行くも餓えるもこれ一重

神取直樹

その口へ逝く

 届く、現実の空。それは赤く、毒々しいような、オレンジ色の空だった。それが夕焼けであることに、動く時計を見て気づく。一夜は、周囲を見渡して、自分が学校のグラウンドに倒れていたのだと、そして、自分以外の周囲の人間には首がないと、視認した。青ざめて、立ち上がる。これは本当に現実だろうか。それとも、未だ、自分は異界の中に居て、幻覚でも見せられているのだろうか。大量の死体が散乱したその場所で、狼狽え、歩くのを躊躇う。だが、ふと見えた、飾り付けられた正門、そこに群がる喪服の大人たちの動くのを見て、駆けだす。走ると息が切れる。これは現実である。大人たちがこちらに気づいて、目を見開いていた。
「……生存者?」
 そう、誰かが言っていた。一夜を見て、走ってこちらにやってくるのを見て、ポロリと出てきてしまったのだろう。
「いや、当事者です」
 静かに、冷静に、少年は言う。一夜には見覚えがあった。否、見覚えがあったという以上に、先程まで、異界で共にいた、一人である。
「三輪」
 一夜がその他の何者でもない顔を見て、ハッとする。隣には笠井がいる。そして、それを囲む喪服の大人達。その、首の無い死体達を淡々と処理する様子、綺麗な体をした、おそらくは生きているのであろう一般人達を眠らせ、まるで物のように扱っている様子から、彼らが何者かを察知した。
「お前ら、陰陽師か」
 この国には、宮家とは別に、陰陽師、という者たちがいる。彼らは宮家の存在が確固としたものとなった後、朝廷によって作られた、「技術者」の集まりであった。宮家が能力を「裏のモノ」としてそれを揮うならば、国が組織する陰陽師は「表のモノ」として、民に安寧を見せつけていたのだ。明治に入ってすぐにそれは名を変えたが、現在でも存在はする。特に、国家にすら反発し、国民を巻き込んでいく宮家の抑止力として、彼らは動いている。
「今は管理課って呼ぶんだよ。そんで、今日は管理という名の掃除ってやつだ。死体の処理に記憶の処理。おかげで報告書も山積みになってる」
 三輪が、少々、呆れたようにそう言って、頭を掻いた。手を黙々と再度、動かし始めている他の管理課の者達は、一夜の唸り声にも気づかない。
「……俺達が嫌いか。自分にも血は入っているのに。今日も使っていたのに」
「黙れ。あの時は緊急時だ」
「なら鋸身屋はどうだ。彼らは常時使っているんだろう」
「何故知っている」
「報告を貰ったからだ。当の本人から」
 三輪は作業の為に設営された、簡易テントを指す。
「お前は、以前もそうだが、起きるのが遅いな」
 透かして笑ったような、笑っていないような、そんな表情を浮かべる三輪は、少々、苦しそうではあった。だがそんなのはお構いなしに、一夜は、急ぎ足でその中に入る。
「一夜!」
 折り畳みの椅子や机に座る、顔見知りの中で、ヒヨが、ただ一人、一夜に駆け寄った。
「大丈夫か! 怪我とかは! 腕は!」
「落ち着け。異界で既に生やしてるからどっちに転んでも大丈夫だ」
 一夜に縋る、ヒヨは、その腕を見て、輪の形になっている痕を撫でる。それが妙にこそばゆくて、一夜は少々強引にヒヨの手を振りほどいた。
「……で、だ。状況はどういった感じになってる」
 人数を見れば、大体の人間が共にいるということがわかる。一夜が目の止まった、ここにはない者達といえば、羚とゲン、中嶋、与市とその主人、真夜、晴嵐だ。
「まだ管理課が探してない場所もあるから、そこら辺で倒れてそうなのが数人、それ以外、発見された奴らはここで全員覚醒済」
 銃夜が、そう、一つ、溜息をつく。身体から力が抜けていて、ダラりと椅子に腰掛けていた彼は、何処で手に入れたかもわからないペットボトルの中身を口に運ぶ。
