行くも餓えるもこれ一重

神取直樹

命買う

 初めての制服。初めてのネクタイに、少し戸惑いを隠せないでいた。何度も練習したはずなのに、上手く結べない。表に出したい面が裏になってしまったり、そもそも解けなくなってしまったり。そんなことをしていれば、アイツが、来る時間だ。そう思って、一夜は溜息を吐いた。
 この街一帯の土地神・氏神である稲荷神社。一夜はその神社に住んでいる、中学入学式を三十分後に控える少年だ。神社の一角、神主一家が住む屋敷の一つ。その中の部屋の一つを自室として、着替えに手こずっていれば、ドタドタと、聞き覚えのある速度の足音が聞こえた。
「一夜! まだ終わってないのか!」
 そう叫んで、部屋の襖を勢いよく開けて飛び込んできたのは、片山比寄――ヒヨ、だった。
「終わってないんじゃない。ネクタイ何て意味不明の着ける意味を持たない布の紐が」
 一夜がひねくれていると、ヒヨも大きくため息を吐く。
「ネクタイが悪いなんて理由にならないだろ。ほら、結ぶから来い。他は全部用意できてるよな」
「あぁ、必要なモンだけバックに突っ込んだ」
 そうこう受け答えをしている間に、ヒヨは、さらりと一夜の首にネクタイを結び付けた。元々手先が器用であるし、今まで一夜にネクタイの結び方を教えるために、一夜にネクタイを結んでいたからだろう。何のためらいも無く、何の失敗も無く、軽い手捌きで、完璧であった。
「ほら、行こう、一夜」
「おう」
 バックを持って、ヒヨの手を取って、歩む。歩むとは言えど、早歩き。幾つもの開かない襖を通り過ぎて、光の多い玄関までたどり着く。ここまでに何分かかっただろうか。中学が近所じゃなければ、こんなに一夜もヒヨもゆっくりしない。そして、玄関をガラリと開けると、見知った影が二つ。
「準備できたかい。二人とも」
 優し気な表情をしている、安心感をその全てに抱えている、ヒヨの父、片山武。そして、その隣でカメラを弄っている、同じく優し気な女性、ヒヨの母、片山裕子。武も裕子もスーツを着込んで、裕子に関してはいつもはしない化粧をしていた。
「学校の入口で写真撮りたいから、早く行くわよ」
 裕子がそう言うと、武は笑っていた。一夜とヒヨは真新しい靴を履き、歩みを更に急がせた。大通りに出れば、もう、学校はすぐだ。入学式にやってきた親子だろうか。スーツや簡単なドレスに身を包んだ保護者達、それの前や真ん中を走る、一夜やヒヨと同じネクタイと制服の少年少女たち。少し進めば、人だかりに突っ込むことになる。その付近からは「おめでとうございます」と言う声が連呼されていた。入学式と書かれた立て看板で写真を撮る少女には、見覚えがあった。
「あら、月乃宮さんの所、遅かったのね」
 裕子が呟いた。確かに、その少女は月乃宮伏子――フセであり、その写真を撮っていたのは彼女の父であった。しっかり者の親子であるから、きっと早くに家を出ただろうと思っていたが、意外にもギリギリの時間に玄関にいたので、片山夫婦は驚いていたのだ。
 けれど、フセの見える位置まで来て、一夜とヒヨはその理由を察した。
「ヒヨ」
 一夜が問う形で、ヒヨと目を合わせる。それと同時に、ヒヨも一度だけフセを見て、目を合わせた。
「あぁ、成程。入りたくないのか」
 玄関の門、その奥の、建物の入り口。玄関の門には中学三年生か二年生だと思われる先輩達が受付をしている。その奥の建物入り口には、教師陣、恐らくはこれから新一年生の担任になるのであろう教師たちが、連なっていた。ヒヨと一夜が注目したのは、その教師のうち、一際美しい、男性教師である。一番若いように見えるし、一瞬、女と見まごうほどの美形である。姿勢もしっかりしているし、声掛けも丁寧だ。だが、その美しさが、異様に見える。そして、その後ろ、彼の後ろに見えるモノが、「ヤバイ」のだ。
――――黒く、禍々しい、眼球。白目は無い。それに、白で統一された長い髪。ただ布で股間を隠しただけの、服装とも取れない服装。豊満な乳は、綺麗に形が整って、妖美だ。顔立ちは前に立つ男性教師に似ていて、整っている。肌は褐色で、髪を際立たせ、文様のような入れ墨が入っていた。
 そんな異様がそこにいるのに、通る人通る人は誰も何も言わないし、何も反応しない。恐らくは誰にも見えていないのだ。それが、見えてはいないのだ。
 霊、というものが、一部の人間にしか見えない、というのは、有名でありきたりな話である。霊が見える、悪魔が見える、この世のものではない者が見え、触れられ、干渉できる。そんな人間は、少なからず、日常には紛れ込んでいる。その一部の人間に属しているのが、一夜、ヒヨ、そしてフセの三人である。
