お狐さま、働かない。

きー子

八十八話/竜殺し・破

 時は少し遡る。

 アルバートとエルフィリア。二人は一時的に牢を出ることになった。
 仮に魔王が復活すれば、街は混乱を極めるだろう。その時、二人がそのまま事故死すれば笑い話にもならない――キリエ枢機卿はまず間違いなく責任を問われることになる。

「こちらで大人しくするように。何かございましたら仰ってください」
「……ああ。わかった」
「わかりました!」

 街外れの公教会仮設拠点。
 魔王復活という災いの到来に備え、公教会が用意した小規模キャンプである。
 アルバートとエルフィリアは信徒の一人に案内され、天幕の一つに押しこめられていた。

 信徒が慌ただしげに天幕の外へ出ていく。
 捕虜に対してあまりにずさんな監視体制だったが、おそらくそれどころではないのだろう。
 二人きりになったところで、無表情を繕っていたエルフィリアは顔にぱっと笑みを咲かせた。

「アルバート様!」
「ああ」
「お久しぶりです!! 一月と少しでしょうか、このたびは長らくアルバート様のおそばにいられず――」
「エルフィリア。静かにな」
「は、はい」

 忠犬さながらにアルバートへ寄りそうエルフィリア。
 もし彼女にしっぽがあれば、それはもう盛大に振りたくられたことだろう。

「しかし、仮釈放とは、いきなりどうしたのでしょう」
「……おまえはアルフィーナから事情を聞いていないか?」
「はい。領地の様子とかはちょっとお聞きしましたけど……」

 なるほど、とアルバートは頷く。〈賢者〉の存在などは耳に入れていないようである。
 どうしたものか、と考え――アルバートは話しておくことにした。
 アルフィーナとの会話から得られた推察。街中に広がっている噂について。

「……魔王、ですか?」
「ああ。襲撃を受けて騒ぎになっていたことは知っているだろう」
「はい。隣から凄い音がしたものですから……」

〈賢者〉クレラント。彼の襲撃にともない、アルバートは地下に移されたわけだ。
 彼こそは魔王の封印に貢献した立役者だ。そして今回の仮釈放。全てが繋がっているとするならば、今、ティノーブルに起きようとしていることは――

 その瞬間。
 大地が揺らぎ、大気がびりびりと震え――そして、世界を割るような咆哮、大音声。
 エルフィリアは座ったままびくんと震える。長い耳をぴんとそばだてる。
 そして、アルバートは咄嗟に立ち上がった。

「今の音は……」
「……魔物、でしょうか」

 魔物。それも並大抵の魔物ではあり得ない。
 咆哮の音は間違いなく街中――それも中心部から聞こえたものだった。

 二人は自然と顔を見合わせ、頷いた。
 アルバートは急いで天幕から飛び出す。

 外では何十人もの信徒が慌しく行き来していた。
 迷宮街から避難してくる人々の姿も遠くに見える。
 何らかの結界に寄るものか――音がここまで届くのが少し遅れたのだろう。

 捕虜であるアルバートが外に出たにも関わらず、気にするものは誰もいない。
 誰もそんなことに気を払う暇さえ無いのだ。

「アルバートさま……?」
「ああ、大丈夫だ。出てきて良い」

 アルバートがそう言うと同時、エルフィリアはおずおずと天幕から顔を覗かせる。
 そして二人は、揃って迷宮街の中心部へ視線を向ける。

 そこには、災厄――漆黒の巨大な竜が、空を塞ぐかのように君臨していた。

 行き交う雑踏の只中で二人は目をみはる。

「……あれが……」

 エルフィリアは呆然とつぶやく――あれが魔王なのですか、と。
 魔王というには欠片ほどの知性も見受けられない姿だが――
 しかし、未曾有の脅威であることは疑いようもない。

 体積はゆうに人の数百倍もあろう。
 言うなれば、空を飛ぶ城のようなもの。
 それが地上に向かって好き放題に砲撃を撃ち込んでくるとするならば――人類の存続を脅かして余りある。

 それを目の当たりにした瞬間、アルバートは即座に決断した。

「行かないと」
「……ッ、ほ、本気です!?」
「ああ」

 愚かしい決断と言えばそうだろう。
 無茶な独断専行で痛い目を見たのがつい先日のことである。
 学んでいないのか、と言われれば確かにその通りだが――

「俺はユエラ・テウメッサを脅威と見なした。結局のところ、それは間違いだったのかもしれない。……なら、あの竜あれはなんだ? あれが、脅威じゃあないと見なせる理由なんてあるのか?」
「……でも、アルバートさまッ! あんなのに挑んで、勝てるわけっ……!」
「勝てるかどうか、じゃない。俺は、勝てる相手を選んで挑んでるつもりはない」

