お狐さま、働かない。
八十二話/二人の外れ者
「テオ。たまにはかまえ」
「は。お任せませい」
約束の期日、二日前の夜。
ユエラの至上命令に対し、テオはすぐさま膝枕の構えを取った。
ユエラはリビングのソファ上に寝そべり、ちいさな頭をテオの膝上に委ねる。
「……あ、ふぁ……これ、左様なところまで毛繕いは良かろうぞ……?」
「なにぶん久しぶりのことですから」
湯上がりの濡れたしっぽをくしけずり、その指先は耳の内側の毛先までも整える。
近頃のテオは修練を積むかたわら、一通りの家事もきっちりこなしていたが――このように長閑な時を過ごすことはあまりなかった。
このような切羽詰った時にこんなことをしていてよいのか。
もちろんよい。下手にテオを放っておけば、過剰な訓練で身体を痛める可能性もあるからだ。
ある程度の感覚はユエラの幻術で誤魔化せる。が、やはり適度な休息は欠かざるべきである。
「見てください、ユエラ様。こんな大きな毛玉が取れてしまいました」
「そんなもん見せるでないよ……うわ派手に抜けたのぅ」
「夏ですね」
「夏であるなぁ……」
春の暖気を通り越し、すっかり季節は夏だった。
迷宮街の夏はカラッとしているが、気温は高い。あまり汗を掻かないためにバタバタと人が倒れたりもする。
今のユエラの服装も夏らしく、白のワンピース一枚という出で立ち。お尻側の裾から二叉のしっぽがてろんとはみ出ている。
一方、テオの服装は完膚なきまでに以前のままだった。
白黒を基調としたお仕着せのエプロンドレス。傍目に見る限り暑苦しいとしか言いようがない格好だが、テオの表情は実に涼しいものである。
そんな夏の時節も夜になれば悪くはない。
開け放した窓から吹き込む風が心地よい。ふらふらと入りこんでくる虫は狐火に引き寄せられて燃え上がる。
――なんとも風情のある景色ではあるまいか。
今後の面倒事が片付いたら冷却用の魔具を作ってみるのも良い。アリアンナに課題を出すのも良いか。幻術でいくらでも誤魔化せはするのだが、それで脱水症状になっても締まらない。
「――――む」
と、その時。
テオは咄嗟にぴくんと肩を跳ね上げ、玄関の方に目を走らせた。
「感じたのかえ?」
「はい。とても大きな魔力反応のように思われます。感じたのはほんの一瞬ですが」
「……うむ」
何をさておいても、修行の成果が出ているのは重畳だった。「良い傾向であるな」と賞賛の言葉をかけ、ユエラはゆっくりと身を起こす。
大きな魔力反応、といえば思い当たる人物は多くない。
真っ先に浮かんだのは〈賢者〉クレラント――期日の変更を求めにでも来たのだろうか。
いや、とユエラは頭を振る。たったそれだけのためにクレラント本人がやって来るとも考えがたい。
少なくとも相手には理性がある。大きな魔力と、そしてそれを隠蔽するほどの能力がある。
鍛え抜かれたテオの感応力を誤魔化すにまでは至らなかったようだが――
次の瞬間。
こんこん、と穏やかに玄関扉をノックする音が響いた。
「――穏便、ですね」
「真意は知れぬがのぅ……」
少なくとも急襲してくるような輩ではないようだ。
ユエラはおとがいをそっと掌で撫で、思索する。
「私が参ります。――この様子でしたら、いきなり襲われるということも無いでしょう」
「……うむ、そうだのぅ。任せるぞ、テオ」
テオはすっと影のように立ち上がり、玄関口まで歩いていく。
そのまま流れるように扉を引けば、果たして外にいる人影が見えた。
彼女――まだいたいけな少女は逃げも隠れもせず、玄関口の向こう側からテオを迎え出る。
「――どうも、初めまして。ここがユエラ・テウメッサさんの御家に間違いありませんか」
「ええ、間違いありませんが――失礼ながら、あなたは? どなたからこの場所を窺い知ったのです?」
テオはためらわず問いかける。
彼女にとって主人の身の安全は、客人への礼儀よりもはるかに優先されるものだった。
「フィセル・バーンスタインさんから。彼女と協力することに相成りましたので、ご挨拶に伺いに参りましたの」
「フィセルが、ですか」
テオの警戒がわずかに緩む。が、フィセルとユエラの関係を知っていることは警戒レベルを上げる理由ともなる。
