茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三回 将軍家斉

一七八六(天明六)年七月。ここは江戸城大奥。多くの女性が行交う中、大声が上がった。
「姫様!どちらに!」
「少し、庭を散歩してみとうなった。」
「なりませぬ!」
御年寄の常磐ときわが茂姫の所へ駆け寄ると、常磐はこう言った。
「姫様、時間はしかと守って頂かねば奥方様に叱られまする。」
それを聞いて茂姫は、
「そうか。う~・・・ん、あぁっ!」
と言って向こうを指差した。常磐が振り返っている隙に、茂姫は向こうへ走って逃げて行ってしまった。それを見た常磐が、
「あ、お待ちくださいませ~!」
と言い、再び茂姫を追っていった。
浄岸院(大奥へ上がって五年余り、ここからが茂姫の第二の人生となるのです。)


第三回 将軍家斉

茂姫は逃げ回っていると常磐が追い付いて、
「姫様!困ります、しっかりして頂きませぬと。」
そう言うので茂姫は振り返り、
「私は、もう子供ではない。自分のことくらい、自分でやりたいのじゃ。」
と言い、再び向こうへ行ってしまった。常磐も慌てて、
「姫様~!」
そう言いながら追っていくのだった。
その頃、表では茂姫の父・島津重豪しまづしげひでと老中・水野忠友みずのただともが、将軍・徳川家治とくがわいえはるのところに来ていた。家治は二人に、
「意次の話、何か聞いておらぬか?」
そう尋ねると、水野は直ちにこう答えた。
「はい。皆、田沼政権になってから災害が多く起きるようになったと言っておりまする。十二年前の江戸での大火、そして三年前の大地震と天明の飢饉。これらは皆、田沼様の政治に反発する神からの思し召しであると、皆揃って噂しておりまする。」
重豪も、水野がそう話すのを少し不満そうに見ていた。すると水野は続けて、
「しかも、田沼様は自らの政権を親類などで固めておいでの御様子。それに、このような話もございます。“上様の、勘気を被った”と。」
そう言うので、重豪は思わず口を挟んだ。
「いやしかし、これらは皆、あくまで噂にございますれば。何らかの、証拠があるわけではございますまい。」
「しかし・・・。」
水野は、そう言うと言葉を詰まらせた。それを聞いていた家治は、
「そうか・・・。」
と呟き、前を見つめていた。
浄岸院(この頃から、田沼様を陥れる噂が流れ始めていたのでございました。)
老中首座・田沼意次たぬまおきつぐは、薄暗い個室で一人、茶を点てていた。
茂姫は、部屋で書を読んでいた。すると、
「於篤。」
と言う声がするので、茂姫は顔を上げてそちらを見た。そこには、重豪が立っていた。それを見た茂姫は満開の笑顔となり、
「父上!」
と言いながら立ち上がると、すぐさま父の元へ駆け寄った。それを目で追っていた常磐は、呆れていた。
その後、部屋で二人きりとなり、茂姫は父の重豪と座って向き合った。重豪が、
「城での暮らしは、慣れたか。」
そう聞くと茂姫は元気に、
「はい!」
と、答えた。重豪も嬉しそうに、
「そうか。ならば良かった。」
そう言うので、茂姫は少し疑問そうな顔をして尋ねた。
「父上は、今日はどうしてここへ?」
すると、重豪は答えた。
「ちと上様に呼ばれてな。時にそなたは、若様には会うたか?」
それを聞いた茂姫は、
「いえ、婚礼の日まで会うなと言われております。」
と答えるのを聞いた重豪は怪訝そうな顔になり、
「婚礼の日まで?」
そう言うと茂姫は、
「はい。」
と言った。すると茂姫は、
「父上。」
そう言うので重豪は、
「何じゃ。」
と言うと茂姫は続けて、
「私は、よき妻に慣れるのでしょうか。」
そう言うのだった。それを聞いて重豪は微笑むと、こう返した。
「大丈夫じゃ。そなたは、強い子じゃ。必ずや、若様の支えとなれるであろう。」
それを聞いて、茂姫も笑顔になっていた。
重豪は、薩摩藩邸に帰って来た。重豪は部屋に入ると茂姫の実母・お登勢とせが、
「お帰りなさいませ。」
