寵愛の精霊術師
第22話 あとしまつ
『憤怒』との戦いから、一週間が経過した。
あの後オレは学院内の他の場所にも向かったが、アミラ様が加勢してくれたお陰で、『憤怒』との戦闘は終わっていた。
ダリアさんは軽傷で、ウルゾフ先生は重傷を負っていたものの、命に別状はなかった。不幸中の幸いだ。
『憤怒』が使役している魔獣に寄生されていたニコルド先生も、光精霊たちが頑張ってくれたおかげで一命を取り留めることができた。
ただし、全く犠牲者を出さなかったわけではない。
他の『憤怒』と戦っていた先生や生徒の中には、殺されてしまった者も数多くいた。
今回の事件は、王城にいた貴族や衛兵が七十一名、ディムール王立魔法学院では教師や生徒が三十三名、合わせて百四名もの命が失われる大惨事となった。
当然のごとく学院はしばらく休校になり、ディムール王国は水を打ったような静寂に包まれていた。
戦いの後で意識を取り戻したフレイズは、しばらく家で療養することになった。
『憤怒』と相対して無事だっただけでも相当幸運だったが、それ以外の観点から見るとあまり状況は芳しくない。
まず、議会におけるフレイズの発言力の低下するのではないかという懸念だ。
『憤怒』に殺されてしまった貴族たちは、フレイズ寄りの人間が大半を占めていた。
それらの人たちが死んでしまったせいで、フレイズとは異なる勢力の貴族たちが台頭し始めているらしい。
とにかくこの辺は、オレが心配しても仕方のないことなので、気にかけておく程度でいいだろう。
さらにオレには、少し気になったことがあった。
武人であるフレイズは、剣のほうの腕も一流のはずなのだ。
なのになぜ、フレイズはわざわざ魔術で『憤怒』と戦おうとしたのだろうか。
それを本人に尋ねてみたところ、
「……わからない。ただ、奴と相対していた時に、剣を使おうと考えつかなかったことだけは事実だ」
どうやら今になって思い出してみると、フレイズにとっても不可解な行動だったらしい。
そこでオレは、一つの能力に思い至った。
――『思考誘導』。
おそらく、奴は『思考誘導』の能力を使ったのだ。
無力感を植え付けるために魔術の使用は制限しなかったようだが、自身にとって脅威となり得る剣術の使用を禁じた、と考えれば説明がつく。悪辣すぎて吐き気がした。
ちなみにこの能力はオレも持っているが、使い方がイマイチわからないので放置していた。
実は、『思考誘導』のように、開放されてはいるものの、使用方法がわからないために使えない能力が割とある。
それらを使えるようになれば、オレはもっと強くなれるはずだ。頑張って使えるようにしてみようと思う。
気になることと言えば、他にもある。
「どうしてオレは、『大罪』の魔術師の話を知らなかったんだ……?」
オレはキアラからその概要を聞くまで、『大罪』の魔術師のことを全く知らなかった。
それに対して、クレアやロードは、『大罪』の魔術師の概要くらいは知っていた。他の子供たちは知らなかったようだが。
さらに、子供ならともかく、一部の教師も『大罪』について全く聞いたことがなかったらしい。
どうやら、『大罪』の魔術師というのは意外とマイナーな存在のようだ。滅多に来ない天災のようなイメージなのだろうか。
しかしオレも、フレイズの書斎に篭って本を読みあさっていた時期があったわけで。
あれだけの蔵書があって、『大罪』の魔術師のことが詳しく記述されている本が一冊もない、なんていうことがあるだろうか。
いや、でもクレアは自分を狙っている勢力について多少は知っているようだし、ロードは天才だ。オレが知らなくて二人が知っていることがあっても何らおかしくないのかもしれない。
これは偶然なのだろうか。
……考え過ぎ、か。
あと、ロードから聞いた、カミーユが連呼していた『アリス』という名前の魔術師についてだが、こちらはオレも聞いたことがあった。
『殺戮の魔女』の話はこの世界では有名だ。
まあこういうイカレた殺人鬼は、どこの世界にもいるということだろう。
「その名を口に出すことすらはばかられる、ねぇ……」
名前を恐れる、という気持ちはわからんでもないが、それはさらなる恐怖を抱くことにつながる。あまりいい解決策とは思えない。
まあ、オレは普通に名前で呼ぶことにしよう。
『憤怒』と『殺戮の魔女』の関係は不明だ。
ロードから話を聞いた限り、旧友のような間柄だったようだが……『憤怒』の言葉をまともに間に受けていいものか。
これについては、調べてもロクな情報を得られない気がする。
とりあえず、『憤怒』の件はこんなところだろうか。
オレは自室のベッドで寝返りをうちながら、他に何か考えるべきことがなかったか記憶をたどる。
あとは、そうだな。
「ラルくん! 暇だし、カタリナちゃんに勉強教える時間になるまで遊ぼうよー」
なんか、誰かのこと忘れてるような気がするけど、気のせいだよな。
あ、今日はカタリナに勉強を教えてやる日だった。
カタリナがこの部屋に来るのはもう少し時間が経ってからだろうが、念のために早めに準備しておくか。
「ラルくん! ラルくーん!」
ベッドから身体を起こして、机のほうへと向かう。
