行くも餓えるもこれ一重

神取直樹

千道を越え

 先、目の前の前にあるのは、青。静かな波は砂に消える。揺れる視界はそのまま紙袋の中に消え、自らの吐瀉物をも捉える。四月の京都行きと同じく、一夜は、慣れぬ四輪車両に詰め込まれ、生きた屍となっていた。揺れる、揺れる、国道の歪んだアスファルトが、一夜の胃を刺激する。
「まだ着かないの?」
 いつも通りに悪態づくフセは、いつも以上に不機嫌で、その足先で前にあったカズの頭を蹴っている。
「リハビリどころか滅茶苦茶に体調悪化させてるんだけど。主に海と聞いてはしゃいでた黒髪赤目達の消化管を局所的に」
 助手席で寝たふりをしていたカズが仕方ないと溜息を漏らした。
「消化管というよりも三半規管だろ。辛抱しろ。もう着く。気持ち悪いなら窓から顔出してみろ。前で仁王立ちしてる女がいるだろ」
 そう言われて、一夜は潮風の中に顔を突き出した。窓枠と一夜の間から漏れて入る風を求めて、隣で唸っていた銃夜と真夜も顔を窓に近づけている。
「豊宮分家、燈籠船。ここの当主の妹は心も体も強靭で、ちょっとした問題がある。気をつけろよ。降りた瞬間に殴り殺されても知らねえから」
 カズの差す女は、その、自分達のワゴン車を目の前にして、腕を組み、こちらを爛々と睨んでいる女のことだろう。肌は日焼けで浅黒く、健康的な肢体は引き締まり、瞳は燃ゆる炎の如く、長い真っすぐな黒髪を無造作に腰まで垂れ下げて、揺らしている。唇は赤く、それは真っ当に、美女と言えないことはない。しかし、それが近づくにつれ、彼女が手に持つものの異常性に気づく。右手には木刀を。左手には何を叩きつけてきたのかも分からない曲った金属バットが一本。炎の瞳が睨む先は、自分たちの車にではなく、この車を運転する樒に対してだと理解する。瞳はブレることなく、ひたすらに樒を見ている。炎に睨まれる蛇、樒を見ると、いつもは二枚目を気取っているその顔が青ざめ、夏の暑さを知らぬような表情、恐怖に強張っていた。
「まあ、この場合、殴り殺されるのは主に樒だけど」
 カズが笑う、女から数百メートル手前で、手と目以外は動いているように見えなかった樒が、口を動かす。
「若。俺はここから夕方まで山に逃げます。皆さんにはここで降りていただいて良いですよね。荷物なんかは先発の仕え人とか千宮様の方の車にありますし」
「おう。死んでも飯時には帰って来いよ。刺身の二切れくらい備えてやる」
「……ベラドンナも置いていくので、よろしくお願いします」
 ブレーキで車体は大きく揺れて、道のど真ん中に停止した。と、同時に、樒は運転席のドアを勢いよく開け、カズが持っていたらしいボディバック一つを持って、走り出した。それを待ってましたというように、女はその足を勢いよく弾く。
「祐都! 待て! 逃げるな!」
 女のハスキーな声の揺れが響いて消えた。樒が逃げた先、道無き山に、カズ以外の誰もその状況を理解しないまま、女は走り去る。カズが一つ、欠伸を欠いた。
「さて、降りろ。もう他の奴らは先に着いてる」
 車の影より、一匹の蛇が揺れた。それはメイド姿の少女となって、こちらに笑みを浮かべる。一夜たちが顔を出していたドアを開けると、一夜に手を差し伸べる。
「ベラドンナも人型になれたのか」
 少女、影の蛇ではない、浅黒い肌に恐怖にも似た感情を抱かされるほどの美を持ったベラドンナは、黒い瞳をこちらに称えて微笑んだ。一夜はその手をとって、口を押えつつも土に足をつける。未だ、体はユラユラと揺れているようにも感じ、吐き気もある。それでも、車体ごと体が揺れるよりも、幾ばくかそれは小さい。一夜が車を降りたことを確認すると、ベラドンナは次に銃夜と真夜、フセを下ろしていく。最後に、異夜に手を差し伸べると、異夜はそれを黙って断った。表情を崩さずにベラドンナはその手を下ろし、助手席から降りようとしていたカズの隣に佇む。
「先発はまだ海には出てないのか」
 カズが海を見る。その先にあるのは、砂地のみ。快晴と青い海の中、観光客などは全くいない。