 つまり、フセはその異様な女を見て、学校の中に入らなかったのだ。
「フセ、乳無いしなあ」
 一夜がぼそりと呟いたが、その瞬間に、ブルりと肩を震わす。異様な女の気配とも違う、ただひたすらに流れてくる殺気に、鳥肌が立った。だが、これは今まで何度も感じてきたものだった。そう、フセが、門に入ってすぐの場所に移って、こちらを睨んでいた。
「い、お、え、え、う、あ、お」
――――聞こえてるわよ。
 フセは異様に耳が良い。それも、聞き分けることにも能力がある。聞き覚えのある声ならば、すぐにわかるのだ。だから、瞬時に一夜の場所と、言っている内容が理解できた。だから、答えた。
「ハハッ」
 苦笑する一夜と
「…………あのクソアマ……」
 睨み返す、ヒヨ。
 ふと、そんな遠いやり取りをしていると、フセがこちらに向かってくるのが見え、スッと、すぐさま見覚えがありすぎる色素の薄い茶髪が一夜の視界を覆う。
「聞こえてるって言ったでしょ男女」
 表情は、一夜にとってはあの異様な女よりも恐ろしかった。そこまで来て、一夜は本題に入ろうと口を開けるが、それは武によって遮られる。
「おや、三人とも揃ったね。良い入学式日和だ。受付して、写真、撮ろうよ。早く学校に入らないとだろう」
 三人の背を叩いて、受付まで連れて行き、そのまま何の悪気も無く立て看板の前に立たせる武。それによって、ヒヨとフセの口喧嘩は開幕することも無く中断された。そこにフセの父、月乃宮一郎もカメラマンとして入って、少しの賑わいを見せた。写真趣味の裕子によって、上等な写真が撮れたのか、大人たち三人は大喜びで騒めいている。
――――さて、どうするか。
 一度、異様、に背を向けたことで、一夜の考えはリセットされていた。あの女は、眼球からして、恐らくは悪魔の類であると考えられる。そして、あの悪魔は取りついていたのではなく、明らかにあの男性教師と契約してそこにいた。では、あの教師は何者なのだろうか、と、考えてる暇は与えられず。振り返り学校の入り口を見ると、教師陣はいなくなり、周りの新入生たちも急ぎ足になっていた。
「一夜、今なら入れるぞ」
 ヒヨがそう言ったのを合図に、三人は歩みを進めて前進する。保護者の三人は学校内に入ってから、すぐに体育館へ入って、子供たち三人とは別れてしまった。三人は幸にも不幸にも全員同じ二組で、進む方向は同じであった。
「二組の子達だね?」
 受付から貰った胸ポケットに入れた花で判断したのだろう。耳に髪をかけ、眼鏡に真黒な瞳を抱える少年が、三人の目の前にやってきて、微笑んだ。
「はい」
 フセが応じると、二人も頷いて合わせる。
「そうか。それはラッキーだ。あの樒先生の生徒になれるのか」
 少年は笑ったまま、スッと歩き出そうとするが、三人が何も言わずに、足を動かそうとしないのを見て、一瞬、時を止めたかのように、静止した。
「……すまない。自己紹介を忘れた。僕は久留米乱。ランで良いよ。同じ苗字がいるからね」
 いや、そこではない。三人が動かなくなったのはそうではない。
「……? ……っあぁ!! そうか! 僕馬鹿だ!」
 自覚あるのか。と、ヒヨが本当に小さな声で言ったのを、フセと一夜は聞き取り、苦笑する。だがランは気が付かずに、話を続けていく。
「僕は三年生でね! 新入生をクラス教室に連れて行く係なんだ! 着いてきて! 教室まで案内するから!」
 やっとのことで自分のするべきことを思い出し、言うべきことを言い、一仕事終えたように、ランは軽快に笑う。大体予想は着いていたが、それを結果とするのには、彼の言葉と行動が必要だったのだ。三人は、呆れつつもゆっくりと、彼の後ろを着いて行く。
「あぁ、それでね、樒先生ってのはね、樒佑都先生って言うんだけどね、二組の担任で、凄く凄く美人な先生でさ。女子にも男子にも大人気でね。話も面白いし、社会の先生だけど、授業の仕方もわかりやすくて楽しいよ!」
 綺麗、男性教師というキーワード。嫌な予感がした。それは、予感というにも酷くリアルで、結果にも近いもの。三人の予感と言うのは良く当たる。いや、この場合はもう、予感とは言わない方が良かったかもしれない。階段を上って少し歩き、それまで先輩の論が止まらなかったが、その内容はさっぱりだった。まさか、あの女が。腹をくくって、教室まで一歩一歩確実に進んでいく。