そう言い、頭を下げて迎えた。重豪は上座に着くと、
「今日、於篤に会うた。」
そう言うのでお登勢は顔を上げると、
「まことにございますか?」
と聞くと重豪は頷き、
「元気にしておったぞ。」
そう言うのを聞いたお登勢は、安心したように微笑んでいた。すると部屋の外から、
「失礼致します。」
という声が聞こえた。そして部屋には、男が入って来た。その男は、
「父上、例の書物にございますが・・・。」
と言うと重豪は、
「おぉ、届いておるぞ。」
そう言い、傍らに置いてあった数冊の書物をその男に差し出した。
浄岸院(この男子こそ、茂姫の弟・島津斉宣しまづなりのぶ【虎寿丸】にございます。)
斉宣は、書物を眺めて目を輝かせているようであった。
その頃、大奥では少しした騒ぎが起っていた。
「姫様は?」
常磐が聞くと一人の女中が、
「申し訳ございません。ちょっと目を離した隙に・・・。」
そう言っていた。その様子を、庭の物陰から茂姫は見ていた。
「あそこにおると、どうも落ち着かぬ・・・。」
そう呟いて茂姫は庭を歩いていると、向こうに男性の影を見た。茂姫はそれを見ると、恐る恐る近付いていった。それは、家治だった。茂姫が落ちていた小枝を踏むと、
「あっ。」
と、声を上げた。すると家治は振り返り、
「誰じゃ。」
そう言った。そして茂姫を目が合うと、茂姫はたじろいだ。すると家治は、
「そなた、島津の姫ではないか。」
そう言うので茂姫は、
「は、はい。」
と言って頷いた。
その後、部屋で家治と茂姫は対面した。家治が、
「成る程、稽古を抜け出してきたのか。」
そう言って笑うと、茂姫も少し恥ずかしそうに笑った。茂姫は、
「あの。上様は、何故あのような所に?」
そう聞くと家治は、
「ちと風に当たろうと思うてな。」
と言うのだった。すると、茂姫はこう言った。
「もしや、田沼様のことでは?」
それを聞くと家治は意外そうな顔をして、
「聞いておったのか。」
と言った。茂姫も、家治を見つめていた。すると家治は、茂姫にこう聞いた。
「そなたは、どう思っておる。」
それを聞き、茂姫はこう答えた。
「私は、田沼様を嫌う何者かが流した噂だと思います。人を妬む気持ちは、誰にでもございます。なので、それを根に持っていた誰かが、天からの災害を田沼様のせいにしたのではないでしょうか。田沼様は、本当に御立派な政を行っておいでです。だからこそ、それを不快に思う方々もおられるのではないでしょうか。」
それを聞いた家治はずっと茂る姫を見つめていると、茂姫は気がついたように半歩下がって、
「これは、出過ぎたことを申し上げました!」
そう言って頭を下げた。すると、家治から笑い声が漏れた。
「ワハハハハ。」
茂姫は顔を上げると、家治はこう言うのだった。
「そうか。気に入った。そなたは、愉快な姫じゃ。」
そう言いながら、家治は笑っていた。茂姫は、少し恥ずかしそうな顔をした。
その頃、おとみが部屋で活け花をしながら常磐の話を聞いていた。
「側室じゃと?」
お富が聞くと、常磐はこう言うのだった。
「はい。姫君様には、若君様に嫁ぐ自覚があまりおありでない御様子。これでは、次なるお世継ぎも心配されます。将軍家にとって政と同様に大切なことは、お世継ぎにございます。どうか、そのことをお考え下さいませ。」
それを聞いたお富が、
「左様なこと、言われんでも分かっておる。側室のぉ・・・。」
と呟き、再び花を活けていた。
そして茂姫は、縁側に出た母からもらった手の中の御守を、見つめていた。すると女中が一人来て、
「姫様、上様がお呼びにございます。」
と言うので茂姫は驚いて振り返り、思わず呟いた。
「えっ・・・。」
その後、家治は茂姫に、
「そうじゃ。今日はそなたに、会わせたいものがおるでの。」
と言うので茂姫は不思議そうな顔をして、
「私に?」
そう聞くと家治が立ち上がり、
「そろそろ参る頃じゃが・・・。」
と言って落ち着かない様子を見せると、異変が起こった。急に家治が、咳き込んだのだった。それを見て茂姫は心配そうに、