協力、という言葉もいささか端的に過ぎる。何の案件かで言えば、おそらくは迷宮探索に関係することだろうが。
「ふむ。私が出たほうが良いようだのう」
と、その時。
テオの後ろからユエラがのらりくらりと顔を出し、肩越しに訪問者の少女を見る。
そして思わず目を丸くした――その少女がいかにも見覚えのある姿だったから。
「……おぬしは」
「あなたが、ユエラさん。……私を御存知でして?」
「ああ。色々あってのぅ」
彼女と直接会ったことはない。
だが、その少女の姿は確かに見たことがあった――アルバート・ウェルシュの記憶の中で。
身の丈はテオとさして変わらない。年頃もおそらく似たようなものだろう。
身軽な夜色のドレスに身を包み、その下の肌は今まで外出したことがないかのように白い。
ダークブラウンの鋭い瞳。長く艶やかな、まるで炎のように朱い髪。
ユエラは、その少女の名前を知っている。
「アルフィーナ・ウェルシュ。ウェルシュ家次期当主よ。……なぜおぬしがここにおるのかえ?」
「どうか、そう警戒なさらないでください」
アルフィーナは涼しげに微笑する。その表情は愛らしさすら感じられる。
しかし警戒に値するかどうかで言えば、アルバートの記憶から読み取れる情報だけでも十分すぎた。
剣術、魔術は共にアルバートを大きく上回るほどの力量。隣国からの防衛に関しては彼女一人が一手に担う、まさに戦略級の魔術師。
強いてアルバートの記憶との違いを言うならば――本物の彼女は、いくらか穏やかそうに見えた。
「……厄介なことを。フィセルめ、説明の一つでも寄越しにくればよかろうに」
「フィセルさんもクラリスさんもお忙しくしておられましたから、それについてはご容赦を」
「……まぁ、これはおぬしが悪いのではなかろう。で、なんだ。おぬしが一体なんの用かえ? 兄の敵討ち、などとまさか言わぬであろうな?」
「死んでないです」
「確かに死んではない」
領地防衛を担う戦略級魔術師にして次期当主。そんな彼女がどうしてウェルシュ領を離れているのか。どうして彼女が迷宮街などにいるのか。
とにかく疑問は尽きないが――まず真っ先に、アルフィーナは要点を端的に言った。
「まず、率直に申し上げますが――私の目的はこの街、迷宮街ティノーブルの存続。そのために魔王を徹底的に殺し尽くすことです。……つまり、あなたとは利害が一致すると思います。ユエラさん」
でしょう? と言わんばかりに柔らかく微笑むアルフィーナ。
「ユエラ様」
「……うむ」
「まずはお話からうかがうのがよろしいのでは。……もし騙しておられるのでしたら、それこそただで済ませなければよろしいかと」
「あの"テウメシア"を騙せるとは思わないですね」
アルフィーナはくすくすとおかしそうに笑う。彼女はこちらの事情をおおよそ承知しているようだった。
そしてユエラも、少なくともフィセルの安否は確認している。街中に点在する〈守護悪霊〉グラークがフィセルの姿を探知していたのだ。
そしてアルフィーナがここに辿り着いたという事実は、ある程度、彼女の言葉の真実味を保証する。
「良かろうさ。元より迷宮の攻略はかなり行き詰まっておったようだからのう。もしおぬしの力が加わるというなら、これほど頼もしいことは無かろうよ――しからば、話は中で聞かせてもらうとしよう」
「ええ。お邪魔いたします」
ユエラの手招きに対し、アルフィーナは颯爽とついてくる。
テオは早速と言わんばかりにお茶を淹れるため台所へ向かう。
その時、ユエラはふとアルフィーナに向き直って言った。
「……しっかし、おぬし、兄とはさっぱり似ておらんな」
「ありがとうございます。これ以上とない褒め言葉だと思います」
「あぁ、うむ、そういう仲かえ……」
「はい」
その時、彼女が浮かべた屈託ない笑みは、敵討ちの可能性を払拭するには十分すぎるほどであった。
◆
二人はリビングで向かい合うように座る。
テオが二人の前にそれぞれ紅茶のカップを置く。
先にアルフィーナが失礼して口をつけると、彼女はにわかに瞳を瞬かせた。
「驚きました。我が家のものより美味しいです」
「ユエラ様が口にするものなのですから当然です」
「私の従者をおだててもなにも出んぞ。私の機嫌が良くなるだけだ」
「特にそういうつもりではないんですが……」
