紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 むかし、むかし。京の都にナリヒラという若い男がいた。ナリヒラは宮仕えの高官であり、否応なく耳目を寄せ集める美男子であり、おまけに芸事に長けていた。特に管楽にはこのうえなく秀で、都に並ぶもの無しとうたわれるほどであった。

 彼はあるとき、鬼の噂を聞く。信濃の山奥に管弦に優れたる鬼ぞあり。夜な夜なふもとへと届くその調べは、今生のものと思われぬ絶世の響きを誇るという。絶品たるは鬼の業前のみならず、その笛の音もまた同様であると。

 そこでナリヒラは決断的に京を発った。信濃の山奥、戸隠とがくしへとおもむくためである。半月近くとかけて野を行き、山をかき分け探しまわる。笛の音は聞くことが出来、それは確かな妙なる調べであったが、ナリヒラはそれでは満足しなかった。夜になるつど彼は山をめぐったが、ついぞ自らの手で鬼を見つけることは出来なかった。

 そこでナリヒラは思い立つ。山奥に入り、あらかじめそなえた百の笛よりひとつを取り出し、奏でられる笛の音に重ね、鬼との吹き比べをこころみたのだ。彼方から聞こえるならば此方よりの調べも届くがまた道理。そう考えたのである。

 果たして、鬼は姿をあらわした。裾のすりきれた紅い湯帷子。艷やかなる、長く枝垂れた黒い髪。したたる細やかな枝に伏す、真っ白なかんばせ。鬼は女で、名をもみじといった。その手には一本の笛があった。

 鬼とナリヒラは顔を合わせ、ともに笛を競い比べた。また一曲を終えれば、たがいの笛を取り替えることをナリヒラが提案した。鬼はこころよく了承し、ナリヒラはその笛を手にした。それは耳するものに違わぬ、否、それ以上の調べを奏でてナリヒラを大いに魅了した。

 果たしてなにゆえか、鬼は日の出に失せねばならぬという。鬼はナリヒラに己の笛を求め、ナリヒラは応じた。「これは、ちがう」返されたそれに鬼はうったえたが、ナリヒラは取り合わなかった。鬼の笛はすでに百と揃えられた笛の中にまぎれていた。空は薄っすらと白んでおり、日の出までにそれを探し当てるなどとうてい出来るものではなかった。鬼は悲しげにナリヒラを一瞥すると、山の中へと去っていった。ナリヒラにそうするつもりがあったかは分からなかっただろう。むろんナリヒラは望んでそうした。次の夜を待つことなくナリヒラは信濃を発った。

 それから数多の月日がめぐった。風のうわさでは、戸隠の笛の音が失せたという。ナリヒラはすでに、皇へと鬼の笛を献上していた。笛はまことに尋常ならざる名器で、皇は大いによろこびあそばされた。天下になだたる名笛めいてきである"青葉"にも劣らぬと、笛は"紅葉くれは"と名付けられた。

 このことをもってナリヒラは己の権勢を確固たるものとした。彼は三〇を数えるも、若くして大臣の座にあった。むろん周りのねたみそねみはただ事ではなかったが、皇の寵愛がそれらをはねつけた。まさに絶頂期といってさしつかえあるまい。

 そのような時勢である。ナリヒラの邸に客人があった。というのも、門前から参ってのことではない。それは夜半、ふいに邸内の庭へとあらわれ、ナリヒラのもとへと忍びさんじたのである。まさしく無法というほかない。それは乞食めいたぼろきれをまとっていて、いかにも貧相にみえた。

「なにやつか」ナリヒラが警戒をあらわにすると、声があった。「ナリヒラどの」知らぬ声ではなかった。鈴が鳴るように澄んだ声音こわねであった。ぼろが取り払われると、はっとするほど白い肌がのぞいた。「笛をお返しいただきたくはせ参じました────」もみじであった。

 かの鬼はなにを思い都まで来たものか。すこし考えれば取り合われるはずもないとわかろう話だ。ならばなぜ──同じ芸事を、管楽を愛でるものとて一縷の望みをかけたのか。ナリヒラは思いをめぐらせるが、すでに詮無いことだった。笛はすでに皇に献上したものである。もはやどうにもならぬ。「ぬがよい」ナリヒラは首を振りそういった。もみじはなにもいわなかった。そうしてたたずむ鬼の姿はひどく幼い童女にさえ見えた。

 月下に照らされし鬼。果たしていかな所業に出ようか、知れたものではない。ナリヒラはじっと鬼を見ていた。鬼はゆっくりと、そのまっしろいかんばせをもたげた。

「ぞっ」とするほどの、妖しく朱い瞳が、ナリヒラを見た。

 鬼がなにするものでないにも関わらず、ナリヒラは微動だに出来なかった。「────鬼め」ただ、口がひとりでに開いていた。「鬼め! 去ね! 鬼め!」

 鬼は言葉もなく、悲しげに視線を切ると、長き髪を乱して背を向けた。垣根をひと飛びにする。後には影もかたちも残らない。ナリヒラは冷水を浴び、ひとり床についたが、まるで寝つけなかった。目を閉じると、暗闇に朱い瞳が浮かんだ。ナリヒラは一夜に三度飛び起きた。