「あの・・・、上様。」
と声をかけると家治は、
「大事ない。ごほっ、うぅ・・・っ、うっ!」
そう言いながら、その場に倒れ込んだ。驚いた茂姫はすぐに駆け寄り、
「上様!?誰か、誰かおらぬか!」
と、部屋の外に必死に呼びかけていたのだった。
その後、家治は寝室に寝かされていた。医師が下がると、茂姫は目を閉じている家治を見つめていた。暫くすると、部屋に一人の男が入って来た。その男は、茂姫と同じ年頃のように見えた。茂姫は少し不思議そうにしていると、その男は寝ている家治に触れようとした。すると茂姫は咄嗟に、
「あの!」
と声をかけた。するとその男は、茂姫を見た。茂姫は続けて、
「あの・・・、触れてはなりません。お身体に、障りますので。」
そう言うと、男は家治から離れた。すると、茂姫にこう言ったのだった。
「そなたは、変わっておらぬな。」
「えっ?」
茂姫はそう聞き返すと、その男はこう言った。
「わしの前で、己は男の道具にはならぬと言うておったのに。」
それを聞いた茂姫は驚いた表情になり、
「豊千代様・・・。」
と呟くと、男も言った。
「久方ぶりじゃの。」
それは、家治の養子・徳川家斉とくがわいえなり(豊千代)であった。
「何をしておいでですか?」
茂姫は聞くと、家斉はこう言った。
「父上に呼ばれたのじゃ。どうやら、そなたに会わせたかったらしい。」
茂姫は、家治を見ながら家斉にこう言った。
「覚えておられたのですね。」
「何をじゃ?」
「あの日、海岸で私があなた様に申したこと。」
「忘れるわけがないであろう。女子があれ程のことを言うなど、母上が何と言うか。」
呆れながら家斉が言うので茂姫が、
「話されたのですか?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「いや。しかし、面白き奴じゃと思った。一橋の父上に話したら、自分の妻にしたいと言うておったわ。」
それを聞いていた茂姫は、家斉にこう聞いた。
「あなたは、どう思っておられるのですか?私と一緒になること。」
すると家斉は、こう言うのだった。
「分からぬ。されど、父上は誰でも幸せにできる姫じゃと言っておられた。」
そして家斉は、家治を見つめていた。すると家治が目を覚まし、家斉を見てこう言った。
「おぉ、そなた。来ておったのか。」
それを聞いて家斉は、
「はっ。」
と言った。すること今度は茂姫を見て、
「どうじゃ、驚いたであろう。」
そう言うのを見て茂姫は、
「あの、上様。」
と言うと、家治は言った。
「心配いらぬ。疲れがでただけであろう。」
そして家治は、上を見つめていた。茂姫も、不安そうにそれを見つめていたのだった。
一方、薩摩藩邸にも知らせが届いた。重豪は文を読み終えると、
「公坊様が、お倒れになられたそうじゃ・・・。」
そう言うと、側で聞いていたお登勢も目を丸くした。
「家治様が・・・?」
重豪はそう呟くお登勢の方を見て、
「田沼様の件で、思い悩んでおられた御様子じゃ。これ以上、変な噂が流れては・・・。」
そう言った。するとお登勢が不思議そうに、
「あの、それは・・・。」
と言いかけると重豪は、
「あぁ、何でもない。」
そう言って立ち上がり、部屋を出て行った。お登勢も、それを不安そうに見つめていたのだった。
夕方、城では茂姫が自室で文を読んでいた。それは、お登勢からであった。
『於篤。身体に障りはありませんか。そちらは、公方様がお倒れになり、さぞや大変でしょう。されどそなたは、のちに将軍家を支えるお方の妻とおなり遊ばすお方。何事にも流されずに、自分にできることをすれば良いのです。そして、豊千代様の手足となりなされ。』
茂姫は文を読み終えると薄く笑い、
「母上・・・。」
そう呟いて、窓の外を見ていたのであった。
その夜、水野忠友が慌てて城の一室に駆け込み、座ると重豪にこう話した。
「大変にございます!とんでもない噂が流れておりまする。」