「大食いで有名なオシラサマ相手に能力者が全員生還。ある意味奇跡だ。しかもその元凶は大破。こんな愉快な事は無い。報告も出来る」
 ニヤニヤと、相も変わらずに、嫌になるような笑を浮かべ、彼はそう言った。
「報告?」
 一夜が尋ねると、ペットボトルの蓋を手で探し当て、締めながら銃夜は答える。
「支族の奴らにな。こんな大事件起こしてんだ。分家の方が立場は上だといえど、説明責任とやらはあるさ」
 支族とは、宮家の分家、その更に先の、最早宮家ともほとんど名乗れないような、一派、様々な名前を名乗る者達。例えをするならば、黒髪赤目を持つ郁が属する十朱家などが大宮支族と呼ばれる一派に属す。他にも、安倍、榊、出雲など、一般人でも存在するような名字を名乗る大宮支族も存在している。彼らは数代前に羽賀屋から大宮という名を奪われてはいるが、能力自体は時に分家や本家と立ち並ぶ者も出る。だからこそ、下の立場にあれど、下僕のように扱うことは難しい。いつ寝首をかかれるか、いつ、なり変わろうとしてくるか、わからないからだ。
「アイツらに何言ってもしょうがない気がするがな。揚げ足取られてしょうもないこと言われて御終いだろう」
 なんとなく、印象だけは覚えていた、支族、特に大人達を思い出しつつ、そう一夜はポロリ落とした。
「大丈夫!」
 突然、頭を出したのは、咲耶で、それに続いて、郁と定が色を取り戻した顔を出し、笑む。咲耶の片手はギプスで固定されており、明るい声と裏腹のその傷の悲惨さを誇示した。
「私達、十朱きょうだいが全力で当主様達を擁護するからね! だって、誰が見たってあれはあそこにいた誰のせいでもない。そうでしょう? オシラサマなんて使うの、咲宮とか日宮の本家筋くらいだし」
 ふと、そう言われて、一夜は首を捻る。そして、思いついたように一瞬、目を丸くして、顔を青ざめさせた。その様子を間近で見ていたヒヨが、不思議そうに見る。
「どうした一夜」
 ヒヨに呼ばれた一夜は、重く口を開いて、下手な作り笑いでその場を見渡す。
「悪い、今回の件、俺のせいかもしれない」
 全員が口を開く。一人、フセだけが少しして納得したように感嘆の声を上げていて、他は何が何だかサッパリだと言うように、一夜に詰め寄った。こちらの様子を見に来ていた三輪や笠井も、驚くような様子を示す。
「いや、うん、いや。根本は違うんだ。弁明させてくれ。オシラサマをけしかけたとかそういう事ではない。俺はもう終わったんだと少し思っていたことであったから」
 意味のわからないことを言うなと、狼狽える一夜の踵を三輪が蹴る。
「……催促されたので結論から言う。俺はあのオシラサマが生まれるための生贄を拉致した。しかも、あろうことかその他に捧げられていた生贄をそいつの式神のベースにした。そこまでしていて、オシラサマそのもののの核を壊し忘れた。以上だ」
 目を背ける。流石にこれは笑えない。そう、罪悪感の中で、一夜はヒヨの声を聞くまで、空を見て黙った。
「あぁ、そうか、真樹か。真樹の生贄の先はあれだったのか」
 ヒヨが納得した様子でそう、スッキリしたと、一夜に向かって微笑んだ。
「だって……クロの言ってた事的に……なんか……高エネルギーの結晶を作るための儀式とかそんなだと思ってたから……神が関係してるとか思わなかったし」
 言い訳と御託を並べる。じわじわと、一部の人間から殺気が滲むのを感じて、一夜はしっかりと目線を合わせた。ヒヨはお前のせいじゃないだのと励ましているが、それは一夜の耳を通り抜けるだけで、頭にも心にも響きはしない。だが、異夜が何かまだ納得しないようで、首を傾げる。
「それは柳沢邸の事件か」
