寵愛の精霊術師
第93話 Chiara's memory 6
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それからようやくまともに動けるようになり、私は彼――ラルくんに干渉し始めた。
不思議なことに、ラルくんにだけは私の声が聞こえるし、触れることもできた。
それは、やはりこの子が前世の彼なのだと確信する要因でもあった。
他にも、彼の様子を見ていて気づいたことがあった。
おそらく彼は、私のことを覚えていない。
それどころか前世の記憶はほとんどなく、自分がなぜ死んだのかも覚えていないようだった。
もちろん彼は、私と同じように自分の名前も覚えてはいなかった。
でも、それでもいい。
彼はこの世界で、ラルフ・ガベルブックとして生きていけばいいのだから。
一方私はというと、アリスという名前を名乗ることに忌避感があった。
アリス・シェフィールドが暴虐の限りを尽くしていたのはもう百年ほど前のことだったが、アリスという名前をラルくんが調べたら、すぐに私の正体に思い至るだろうと思ったからだ。
だから、自分のことをキアラと名乗った。
物語の中で、皆に幸せを与える女の子の名前を。
いつか彼に真実を話さなければいけないと知りながら、私は彼に嫌われたくなかったがために、本当のことを話すのを躊躇ったのだ。
ラルくんは天才だった。
生まれつきの能力や、魔術的な才能にも恵まれていた。
それは、そう。今世での私に匹敵するほどに。
強い力には大きな責任が伴うことを、私は痛いほど理解していた。
私のように、ラルくんを悪の道に進ませないためにも、彼を守り続けなければならないと思った。
間違った道に進まないというのはもちろん、私自身にも言えることだった。
独占欲や嫉妬が、全てを滅ぼす危険を持つこともわかっていた。
だから私は、彼がクレアちゃんやカタリナちゃんといった、他の女の子たちに目移りしても我慢した。
この世界は前世と違い、一夫多妻でも何も問題はないのだ。
前世のラルくんはそれなりに一途な性格だった気がするのだが、転生した影響なのか、けっこうなたらしになっていた。
それでも、ラルくんはラルくんだったが。
そんな細やかな不満はあるものの、ラルくんは私のことを見てくれている。
大きな問題ではなかった。
……再び転機が訪れたのは、ラルくんが七歳になり、王都で入学試験を受けに行く道中でのことだった。
ラルくんと楽しいお話を繰り広げている途中で、道の先に何かよくない気配があることに気付いたのだ。
それの正体は『憤怒』の魔術師、カミーユが使役する合成獣だった。
魂を司る『憤怒』の力をもってすれば、私が魂だけの存在になって生き永らえていることを彼女たちに知られる危険があった。
その時はラルくんにカミーユの相手をしてもらい、私の存在が知られることもなかったのだが……やはりいつまでも隠し通せるものでもなかった。
「――ああ。あぁ! あぁぁあ! ああ! やっと! やっと見つけた!」
ラルくんとアミラという精霊級魔術師が、王城に出現した『憤怒』の撃退に向かっていた頃、他の合成獣を使って学院に攻めてきたカミーユが、私の存在に気づいてしまったのだ。
その時の状態は、まるで私がラルくんの友人であるロードくんを庇うような形になってしまっていたが、私は気にもしていなかった。
その後はラルくんが来て『憤怒』の合成獣は一匹残らず片付けられたが、結局私の存在はカミーユたちに知られてしまった。
そして、ラルくんが十一歳になった頃。
運命の歯車は再び回り始めた。
エノレコート城で、クレアちゃんのお兄さんのクルトさんが惨殺された、あの時から。
ラルくんはその瞳に憎悪を宿し、エノレコートに復讐するために軍に志願した。
……あの時、私は何が何でもラルくんを止めるべきだったのだ。
私がもっとしっかりラルくんから話を聞き出して、ラルくんの敵がエーデルワイス――『色欲』の魔術師だとわかっていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
ラルくんから家にいるみんなを任された私は、自分の役目を果たそうと意気込んでいた。
もっとも、今の私でも精霊級程度の力は残っている。
どんな敵が来てもなんとかなると思っていた。
……あの朝のことは忘れない。
カタリナちゃんと一緒に家にいると、今まで見たことのない表情をしたロードくんが訪ねてきたのだ。
その後ろに、おぞましい気配を連れて。
「おはようございます、アリス。とても気持ちのいい朝ですね」
――さすがの私でも、霊体のまま『嫉妬』として覚醒したロードくんと『憤怒』の魔術師カミーユを同時に相手にできるほどの力は残っていなかった。
抵抗もむなしく、私たちはカミーユに捕らえられ、王城の地下牢に連れて行かれた。
そのあとでカミーユと合流したエーデルワイスが、ロードくんの姿を見て少し驚いていたが、理由はよくわからない。
王城の地下牢で、私はカミーユに読心の魔術を使われた。
私の心の中がおぞましい魔女に筒抜けになる恐怖はあったが、それよりも恐ろしかったのは、私の秘密がラルくんに知られてしまうことだった。
……それからしばらくして、私は拘束されたままのラルくんと再会した。
エーデルワイスが楽しそうに私の秘密を暴露しても、ラルくんは私のことを信じてくれていた。
信じようとしてくれていた。
それがたまらなく愛しくて、自分が情けなかった。
そしていよいよ、ラルくんが処刑されそうになったところで、私は思わず声を上げていた。
なぜラルくんがこんな目に遭わなければいけないのか。
ラルくんを殺すぐらいなら、私を殺せばいい。
それは交渉でもなんでもない、馬鹿な女が癇癪を爆発させただけの無様な叫びだった。
だから、エーデルワイスから「アリスがこの世界を浄化してくれたら、ラルくんを無事に返してあげる」と言われた時、私の心は揺れた。
でも、ラルくんは言ったのだ。
そんなの、ダメに決まってるだろ、と。
私のことを好きだと言ってくれた。
好きなところをいっぱい挙げてくれた。
私のことを、キアラはキアラだろと、言ってくれた。
ラルくんがこの世界で一番頼りにしていて、最高に魅力的な子だと、そう言ってくれた。
だから、私も叫んだ。
ラルくんと一緒に生きたいと。
生きて、みんなで幸せになりたいと。
このとき、私はこれ以上ないほど救われたのだ。
だが、そんなことをエーデルワイスが許すはずがなかった。
動けないロードくんの代わりに、あの女がラルくんの首を撥ねた。
あまりにもあっけなかった。
くるくると回りながらラルくんの頭が地面に落ち、トマトのようにぐちゃりと潰れる。
そんな光景が網膜に焼き付き、私はただ狂乱して叫ぶことしかできなかった。
そんな私を、赤い棺の中から生えた触手が捕まえる。
あまりにも深い闇をたたえたそれに、しかし私は懐かしさも感じていた。
遅れて理解する。
私の身体が、『傲慢』が、再び私と一つになろうとしているのだと。
私はそれを受け入れた。
『傲慢』……そして『憤怒』の魂を司る力があれば、ラルくんを蘇らせることもできるはずだ。
暗く深い闇に沈みながら、私はただ、ラルくんのことだけを考えていた。
――もう一度、必ずラルくんを取り戻す。
世界をやり直して、必ずラルくんを迎えに行く。
そう、決めた。
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