行くも餓えるもこれ一重

神取直樹

布切り手

 血で、手で、円を書く。アルファベットの文字列を、自分の手で、血で、板並べた床に描いていった。その術式を書くことへ、罪悪感が湧く。外の雨が、湿気を作る。目がかすんで見えにくくなっている。自分の息が、空間を狭めているような気がして、犬のように、息をする。自分が、獣になっていくようだ。そう、思って、月の明かりを見た。金に光るその満たされた月が、自分を毒している気がして、フッと、我に返る。傍で寝ている少女の頬に、汚れた指を置く。深く眠る彼女は、きっと、今日も明日も明後日も、千年後でさえ、この寝顔を見せなくなるのだ。「俺」が今、描く未来は、そんな、ものなのだ。指の血を、割れた刀の先で増やし、作業を続ける。どうせ、俺の血は続いていくのだ。落とした種は、どうせ終わらんのだ。そう、頭で呟いて、響かせて、一夜は、目の前を暗転させる。

――――そんな夢見で、無事、朝はやって来る。
 首元に、ふわふわとした黒い毛の塊が、すやすや寝息を立ていて、息苦しいが、無事、日曜日の太陽を見ることは叶っている。一夜は、何故朝から溜息吐かなきゃならんのだと、何故朝から眉間に皺寄せていなきゃならんのだと、ぶつくさ呟きたい気持ちを抑えて、クロを押しやって、起き上がる。寝起きの悪さは自分がよく知っているからこそ、この時間はあまり他人と関わりたくない。ただ、そんなこともどうでもよくなるくらいには、黒い獣が腹をひっくり返して寝ている姿は愛らしい。
「……神獣は悩み事なさそうで良いな」
 一夜がそう呟くと、クロも、むくりと体を持ち上げて、伸びをして、欠伸した。
「そんなことも無いぞガキ……今な、ものすごく眠いという、悩みが、ある」
 もう一度寝てしまいそうな勢いで、クロは、ゆっくりそう言う。何度も欠伸をして、一夜の寝巻の懐に入っていた。心地良い、獣の熱が、一夜をまた、まどろみの中に連れ込もうと誘った。しかし、それはいけないだろうと、頭を振って、着崩れた寝巻のまま、自室から出て、忙しい音の聞こえる台所に向かった。
「……テトさん、今日、朝ご飯何?」
 目を擦って、それを確認すると、驚いた表情でテトリンが、味噌汁の器を持っている。そのまま、フフと笑って、男声特有の低い声を響かせる。
「あらまあ、セクシーな身なりしちゃって。眠いの? 顔洗ってきなさい。ついでに、真樹君と羚君起こしてきちゃいなさいよ」
 どうやら、まだ、この屋敷に住んでいる者の中で、目覚めたのは一夜だけであったらしい。それを知って、少しの覚醒を掴むと、言われたとおりに、洗面所へと向かって、冷たい水を欲した。六月と言う、湿気が鬱陶しいこの季節では、留まる水より、流れる水の方が、好まれる。もう少しで、蝉が鳴く季節になる。蕾が膨らんでいる、庭の紫陽花を見て、そう思った。洗面台の前に立つと、蛇口をきゅっといわせて、ぼたぼた水の流れを作った。それを手に溜めて、顔にぶつける。一発で目が覚めたが、一夜は何度かそれを顔に当てて、頭の中を整理していく。ただ、そんなことをしているうちに、滴が、クロの毛を弾いて、床に零れた。
「やめろ冷たいぞ」
 クロも目が覚めたようで、一夜の鳩尾を蹴り飛ばして、洗面所の床にストンと落ちる。小さな獣のキックで、一夜も目が覚めた。
「……蹴り入れて降りることないだろ」
 一夜がそう言うと、クロは尻尾を揺らして、鼻を鳴らす。
「良い踏み台があったから使っただけだ」