「本当に何もいないのね。霊もいなければ、生きている人間もいない」
 フセが言った。水辺は死んだ者が多い場所でもある。しかし、その海にはそれがいない。ただ、一夜たちの住む町よりも、圧倒的に爽やかな風が吹いている。歪な悪意も善意もない、ただの自然であった。
「人間は癖が強いが、ここならお前らも気持ちよく動けんだろ。町も宮家について知ってる奴らばっかりだ。少し迷惑かけたところで怒鳴られりゃしないさ」
 ドンと音を立ててカズはワゴンの扉を閉める。それを合図に、あの女がいた程の場所から、真樹が飛び跳ねながら車道に飛び出した。どうやら、そこが拠点の旅館らしい。水着と上着で半裸となった真樹を、驚いたような表情で追いかける、似た格好の細好は、どこか楽し気であると、数百メートル遠のいてもわかる。
「一夜君!」
 頬を赤く染めて、興奮を顕わにする真樹が、一夜に向かって走り出した。後ろからは細好も走ってくるが、旅館からは更に数人、見知った顔がこちらを覗いていた。一夜達が彼らに近づこうと歩みを紡ぐと、途端に、真樹の足がぐにゃりとよろける。ズサッという音とともに、真樹が上半身を地面に落とし、転倒した。
「真樹!」
 一夜が駆け寄ると、後ろにいたカズ達もその状況を察知して、真樹に駆け寄った。傍にいた細好は驚いている様子で、一種のパニックになっている。
「いったぁ」
 転んじゃった、と、困ったような表情をする真樹の足の近くには、ビー玉サイズの石が転がっており、それを踏んだのだろうと推測が出来た。
「大丈夫か? 興奮しすぎだな」
 銃夜が苦笑しつつ、誰よりも先に真樹に手を差し伸べる。何の疑いもなく触れた真樹の手は、アスファルトの間に入っていた砂で塗れており、ざらついていた。
「真樹君、足が」
 真夜が真樹の膝を見て、その惨状を手で拭おうと膝をつく。だが、それに手を触れる前に、カズが制止した。
「とりあえず、触る前に傷を洗おう。下手に触って膿んだら大変だし、燈籠船に治療が出来る奴がいるはずだ。真樹、歩けるか」
 じんわりと垂れ流れる血液が、真樹の白く細い脛を伝う。ゆっくりと、真樹は頷くが、その足は震えている。よろめきながら動かそうとしたとき、影が真樹を覆い、真樹の体が宙に浮いた。
「ゴム草履で走ったのか」
 真樹を抱きかかえ、その影はそう言った。影、崇知は、真樹を軽々と背負うと、一夜達を見る。
「いつまでも突っ立ってて、どうするんだ。守護者たちを心配させるな、あいつらは本当はお前たちと片時も離れたくはないんだから」
 ぎゅっと自身の体に掴まる真樹で、自重が増したのか、崇知は少し、苦しげである。一夜とカズが揃って溜息を吐く。興奮は一時冷め、潮風が冷たい。ひょっこりと顔を出していた大宮家の守護者達が、四人に駆け寄った。フセがそれを一歩後ろから眺めて、点々と垂れる血液を導に歩いていた。

 旅館の玄関は、所謂和風のそれではあるが、機能美に溢れている。清潔で、且つ、大人数のための荷物が、移動に際して困らない程度の場所に置かれていた。受付から出て小走りでこちらに向かう男は、顔の雰囲気は外にいた女と似ていたが、悪意にも善意にも満ちぬ穏やかな目で、こちらを見ている。真樹の血に気づいていたらしく、右手には木刀ではなく救急箱が握られていた。
 「転びましたか? なら治療を」
 男はそう言って、垂れる血液を白い清潔そうな布で拭う。じんわりと吸われていく血は、既に乾き始めている。
「傷口から何かしらに感染することもあるから、ちゃんと治すまでは君は海には入らないように。良いね?」
 宥めるように、男は真樹の癖毛を撫でた。言葉を聞いた細好が怪訝そうな表情をしたが、男は笑った。
「ここまでの旅路、ご苦労様です。大宮家当主様方、月ノ宮ご令嬢、そして、若殿」
 ニッと、男は白い歯を見せて笑う。特にその視線はカズに向けられ、男とカズの間に深いものがあることが理解できる。