教科書はどこにしまったかな。
ああ、そうだ。この前掃除したときに棚の上に置いたまま放置したんだった。
「ラルくーん! ……あれ? ひょっとして無視されてる?」
……幻聴かな。
誰もいないはずなのに、さっきから何か馬鹿っぽい声に名前を呼ばれてる気がする。
「ラルくん……もしかして怒ってる?」
「怒ってないよ。オレたちがものすごい大変な思いをしてたときに、何を考えてその辺をほっつき歩いてたんだこのアマとか、肝心なときにいねえなこのダメ幽霊とか、全然思ってないから」
「やっぱりめちゃくちゃ怒ってるよね!? ごめんなさいラルくん……嫌いにならないでよぉ……」
いかん、間違えて返事してしまった。
幻聴に返事するなんて、まるで精神病の人みたいじゃないか。怖い怖い。
「ラルくぅん……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
ガチ泣きだった。
今まで見たこともないほど顔を泣き腫らし、オレの足元で泣き続けているキアラ。
そんなキアラの様子を見て、さすがにやりすぎたことを悟った。
「……わ、わかった。オレもちょっとやりすぎたよ。無視して悪かった。ごめん」
「うぅ……ラルくん……ラルくぅん……」
謝りながら、キアラの頭をぽんぽんと撫でる。
でも普通、ちょっと無視しただけでこんなに泣くか……?
いや、キアラにとってはよほどショックだったのだろう。
キアラはオレと出会う前は、一切人間に干渉できなかった。
そんなキアラにとって、自分の声がほかの人に届かないというのは想像以上の苦痛であるに違いない。
「……ラルくんは、どこにもいかないよね?」
蚊の鳴くような声で、キアラがポツリと呟く。
「どこにも行かねえよ。オレはずっと、キアラと一緒にいる」
本心からの言葉だった。
たしかにキアラは肝心なときにいないし、いたらいたでうるさいし、幽霊だし、隠し事も多い。
でもキアラは、オレのことを好きだと言ってくれたし、たしかにオレのことを大切に思ってくれている。
それだけで十分だった。
「ごめんねラルくん。いつか絶対に話すから」
キアラはオレに撫でられながら、決意を秘めた目をしていた。
まあ、いつか話してくれるならいい。それぐらいのことで、キアラを嫌いになったりはしない。
あ、でも一つ、これは聞いておきたいということがあったのを思い出した。
「キアラは、どの程度までなら魔術を扱えるんだ?」
前に聞いたときは誤魔化されたが、少し後ろめたさがあるであろう今なら、正直に答えてくれるのではないかと考えたのだ。
我ながら姑息な手段だと思わないでもなかったが、キアラは苦笑いを浮かべながらも答えてくれた。
「あんまり言いたくなかったんだけど……とりあえず、全属性で精霊級までは扱えるよ」
「……は?」
こいつは今なんて言った?
精霊級? しかも全属性で?
「……なんか、めちゃくちゃ驚いた顔してるね、ラルくん」
「いや、あまりにも予想外すぎて……てっきり行ってても皇級に片足突っ込んでるぐらいかと思ってた」
あのアミラ様ですら、精霊級の魔術を扱えるのは火属性と水属性だけなのだ。
それを考慮に入れると、キアラの発言がどれだけぶっ飛んだものかわかるだろう。
この幽霊は今、この国の最高戦力であるアミラ様よりも強いと言い出したのだから。
ちなみに、精霊級と言っても、集めた精霊の力を十全に使えるわけではない。少なくともアミラ様はそうだと言っていた。
「じゃあ、キアラ。ちょっとキアラに頼みたいことがあるんだけど」
「最後まで言われなくてもわかるよ。……魔術を、教えて欲しいんだね」
「ああ。今度はいつ、『憤怒』みたいな奴の襲撃があるかかったもんじゃない。そのときに、みんなのことを守れるだけの力を身につけておきたいんだ」
オレたちは、強くならなければならない。
迫り来る悪意に対抗できるだけの力を身に付けなければならないのだ。
「……そうだね。ラルくんなら、間違わないよね」
「もちろん。オレはキアラがいる限り、間違った道には進まないさ」
オレがキアラの頭を撫でながらそう言うと、キアラは目を見開いた。
そして、その瞳をゆっくりと閉じると、
「ねえ、ラルくん」
「ん? どうしたキアラ」
自分でもびっくりするぐらい優しい声が出た。
オレの腕の中で穏やかな顔をしているキアラが、こちらを見て、
「もし私が道を踏み外しそうになったら……そのときは、ラルくんが私を止めてくれる……?」
……そんなの、答えなんて一つしかないに決まっている。
「当たり前だろ。何があっても、どんなことがあっても、オレはキアラの味方だ」
「……よかった」
オレの言葉を聞いて安心したのか、キアラはオレの腕の中で異常なほどリラックスしている。
とりあえず、今日はアレだな。
この幽霊、情緒不安定だわ。
「ラルくん」
「どうした、キアラ?」
「うふふ、呼んだだけー」
はにかみながら、身体を擦りつけてくるキアラ。
その仕草に、不覚ながらもドキッとしてしまう。
「ラルくん」
「ど、どうした、キアラ」
「……大好きだよ」
身体が触れ合う部分が暖かい。女の子特有のいい匂いもする。
……あれ?
