お狐さま、働かない。
九十二話/〈賢者〉の顛末(後)
――昔々あるところに、とても悪い魔物がおりました。
その魔物はとても強く、とても長生きで、そして大陸全土に影響を及ぼすほどの強大な魔物でした。
多くの人々がこの魔物に困らされておりました。
ですが、この魔物を討伐しようという人間はひとりもいませんでした。
この魔物は、とある国の王さまの妾に収まっていたからです。
ある別の国は魔物を討伐するために、戦を仕掛けることにしましたが……結果は大失敗に終わりました。
この魔物はとても悪知恵に優れており、戦や謀が大の得意だったのです。
魔物の名前は、テウメシア。
多くの人々を騙し、惑わし――あるいはこの上なく魅了した、史上最悪の雌狐でした。
テウメシアの悪名は留まるところを知らず、ついに大陸全土が彼女を危険な存在と見なすようになりました。
これこそは大陸全土を巻き込んだ、史上最大の戦争のきっかけとされています。
この戦の最中において、テウメシアを討伐するための秘密部隊が結成されました。
手段は殺害のみに留まらず、彼女を無力化しうるあらゆる手段が講じられました。
その秘密部隊に、ある一人の魔術師がいました。
彼は魔物の研究に永い年月を費やし、そのために人間の寿命をも乗り越えてみせた偉大な魔術師でした。
全ては太平の世をもたらすために、と彼は語ります。
――――彼の名はクレラント。
後の世にも〈賢者〉として知られる、世界で最も偉大な魔術師のひとりでした。
◆
「テオよ。合わせるぞ」
「はっ。ユエラ様」
ユエラとテオは同時に幻術を行使する。
テオのしっぽは一本きり――相手に視覚的な幻をもたらすのみである。
だが、それがもしユエラの幻術と組み合わされば。
まさに破滅的な効力を発揮しうる。
「ッ、く、くっそがぁッ!! どっちにいやが――があァァアッ!?」
クレラントは幻術の攻略方法について先ほど述べた。自分の見たものを信じないことだ、と。
確かにそれは有効な攻略手段だろう――明らかに不可能である、という点を除けばだが。
「諦めよ。もはやおぬしに勝ち目はなかろう」
ユエラの幻術だけならばまだなんとかなるかもしれない。
だがそこにテオの幻術をも加われば、これはもはや意味不明だ。
ユエラの意図とテオの意図が絡み合い、術者すら意図していないほどの負荷をクレラントにもたらすのである。
「誰が、あきらッ――――があああッ!?」
テオの投擲した刃が胴に突き立つ。
ユエラの振り仰いだ九尾が殺到し、クレラントをでたらめに叩きのめす。
本質的にこの攻撃に意味はない。クレラントの肉体は結局のところ仮初の肉体に過ぎない。
しかしユエラが見る限り、彼の魂が宿るところ――すなわち脳だけは本物だ。
本物でなければ魔術を行使すること自体があり得ない、とも言える。
そしてユエラとテオの幻術は、確実にクレラントの脳を――魂を軋ませている。
二人を力づくで排除しない限り、幻惑がやむことは決して無い。
「……ッ、ぐッ!!」
クレラントは自らの顔に掌を滑らせる。
瞬間、彼の顔が全く別人のものに切り替わる――生意気な少年のそれから、深い年輪が刻まれた老人のものへ。
「肉体なんてなぁ、いくらでもあるんだよ――――『空圧』ッ!!」
クレラントは続けざまに詠唱完了。
空気の層が巨大な質量を得たように凝固して、彼を中心とする半径全体を押し潰す。
「……ぐ、む……テオッ、堪え、られるかえッ……!」
「――委細、問題はありません」
この術式であれば、ユエラとテオがどこにいようと関係ない。どのような幻覚を見せられようとも関係ない。
全くの無関係に、彼の周囲に存在する悉くを押し潰せる。