 にんまりと、獣でも笑えるのだと、一夜は更に眉間に深く皺を刻む。ただ、リンリン鳴る、黒電話の音に気が向いて、それもすぐ解けてしまった。電話が鳴る方向に、向かうと、テトリンの、一夜が出て頂戴、という言葉が降ってきて、躊躇なく、その受話器を取った。
「もしもし」
 背景に、ペラペラと紙をめくる音や、締まった男性の声が聞こえて、受話器越しに、相手の声が高らかに耳に響く。
「一夜! 貴様! どうなってるんだ! ここは!」
 キンキンうるさい、少女のような声。四月の中旬に嫌というほど聞いた、少年の声だ。
「待て、細好、要件を言え。要件を」
 一夜がそう言うと、一度、落ち着こうとしている様子で、細好が、深く深く、呼吸する音が聞こえた。細好の声は、多少震えていて、何か、まずいことでもあったのか、若干の鼻を啜る音、グズグズと涙っぽい音が混じっている。
「……何故、東京は街が碁盤の目じゃないんだ」
「は?」
「地図が読めん! 何故急にぐにぐにに曲がった道だの坂だのがあるんだ! 東西南北どうなってるんだ! 縮尺定規が使えん!!」
 成程、細好は、今、東京に来ていて、道に迷っているらしい。それだけは察しが付く。しかし、それ以上のことが、落ち着いていない細好の言葉ではわからない。
「とりあえず落ち着け。何処に行きたいんだ。うちに来たいのか?」
 一夜が、そう尋ねると、細好はもう一度鼻を啜って、声に出す。
「そうだ。真樹から頼まれていた人形の修理が終わったからな。それを届けに来たんだ」
「そうか。なら、今、何処にいる」
「……卯目駅前の交番、だ、そうだ」
 ふと、細好の言葉で、脳内地図を開く。そもそも、一夜達が暮らしているこの地域は、亥島地区という地域である。そして、この近くには、割りと大きい駅がある。そこが最寄り駅となって、黒稲荷神社は存在しているのだ。その駅の名は、亥島駅。細好がいるらしい卯目駅からは、五つほど離れた駅だ。
「……成程。いいか、うちの最寄り駅は亥島だ。そもそもそこから違う」
「何ぃ!?」
 心底、驚いている声がする。後ろの男性の、おそらくは交番の警官だろうが、笑い声が聞こえた。打開策の試案をする邪魔ではあるが、やっぱりね、だとか、呆れるような声が、ふと、朝から溜まっていたイラつきを緩和させる。
「……一夜君?」
 突然、ふと、少年の生の声が、後ろから聞こえて、ちょっと待ってろと一言おいて、受話器に手を当てて振り返った。
「真樹か。何だ、起きたのか」
 目を擦って、少し大きいらしいぶかぶかとしたパジャマを引きずって、真樹は現れた。くぐもった声を鳴らし、真樹は、一夜を見つめてじっと、何かの答えを待っているようだった。
「……あぁ、人形、治せたらしいぞ。話するか」
 それを聞いた瞬間に、真樹は一夜の手にある受話器に飛びついて、甲高い、少女のような声を高ぶらせる。
「細好君!? 瑠璃ちゃんと会えるの! え? 迷子? 良いよ! 迎えに行くよ!」
 どうやら、真樹は、細好のことを迎えに行くだとか、そういう話になったらしい。嬉しいような、心配なような、そんな溜息を後ろでついて、一夜は、楽しく話す二人の世界から、ゆっくりと足を引いた。
 廊下にかけてあった時計を見て、時間を確認する。今は大体、九時くらいで、日曜日に起きる時間としては、良き時間である。ふと、羚のことも起こしに行こうと、足を動かしたが、その先に、しっかりと覚醒している羚の足音と姿をとらえて、また、溜息を吐いた。
「その溜息は癖になってるみたいだけど、そんなに疲れているのかい?」
 羚のそんな言葉が、頭を叩いたようで、
「まあ、そんなところだ」
 と、一夜は言葉を落とした。