なんかちょっとクラクラしてきた。
「お、オレも……その……好き、だよ」
「ラルくん、すごい顔赤いよ?」
「そっ、そんなことないから。気のせいだから」
まずい。顔が熱い。
自分の顔が赤くなっているのがわかる。
なんだよこいつ。なんでこんなに可愛いんだよ。
お前はポンコツ幽霊のはずだろ。自分のキャラを貫き通せよ。
「えへへー。ラルくーん」
キアラの手が、オレの手をにぎにぎしている。
まだオレの手の方が小さい。
そんなキアラのしぐさ一つ一つを可愛いと思ってしまっているオレは、もう末期なのだろう。
「どっ、どうした?」
頬を紅潮させたキアラは、上目遣いでこちらを見ながら、一言。
「……キス、しよ?」
――心臓が飛び上がるかと思った。
「え? いや、あの、そういうのは」
咄嗟に拒絶するような言葉を口に出したが、キアラの唇から目を離すことができない。
桜色の可憐な唇が、オレを求めている。
そのことに、言いようのない興奮を覚えていた。
「カタリナちゃんにはキスしてたのに、私にはしてくれないの?」
そう言って、キアラは唇を尖らせる。
……見られてたのか。
いや、でもあの時は口移し以外に方法がなかっただけだ。決して他意はない。
そのことを伝えようとして、キアラの目を見た。
「き、キアラ……」
キアラの目は欲情に濡れていた。
「ごめん、ラルくん。もう我慢できない」
次の瞬間、オレの口がキアラの唇に塞がれていた。
「!?」
慌ててキアラを引き剥がそうとしたが、キアラの肩にかけた手を動かすことは、できなかった。
キアラにキスされるのは、嫌じゃなかったから。
「ふふっ」
オレが拒絶していないことを察したのだろう。
キアラが、オレの口内に舌をねじ込んできた。
「んっ――」
淫らな音を立てて、ざらざらとした舌と舌が絡み合う。
思考がまとまらない。
キアラの荒い息遣いが耳に入り、オレの興奮はどんどん高ぶっていく。
……どれぐらいの間、そうしていただろうか。
やがて、キアラのほうが唇を離した。
オレとキアラの唇の間に、銀色の橋が掛かる。
「ずっとずっと、こうしたかった」
「ちょ、キアラ……」
オレが昔、カタリナにしたキスが可愛く思えてくる。
これはちょっとシャレにならない。
「ラルくん、どう? 気持ちよかった?」
キアラの大きな目に顔を覗き込まれた。
もちろん気持ちよかった。
……気持ちよかったのだが、それを口に出すことははばかられた。
「我慢しなくていいんだよ、ラルくん」
「ひゃあ!」
キアラに耳たぶを甘噛みされたせいで、喉から変な声が漏れてしまった。
なんだこれ。
こんなのオレが出す声じゃない。
「き、気持ちよかった……」
無意識のうちに、そんな言葉を発していた。
「じゃあ、もっとしよ?」
「……うん」
抗えない。
今のキアラは、まるでサキュバスのような蠱惑的な魅力を醸し出していた。
もっと欲しい。
もっとキアラが欲しい。
それだけを考えて、雛鳥のように舌を突き出した。
「……ラルさま? 何してるんですか?」
「…………」
今、聞こえてはいけない声が聞こえた気がする。
おそるおそる、声がしたドアの方を見た。
部屋の入り口のところに、怪訝そうな顔をしたカタリナが立っていた。
「かっ、かかかかかカタリナ!? どうしてここに!?」
「どうしてって……今日はラルさまにお勉強を教えてもらう日じゃないですか」
そうだ。そうだった。
カタリナに勉強を教えてやるために、教科書も発掘してたじゃないか。
すっかり忘れていた。
というか、カタリナから見れば、今のオレはどう映っているのだろうか。
……ああ、うん。
何もないところに向かって、唇と舌を突き出してた変態にしか見えなかったよね、間違いなく。
カタリナは一瞬硬直したが、すぐに笑顔を浮かべて、
「今日はラルさまの具合が悪そうなので、また明日に失礼させていただきますね」
「待ってくれカタリナ! 誤解だ! 誤解なんだ!」
「えっ……。ラルくん、私に言ってくれたことは嘘だったの……?」
「あー、もう! お前がいると話がややこしくなるから黙ってろ!」
結局そのあと、カタリナの誤解? を解くことに成功したオレは、本日の分の勉強をしっかりとカタリナに教えてから、一人で寝床についたのだった。
……今日も我が家は平和でした。はい。
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