だがそれは広い範囲に及ぶ以上、肝心な威力が犠牲になっていた。
膨大な魔力量を抱えるユエラは言わずもがな、魔素の鎧を身にまとうテオも充分に凌ぎうる。
「潰れろッ!! そのまま潰れちまッ――があァァァッ!?」
ユエラは"空圧"に晒されながらもクレラントへ肉迫。まるで地に縫いとめるかのごとく、九つのしっぽが次々に彼の身へ殺到する。
対するクレラントはまともに反応することも出来ず、地面に叩きつけられた。
「ぐ……クソッ!? くそったれがァッ!!」
クレラントがなぜ反応しかねたかはごく単純。
ユエラは彼の攻撃を利用し、さもそれが有効であったような幻覚を見せたのだ。
現実のユエラは"空圧"の中であっても行動を可能とし、クレラントに攻撃を仕掛けたにも関わらず。
そして、攻撃が可能であったのはテオも同じこと。
「――そこです」
テオは倒れ込んだクレラントに向けて短剣を投射。
刃先が脳天に突き刺さり、速やかに顔面を破壊する――刃は頭蓋にまで到達する。
「……何度やっても、無駄だとッ……!!」
クレラントは身体を引きずるように立ち上がる。突き刺さった短剣を放り捨てる。
老人めいたその顔はずたずたに引き裂かれていたが、掌でひと撫ですれば表面は瞬く間に切り替わる――物静かそうな若者の顔立ち。
「無駄というのは、おぬしのほうであろう?」
「……ッ!!」
「分かっておらぬわけではあるまいに。どれだけ仮初の肉身を取りつくろおうが、もはやおぬしは、終いだ」
ユエラはくいっと顎を持ち上げてうそぶく。クレラントは口惜しげに歯を食いしばる。
もはや状況は覆った。クレラントがどれほど手を尽くそうとも、ユエラとテオを同時に相手取ることは不可能だ。
何度肉体を取り替えようとも、二人はそれを一瞬にして破壊する。態勢を立て直すような暇は一切与えない。九つの尻尾と一振りの刃を前に、クレラントは完全なる"詰み"に追い込まれた。
だが。
「―――ハハッ! いいさ、僕はそれで一向に構わない! 結構なことじゃないか! あいにく僕はここで負けるらしいが、ここで死ねるなら……僕はそれで本望なんだからさァッ!」
――常人がそう言うならば、単なる負け惜しみに過ぎないだろうが。
それは、クレラントの偽らざる本心なのかも知れなかった。
「お静かに」
「ッがァァッ!?!?」
もっとも、テオにはあずかり知らぬことである。
肉迫とともに短剣を容赦なく突き出す。切っ先が首筋を引き裂く。
「ッ、ぐ……!! 『風斬』ッ!!」
クレラントはたたらを踏みながら詠唱を完了。
同時に彼の周囲が激しい乱気流を巻き起こす。触れればそれだけで身を刻まれる疾風の盾。
これ以上となく明白な、近づくなという意思表示。
「ふん。諦めたのでは無かったかえ?」
「死んでもそれはそれで構わない、ってだけさ。何も負けを認めたってわけじゃない。死は望むところだけどさ――僕は負けるのが大っ嫌いなんだよ」
「……まあ。おぬしを大人しく死なせてやる気にはならんがな」
これはユエラにとって損しかない戦いだ。
対するクレラントにとっては得しかない――行き着く先が勝利であろうと、あるいは敗北であろうとも。
戦況を優位に運んでいるが、この非対称な状況は如何ともしがたい。
言うなれば、ユエラは戦略の段階で敗北を喫しているのである。
「ユエラ様――」
「うむ」
明確な言葉が無くとも、不思議とテオの考えが伝わってくる。
それは同じ狐尾を有するがゆえの繋がりか。
ユエラは一尾をぴんとそばだて、体内中の魔力を注ぎ込んだ。
――――幻魔術・鏡花水月――――
「くッ……!」
クレラントは眉をひそめる。