「豊宮家燈籠船運営、海の見える旅館、船日屋にようこそ。これから暫し、精一杯の持て成しをさせていただきます。燈籠船当主、豊宮彬人と申します。外にいたのは俺の妹、初風です。戻ってきたらすぐに紹介いたしますので、今は暫しお待ちを。他のお客様と、お荷物と仕え人の方々は御覧の通り、全て既に着いておりますので、ご安心ください」
 平然としている様子を見て、外で起きていた数秒の混乱は、少なくとも彼、彬人には、ごく普通、驚くことでもないもののようである。一夜が前に出ると、彬人は手で開けていた救急箱を閉めた。
「漣。治療代わって」
 彬人がそう言うと、ふらりと現れたもう一人の青年、染めたのであろう金髪に、黒縁眼鏡をかけた青年が、救急箱を受け取り、真樹を背負う崇知を誘導した。細好が心配そうにそれにくっついて、共に行く。それに目配せすると、彬人は一夜と目線を合わせるためか、膝をつき、一夜を見上げる。
「何かご不明な点でもございましたか? 一夜様」
 一夜は眉間の皺を一層濃く、溜息を再び落とした。
「それで、ここで何が起こってる。儀式か? 神の不毛な争いか? 誰のものともわからぬ異界の拡大か? 他家共の呪詛による争いか?」
 一夜の犬歯が空気に触れる。赤い目が細められる。
「何がして欲しい。お前らの一番上でも出来ない事とはなんだ」
「幼い子供が対価の話を、急に持ち出すものではありませんよ」
 彬人は燃える炎の目を、一夜と同じく細めた。だが、一夜と違い、口元は上に歪んでいる。その笑みは、カズが以前した、それと似ている。
「だが、早い方が良いのは確かだ。話しましょう。日が暮れる前に。この世界の赤い光は、我々宮家に優しくない。時間は我々のような者に味方はしてくれない」
 スッと、彬人は立ち上がる。手をロビーのソファに向け、座るように促した。
「若殿も交えて。今日はもう、旅路でお疲れのようだ。咲宮の少年も、あの傷を塞ぐのでは、睡眠を取らねば疲れ切って海で溺れますよ。仕え人の方々も、温泉に浸かってゆっくりしていただきたい。そう、今日くらいは」
 一夜、それに続いて銃夜と異夜がソファに座ると、彬人も座って、身を構えた。真夜がわたわたとしていると、彬人はにっこりと笑んで、真夜に座るソファを示す。その中で、仕え人の塊の方を見やると、彬人は言う。
「大宮家に仕えているのならば、君達も話を聞いてほしい。人手は欲しいんだ。四人じゃ足りない。破壊出来る人間がいい。いるのだろう? 羽賀に仕える十朱の子らも、鋸身に仕える安倍の奴らも、囚われの久慈の家の餓鬼も」
 呼ばれた誰も、彬人の傍には行こうとしない。呼ばれぬ守護者達が、それぞれの主人の隣に立ち、彬人の動向を見ていた。ただ一人、異夜の傍にだけ、十朱の三人が集まっていた。
「……聞いてなくていい。どうせ俺もお前達もお呼びになるほど力はない。何かあったらガリュウがどうにかする」
 異夜が三人を掃うように、手をひらひらと揺らす。ガリュウ、という声に反応するように、異夜の影が大きく揺れた。
「……聞くだけ聞いて、いただきたい。少なくとも無駄にはならない」
 彬人は饒舌に、その口を動かした。けらけらと笑うように、謳うように、それは紡がれる。
「宮家に関する者なら、神隠しと聞いて、良い思いはせんでしょう。人が消えている。少なくとも、五人の幼子が、一人、また一人と、少しずつ、消えている。この町で、一週間に、二人のペースです。そして、消えた現場はこの旅館の周辺。我々は、燈籠船は、この町を守る者。この海を見守る者。その信頼が、消えかけているのです。我々が生贄に攫っているのだと」
 この国において、宮家には特権がある。儀式に必要であれば、一般人を何人攫って殺したところで、誰にも裁けない。誰も知らないふりをする。それが、宮家の存続を可能にしている。だが、ここでは、少々勝手が違うようで、一夜は首をひねった。
「燈籠船は、この町を守り、この町の者から生贄は絶対に取らないと、ここに定住している数百年前から誓約しているのですよ。それが今、破れているのではと、町の者達が思っています。今、燈籠船とその仕え人は総勢で二桁になりません。まだ戦えぬ幼子もいるのでね」