 テトリンの作る朝ご飯はいつも、見た目にも豊かで、栄養管理も完璧だということがわかる。野菜中心に、タンパク質と糖質。本人はあまり炭水化物を取っていないようだが、子供たちに取り分けている白米の量は、随分と多い。それでも、成長期というやつだろうか。一夜達には、するするとそれが入っていった。
「で、今日の予定は?」
 テトリンがにっこり微笑みながら言う。その姿は母親という印象が強い。
「あぁ、ゲンのとこの文化祭に行こうかなって。俺と羚は。真樹は卯目まで細好の迎えに行くって」
 あらまあ、と、テトリンは一夜の言葉に驚いて、また、にこやかに笑った。
「細好君、待ってるんじゃない?」
「電話で、駅の中のお店で待ってて言ったから、これ食べたらすぐに行くよ」
 真樹の返答に、テトリンも胸をなでおろして、一夜に目を戻す。だが、テトリンが声を発する前に、羚が、不思議そうに言葉を紡いだ。
「高校の文化祭って、六月にやるものなのかい? 普通は、こういう時は体育祭だろう? それに、出店とかやるには準備期間が狭すぎる」
 羚の中の一般常識は、そういうものらしい。それで、一夜は首を捻った。一夜はこの近くにただ唯一の高校である、私立の黒稲荷高校の文化祭しか知らない。
「……そもそも、この辺りで祭りって言ったら、うちの神社でやる亥島鎮魂祭と、夜道祭だけだ。文化祭も、それで出す出店の練習みたいなもんだからな」
 ふうん、と、妙に納得はいっていない様子で、羚は首を傾げて、鼻を鳴らす。一夜の常識は、彼には度々合わない。それは世界の違いか、生活の違いか。ただ、食事作法なんかを見ていると、それほど大きく異なる世界に生きていたようには見えなかった。箸の持ち方も、茶碗の取り方も、自分たちと全く同じで、とても良い家柄の人間だったようにも思える。
「手が、綺麗で」
 一夜がそう言うと、味噌汁を啜っていた羚が、無言で微笑んだ。そんなときに、真樹の茶碗と箸をおく音が聞こえて、そちらに目をやる。
「ご馳走様でした! 行ってくるね!」
 既に整えていた身なりのまま、真樹は、玄関の方まで駆けて行って、布製の肩掛けカバンを持ち、まだ真新しい靴を履いて、もう一度、行ってきますと高らかに叫んで、鳥居をくぐっていく。少々の心配を他所に、真樹は駅へと向かった。
 そんな様子を見て、一夜もまた、ご馳走様と行ってきますを口に出し、着慣れた着物の裾を翻す。その後ろから、追いかけるように羚のオウム返しのような声も聞こえて、草履の緒に指を通した。隣に、座って、スニーカーの紐をしっかりと結ぶ羚がいる。隣に人がいる安心感を貪って、一夜は、湿った空気と日光を浴び、ストンと、息を落とす。参拝者たちを他所に、賑わいが収まらぬ黒稲荷高校へと、足を向けた。