 ガラリと、ランが戸を開けた。

「おはようございます。そして、ご苦労様」
 落ち着いた鈴を鳴らすような声が、三人の耳を憑く。普通に聞けば優しい、惚れ惚れとするような声なのだろうが、三人には鼓膜に舌を這わせる蛇のように感じた。特にフセは震えて、一夜の服の裾を引っ張る。一夜はそれに気が付いてはいたが、それを掃った時どうなるかを想像して、止めた。
「残りの三人……大宮一夜君と、片山比寄君、月乃宮伏子さんですね。お待ちしていましたよ。さあ、入って。ラン君も三年生の教室に戻って構わないよ」
「了解です!」
 ランはそう笑って、三人の背を押して、共に教室に入る。入った、瞬間。下を見ていた一夜には、真黒な影が見えていた。それはするりと動いて、自分の後ろに向かう。影の元は目の前の教師。その足元。自分の足元をすり抜けたとき、言えもしない恐怖感と悪寒に襲われる。勇気を振り絞って、後ろを振り向いた。ヒヨとフセもそれに倣って振り返るが、一夜の行動を止めるには至らない。
「離れろ!」
 ランの顔にまで這ってきていた蛇を、一夜は打った。正確には、ランの頬を平手打ちしたのだ。
「馬鹿! 一夜!」
 フセは叫ぶ。急いで一夜の手を掴んでランから遠ざけたが、もう遅い。一夜を含める三人には一夜が蛇に攻撃したように見えるだろうが、他の人間はどうだろうか。何より、平手打ちされたランは、勢いに任せて不意を突かれて倒れたランは、どうだろうか。
 空気がピリピリと痛い。三人は背から殺気を感じ取って、振り向かずに、ランに駆け寄る。
「すみません、大丈夫ですか」
 一夜が問うが、ランは心底驚いた顔をして、何も答えない。三人を見回すと、フセの目を見て、首の動きを止める。
「久留米乱、さん。すみません。少し大きい蚊……ガガンボかしら、が、いたので、一夜、驚いてぶっちゃったみたいなんです」
 フセが落ち着いて、目を見ながらそう言う。ランは目を空ろにして、打たれた方の頬を撫でる。そして、その手を見た。
「……あぁ、虫を……殺してくれたのか、ありがとう……」
 フワフワとしていて感情の感じられない応答だったが、三人はホッと胸を撫で下ろす。特にフセは疲れた表情をしていた。
「……すみません、教室、帰ります」
 ランは空ろなまま、教室を後にして行く。が、三人の問題はここからだ。背に感じる空気。感じたことのない殺気。本当に、こちらを殺そうとしているような、そんな、気配。意を決して真っ先に振り向いたのはヒヨだった。
「すみません、取り乱しました。かなりデカイ虫だったんで」
 なんだ、虫かあ。と、新入生の集団の中から聞こえたが、樒は表情を変えずに、こちらを黙って見ているだけだ。何を考えているのかがまるで見えない。ヒヨにはそれが不気味で仕方が無かった。ヒヨには、普通、意識した人間の考えが何となく感じられる。唯一、今わかるのは、この樒という男は、自分たちに先程まで危害を加えようとしていたということだけだ。ヒヨが振り向いた瞬間に、殺気は消えていた。
「……すみません、だらけで、なんだか変ですね。さあ、わかったから、席に座りなさい」
 異様な空気感に、鳥肌を立てながら、一夜は、出席番号1番、一番左の前の席に座って、一度、目を伏せた。



 入学式は、頭に入らなかった。ただ、やはりなんだかおかしくて、嫌に白い肌と髪を持った和装の女や、黒い黒い鴉のような男が宙をフワフワ浮いていたり、からくり人形がカラカラ音を立てて体育館中を走っていたりと、普通の人間が見えるはずのないものが、多くいた。あの異様な女も同様に、担任と紹介された樒の後ろに従者のように立っていた。
――――相談するべきだろうか。
 そもそも、誰が何を持っていて、誰が何を以ってそんなおかしなものを連れているのかが解らなかった。一夜も連れてこようと思えば連れてこれる。だが、ただの中学校に、そんな、使い魔のようなものを連れてくる必要があるだろうか。そんな疑問を抱いて、流れる時間に身を任せていく。式が終われば、後は少しで帰ることが出来るはずだ。だが、一つ、関門がある。
 式が終われば、教室に一度戻る。