 それもやはり、ユエラの時は裏目に出た。勝てるはずだ、勝てるに違いない、という確信にも似た過信である。
 アルバートはかの魔竜を見た瞬間、考えた――――おそらくは勝てないだろう、と。まさにエルフィリアが指摘する通りに。

 だが。

「でも、行かなきゃいけない。ここで逃げたら俺はずっと逃げ続けることになる。あいつはどこにでも行くだろう。どこにいてもやってくるだろう。なら俺は、今行かなきゃいけないんだ」

 ここで死ぬか、後で死ぬかの違いなら。
 アルバート・ウェルシュはここで死ぬべきだ。

 エルフィリアは立ちすくんで言葉を無くす。
 アルバートは竜への視線を切ったあと、決断的に前を見た。

「俺は行くよ、エルフィリア。……おまえは無理に付いてこなくてもいい。なんなら、キリエ枢機卿に頼んでくれないか。ウェルシュに伝令を向かわせたい」

 エルフィリアは俯き、数瞬――そして、意を決したように顔を上げる。
 亜麻色の髪がふわりと戦場の風になびく。

「あたしも行く。アルバートさまが行くなら、あたしが行かない理由はありません。絶対に、ひとりでは行かせません」
「わかった。――――私に付いてきてくれ」

 アルバートは即座に公私を切り替える。
 足踏みの時間は終わりだ。

 まずは、そう、取り上げられた武器から調達しなくては――――

「アルバート・ウェルシュッ!」

 その時、アルバートの後ろから声がした。
 白金の長い髪、丸縁の眼鏡、壮麗な紅の衣を身に着けた女――キリエ・カルディナ枢機卿。
 その傍らには一人、祓魔師の従者が連れ添っている。

「……キリエ枢機卿」
「アルバート・ウェルシュ。エルフィリア・セレム。私はあなた方の意志を確認しに来ました」
「ひどい隈ですね」
「放っておいてください」

 ろくに寝ていないのだろう。キリエ枢機卿の顔色はひどく、髪もほつれている。仮眠を取った直後だったのかもしれない。

「それで。意志とは?」
「私たちは捕虜としてあなた方を遇します。然るに、この緊急事態においてもあなた方を保護する意志があります。あなた方はこれに応じますか?」
「いいえ」

 アルバートは間髪入れず首を横に振る。
 エルフィリアも同様に。

「私は今すぐあそこへ向かう。行かなければなりません。誰の命でもなく、私たち自身の意志によって。――キリエ枢機卿。私たちの装備をお返しいただけますか」
「かしこまりました」

 アルバートの要求に対し、キリエ枢機卿の返答は予想外なほどスムーズだった。
 祓魔師の従者――アルマ・トールが地面に麻布を広げ、その上に一通りの装備を並べていく。二人が捕えられたその時から保管されていたのだろう。

 この用意周到さ。即ち、公教会側も緊急事態を予期していたに相違ない。

「一つだけ申し上げておきますが――この折にどのような戦果を挙げようとも、あなた方の拘束期間に恩赦を施すことは一切ございません。それでもよろしいのですね?」
「構いません」
「……それでも、行くというのですね?」
「はい」

 アルバートは迷わず頷き、畳みかける。

「私は私の意志によってのみ戦い、私の意志によって死ぬ。私の戦死にあなた方が責任を負うところは一切ありますまい」

 アルバートの断固たる宣言。
 キリエ枢機卿は一瞬、息を呑む。彼の迷いのなさに。

 二人は即座に装備を整える。
 エルフィリアは緑衣の外套を羽織り、弓筒を背負い、長弓を手に取り。
 アルバートは部分鎧を手早く身に付け、長剣を腰に帯びる。
 一ヶ月という空白期間を全く感じさせないほどの手際の良さ。

「ご寛恕に感謝いたします。それでは」

 アルバートは謹んで礼を言う。エルフィリアは続いて頭を下げ、二人は揃って背を向ける。

「アルバート」
「なんです?」
「……少し、変わりましたね」
「状況が変わっただけです。私は少しも変わってはおりませんよ」

 アルバートは背を向けたまま苦笑する。
 アルバートのこの行動に、英雄願望めいた欲望が一切ないとは言えないだろうから。
 それでも彼は決断した。死ぬ可能性のほうが遥かに高い戦いへ赴くことを。

「――――ご武運を。どうかご無事で」

 祈りの言葉に背を押されるように二人は走り出す。
 迷宮街へ。
 空を魔王に支配された戦場へ。

 ◆


「エルフィリアが継続的に奴の行動を阻害する! 私は今からそちらへ向かう、フィセルは引き続き保たせてくれ!」
『了解。……まさか、あんたと肩を並べる時が来るなんてね』

