行くも餓えるもこれ一重

神取直樹

乞う稚児たちよ

 きょとんとした顔で、先程まで寄せていた皺がゆるんで、小さく、細好が言葉を紡ごうとした。
「や――――」

「何を言ってらっしゃるの、貴方は」

 突如として琴線張りつめたような、皮膚に痛みを感じる程度の女の声が、刺さる。耳に蠢く大人たちの声も、それに反応して多少静まったような気がした。そんな、女性の声の方を一夜は溜息を大きく吐き出して向く。
「そのままの意味ですよ、百子さん」
 差し込む、畳を照らす光。それが、屋敷の中庭から立っているその女性、百子によって、多少遮られてしまった。だが、彼女の髪や皮膚、着ている着物の白さが、光を反射させ、なんとなく瞬きが増える。
「さっきは早くしろだの言っていたのに、急にやめろだなんて何を言っているのかがわからないのよ、細好は」
 一理ある、と言うように、一夜が上手い言い口を考えていると、細好が遠慮がちに、口を確かに開いた。
「母様、そうじゃないんだ、そうじゃ」
 母様? と、小さく真樹が細好の言葉に反応する。それに応じて、近くに身を寄せた一夜が耳打ちを静かに吐いた。
「百子さんはそこの白髪チビ……細好の、母親で、俺の叔母さん」
 まあ聞こえているだろうことを察して、少し不機嫌そうに戻る細好を二人で見る。
「……とにかく、やっぱり、何か、変なんだ。式をするには何かが――――」
――――異なっている、正常ではない。
 そう言いたかったのだろう。口内で舌がもごもごと動いて、停止した。母の指が、優し気に唇に触れる。にこやかに、言うなれば楓の素朴な笑みにも似た表情で、圧を上から下へ垂らしていく。優しさの感じられない優し気な行為に、悪寒という生理現象が恐怖を現して、一夜と真樹を襲った。
「細好、貴方はいつからそんなに臆病になったの。一夜君に勝つのでしょう? 私に勝つのでしょう? ならば、そんなたった一つの異質に怯えて、どうするというの?」
「……でも、俺は、異界は初めてで」
「花を持ってくるだけよ、何かを殺しに行くわけじゃない。自分で出ようと思えば簡単に出られる異界よ。鍵を探す必要もない。入って、足元にある花を一輪、好きなのを摘んでくるだけ」
 そういう儀式なんだから、と、それだけなのだから、と、母は子に口ずさむ。目をそらせないでいる子、細好は、誰に助けを求めるでもなく、ただ、弱々しく唇を噛んで、耳にチクチクと刺さる言の葉の痛みに耐えていた。それに手を出すことも出来ずに、一夜は、また長い溜息を出して、瞳に空を写す。
「溜息を吐くくらいなら、最初から惑わすのは止めてくださる?」
 厭味ったらしく、毒が落ちる。百子の言葉は真樹の聞く限り、常に一定以上に上から降る。それはまるで避けられぬ雨のようで、標的ではないはずの真樹でさえ、痛みを感じた。そんな中で、ハッと、鼻でその毒の雨粒を笑うのは、誰でもない、標的である一夜だった。
「千宮は基本的に舐めてるよな。異界。あんまり行かないから」
 続け、百子の口を開かないように、続く。
「儀式で使うような人工的に作られた異界は、発動術式を少し変えればいくらでも危険度を上げられる。花畑を底の無い沼に変えることも、一輪の花を、天使の姿をした悪魔に変えることもだ」
 声が震える。訳も分からずに経験した、幼い頃の記憶が蒸し返す。無理やりに言葉を紡ぐことによる副作用を、察したらしい真樹が、一夜の黒い着物の袖を引っ張る。
「子供如きが……と言いたいけど、大宮の子は皆そう言うわね、本当に、そういうことばっかり」
 落ち着いた声色で、百子はそう言った。安心したように肩を落とした細好が、一夜に目を合わす。
「なら、貴方が一緒についていってあげれば良いじゃない。そんなに心配なら、経験豊富な大宮の貴方が、助けてあげればいいのよ。血の繋がった関係なんだから、問題は無いわ」
 百子の突然の提案にぽかんと口を開けた一夜に、更に気の抜けた表情を構えた真樹が、ふと、思いついたように問うた。
「血が繋がってるからってどういうこと?」
 何も知らない子供の言葉は、意味を二つ重ね合わせて存在を確認できる。その疑問文を切り口に、やっとのことで口を開く細好が居た。
「兄弟姉妹が一緒に儀式を遂行することがあるのは知ってる。確かに一夜は同い歳だし、従兄弟だし、叔父上と父様は一卵性の双子だから、血筋的には異母兄弟みたいなもんだし、儀式上の問題は殆どない……けど!」
「俺は絶対に嫌だからな。そんな弱虫のお守りは」
「こう言うから!! コイツは!!! いっつも!!!」
 全てが弾けたように、細好は一夜を指差し、不機嫌そうにむくれてそう言った。その指を一夜は心底嫌そうに睨む。
「俺だって遊びに誘うふりして落とし穴に落とす馬鹿と一緒は嫌だ! 断じて嫌だ! しかも何だあの落とし穴! 八歳児二人が作ったにしてはどう考えても深かったわ!」