「それでは、皆さん、私は樒佑都と申します。樒という苗字、珍しいと言われるので樒先生でも良いですが、下の名前で呼んでいただいても構いません。担当教科は社会です。教師歴は三年とまだまだですが、頑張りたいと思います。よろしくお願いしますね」
 ウフフ、と笑って樒は、では、と手を一夜に向ける。
「夷の島小学校出身、大宮一夜です。好きなことは折り紙と切り絵。嫌いなのは……虫、です」
 最後、辻褄合わせに言うと、周りからはそこそこ大きな笑い声が聞こえた。だがそれはクスクスというような嫌なものではなく、むしろ、ネタにして皆で喜んでいるような、心地の良いものだった。
「……一夜と同じく夷の島小学校出身、片山比寄です。好きなのは一……じゃなかった、読書と料理、トランプゲームです。嫌いなのは馬鹿と蛇です」
 正直すぎるくらいの所で止めて、一番言ってはいけないところは言わずに、ヒヨは難なく自己紹介を終わらせる。少しだけ、女子の目線が多く集まっていただろうか。ヒヨは口を引きつらせて、手を振っていたが、その目は笑っていなかった。
 暫くして、フセの番が回ってきたが、フセの前の人間が言い終わり、席に着いても、フセは立たない。
「……月乃宮さん? どうかしましたか?」
 樒が口を開けると、ボーっとしていたフセはハッとして、急いで立ち上がる。立ち上がった後には一瞬だけ、樒を睨みつけた。
「夷の島小学校出身、月乃宮伏子。趣味は絵を描くこと。あとは歌を歌うこと。嫌いなのは爬虫類と虫系統。蛇とか蜘蛛何て撲滅したい」
――――二人とも、はっちゃけすぎては、いないだろうか。最早、二人とは知らないふりも出来ない一夜には、一番の難題は、二人のような濃い人間と付き合って、他のクラスメイトに何を言われるかということだ。
 ただ、それはこれから将来の話であって、今の話ではない。今の最も「ヤバい」難題は目の前にいる。
 こちらを見つめて薄ら笑っている、黒目の女。ウフフフと笑って、監視するようにこちらを見ている。ただ、右肩の部分が何故だか入れ墨が増えていて、気味が悪かった。入れ墨はまるで蛇の鱗のようで、その絵も蛇を表しているようだ。それをずっと見つめていると、全員の自己紹介が終わったらしく、樒が口を動かす。
「それでは、皆さん、自己紹介も済みましたし、保護者の方を待たせている方もいるでしょうから、今日はここで解散にしましょう。明日は八時二十分にはこの教室にいること。あ、解散ではありますが、暫くこの教室は開けておきますので、自由に談笑してくださいね」
 にこやかに、爽やかに樒は言って、では、また、と、軽く手を振る。だが、彼自身はそこを動こうとしない。早帰りの少数派は速やかに教室を出て、他のクラスの生徒などと共に帰ったり、保護者を探しに行ったりなどしていた。だが大部分はいくつかのグループに集まって、樒の言ったように談笑を開始した。
 一夜とヒヨとフセも速やかに集まり、身を寄せあう。そして速やかに帰ろうと――――すれば、他の、先程知り合ったばかりのクラスメイト達に、声をかけられるのだ。
「ねえねえ、ヒヨリ君って、読書好きなんでしょ? 私もなんだ。ねえ、一緒に図書委員やらない?」
 身勝手な都合と小さな尻尾を振る。彼女が見ているのは、ヒヨだけだ。フセはもちろん、同じ男子である一夜の事など見ていない。他の女子も相まって、三人を囲む包囲網の完成が見えた。その時、禍々しい影が、その集団を囲もうとしていたことに、一夜はすぐ気が付いた。
「あの!」
 大声を出す恥ずかしさはもう良い。今、知りたいことがある。
「樒先生! 話があるんですけど! 四人で!」
 酷く冷静に、声を上げた。何も知らぬクラスメイトは、わけがわからないという表情で、一夜の事を見る。フセとヒヨは一緒に樒を睨んで、佇む。
「……良いでしょう。談話室にでも行きましょうか。あそこならゆっくり話せるでしょうし」
 彼もまた酷く冷静に、淡々としゃべる。動くのは口だけ。目は、動かない。

 思えば、樒佑都の笑みは、今まで一度も、目が笑っていなかったことに、三人は今になって気が付いた。

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