 アルバートはアルフィーナの通信魔術を介してフィセルとの連絡を終える。
 エルフィリアはすでに位置につき、イブリスへの射撃を開始していた。

「お兄さま。その口調、驚くほど似合わないです」
「放っといてくれ」

 アルバートは苦笑しつつ、天にそり立つ光の柱へ目を向ける。
 この上にフィセルがいることはアルフィーナとクラリスから聞かされていた。

「アルバートッ、エルフィリアッ……ここにいて良いのですか!?」
「問題ない、キリエ枢機卿の許可は得ている。誰に強制されたわけでもない」

 クラリスは悩ましげに眉をひそめる。
 だが、目の前の脅威のことを考えれば全ては些事。アルバートが支援した甲斐あって、フィセルは幸いにも命拾いをした。

 クラリスは全てを呑みこみ、祝福の術式を詠唱。
 ここに、ウェルシュ家筆頭による迷宮調査部隊は再結成の時宜を得た。

「ありがとう。これが終わればまた牢に戻るだろうが、その時はまたよろしく頼む」
「……ちゃんと生きて帰ってこないと、許しませんからね」
「――ああ。済まない」
「そこは謝るところではないでしょうに……」

 クラリスは複雑そうに瞑目するが、それ以上は何も言わない。
 アルバートは苦笑し、すぐ真顔になって半透明の足場へ飛び移った。

 エルフィリアは弓による射撃を継続。
 アルフィーナは再び大規模魔術の詠唱を開始する。

「アルフィーナさまッ! あれに弱点はありますかッ!?」
「無いです」
「無いんです!?」
「強いて言うなれば眼球、あるいは一点を集中攻撃することですが――」

 アルフィーナはそこで言葉を切る。

 魔王イブリス。その圧倒的な巨躯は言わずもがな、肉体に秘められた生命力と魔力は尋常を遥かに逸していた。
 アルフィーナは何度も戦術級の魔術を撃ち込んだが、決定的なダメージには至っていない。おまけにあの竜は、傷を負った端から再生し始めるのだ。

「あの首を捩じ切るには大きな胴体が著しく邪魔です。翼が起こす風も厄介ですね。ですから、まずは――」
「翼、ですね!」
「はい。可能な限り付け根を狙います。本体から切り離せば再生を最大限に遅らせられるでしょう」

 そう言葉を交わすやいなや、エルフィリアは弓に矢をつがえた。
 魔力によって形作られた矢がさながら流星のごとく放たれ、自由自在の軌道を描く。

 矢の軌跡そのものを制御できる彼女にとって、狙い通りの部位を射ることなどは造作もない。
 鏃は狙い違わず翼の付け根に打ち込まれ、深々と先端のかえしを食い込ませる。

「Gu――――lululu...!!」

 反応からして与えられる被害はごく軽微。
 されど、無視できるものでは決して無い。あの巨大な竜の鱗と皮膚を穿つだけでも、その威力はすでに人外の域に達している。

「エルフィリアッ!」
「なぁに!?」
「矢を作るのは私が担当しますから、あなたは射撃に集中して下さい!」

 防御障壁の展開を合わせても、その程度の労を負担することは造作もない。
 クラリスの申し出にエルフィリアは一瞬きょとんとし――にこやかな微笑を浮かべてみせた。

「うん。お願いッ!」
「では――」

 と、クラリスが作成した魔力の矢は矢筒の中へ。
 これによりエルフィリアは一切の時間差無しの連射を可能とする。ひとたび彼女の弓から放たれれば、制御することに何ら差し支えはない。

「……あれは」

 アルフィーナはありったけの魔力を集約しながらイブリスの様子を観察する。
 どうやらエルフィリアの射た部位に限り、肉体の再生が遅れているようだった。

 それが意味するところは、おそらく……物質化した魔力が肉体を穿っているためだろう。
 傷を治すにも、まずは魔力の矢を相殺してから再生を開始する、という二段階の行程を踏む必要があるのだ。

「エルフィリア。翼の付け根に限って、広範囲に矢を撃ち分けられますか」
「は、はい! できますが!!」
「ではやってください。少しはあれの動きが鈍っているようです」
「りょ、了解しました!!」

 指示通りに射撃を再開するエルフィリア。その腕前はとても一ヶ月近い空白期間を挟んでいるとは思われない。
 そしてアルフィーナは思索する。どれだけ大威力の魔術であれ、胴体、あるいは翼を閉じて受け止められれば効果は薄い。
 つまり、有効な一撃を与えるためには――まず、イブリスの翼を開かせたままにする必要があった。

 それは、先ほどまでの戦力ならば困難極まる注文であったろう。
 だが、アルバートとエルフィリアが加わった今ならば。

 アルフィーナは意を決したように瞑目し、遥か上空――アルバートとフィセルに通信を飛ばす。

「聞こえますかお兄さま、フィセルさん――――」

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