それを聞いた重豪は、
「それは、どのような?」
そう聞くと、忠友はこう答えるのだった。
「田沼様が、公方様付の医師に公方様の薬に対して、毒を盛らせたと。」
忠友の話に、重豪は耳を疑った。
「何と・・・。」
すると忠友は続けて、
「それだけではございません。田沼様は二年前に起きた、ご自身のの長男が斬り殺された事件の責任は公方様にあると他の老中に話しておられたと聞きます。」
そう言うのを聞いた重豪は、
「まさか・・・。」
と呟くと、忠友も顔を暗くしてこう言った。
「その敵討ちではないかと。」
それを聞いた重豪は、
「しかし公方様が仰せられるには、お疲れがでただけだと・・・。」
と言うと忠友が、
「されど油断は禁物です。田沼様には、しかと目を光らせる必要がございます。」
そう言うのを聞いた重豪は、仕方なさそうに忠友を見つめていた。
ある日の夕方、家治は依然として病床に着いていた。すると、
「失礼致します。」
と言う声がするので、家治は襖の方を見た。すると襖が開き、茂姫は顔を上げた。
「おぉ・・・、そなたか・・・。」
家治はそう言うと、起き上がろうとした。すると茂姫は、
「あぁ!どうかそのままで。」
そう言うので、家治は再び横になった。家治は、
「わしももう五〇じゃ。家基が、呼んでおるのかのぉ。」
そう呟くのを聞き、茂姫はこう言った。
「家基様は、上様の大事なお世継ぎだったのですね。」
それを聞いて家治は、
「あぁ。彼奴は、よく政に対して口を挟んでおった。されど幼い頃は、人懐っこい性格でのぉ。ようわしの所へ遊びにきておった・・・。」
そう言うのを、茂姫も見ていた。そして家治は続けて、
「家基に、早う会いたい・・・。昨夜、彼奴が夢でこう言ったのじゃ。“父上と、また話したい”と・・・。もうすぐ、会えるかのぉ・・・。」
そう言うのを聞いた茂姫が、
「なりませぬ。家基様とて、上様にはまだ生き続けて欲しいと思っておられるはずです。それに・・・。」
と言いかけると家治は、
「ならば・・・!」
そう言うので、茂姫は黙って家治を見つめた。そして家治は続けて、
「ならば何故、家基は死んでしもうた・・・。」
と言うのを聞いて茂姫は家治を、
「上様・・・。」
と呟きながら、見つめ続けていた。すると家治は、急に茂姫の手を握った。
「姫よ・・・。そなたはこの先、豊千代を支えるのじゃ。」
「私が、家斉様を?」
「将軍を支えるのが、御台所の役目である。」
「はい・・・。」
茂姫はそう言って戸惑っていると、家治はこう言うのだった。
「案ずるな。わしには分かる。そなたは、人を幸せにできる子じゃ・・・。」
それを聞いた茂姫は、
「私が、人を幸せにできる・・・。」
そう繰り返すと家治も、
「そうじゃ。そなたは愉快な姫じゃ。必ずや、あの者の励みとなるであろう。」
と言った。茂姫は泣きそうになりながら、
「私が人を幸せにできるのであれば、今ここで、上様を助けとうございます。」
そう言うので家治は少し黙ったあとで、こう言うのであった。
「・・・ならば、一つだけ願いがある。」
それを聞いて茂姫は涙を堪えながら、
「何にございましょう・・・?」
と聞くと、家治はこう言った。
「・・・笑ってはくれぬか・・・?」
そう言うので茂姫は、
「上様・・・。」
と呟くと、家治は続けてこう言った。
「最後に、そなたの笑顔を見たいのじゃ。頼む・・・。」
それを聞いて茂姫は、
「わかりました。」
と言って、泣きながらも微かに微笑んでみせた。すると家治も笑い、
「そうじゃ・・・。それでよい・・・。」
そう言って茂姫の手を強く握ると、茂姫も涙を流しながら微笑み続け、手を握り返した。家治は、
「そなたが、あの者を幸せにするのじゃ・・・。」
そう言うと茂姫は小さく首を横に振り、
「されど私は・・・。」
と言いかけると、家治はこう言うのだった。
「大丈夫じゃ。楽しき時は共に楽しみ、悲しき時は共に泣く・・・。そうやって、感情を共に分け合う。それが、夫婦というものじゃ。」