アルフィーナは唇を湿らせたあと、気がかりなことを一通り全て話した。
なぜ彼女が迷宮街にいるのか。
なぜ彼女はフィセルたちと協力するに至ったのか。
そして彼女は、どのように魔王を討ち滅ぼそうというのか。
それら全てを聞き終えたあと、ユエラは納得せざるを得なかった。確かに、彼女とユエラの利害は完全に一致していると。
「……魔王に対する具体策が無いのが気がかりだがのぅ」
「魔王イブリスに関する供述は散逸していて、その力の正体はいまだにはっきりしていないというのが正直なところです。が、最深層を管理下に置き続けるコストはあまりに高くつくでしょう。これが最善かと思います」
あらゆる場所に結界を張り巡らせ、街中への被害を最小限にする。
その点にはユエラも異存はない。後方を気にすることなく〈賢者〉クレラントを相手取れるのだからありがたい限りである。
「むしろ、ユエラさん。あなたがクレラントを討ち果たせるかどうかというのも気がかりです」
「それを言われるとぐうの音も出んな……」
ユエラも〈賢者〉クレラントの力についてはおよそ予想がついている。
彼が操るは天地の力。そして彼の肉体は、すなわち地そのものなのだろう。
つまり、肉体をいくら壊しても決定的なダメージにはならない。魂を破壊するか、あるいは縛り付けるか……いずれにせよ、外殻を徹底的に破壊する必要はあるが。
もっとも――魂を破壊するなど、ほとんど無理難題のようなものだ。
「お互いのいらぬ心配は無しにしようではないか。おぬしのことはおぬしがやれ。私のことは私がやる。……それで良かろう?」
「……そうですね。良いです。それが良い」
アルフィーナは音を立てずにカップを傾けたあと、ほう、と息を吐いてつぶやく。
「意外でした」
「何がかえ?」
「私をそう簡単に信用なさったということについて、です。可能かも定かでないのに」
「少なくともその日、おぬしの役目は私にはできん。そしておぬしにはできるかもしれん。ならばやらせるがよかろう。できないことはできるやつにやらせるのが最も手っ取り早いからな」
「ものぐさなんですね」
「本来はそうなんだがのぅ。近ごろはすっかり張り切って働いてしまっておる」
というわけでテオ、この件が片付いたら私はしばらく働かぬからな――力強い宣言を発しながらユエラは背もたれに寄りかかる。
「お任せ下さい。おはようからおやすみまで手取り足取りお手伝いをさせていただきますゆえに」
「テオさん。あなたも明後日の件に噛んでおられるのですか」
「はい。師の不始末を片付ける必要がありますので」
「師の不始末ですか」
「師の不始末です」
テオは大真面目な顔で繰り返す。――わかり合うどころか謎が増えそうな物言いだった。
と、その時。
思い出した、というようにアルフィーナは掌を打ち合わせる。
「どうかしましたか」
「どうかしたかえ」
「はい。まだ一つだけ、解せないことがあったんですが――」
クレラントはどうやら聖王家の働きかけで動いているらしい。
これはフィセルやクラリスにも伝えたが――彼女らには言わなかった疑問があった。
彼女らに言っても仕方がないだろう、と思ったから。
だが――ユエラ・テウメッサになら言ってみる価値はある。
「仮に、クレラントが聖王家の要請で動いているのは事実だとします。……では、なぜ聖王家はクレラントまで引っ張り出してあなたを排除するのでしょう。三百年前の勇者の一人がまだ生きていて、聖王家だけはそのことを知っていたなんて――これだけでも相当な驚きに値しますのに」
「……確かに、ちと解せぬな」
ユエラが聖王とやらに喧嘩を売った覚えはない。
千年前、大陸全土を巻きこむような戦火を招いた彼女ではあるが……当時を知るものはすでにいないのだ。当時の支配者層はとっくに滅んで久しいというのが実情である。
〈賢者〉クレラントはいうなれば、当時を知る唯一の生き証人なのだ。
「強いて言うなれば、私のせいでおまえさんの兄が捕虜になったことか」
「〈勇者〉ウェルシュの家名に傷をつけた、ということですか」
「なんともありそうな話ではないかえ? 聖王とやら、ろくなことをしておらぬと聞いておるぞ――フィセルの件は知っておろうな?」
「ええ。よくよく存じています」