彼の視界には幻――無数の剣が見えているに相違ない。
幻の剣が殺到するも、彼はあくまで動じなかった。
「今さら、ただの幻が僕に通用――ッがァッッ!?」
どこからともなく突如現れた剣。ユエラの力を理解していれば、それを幻と思うのは当然だろう。
だがそれは、テオが自らの姿を眩ませながら投擲した本物だった。
膨大な魔素を帯びた短剣の投射。それはやすやすと風の領域を貫き、クレラントの身を刺し穿つ。
無論のこと、一本だけではとどまらない。虚実交えた無数の短剣がクレラントを包囲する。本物にまぎれて幻の短剣が突き刺さり――どれが本物であったかの区別すらできなくなる。
こうなってはもはや、幻の短剣までも警戒せざるを得ない。
「――まずは、その皮を剥ぎ取るところから始めるとしましょう。ユエラ様直々の仰せですから。やすやすと死なせは致しません」
「……ッ……まぁ、そもそも、僕を殺せるかは疑問だがね。期待しているよ、テウメシア。僕を殺せるのは君だけで、君を殺せるのは僕だけだったんだ。そうだろう? 僕が死んだあとはもう、未来永劫、君を殺せる人間なんて誰ひとり現れないだろうよ――――」
クレラントはズタボロの身体を引きずり起こす。
彼は窮地に追い込まれてなお、ユエラ以外の存在は眼中にない。その他を対等な存在とは認めていない。
ユエラは不愉快げに瞳を細める――その瞬間だった。
「その時は、私が、殺します」
「……あァ?」
「ユエラ様がそれを望まれたならば――――私がユエラ様を冥府に御送りし、然るのちに後を追いましょう」
テオは表情も変えずに断言する。
クレラントは、そしてユエラまでも呆気にとられる。二人ともが瞳を見開いたまま硬直する。
次の瞬間、クレラントは腹を抱えて笑い声をあげた。
「くッ、ふふ、ハハハッ! 笑わせてくれる! 僕でも殺しきれるかどうかって化け物だぞ、そいつは! それが君のような人間ごときが! どうしてテウメシアを――――がっふッッ……!!」
「気易く名を呼びませぬように」
テオはすかさず疾駆し、短剣の柄を首筋に叩き込む。怯んだところで刃を返し、返す刀で心臓に向けて刃先を突き入れる。
クレラントは血反吐を吐きながら勢いよく後ろに倒れ込んだ。
「できるかどうかではなく、やるのです。ユエラ様がお望みになられたならば、ユエラ様がそれを私に命じられたならば――私はそれをなし遂げてみせましょう。今日という日と同じように」
――――あるいは、それがユエラ様を死に追いやることであろうとも。
「テオ……」
否応なく面映い気持ちがユエラの胸中にこみ上げる。
嬉しいような、恐縮するような、気恥ずかしいような。
年甲斐もなく体温が上がるような感覚を覚える。そのような場合ではなかろうに、とユエラはゆっくりと頭を振った。
「ですから、あなたは遠慮なくここで死んでください」
テオは続けざまにクレラントの肩を踏みしだく。もう片方の肘から先を切り離す。
クレラントは悲鳴を上げかけるが、喉の穴からひゅうひゅうと風が抜けるのみに終わった。
しかし、この期に及んでもクレラントは口元の笑みを崩さなかった。
やれるものならやってみろ、と言わんばかりに。
「まぁ、待つが良い、テオ」
「は。いかがいたしますか」
そこにユエラはゆっくりと歩いてくる。堅い地面を踏みしだきながら。
クレラントのすぐそばに来たところで足を止め、彼女はぽつりと言った。
「私に良い考えがあるでな」
「考え、ですか」
「うむ」
「こやつ、私を封印しようとしておったようでな」
「封印――魔王のように、ですか?」
「で、あろうな。おそらくは」