それを聞いて茂姫は決心を固めたように微笑み、
「ご安心下さいませ。私が、家斉様をお支えいたします。」
と言うのを聞いた家治は、安心したように頷いて、茂姫の頬に手を当てた。茂姫も、笑って家治を見つめていたのだった。
浄岸院(徳川家治様が御薨去遊ばされたのは、天明六年八月二五日のことでございました。)
一七八六(天明六)年八月二五日。その日は、雨が降っていた。一室では、遺体が寝かされていた。亡くなった家治の顔を覆っていた白い布をめくり上げたのは、家斉であった。家斉は、涙一つ見せずに何も言わなくなってしまった家治を見つめていた。家治付の奥医師は、家斉にこう言った。
「公方様は、最後まで若君様のことを案じておられました。」
それを聞いても、家斉は表情を一つ変えずに家治を見つめ続けていたのである。
一方、江戸の一橋邸に重豪が足を運んでいた。重豪が、
「田沼様が、上様の勘気を被ったというのはまことでしょうか。」
と聞くと、家斉の実父・一橋治済ひとつばしはるなりはこう言った。
「まことかどうかは分かり兼ねますが、他の者達から反発を買っておられるのは事実。それに・・・。」
「それに?」
重豪は聞くと、治済はこう言うのだった。
「少し、妙な噂を聞きましてな。」
「それは?」
重豪は聞いた。
その頃、水野忠友が暗い部屋である書状のようなものを書いていた。
浄岸院(次々に田沼様を辞職に追い込むような噂が流れ、ついに・・・。)
田沼意次は、部屋で書状を読みながら膝で強く拳を握り、
「あの者めが・・・!」
と言い、書状を放り投げていた。
浄岸院(家治様の死から間もなくして、田沼様は幕府から身を退くことになったのでございます。)
老中達がそのことを話題にしているのを見て、忠友はニヤリとしていた。
浄岸院(そして、家治様御薨去の知らせが公にされたのも、それから間もなくのことでした。)
茂姫が部屋でその知らせを聞き、
「上様が・・・。」
と呟くと、年寄の常磐がこう言った。
「はい。されど若君様は、涙一つ見せなかったと。」
常磐の話を聞いた茂姫は、思わずこう呟いたのだった。
「何故じゃ・・・。」
「はい?」
常磐が聞き返すと茂姫は続けて、
「家斉様は、上様の養子ではないか。大切なお方が亡くなっておいでなのに、何故悲しもうとなさらぬのであろうか。」
そう言うので常磐も首を傾げ、
「さぁ・・・。」
と言うと茂姫は、
「確かめとうなった・・・。」
そう言うと立ち上がり、部屋を出て行こうとした。すると常磐も、
「姫様、どちらに!」
と聞くと茂姫は振り返り、こう言った。
「若様と話がしたい。そう伝えよ。」
それを聞いた常磐は慌てて、
「なりませぬ!それだけは!」
と言うと茂姫は、
「よいではないか。どうしても確かめたいことがあるのじゃ!」
そう言った。しかし常磐は大声で、
「なりませぬ!!!」
と言うのだった。茂姫は溜息を吐き、その場に座り込んだ。そして、廊下の外を見て驚いた。
「何をされておられるのです・・・。」
廊下には、家斉が立っているのだった。家斉は、
「あ、いや・・・。」
と戸惑っていると茂姫は常磐の方を振り向き、
「思いは通じておったようじゃ。そなたの負けじゃ。」
そう言うと常磐は仕方なさそうに、
「はぁ・・・。」
と、言って茂姫を見つめていた。
その後、家斉と茂姫は一室にて二人だけで向き合った。茂姫は、
「上様、逝ってしまわれましたね・・・。」
と言うと家斉は、
「あぁ。」
そう返した。すると不思議に思った茂姫は、
「将軍になられるのに、嬉しそうではないのですか?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「この年で将軍になっても、何ができるのか・・・。」
それを聞いて、茂姫は言った。
「家治様に言われました。あなた様をお支えせよと。」
「そうか・・・。」
家斉はそう言った。茂姫が、
「あの、今日は何故こちらに?」
そう言うと家斉は一瞬焦ったように、