 異夜のその言葉に、一夜とフセ、ヒヨが首を立てに振った。
「なるほど、それは誰でも神の関与はわからんな。最終目的はその結晶、おそらくは噂に聞く瑠璃石で合っているだろうが、オシラサマが関与したのはその過程の中だ」
 少し、和らいだ表情が、異夜のキツめの印象を変える。まるで、その表情は兄や父を彷彿とさせた。
「オシラサマの破壊には今回のように力尽くでやるのもあれば、オシラサマの分身が耐えきれない量の生贄を捧げることでパンクさせるという方法もある」
 淡々と、種明かしは続いた。
「本体ではないオシラサマには生殖能力が無いから生贄を食わせ続ければ、それを分けて分身を作るということが出来ないので、蓄えた力を発散出来ないので死ぬ。爆発する。その時に生成されるのが瑠璃石と呼ばれることもある、力の結晶だ」
 銃夜の癖でも移っているのだろうか。異夜は声は淡々としながらも、手振り身振りはハッキリと抑揚がついていて、頭の中にある気分の高揚を隠しきれていない。ただ、その説明は聞きいるに値するものであると、周囲の人間の態度は表していた。
「子である分身がそれを落として死んだあと、親はそれを拾いに来る。だが死んだことがバレなければそれは使える。それこそ、ずっと石を異界に入れておいて保管するとかな」
「待て」
 異夜の論を差し止めたのは、その隣で青ざめる銃夜だった。心地よい高揚を止められたからか、異夜はまた更にむすっとして、唇を尖らす。今度は自分が声を出す時だと、焦った表情で異夜を止めた銃夜は言う。
「親が拾いに来る?」
 繰り返した。その言葉に気づいた者達は、その場にいるもの全員であった。自分達が体験した死の恐怖は、分身によるものだ。分身は子。ならば、親は本体。空気が冷たくなる。
「そっ、その、石は今どこ?」
 郁が震えた声で尋ねる。それの解答として、安芸が苦笑いで、上げた拳を広げる。
「け、研究に使えるかなーって……思って……」
 掌の中の青い水晶のような結晶。それは真に球体で、曇りも変形もないサファイアのようで、美しい。深い、深海よりも青い石。一瞬、そこにいる全員が見とれたが、早々に覚醒した銃夜が、安芸からそれを奪い取る。
「誰かすぐに異界作れる人ぉぉぉぉ!!」
 手を挙げろと、今すぐ誰か挙げろと、全員が思った。しかし誰も挙げられない。誰も絶対安全なステルス金庫を即席に作れるはずがないのだ。そういう能力を持った者もいなければ、持っていたとしても高度な技術を持った者がいない。
「何で一夜お前出来ねえんだよ!! 天才の癖に!!」
 半分八つ当たりで、銃夜は勢いのまま一夜にそうぶつける。
「俺は破壊しか出来ん! 術式も暗記していない! 無理! あとそれ壊したらオシラサマ怒り狂うから壊すなよ!!」
 忠告と慟哭、緊急事態と、それに狂う、自分達よりも圧倒的に上位にいる人間達のせいで、その場にいる人間全員が焦って、動じて、冷静に対処を考えられない。それもそのはずである。恐怖が倍になってやってくると、確定してしまったのだから。
 急に、更に空気が冷たくなった。それが来る。恐ろしいものが来る。足音と羽ばたきを、一夜は感じていた。
「仕方がない!」
 銃夜から強引に、その石を奪って、外へ駆けだす。


 その頃、校舎内は静かで、夕焼けが廊下を照らし、血染めの空間を更に赤くしていた。そんな中でゲンは、自分が誰かの背中に寄りかかり、引きずられていると気づく。自分を引きずる者の首元に自分の口元はある。首は臭いの塊だ。ゲンは、その臭いに、腹を鳴らす。だが、内臓の動きで、自分が胸のあたりを縛られ、その下に大きな風穴を開けられていたと思い出した。
「……目が覚めたか、近江」