バーンスタインの家名は聖王によって貶められた。いわれなき誹謗中傷によって。
そのことが無ければ、フィセルはおそらく違った人生を歩んでいただろう。
――ユエラとしては、フィセルがこの街にいてくれたことは非常に好都合であったが。
「あり得はします。が、決定的な要因とも言えません」
「そうなのですか。名誉などを重んじておられるのでは?」
「確かにその面はあります。しかしウェルシュ家は聖王家とさほど懇意ではありません――正確にはその暇がない、と言うべきでしょうか」
「まぁ、納得は行く話であるが」
ウェルシュ領は辺境の土地である。常に隣国からの攻勢を警戒し、常備軍を整えておく必要もある。
内地の領主とは、親交量の差が比べものにならないのだ。
「とすれば、ますます分からんな。単なる過剰反応ではないかえ?」
「過剰反応」
「私がいるだけで国がどうこうなるとか、な――無論、そのようなことはせん。今は昔とは時代が違うからのう」
ユエラはちいさな肩をすくめる。
アルフィーナはややいぶかしむように目を細める。
「ユエラさん――いえ、テウメシアに関わる伝説は全て本当だとでも?」
「さて。どのように語り継がれておるのか、把握はしておらんが……」
「ある国の王に取り入ったとか」
「それはやった」
「戦の切っ掛けになったとか」
「それもやった」
「それがやがて大陸全土を巻きこむ大戦争まで発展したとか」
「一応、合っておる」
「最悪じゃないですか」
アルフィーナは憮然として言う。
ユエラはけらけらと笑うばかりである。
「ユエラ様。言ってしまって良いのですか」
「こやつに嘘は通じんだろうからな。そういう気がする」
「正直なところ、信じかねますが」
アルフィーナは目を細め、じぃっとユエラの姿を見る。
そして――不意に彼女の目は、何かを認めたようだった。
「……力を隠しているのですか」
「多少な」
「隠している力のほうが多いくせに」
「そう言ってくれるな。私はこの街から動くつもりはないよ。……おまえも本来はそうであろう?」
に、とユエラは悪戯げに笑う。
その言葉は如実に物語る――潜在的な危険性で物を言うならば、おぬしも私と同じではないか、と。
そう。単純な殲滅力で考えるなら、アルフィーナはユエラよりよほど危険な存在だ。
その力が行き場を失えば、どこにでも歩き回れるとなれば……世界はアルフィーナを認めまい。
アルフィーナが、あるいは初代〈勇者〉アルベインが世界に許されていたのは――ひとえに、自らの力を領地に縛り付けていたからに他ならない。
「……それを言われてはおしまいです」
「そういうことだ。そこをどうこう言うのはお互い無しにしようではないかえ。お互い、はみ出しものであるからのぅ?」
ユエラは自嘲げに笑う。
それでも、彼女はマシだろう。
強大な力を有する。その一点さえ除けば、彼女は人と同じように生き――そして、人と同じように死ぬのだから。
「とはいえ、ユエラさん――テウメシアという強大な力が野放しになっているというのは一面の事実。これが聖王家の意向という可能性は?」
「否定しきれんな。そんなので動くのはどうかと思わんでもないが……」
ともあれ、ユエラは頭を振って笑む。
「クレラントと聖王家に関わりがある、というのは使えるぞ。あやつがこの街でやったことも合わせればな」
「……何を、なさるつもりで?」
アルフィーナはあくまで平静を保ったまま問う。
ユエラは口端を三日月の形に歪め、笑って言った。
「おぬし、聖王家とやらをひっくり返すつもりは無いかえ?」
「は。お任せませい」
約束の期日、二日前の夜。
ユエラの至上命令に対し、テオはすぐさま膝枕の構えを取った。
ユエラはリビングのソファ上に寝そべり、ちいさな頭をテオの膝上に委ねる。
「……あ、ふぁ……これ、左様なところまで毛繕いは良かろうぞ……?」
「なにぶん久しぶりのことですから」
湯上がりの濡れたしっぽをくしけずり、その指先は耳の内側の毛先までも整える。
近頃のテオは修練を積むかたわら、一通りの家事もきっちりこなしていたが――このように長閑な時を過ごすことはあまりなかった。
このような切羽詰った時にこんなことをしていてよいのか。
もちろんよい。下手にテオを放っておけば、過剰な訓練で身体を痛める可能性もあるからだ。