 彬人の左手の薬指が、キラリと光る。
「しかし、町の住人は三桁はいる。まあ、規模としては村と同じですから、その程度ではありますけどね。それでも、ただの人間だって群になって向かってくれば、俺達の技能なんて役に立たない。少なくとも俺は扇動者にはなれないので、これを止めるなら、この神隠し事件を解決するしかない」
 瞳は炎の如く、彬人を燃やす。
「だが、この神隠し、調べれば調べるほどに、豊宮だけでは絶対に解決できないとわかってきてしまった。これは無理だ。だって、俺達が挑み、殺さねばならないのは」
 呼吸が大きくなる。彬人は諦めるように笑った。指を一夜に差す。目は未だ、燃えていた。
「貴方に加護を与えている、ヒルコという神なのだから」
 ヒルコ、という名に、一夜は頭を掻いた。影が揺れる。聞いているのだろう、彼が、確かに聞いている。
「……ヒルコ?」
 真夜が疑問符を浮かべた。
「国生みの際に奇形児として生まれ、海に流された子の神。それは完成したこの国に戻り、打ち上げられ、母親に捨てられた子や、母なる海の守護神としても祭られている。そういう奴だ。そして、おそらくは、ここが、その打ち上げられた海だと言われている」
 カズがそう笑う。一夜は溜息を吐いた。困り果てているような、そうでもないような、妙な、子供とは思えぬそれである。
「ここではヒルコを祀っていると。それで、神隠しをしているのがヒルコだろうと。浅はかにもお前達はそう考えて、ヒルコを殺せそうな俺を、カズ経由で呼んで、何とかしてもらおうとした。そういうことでいいな?」
 一夜がそう言うと、彬人はにんまりと笑った。
「凡そはそうです。ですが、浅く考えてそう至ったわけではございません。消えた子供たちの状況、痕跡を踏まえてそう考えました。それに、本体ならまだしも、分身であれば、ふらりと現れて、急にこんな事件を起こす、というのは、オシラサマ然り、ククリヒメ然り、災害のような邪神ならよくあること。ここで祀る本体に近づき、分身が活性化、暴れているのだと考えています」
 八百万の神々は、皆、分身を作ることができる。その手法は違えど、一様にそれは同じである。本体よりも分身は能力も知能も劣る。基本的には組み込まれた本能に従って動く。以前のオシラサマのように、誰かに加護を与える存在は、基本的には知能の高い本体である。分身は動き回って、本体に近づいた瞬間に、その力を大きくし、本体に近い知能を持つ場合もある。それが今回のそれだと、彬人は考えているのだろう。
 一夜は頭を抱えて、溜息を吐いた。仕事だ。これはリハビリでもなんでもない。ただの仕事だ。もしも子供の捜索ともなれば、共に連れてきたヒヨなども駆り出すことになる。遊ぶのだと思わせて連れてきてしまったという考えが、一夜のほんの少しの善意を傷つけた。
「……洗い出そう。まずは、今、隠れて発生している異界がないか調べる」
 そう言いながら立ち上がった一夜が不機嫌そうに、三発、まだ座っていたカズの頭を蹴り倒した。人員の配置、使い方を考えると、どうも気が回らない。はしゃいでいた真樹と細好の悲しそうな表情が何となく浮かんで、気分が悪かった。
「調べて消すだけなら、大宮家だけでも出来るんじゃねえの。楽しみに着いてきた奴らは置いておいてさ」
 ふと、銃夜がソファに体を預けてそう笑う。一夜がそちらを見ると、銃夜の影が揺れている。
「式神の使い方講習でもしようか。まだ上手く使えてない奴らも呼んでさ。折角のリハビリ旅行だ。それくらい楽しくいこうぜ」
 ずるりと、何匹もの黒い何かが、銃夜の影から飛び出していく。それは天井を旋回し、その場を一瞬だけ闇にすると、窓のガラスを突き抜けて、外に飛び出していく。数百、数千の蜻蛉の群れ。それを銃夜は見送って笑った。
「千翅。行っておいで」
 翅の音は静かに、通り過ぎていく。

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