 この現状で最も聞きたくない声であった。優しい声だった。父という概念のようにも感じた。
「テロかもしれん。痛むかもしれないが、とりあえず避難するぞ。正門の辺りに人が……」
 お願いだから見ないで欲しかった。こちら側の世界を見せられるほど、この人は強くない。
 ゲンは開きにくい喉を開いて、囁く。
「中嶋……せ、んせい」
 中嶋はそう聞こえて、一度、足を止めた。肺が痛い。それでもゲンは音を絞り出す。
「何も、聞かない、で、くれ。夢だと、思って、くれ。知らないで、いて」
 泣き渋るように、鳴く。
「欲しかった、なぁ……」
 みしみしと音がした。自分の肺が、血管が、悲鳴をあげている。骨が笑っている。痛み、熱さ、悲哀の混ざる表情を、中嶋は確認して、ハッとなにかに気付いた。
「……弁明は、後で聞く。だから治療してもらえるところまで行くぞ。外の奴らは俺たちに気づいてない。助けを待ってられない」
 完全なる無視。それは生存の為ではない。相手のことを気遣っての、ゲンの何かを感じ取っての、中嶋の精一杯の感情コントロール。
「……せんせー……」
 ゲンが無理に声を出すのを、中嶋が、やめろ、とだけ言って止める。それをゲンは無視した。
「俺、さ、一夜を」
「やめろ」
「守り、たかった」
「喋るな」
「そ、う、作ら、れた、から」
「傷が開く」
「でも、このま、ん、まじゃ」
「いい加減にしてくれ」
「無理で……」
「黙っててくれ」
「お腹がすいて……さ」
「……近江?」
 ゲンの異変。それは拙かった声が正常に変わりかけたこと。気づいて顔を見合わせた時、その顔が、無表情で人間たりえなかったこと。
「アンタが食べたいんだ。とても」
 鋭い犬歯が中嶋の喉に刺さる。そう、中嶋本人が思った時、首は何の感覚も持たなかった。強いていうなら、伝った、汗の低い温度だけ。目が追った感覚は、ゲンが、目の前の教え子が、吹き飛ばされたこと。メキりと、骨が割れる音がして、その音が終わった方向を中嶋が見やると、気絶して動かなくなったゲンがいた。
「近江!」
 駆け寄って、脈を測る。早いが確かにあるそれに、安堵した。
「失礼。同僚の不始末にはどうぞ寛容に。そして、おやすみなさい」
 少年の声が、後ろで聞こえ、中嶋は狼狽えながらも、そのまま視界を終わらせた。そのうっすらとした先に、青い蝶を見て、一瞬、綺麗だと呟きたくなる。

 羚は、蹴り飛ばしたぼろ雑巾のようなゲンの体と、気を失った中嶋の前で、にっこりと微笑んで、振り返った。
「自分で言ってることを自分で成すことが出来ないのは流石に可哀相だからね」
 優等生、上級者、そんな単語が浮かぶ彼の表情や身の振りだけを見れば、思わず、彼に従いたくなる。だが、その感情を抑えて、少年は、与市を隣に、自分の指に青い蝶を戻した。
「瀕死だが、良いのか」
 そう一言置いた少年のストレートの長い髪が、ゆらり揺れる。染めっけも添加物の様相も無い黒を照らして、金の瞳を浮かばせた。それは獣にも似ていて、野性味を見せる。
「良いのさ。彼はそこまで脆くない。それこそ、僕以上に頑丈だ。どうせ、心臓を取られたって生きるさ」
 羚が笑ってそう返した。少年は、短く溜息を吐いて、窓を見やる。
「与市。何か来る。とりあえずここにいる全員を守れ」
「はい」
 短い返事に、冷えた空気が混じって、冬のように息が凍る。半袖で動いていた少年には少々冷えすぎたようで、与市はその辺で手に入れた、べっとりとしたコートをかける。
「……無いよりはましか」
 不快ながらも、袖を通して暖を取る。廊下の向こう、自分たちが上がってきた階段の方向から、音が、蹄の音が聞こえて、それを見た。自分が思っていたような存在ではない。確実な味方である、と、その姿を認識して、三人は理解した。