ユエラとテオが言葉を交わす。クレラントは怪訝そうに表情をしかめる。
「どうもあの迷宮とやら、魔王がいなくなったら消えてしまうらしい」
「そうではないかという噂はありましたが、やはりそうなのですね」
「で、私を代わりに封じこめたら迷宮は存続できたらしいのだな」
「……魔力があるから、ですか?」
「うむ、まさに。――そこで考えたのだがな」
その時、ユエラはちらりと足元のクレラントを一瞥する。
二人の視線が重なり合う。
瞬間――クレラントは彼女の意図を悟った。
この上なく、明瞭に。
「テウメシア、貴様――」
「なんじゃ気づきおったか。静かにしておれ」
ユエラは容赦なく魔力を帯びたしっぽを叩きつける。強引にクレラントを黙らせる。
ここまで話したところで、テオもすっかり合点がいったようだった。
「なるほど。そういうことですか」
「うむ。こいつにも利用価値はある、というわけだのう」
「この様子では、あまり大人しくしてくれているようには思えませんが」
「なに、案ずるでない。それこそ私の力の見せ所、であろうよ」
クレラントの想像は確信に達する。彼は憤怒と、そしてこれまでにない焦燥を表情に浮かべながら口を開く。
彼女の意図はもはや、火を見るよりも明らかだ。
「テウメシア、貴様――僕をッ!! この僕を、迷宮の依代にするつもりかッ!!」
「ご明察。おぬしも私にやろうとしたことであろう――何の不満があるというのかえ?」
ユエラは笑う。
そうすれば万事は解決だ。クレラントは地の底奥深くに封じこめられ、〈封印の迷宮〉は変わりなく存続する。
今度の封印は、魔王のそれよりもずっとずっと強固にするとしよう。もう二度と解かれてしまうようなことがないように。
「馬鹿なッ!! 僕の成果を、一朝一夕で真似できるわけがッッ」
「うむ。おぬしの封印がどのようなものだったかはちいとも知らんが――おぬしの頭の中に聞いてみれば分かるであろう?」
ユエラはゆっくりと前足をクレラントに近づける。
先ほどまではどうにもならなかったが、テオによって無力化された今ならば。例え彼ほどの魔術師であろうとも、支配下に置くことは充分に可能であろう。
かつてはリーネを相手にそうしたように。
今度はそれを、とびっきり酷薄にやるだけだ。
「や――やめろッ!! 殺せッ!! 僕をッ!! 殺せよッ!! こんな形で終わらせてみろッ!! 絶対に僕は戻ってくるぞ!!」
「往生際が悪いのう、おぬしから売ってきた喧嘩であろう? そんなに死にたければ自殺を極めるべきであったろうよ。……私を相手にして、安らかに死ねるとでも思うたのかえ?」
ユエラは口端を吊り上げて笑う。
〈災厄の神狐〉、〈始原の悪女〉――その二つ名は決して伊達ではなく、衰えてもいないと知らしめる笑み。
千年の時を重ねてなお、彼女の悪辣さは健在だった。
「絶対に、絶対に復讐してやるぞッ!! 首を洗って待っていろ、テウメシアァッ!! 僕は、絶対に、おまえを――」
「あいにくだのぅ、クレラント。……仮におぬしが蘇ろうと、その時にはもう、テオに送ってもろうておるかも知れぬわえ」
ユエラはちらりとテオに目配せする。彼女は「光栄です」と言わんばかりに目を伏せる。
もはやクレラントは言葉を失うばかりだった。
「それでは、お覚悟を」
「安心しや。……もはや苦しむことも無かろうさ」
テオは淡々とうそぶく。ユエラの掠れたようなささやき声。
ユエラの前足がそっとクレラントの頭に触れ、そして――――
〈賢者〉クレラントの意識が戻ることは、未来永劫、二度と無かった。
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