「ゲンが嬉々として手伝ってくれたからな」
「アイツも共犯か畜生!!」
 何を言っているのかが、傍から聞いている、元部外者である真樹には理解出来ない。だが、その中で、毒の雨が止んで、晴れ間が出たことに気が付く。キッと結ばれていた百子の口元が綻んで、薄い笑い皺のようなものが出ていた。それを視界の端で確認し、足元を覗く。そこには、暇そうに白と黒の二人を眺める白い狐が座っていた。
「楽しそうだね、二人共」
 真樹がそう言うと、ツバキはふわりと真樹のズボンの間をすり抜けて、上を向いた。その青い瞳に、真樹の緑色の虹彩を揺らがせる。
「悪い子じゃないもの。二人共ね。誰にでも愛されるように生まれたんだから、お互い愛さない筈ないじゃない?」
「そういうものかな」
「そういうものよ、あの二人に限ればね。二人が二人でお互いに恨み合うなんて、天地がひっくり返っても無いのよ。恨むべきは親なんだから」
「ふうん、ちょっとよくわからないなあ」
 真樹はしゃがんで、ツバキの背を撫でる。それに応えるように、ツバキが真樹の足に純白の毛皮を擦り付けた。
「貴方も、貴女も、愛された筈の子なんだから、きっといつかわかるわ。愛しい愛しい可愛い子」
 真樹がしゃがむことで地面から近くなった、瑠璃の木の腕に、ツバキは鼻をつける。そして、うふふ、と笑った。
「一夜、一夜、貴方、お人形の治療がして欲しいんじゃなくて?」
 ツバキは幼い頃を掘り返す言い合いを、そうやって止めた。ハッとしたように一夜が口を止めると、それを合図にか、ツバキは細好の肩に、物理法則を無視するように飛んで乗る。肩に丁度いいように座ると、重そうにしている細好を無視して、更なる声を足していく。
「あの子、ゲンちゃん達じゃ戻せないところがあるのね。それを治すのに創造の力が必要」
「……そうだ」
 渋々、嫌そうに、だが冷静に、一夜はツバキを見据える。
「儀式が終わったら、百子さんに創造持ちを紹介してもらうか、手伝ってもらうか聞こうと思ってて……」
 あら、と、思いついたように百子が、一夜の唇を押さえた。その本人の口元はニヤリと口角を上げていて、少々、悪だくみをしている顔を作っていた。
「丁度いいわ。人形修理の対価は、うちの子と異界に行くこと。私が修理を手伝う。あぁ、良いわ、良いわ、とても安い」
 満足気なのは百子だけであり、狐の困り顔と、一夜と細好の心底拒絶を表現した顔と、真樹の何が何だかよくわかっていない顔が、その周囲にあった。
「それとも、また屋敷一つをぶち壊したい?」
 ピクリと、一夜の眉が動く。ドキリとした心臓を、バクバクと止まらない心音を抑えるために、真樹が瑠璃を胸に抱いて肩を震わせた。
「良いよ、やってやる」
 観念したように一夜が、手を上げて言った。
「運が良ければただ付いてくだけで良いわけだからな。確かにこんなに楽な仕事は無い」
 己に言い聞かせるよう、一夜は口を動かす。その口からでる言葉は、思いを重ねた錘のようで、細好にさえ、真樹にさえ、影響を及ぼす。当事者である細好は、一夜同様に、仕方がないという顔をかましている。真樹は不安を浮かべた。刺さる、百子の言葉で精神の血をにじませる。
「でも、一つだけ報酬を追加させてもらっていいですか」
 一夜が仕返しの如く、百子の青い目を睨んで、鼻に皺を寄せて言った。
「なあに、言ってごらんなさい」
 わかっている、知っている、気にするな、ぶちまけろ。そういう上からの感情をダダ漏れにして、百子は一夜を見ているようだった。あぁ、見透かされている、あれはわざとだと、一夜は察する。真樹と同じように、演技じみた、ただの苦虫を噛み潰したような顔で、犬歯を露わに言語を噛んだ。
「柳沢邸のことも、全部洗いざらい教えてもらいますから。その人形、瑠璃の主人である、真樹のために必要な情報として」
 それを聞いた真樹が、瑠璃のガラスの瞳に顔を写す。
――――ありがとうって、あとで一緒に言おうね、瑠璃。
 小さな声で、真樹は確かに言った。その声が届いているとはわからずとも、笑いかける。そうね、と、無機質に、少女の声で答えていたのを、一夜はその耳で確実に聞いていた。それと同時に、百子の言葉も重ねて忘れない。
「ええ、良いわよ。おまけのおまけ。さあ、早速準備しましょう。儀式はすぐに始められるわ」
 何もかもがわかっていると、牽制するように、気丈にふるまう母を見て、細好は静かに、無理やり、動くツバキを抱きしめて、その心音に耳をゆだねた。大人たちの蠢く気味の悪い音が、耳から出て行くようで、心地が良かったのだ。ふわり、横を通った一夜の言葉で、目を見開いて、細好は準備に向かう一夜の後姿を見た。酷く、痛そうだと感じて、目をそらした。