「神鹿に黒稲荷とは、いささか俺達には豪華すぎる迎えじゃないか?」
 少年のその一言に合わせて、白い、立派な流木のような角に宝石を飾ったような、目の無い鹿が、足を打つ。蹄で、廊下の床が剥げ、それが現実の存在であると誇示する。怒りか、喜びか、労いか、そのうちのどれかだろうと、三人は腹を括る。
『伏せよ。愛し子に触れたい』
 女のような、男のような、神々しい声が頭の中に唸る。即座に、羚以外の二人が、道を開けるように、ひれ伏す。だが羚だけがその鹿を見て、動じない。聞こえていないわけではないだろう。その言葉に、鼻で笑ってやったのだから。
『無礼だぞ』
 鹿の怒り、のようなものを聞く。しかし、羚は何も言わずに、ただ、笑ったまま道を開けた。そのまま鹿は歩み、中嶋の顔に舌を滑らす。その途端、ゲンが、血を吐いて思い切り息を吸った。
「ゲンさん」
 羚がそう呼ぶと、覚醒したゲンは、荒い息のまま、鹿を睨んだ。
『動くなよ。傷が開く』
 鹿の吐いた息を吸って、また、吐いた。ゲンは、散文で喋る。
「治せ。俺を」
 意思があった。これは本能ではない。理性である。しっかりとしたゲンの本心である。ゲンのそれに、鹿は言葉で返した。
『治したらどうする』
「行く。一夜のところへ」
『やめておけ。死ぬぞ』
「死なない」
『生贄にされるやもしれん』
「それは捧げられる、側だ。俺は」
 血を吐いた。それも意思だ。わかる、少年と与市にはわかる。それでもなさなければいけないことがあると、体液が言っている。焚きつけられるようなそれに、身が震えた。まるで自分たちに行けというようで、恐怖と高揚が混ざる。冷えた空気が一層に冷えて、恐怖心を固めた。
『仕方があるまい。一日経ったらまた開くだろうが、文句は無しだ。良いな』
 中嶋を舐めていた舌を、今度はゲンに移す。胸の傷をベロベロと舐めて、血を舐めとっていく。その血液の下は、健常な逞しい皮膚。シャツの上から刺青が見えたが、それ以外はなんてことない。傷も何も消えていた。
「羚、走るぞ。一夜がまた馬鹿する前に」
 傷が塞がって、息を整えたゲンは、鹿の頭を押しのけて、一息で立ち上がり、羚に声をかけて走る。黙って様子を見守るだけであった、大きな黒い肉食獣となっていたクロを押しのけて、二人は廊下から見えていた、グラウンド、その中心へ急いだ。
「成程、無茶をしてるな」
 クロがそう言って、窓から外を見た。そこには、二人が目指したのだろう、一夜が立っていて、何か、手に、石を持って、これから来る何かを見上げていた。クロはそれも見守りながら、傍にいた与市と、少年を七つの巨大な尾で抱える。顔の傍に二人を寄せると、また獣の唸るような声で言った。
「何、心配するこたあない。あれは天下一品の器よ。だがまあ、万が一の為に、俺の傍にいろ。贄にならないようにくらいはしてやるさ」
 クロがそう言って、目線を一夜から逸らさない。隣に、鹿がやってきて、共に座った。ただ、緊張を取ることも出来ずに、二人はそっと窓から同じ方向を見ていた。



 酷く、空が曇っている。光がない。あの夕焼けは何処かへ行った。現実が、半分、異界のようにも見える。一夜は、いざこざの中で奪い取った石を手に持って、恐怖を待っていた。
――――出来るのは、俺くらいだ。
 覚悟は持っている。自負も、傲慢も、意思も、勇気も、要らない程に持っていた。それ以上に、自分の体のことをわかり切って、その答えを出した。
 自分が行く、石を自分の手で渡す。
 渡しさえすれば、帰るだろうと、その意思を見せればどうにかなると、思った。だが、足が多少はすくむ。誰もが、自分の死を恐れている場で、それに流されて自分も、死なないとわかっている自分でも恐れが来る。恐怖は伝染する。その恐怖は、しっかりとした存在を持ってこちらに向かっていると、自慢の耳でわかった。