 ガヤガヤと、ただ、うるさいだけの、その校舎。綺麗に整ってはいるが、壁のシミだとかで、その建物自体はかなり古臭いということがわかる。黒稲荷高等学校、という、一夜の住む黒稲荷神社から名を取るその学校は、私立にしては珍しく、中等部はなく、亥の島中学校の生徒のほとんどがそこに通うことになるという、そんな高校である。黒稲荷という名は、大体二百年くらい前に、創設者が神社から貰い受けたそうだが、どうでも良い話だと、生徒たちは言う。
 文化祭という、大行事でありながら、案外、生徒たちは冷めているように見える。毎年聞いている話では、一年生は上級生達と親睦を深めるために参加するらしく、一年の最後から準備を進めていた二年生と合同で出店などの催しに出て、三年生になってやっと、クラス一単位で参加が可能になるという。ゲンが、去年、そう零していたのを思い出して、様々にチラシが飛んでくる校門を潜った。
 そんな中に、ふと、見覚えのある中学の制服三人を見つけて、一夜達は駆け寄った。
「金糸屋!」
 一夜がそう大きく声を張ると、真夜がくるりと体をこちらに向けて、目を丸くしていた。彼女は左右を守護者の葛木と光廣に預けて、クレープらしきものを貪っていたらしい。口にべったりとクリームを付けて、一夜を見て、微笑んでいた。
「一夜君! 来てたんだね!」
 そんなふうに言いながら、会話を続行させる気があるのか無いのか、何度も、一夜の発言を待ちつつ、クレープを包んだ紙に顔を突っ込んでいく。
「あぁ、ゲンがここの学生だから、一度は来ようって思ってたんだ」
「そっかあ、私たちは来年ここに入学だし、それの見学も兼ねて来てたんだ。ここのクレープと、スティックピザと、やきそばと、いっぱい美味しいのあるから、いっぱい見て回ると良いよ。ゲンさんの出店は何かって、聞いてるの?」
 既に、かなりのものをその小さそうな見た目の胃に押し込んでいるらしい真夜は、そう首を傾げて、美味しいお店だと良いなあと、朗らかに謳う。それを聞いて、葛木が小さい溜息と、光廣が、そうですねえと、頷いて、笑みを置いた。
「……お化け屋敷って聞いてるけど」
 一夜がそう言うと、少し残念そうに、真夜は、そっか、と、笑う。もうなくなったクレープの包み紙を覗いて、口の周りのクリームを嘗めとると、一夜にまた、目線を合わせる。
「私達と一緒に回る? 稲荷山君も、見学兼ねてるでしょう?」
 稲荷山、という名で、羚が、ハッと目覚めたように反応する。
「あ、あぁ。そうだね。僕も転校してきたばっかりだけど、受験生ではあるんだもんね」
 まるで今まではそうではなかったと言うように、羚はしどろもどろに呟いた。それよりも、文化祭の雰囲気が気になるようで、制服やらコスプレやらが蠢く異世界のようなその場所に、魅入っている。それ程までに、羚のいた世界とは違うのだろうかと、一夜は首を捻った。
「平和だ……」
 羚がそう呟いて、ぎこちない笑みを直して、一夜に目を合わせて、順々に、真夜達を見やる。
「じゃあ、行こうか」
 首傾げて不思議そうにする一夜の頭を撫でて、羚は、顔は見ずに、真夜達に近づく。それは、一夜を取り残すようで、まるで、ただ一人歩くようにすら見えて、一夜は、隣を行こうと、少し速足になる。葛木が羚のそれに気づいているのか、黙って、一夜と似たような表情をしている。それに一夜が気が付いたのは、隣を歩いて、少し経ってからであった。それまでは、ただただ、喚くような嬉々の声が、耳に劈いて、頭が痛くて、痛くて、耳に入る全てを聞き入れようとしていなかった。



 鳴き始めの蝉の声が聞こえる。少年二人が、外の人混みとそれによる喧騒をただ聞いていた。店の当番が、まだ回ってこないこの時間、二人は、クレープを貪って、人の来ない屋上で、少しずつ減っていく影を見つけて涼む。少年、とは言え、一人は少年であるにもかかわらず、女子生徒の制服であるセーラー服を着こんで、髪を編み込み、実に、少女のような姿で、凛々しくも可愛らしい、そして、美しい顔立ちで、そこに佇む。もう一人は、言わば不良のような出で立ちで、不健康な隅を目立たせ、ニヤニヤとただ上がっているだけの口角がいやらしく、不気味であった。揃っていて、あまりにも似合わない二人でも、それでも、一つだけ、二人が揃っていても、誰もが納得する理由がある。
「異夜。もうすぐ俺、当番なんだけど行かなきゃダメ?」
「態度くらいは優等生でいろよ。その方がお前も良いだろう? 銃夜」
 不良のような相貌の少年は、もう一人を異夜と呼ぶ。少女のような美貌の少年は、もう一人を銃夜と呼ぶ。そして、二人は、青い青い空をその赤い瞳に映して、黒い艶やかな髪を風に揺らせて、煙草の煙を消すために、懐に忍ばせていた消臭剤を掛け合った。鈴の音のような、可愛らしい声が聞こえて、銃夜が、ハハッと、乾いた笑いを飛ばす。
「気持ち悪い。十時のおやつ食ってる時にそんな風に笑うなよ。ヤニ臭い。ガムでも噛んでろ」
 二つ目のクレープを口の中いっぱいに入れている異夜が、心底嫌そうな顔をして、そう言った。そう言われた銃夜は、ミントのガムを学ランのポケットから取り出して、静かに噛んだ。もうすぐ、もうすぐ、赤い瞳が、八つ揃うと、期待を胸に、銃夜は笑いを押し込んでいた。

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