「あ、あぁ。何故か、そなたの顔が見とうなってな。」
そう言うので茂姫も、
「えっ?」
と言い、恥ずかしそうにする家斉を見つめていた。茂姫は、
「家斉様。」
と言うと家斉は少し驚いたように、
「何じゃ。」
そう聞くと、茂姫はこう聞き返した。
「家治様がお亡くなりになられた際に、涙一つ見せなかったというのは・・・。」
すると、家斉は最後まで聞かずにこう答えた。
本当まことじゃ。」
それを聞いた茂姫は、こう言った。
「それは、お母上にそう教えられたからで・・・。」
家斉はまた茂姫が最後まで言う前に、
「いや、違う。別に悲しゅうならなかったからじゃ。」
と言うので、茂姫はこう言うのだった。
「何故ですか?家治様は、あなた様の義理のお父上なのですよ?それなのに、慕っておいでではなかったのですか?」
「そうではないが・・・。」
「ならば、何故、悲しもうとはなさらぬのですか!?」
俯いて答える家斉に、茂姫はそう言うのだった。そして、家斉は上を見ながら答えた。
「父上と同じじゃ。」
「えっ・・・。」
茂姫は声を詰まらせ、家斉を見続けていた。すると家斉は立ち上がり、窓の前に立ってこう言った。
「わしのまことの父は、正室が死んだ時も、涙一つ見せておらぬかった。父上は、その後言うておった。自分が死んだわけでもないのに、涙を流すなと。」
家斉は振り向くと、茂姫を見つめてこう言った。
「わしは他人より自分のことしか考えぬ、自分勝手な人間じゃ。到底そなたには、わしの気持ちは分からぬであろうな。」
それを聞いた茂姫は、
「・・・分かりませぬ。分かりたくもありませぬ、そのような気持ち。」
そう言うと立ち上がり、
「私は、そのような人間にはなりたくありませぬ!」
と言い、部屋を出て行こうとした。すると家斉は、
「まったく、面白き姫じゃの。」
そう言うので茂姫は立ち止り、振り返ってこう言った。
「私とて、好んで面白くなっておるのではありませぬ。」
それを聞いた家斉は、いっそにやけた。すると茂姫は負けじという顔になり、
「家斉様にも、私の気持ちは分かりませぬ。そして、分かって欲しくもございません。」
と言い捨てると、早足で部屋を出て行った。それを笑って見送っていた家斉は、次第に笑顔が薄れていっていた。
その後、茂姫は縁側に座って母からもらった御守を見つめていた。すると側にひさという名の侍女が来て座り、
「姫様。」
と言うと、茂姫はこう言った。
「家斉様は・・・、無理をしておられる。」
「はい?」
ひさがそう言うと茂姫は続けて、
「もうすぐ将軍におなり遊ばすお方・・・。それだけで、賢く振る舞わなければならぬのじゃな。」
そうのを聞いてひさも、
「はい・・・。」
と言って、ゆっくり頷いた。茂姫は御守を握りしめながら、
「お城へ上がる前、母上が言うておった。“女子であっても、生まれてくることに意味がある”と。私は、誰が何と言おうと、自分に正直に生きたい。私は、あのお方の支えとなりたい。」
そう言うのを聞いたひさも、こう言った。
「私も、姫様のどこまでもついて参る所存にございます。」
すると茂姫は振り返ってひさを見ると笑顔で、
「宜しく頼むぞ。」
そう言うのを聞いたひさも笑って、
「はい!」
と、返事をしていた。茂姫は表情を変えずに、再び庭を向いていた。
そして薩摩藩邸では、部屋に島津重豪がいた。すると息子の斉宣が入って来て座り、
「お呼びでしょうか、父上。」
と言うと、重豪もこう言った。
「上様が、御薨去遊ばされたそうじゃ。」
「そうですか・・・。」
斉宣はそう言うと、重豪は斉宣の方を向いてこう言った。
「わしも・・・、そろそろ政から身を退こうと思うてな。」
それを聞き、斉宣は黙って父を見つめていた。すると重豪が続けて、
「家督を、そなたに譲ろうと思う。」
と言うので斉宣は驚いた表情になり、
「私に?」
そう言うと重豪は、
「そうじゃ。そなたはまだ若い。それ故、分からぬことも多いであろう。されど、もうこの島津家を託しても良いと思うたのじゃ。」