 アルファベットにも見える、意味不明の文字列が、円を描いてそこにあった。一夜は一度見たことがあるそれを、眺めて座る。畳二畳分程度の大きさのそれを間に挟んで、前には細好が正座で座っていた。一夜は胡坐だというのに、細好は手を握って、少し、歯をカタカタと揺らし、緊張を緊張で覆い隠している。
「そんなに緊張することないのですよ、若、ただの通過儀礼ですから」
 その、細好の背を摩るのは、リュウ、神楽坂竜也だった。リュウは落ち着いた声で、主人である細好の強張った体をほぐさんとする。だが、細好はそれを聞いているようでも、いないようでもあり、ずっと下を向いている。
「小学校の卒業式や、中学校の入学式のようなものです。誰でも通る道を、大人になる道を、通るだけなのですよ。大丈夫、俺が付いていますよ」
「……ツバキは?」
「この儀式には宮家憑きの神獣を連れることは出来ない決まりです。若は今日、それ以上のものを手に入れるのですから、ご安心を」
「お前もついてこないんだろ」
「えぇ、俺は、若とはほとんど血が繋がっておりませんから」
 すみません、役に立てず、と、優しく、低音を震わせて言う。それを聞き流しながら、一夜はリュウ同様に、自分の隣に座るゲンに目配せした。
「なんだ、お前も怖いか?」
 心底楽しそうに、自分の主人がゲロを吐いた時と同じように、ゲンは嬉々としてこちらを見る。呆れて、一夜は溜息を吐いた。
「今日、何回目だろうな。溜息」
 薄暗い、清浄な空気に包まれる空間で大きく息を吸った。溜息ではない、深呼吸をして、また、文字列を読む。
「……『目覚める夢を見よ』ね……」
 一夜がそう呟くと、ハッとして、細好が問う。
「違う、『目覚めの時は夢を見よ』だ。『ArOH』とあるだろう。これは『時』という意味だからな」
 ふうん、と、一夜は鼻を鳴らす。
「お前、鬼仮名読むの得意なのか」
「得意なんじゃない。勉強したんだ。これを書いたのは俺だしな」
「こういうの、決まったの写して書くんだから、意味なんて覚えなくても良いだろ?」
 小馬鹿にするように、一夜が言うと、細好は冷静なまま、胸を張る。
「ふむ! お前! そういう勉強は苦手と見たぞ! 因みにその続きは『終わりに誓えよ』だ! お前の儀式のときは、よく意味を噛み締めると良い!」
 自信ありげに、細好が言うと、柄にもなく、一夜は嫌味の無い表情で笑う。その珍しさからか、細好は目を丸くして一夜を見ていた。
「そうか、そうか、じゃあその時はお前、今日の俺みたく、付き合えよ。俺が付き合ってやったんだからな」
 薄暗さの中、少し、目立つ、一夜の目元を、細好は見る。
「ふむ、考えていてやろう」
 その上から目線が、細好らしい。そう、一夜は思っている。いつも通りの、一夜に対する、細好本人だ。母に強要される、子ではない。最後の準備を待ちながら、細好は文字列の訳を意気揚々に語りだした。どこが書きにくかったか、どこが好きなフレーズか、そんな話をしながら、一夜に発言権を与えずに、つらつらと言葉を繋ぐ。時折、リュウがキラキラと目を輝かせていた。