 その後もしばらくは変わりなかった。昼のナリヒラは精力的で、政務においてもその辣腕をふるった。権勢の地盤は一歩ずつ踏み固められ、ナリヒラに抗っていた人々もいつしか彼を認めずにはいられなくなった。

 だが、夜はその限りではなかった。朱い瞳の幻像は月日が経つにつれ、薄れるどころかより一層激しくナリヒラをさいなんだ。夢にあらわれぬ夜はひとつたりとも無かった。女と閨を共にしてさえそれは変わりなく、うなされる様を否応なく目にされたものであった。

 盤石を得たナリヒラは、ついに踏み切った。皇への奏上である。「天下に二つと無き葉を狙う鬼あり」と。

 具申はほうぼうへとめぐりめぐって、ついに朝廷に出兵を決断させた。精兵が一〇〇。将はゲンジ・ライコウがその役目をになった。ナリヒラよりもなお若き武者ながらもライコウ四天王と呼ばわる猛者たちを従えし勇将である。時おりしも、またぞろ戸隠に笛の音が鳴り始めたころであった。これでナリヒラは枕を高くして眠れると思った。だがだめだった。

 戸隠に遠征した軍団は総出での山狩りを行った。地の利に長けたものがないため、昼間の散策である。しかし成果はかんばしくない。鬼どころかそれらしい人間も見当たらず、獣がせいぜいだ。それすらも人の剣呑な気に怯えて身を隠す始末。

 そして夜になると、まるで軍をあざ笑うかのように笛の音が響き始めるのだ。数日後には少数部隊での夜間捜索を敢行したが、結果は同じことだった。ライコウは撤兵を考えたが、公方に受け入れられるものではなかった。鬼が存在するのは明らかなのだ。次第に兵たちは彼方から響く笛の音を呪うようになった。気を抜くと思わず聞き惚れてしまいそうなたぐいであったから、なおたちが悪かった。

 やがて一月と経つが、やはり成果はあがらない。いよいよ進退窮まり、朝廷としても討伐の打ち切りを覚悟しかけた時だった。ナリヒラたっての希望もあり、兵部省の命で彼は戸隠へとはせ参じた。ライコウと面合わせしたナリヒラは、明らかにかつてよりやせ細って見えた。瞳が血走り、焦燥をまったく隠せていない。今をときめく人物とはとてもではないが信じられなかった。

 ナリヒラのただならぬ様子から、都ではひそかに祟りが噂されるようになった。彼に騙された女の霊たちがその枕元に立つのだと。表立っての不満は吹き上がらなかったが、世は平安ではない。ナリヒラの権勢はごく穏やかに脅かされ始めていた。

 そのような折の、ナリヒラの遠征である。「策がある、と仰せられたか」「左様」ナリヒラは鬼と出会った夜のことを語った。かの夜の通り、笛の音をもって鬼を招くのだ。妙案とは言いがたいが、他に得策はない。「しかるに、夜を待つのだ」「では、我らはその時に応ずるべく備えよう」「うむ」そういうことになった。やがて夜を迎えた。

 笛の音が響き始めた。軍は山のふもとに伏せられ息をひそめている。いつも通りの、憎々しいまでに素晴らしい音色であった。だが、ナリヒラにとっては違った。ナリヒラは聞いて、すぐに気づいた。その笛は鬼のものではない。ナリヒラが押しつけるように手渡した笛の音だ。陣頭に立つナリヒラの手が震えている。否、まともに立つこともままならないほどのひきつけを起こしていた。「────ナリヒラ殿?」ライコウのいぶかるような声。

 ナリヒラは狂を発した。

 あらぬ叫び声をあげ、いずこへともなく走り出す。朝になってようやくナリヒラは保護された。現地民によれば、しきりにうろごとを漏らしながら戸隠の山へと平伏していたという。目覚めたとき、彼はすでに自失していた。軍は当然、撤退を余儀なくされた。都で、かつての噂はすでに事実であるかのように扱われた。

 その後、ナリヒラは自邸で床に伏した。身体はみるみる弱り、病をかかずらうようになった。狂奔することはめったになく、ぼうと自邸の垣根を見るともなく眺めているのがもっぱらであった。皇の許しもあって彼は死ぬまで官職にあったが、時風は瞬く間に過ぎ去っていった。

 ナリヒラは没した。三五での死である。一時は時勢を支配した男の最期としてはあまりに若い。恨まれること数限りなく、されど愛されることも多い生であった。皇は彼をあわれみ、かつて送られた"紅葉"を改めて彼に下賜するものとした。"紅葉"は彼が愛蔵する九十九の笛とともに弔われることとなった。

 ところがいざ弔いの段にいたって、一〇〇の笛から一が欠けていることに遺族が気がついた。葬式はすでに終わった後で内々だったが、もしこれが明らかになってはことである。なにせその一本とは、皇に下賜された"紅葉"であったのだ。一族総出で屋敷をひっくり返すような騒動があったが、天下にふたつとなき名笛はついぞ見当たらなかった。

 表向き"一〇〇"の笛はすでにナリヒラとともに葬られた。しかし実のところはナリヒラの無念とて、九十九の笛が今もフジワラ邸の蔵に眠り続けているという。

"紅葉"の行方は、今も知れない。

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