と言うので斉宣は、こう言うのだった。
「されど、私はまだ・・・。」
すると重豪は、こう言った。
「分かっておる。わしもまだ、完全に身を退いたわけではない。」
それを聞いた斉宣は、
「えっ。」
と言うと重豪は立ち上がり、斉宣に聞いた。
「そなたは、政の次に大事なことは何か知っておるか?」
それを聞いて斉宣は不可解そうな顔をして、
「いえ・・・。」
と言うと、重豪は振り向いてこう言った。
「世継ぎを儲けることじゃ。」
「世継ぎを?」
斉宣はそう聞き返すと重豪も、
「あぁ。よく家治様も、そう仰せであった。」
そう言ってしゃがみ、斉宣の右肩を持つとこう言った。
「そなたのこれからの役目は一家を支え、相続することである。」
それを聞いて斉宣が、
「はい!」
と言うと、重豪も嬉しそうに頷いていたのである。
浄岸院(こうして翌年、重豪殿が息子の斉宣に家督を譲り、一四歳の若さで斉宣は島津家第二六代当主となったのでございます。)
一七八七(天明七)年一月、斉宣は上座に座り、その式を受けていた。
浄岸院(その僅か三ヶ月後・・・。)
四月一五日の江戸城では・・・。
部屋では立派な着物を身に纏った家斉の前には、何人かの女性がいた。家斉の目の前にいたお富は、家斉にこう言うのだった。
「若様。将軍にお成り遊ばすからには、今までのようには参りませぬぞ。」
家斉も微笑み、
「母上。御心配には及びませぬ。では、行って参ります。」
と言うと、立ち上がって部屋を出て、廊下に控えていた老中を引き連れて表へと向かっていった。それを見て常磐がお富に、
「御立派になられましたね。」
耳元でそう言うと、お富も、
「当然じゃ。」
そう言って、笑っていた。
その後、表では家斉は老中達に囲まれ、将軍就任の儀式が行われていた。多くの老中が一斉に平伏し、その上座に家斉が座っていた。
浄岸院(家斉様は、一五歳の若さで第一一代征夷大将軍となられたのです。この政権は、この先どの将軍よりも長く、五〇年続くこととなることは、この当時はまだ誰も知る由はございません。)
その頃、薩摩藩邸では重豪とお登勢が話をしていた。
「今日、家斉様が正式に将軍とお成り遊ばしたそうじゃ。」
重豪はそう言うとお登勢も、
「次は、婚礼にございますね。」
そう言うので、重豪は遠くを見つめてこう呟いた。
「於篤もついに、御台所か・・・。」
それを聞いてお登勢は、
「はい。」
と言っていた。
それと同じ頃、茂姫も母からの御守を部屋で大事に握りしめていた。
その日の夕方、お富の部屋にある女性が呼ばれていた。
「面を上げよ。」
お富が言うと、その女性は顔を上げた。常磐がお富に、
「おたのと申します。この者を、どうか上様のお付にして頂きたく、お城へ上がらせました。」
そう言うとお富は、お楽という娘を見つめ、こう言った。
「そなたの役目は二つ、上様のお子を儲けること。そして二つ目は・・・。」
その様子を、隣で大奥年寄の大崎おおさきも見ていた。お富は続け、
「二つ目は、御台所となる姫君じゃ。あの娘を相手に気付かれぬよう見張り、何かおかしなところがあればすぐに知らせるのじゃ。」
そう言うとお楽は、
「・・・はい。」
と言うと手をつき、ニヤッとした。
その頃、そうとは知らない茂姫は縁側に出て縫物をしていた。それをすぐ後ろから、ひさが見守っていた。そして茂姫は、顔を上げて遠くを見て笑っていた。


次回予告
茂姫「家斉様は、弱虫にございます!」
徳川家斉「あ?」
お富「田舎の娘ごときに何ができる?」
茂姫「お子を生みます!」
  「側室!?」
お万「お万と申します。」
重豪「於篤には、荷が重すぎたな・・・。」
お万「姫様は、お強いのですね。」
茂姫「私は、負けぬ・・・。」
家斉「わしは、自分と似ておる人間が嫌いじゃ。」



次回 第四回「女の腹心」 どうぞ、ご期待下さい!

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