを言わないで下さい。」
と言ってお楽の方を見ると、こう言った。
「あなたが姫様を嫌っているように、わたくしもあなたが嫌いにございます。」
それを聞いたお楽は、お万を見つめた。するとお万は続けて、
「自分がよければ、という考えは、わたくしの信仰に背くことです。あなたがお富様の腹心であれば、わたくしは姫様の腹心になります。それ故、今まで通りにはいきませんよ。」
そう言った瞬間、お万は口を覆って膝を落とした。お楽は、
「どうされました?」
と聞くとお万はまた立ち上がり、
「何でもありません。」
と言うと、お楽を裾を振り上げて振り払い、そのまま向こうへ歩いていった。その様子を、お楽は悔しそうに見つめていたのであった。
その一方で茂姫は、部屋にいた。すると後ろからお富が部屋に入ってくると、
「また古里を恋しがっておいでですか。」
そう言うのを聞いて茂姫は驚いたように振り返り、
「奥方様!」
と言った。するとお富は、
「やはり、そなたは公方様とは釣り合わぬと思うての。そなた、薩摩へ帰るがよい。」
そう言うのを聞いて茂姫は顔を上げてお富を見ると、
「えっ?」
と言うと、お富が言うのだった。
「徳川家は、先祖代々京の公家から多く御台所を迎えておった。しかし、前のお世継ぎ、家基様がご急逝遊ばしたが故に、家斉様が急遽、徳川家を継ぐことになった。」
茂姫はそれを聞き、
「聞いております。」
と言うと、お富はこう言った。
「つまりそなたは、家斉様と婚約していたが故に、この城へついて参ったことになる。されど、今までのそなたの振る舞い、行動を見ておれば、やはり御台所に相応しくない。御台所は、やはり公家から迎え入れる方がよいと考えたのじゃ。」
すると、茂姫はこう言った。
「しかしながら、わたくしは公方様と約束致しました。家斉様の、手足となると。」
それを聞いてお富は、
「ほぅ・・・、そなたに務まるかのぉ。公坊様とそなたの婚礼が過ぎても、わたくしは一切認めぬ。それを分かっておくことじゃ。」
そう言って背を向けると、歩いていこうとした。それを茂姫は、
「あの!」
と言って呼び止め、こう言った。
「認めて頂けないのは、お受けします。されど奥方様はこの先、わたくしの義理の母上様となられます。どうか、母上様と、そう呼ばせて頂けないでしょうか。」
するとお富は振り返らずに、
「そればかりは、言っても聞かぬであろう。好きにするがよい。」
そう言って、そのまま部屋を出て行った。その後姿を見送りながら茂姫は、
「有り難うございます!」
と言い、頭を深く下げていたのだった。
一方で、重豪は部屋にいると斉宣が入って来た。斉宣は座って本を見せると、
「父上。蘭学書の中に、分からない文字が。」
そう言うので、重豪が言った。
「そなた、まだ諦めておらぬかったのか?」
すると、斉宣は言うのだった。
「わたくしは、幕府に意見書を書こうと思います。異国と、もっと交流を深めるべきだと。開国し、蘭学も学べる環境を作るべきだということを、幕府に訴えようと思います。」
それを、部屋の外から斉宣の母・お千万ちまも聞いていた。すると重豪は笑みを浮べ、
「そうか。ならば、頑張るのじゃ。わしも、できるだけのことは協力するでの。」
そう言うのを聞いて斉宣は嬉しそうに、
「まことにございますか!」
と聞くと、重豪は頷いていた。それを見て、斉宣は更に笑顔になっていた。
そしてその一方で、江戸城の一室では定信と大崎が話をしていた。定信が、
「どうなっておりますか、そちらの方は。」
と聞くと、大崎は笑みを浮べながら答えた。
「田沼政権の汚れを、松平様が一掃して下さると、皆口を揃えて申しております。松平様に任せていれば、間違いと。」
それを聞いて定信は、
「そうですか。そちらは、もうすぐ姫様の婚礼ですね。できる限りのことは、協力致します。」
と言うので、大崎は言った。
「よいのです。それより、あなたには政の方が大事にございます。公方様の、後見役としての務めもございます故。」
それを聞いた定信は、
「お心遣い、有り難う。」
と言い、軽く頭を下げた。それを見て大崎も、同じように頭を下げていた。
家斉が畳に寝そべっていると、
「何をなさっておいでですか。」
とお富が言うと家斉が、
「よいではありませぬか、母上。」
そう言うので、お富は呆れたように言った。
「あなたは、今や天下の将軍なのですよ。このような御姿を老中達に見られては、示しがつきませぬ。もっと、自覚を持って頂かねば・・・。」
すると家斉は起き上がると、
「そうは言いますが、毎日同じような事の繰り返しで、疲れるのです。」
そう言いながら、目を擦っていた。家斉は、
「あのうるさい姫とおる時だけ、疲れを忘れる事ができる・・・。」
と呟くので、お富は思い出したように言った。
「そうじゃ。姫といえば、面白い話があります。」
その頃、茂姫は縁側に座ってまだ芽をつけていない桜の木を眺めていた。
浄岸院(この時、茂姫はまだ、一七にございました。)
すると、足音が段々茂姫に近付いてきた。
「面白い話?」
家斉が聞くとお富は、
「はい。」
そう答えていた。
茂姫が足音に気づき、振り向くとそこにはお万が立っていた。茂姫は、
「どうしましたか?」
と尋ねると、お万は茂姫の前に座り、手をついてこう言った。
「姫様。たいへん申し上げ難き事でございますが・・・。」
それを聞き、茂姫はもしやと少し目を丸めた。お万は顔を上げて茂姫を見つめると、落ち着いた表情でこう言うのであった。
「わたくしのお腹の中に、お子がおります。」
茂姫は言葉を失い、お万を見つめるだけしかできなかった。


次回予告
茂姫「わたくしは、今日からあなた様の妻にございます。」
  「どんな事があっても、上様をお守り致します。」
家斉「もうわしに構うな!」
お富「これから、面白くなりそうじゃ。」
重豪「大事なのは、そなたがあの方の理解者となる事じゃ。」
茂姫「理解者・・・。」
お万「この子は・・・、わたくしの子です。」
お楽「御台様を憎みます。」
松平定信「異国は、日本の敵だ。」
斉宣「あのお方が許せません。」
茂姫「上様・・・。」
家斉「そなたが、わしの御台でよかった。」



次回 第七回「二人の夜」 どうぞ、ご期待下さい!

「歴史」の人気作品

コメント

コメントを書く