「申し、申し、千宮細好様、大宮一夜様、お届け物です」

 突然、障子の向こうから、中年のような声が、二人を呼ぶ。一瞬、ゲンとリュウは身構えるが、細好があっさりと、障子を開けた。
「何だ、お前、こんな時に届け物なんて、非常識にも程があるぞ」
 びくりと体を震わせた男は、土下座の姿勢のまま、声だけを出す。その手の前には、小さな白い、ケーキを包む箱が置かれていた。
「すみません、どうしても、と、言われまして」
 何処から声が出ているかが知れない。ゲンがズボンの裾を上げて、リュウが懐に手をやる。一夜が男が置いただろうその箱を見ると、何処か、見覚えがあるのに気が付いた。
「誰だ、送り主は」
 一夜が一段と低い声で問うと、男は上半身を半分起こして、顔が見えないまま、答えを提示する。その動きはよくわからない異常で覆われていて、違和感しかなかった。
「はい、貴方のよく知る人でございますよ、一夜様。貴方を一番愛している人からでございますよ、一夜様」
 眉間に皺を寄せる。聞き覚えのある声だ。これは、近く、過去で、聞いたことがある。
「誰だテメエ!」
 一夜が声を荒げると、男は箱を掴んで力任せにこじ開ける。それを瞬時にやってのけると、中身を投げ込むではなく、箱を抱えて、自分から部屋の中心に、飛び込んだ。その顔は、一夜とゲンが見た、バスの運転士その人である。それに驚く暇などないことに、二人はすぐに気が付いた。男の足元が、文字列の書かれたその場所が、黒い何かで溶けて、ぐにゃりと、曲がるはずのない、溶けるはずのない形で、液体状になっているのだ。そして、男がその中に潜るように沈んでいく。
「全員外に出ろ!」
 ゲンが叫ぶが早いか、ゲンがその、黒い沼から出た蛇のようなものに引っ張られ消えるが早いか、わからない。蛇に首を絞められた細好も、沼に引きずり込まれる寸前であった。
「若!」
 懐刀で、リュウが蛇を切った。だが、その蛇は動きを止めずに、リュウの手に絡んで、体勢を崩したリュウを沼で飲む。細好は、足に蛇が絡んで、そのまま引きずり込まれるのを待つだけであった。
「細好!」
 唯一、蛇を触れるだけで消せることに気が付いた一夜だけが、蛇に絡まれていない。絡まれない腕で、手を伸ばしてくる細好の腕を掴んだ。引っ張り上げようと、細好の顔にまで来ていた蛇たちを掃おうとした。その時だった。
「一夜! 後ろ!」
 細好が、やっとのことで出した忠告は、沼に消える。ドン、と、一夜は背に強い衝撃を受けて、体勢を崩した。そのまま、ぐらりと沼に堕ちようと体が重力に身を任せた。その時、背を沼に向ける。出来ぬ反撃を、その衝撃の主に食らわせてやろうと、向こうを睨んだ。そこにいたのは、自分と同世代の少年。日本人離れした茶髪を揺らがせていた。少年は、一夜の赤い瞳に笑った。

「ハッピーバースデー、細好。いってらっしゃい、一夜」

 意識が、黒に塗りつぶされて、死んだ様だった。

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