 足元は、自分が倒れていた、首なし死体で溢れたグラウンド。その、自分が倒れていた場所そのもので、待つ。何となく、そこが良いと思った。石が落ちていた場所というわけでもないが、何故だか、そこが一番手っ取り早い祭壇だと思ったのだ。
 来る、羽ばたく音が、こちらに迫る音がする。
「一夜君!?」
 少女の声が聞こえた。それは校舎の一階、グラウンドに出る門。そこで、真夜がこちらを見て驚いている。一夜の元に駆け寄ろうとしたのか、駆ける素振りを見せるが、その前に、後ろから、晴嵐が真夜を抱え込んだ。今行けば何があるかわからないと、感覚で理解したのだ。真夜の口を抑えて、黙れと静かに言った。
 冷たい空気で、指先が凍るようで、一夜は、目を何度か瞬いた。その、瞬きの内に、しっかりと見えるようになる。馬の骨がまず、目に入る。ひたひたと、音が聞こえる。美しい白い肌。絹の髪。異界で見ていたあのオシラサマと、姿はほとんど同じだが、大きさは倍程度で、大柄の男性程度であった。そして、傷だらけである、という一点にも気づく。目の前にやって来た異形は、揃った歯並びを見せながら、生臭い息を一夜に吹きかけた。
「……これを」
 一夜はオシラサマに、手の中の石を与えた。それをオシラサマは人間と変わらぬ舌で舐めて、様子を見る。回収する、飲み込むのだろうと、その口の動きを見ていたが、それは一度、一夜の小さな手から引いて、距離を置く。口をパクパクと動かして、何かを言ったようであった。周りで見ていた者たちはその声がわからない。しかし、一夜には確かに聞こえていた。
「……本当に?」
 一夜は態度を一変させる。まるで昔からの友人に話しかけるように、姿勢を崩した。
「本当に、良いんだな?」
 石を着物の袖に放り込んで、一夜は正座する。オシラサマがその様子を見て、何故だか、一夜の周りをぐるりと手の一つで弄る。その中から、何か見つけたというように、指と指で、一つ、肉を掴んだ。それは異界に行っていた者たちにはわかる、一夜の切れた手である。
「……少し、抵抗はあるが、必要なら受け入れよう。それがこの儀式だしな」
 一夜が独り言のように、そう言うと、オシラサマは手の中の、一夜の手を口に運んで、咀嚼する。自分の手が食われる様を、一夜は淡々と何にも感じている素振りも無く、見ていた。それを食べ終わった後、オシラサマは、もう一本の腕を大きく伸ばす。それは、肘を伸ばすと、ヒヨやフセのいるテントに一回で届く。何か品定めするように、オシラサマは指を動かしていた。
「すまない」
 一夜が、振り返って、そう、一言だけ落とした。長い腕、大きな手は、裸女の手を握る。
「いっ……」
 ブツンッ、と、音がした。丁度、一夜が腕を落とした時のように。オシラサマは血液をダダ流れにして脂汗を落とす裸女など知らん顔で、一夜にその手を与える。
「……調理は無しか。仕方がないな」
 受け取った手を、一夜は肉として、一つずつ、指を欠片にして口に運ぶ。全員が、人間ではない何かを見る目で、一夜を見る。今、のたうち回って痛みに耐えている男の手を、一夜はスナック菓子でも食べるように、ぽりぽりと食らい、飲んだ。誰かが叫んで、それを止めようとする前に、オシラサマが飛び立つ。その衝撃で、誰の声も消えた。
「では、十二番目、感謝する」
 一夜が淡々と、そう言って、オシラサマを見た。顔を青くして駆けこんでくるゲンは、袖で口周りの血を拭う一夜の顔を、思い切り殴った。

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