ある程度の感覚はユエラの幻術で誤魔化せる。が、やはり適度な休息は欠かざるべきである。
「見てください、ユエラ様。こんな大きな毛玉が取れてしまいました」
「そんなもん見せるでないよ……うわ派手に抜けたのぅ」
「夏ですね」
「夏であるなぁ……」
春の暖気を通り越し、すっかり季節は夏だった。
迷宮街の夏はカラッとしているが、気温は高い。あまり汗を掻かないためにバタバタと人が倒れたりもする。
今のユエラの服装も夏らしく、白のワンピース一枚という出で立ち。お尻側の裾から二叉のしっぽがてろんとはみ出ている。
一方、テオの服装は完膚なきまでに以前のままだった。
白黒を基調としたお仕着せのエプロンドレス。傍目に見る限り暑苦しいとしか言いようがない格好だが、テオの表情は実に涼しいものである。
そんな夏の時節も夜になれば悪くはない。
開け放した窓から吹き込む風が心地よい。ふらふらと入りこんでくる虫は狐火に引き寄せられて燃え上がる。
――なんとも風情のある景色ではあるまいか。
今後の面倒事が片付いたら冷却用の魔具を作ってみるのも良い。アリアンナに課題を出すのも良いか。幻術でいくらでも誤魔化せはするのだが、それで脱水症状になっても締まらない。
「――――む」
と、その時。
テオは咄嗟にぴくんと肩を跳ね上げ、玄関の方に目を走らせた。
「感じたのかえ?」
「はい。とても大きな魔力反応のように思われます。感じたのはほんの一瞬ですが」
「……うむ」
何をさておいても、修行の成果が出ているのは重畳だった。「良い傾向であるな」と賞賛の言葉をかけ、ユエラはゆっくりと身を起こす。
大きな魔力反応、といえば思い当たる人物は多くない。
真っ先に浮かんだのは〈賢者〉クレラント――期日の変更を求めにでも来たのだろうか。
いや、とユエラは頭を振る。たったそれだけのためにクレラント本人がやって来るとも考えがたい。
少なくとも相手には理性がある。大きな魔力と、そしてそれを隠蔽するほどの能力がある。
鍛え抜かれたテオの感応力を誤魔化すにまでは至らなかったようだが――
次の瞬間。
こんこん、と穏やかに玄関扉をノックする音が響いた。
「――穏便、ですね」
「真意は知れぬがのぅ……」
少なくとも急襲してくるような輩ではないようだ。
ユエラはおとがいをそっと掌で撫で、思索する。
「私が参ります。――この様子でしたら、いきなり襲われるということも無いでしょう」
「……うむ、そうだのぅ。任せるぞ、テオ」
テオはすっと影のように立ち上がり、玄関口まで歩いていく。
そのまま流れるように扉を引けば、果たして外にいる人影が見えた。
彼女――まだいたいけな少女は逃げも隠れもせず、玄関口の向こう側からテオを迎え出る。
「――どうも、初めまして。ここがユエラ・テウメッサさんの御家に間違いありませんか」
「ええ、間違いありませんが――失礼ながら、あなたは? どなたからこの場所を窺い知ったのです?」
テオはためらわず問いかける。
彼女にとって主人の身の安全は、客人への礼儀よりもはるかに優先されるものだった。
「フィセル・バーンスタインさんから。彼女と協力することに相成りましたので、ご挨拶に伺いに参りましたの」
「フィセルが、ですか」
テオの警戒がわずかに緩む。が、フィセルとユエラの関係を知っていることは警戒レベルを上げる理由ともなる。
協力、という言葉もいささか端的に過ぎる。何の案件かで言えば、おそらくは迷宮探索に関係することだろうが。
「ふむ。私が出たほうが良いようだのう」
と、その時。
テオの後ろからユエラがのらりくらりと顔を出し、肩越しに訪問者の少女を見る。
そして思わず目を丸くした――その少女がいかにも見覚えのある姿だったから。
「……おぬしは」
「あなたが、ユエラさん。……私を御存知でして?」
「ああ。色々あってのぅ」
彼女と直接会ったことはない。
だが、その少女の姿は確かに見たことがあった――アルバート・ウェルシュの記憶の中で。
身の丈はテオとさして変わらない。年頃もおそらく似たようなものだろう。
身軽な夜色のドレスに身を包み、その下の肌は今まで外出したことがないかのように白い。
ダークブラウンの鋭い瞳。長く艶やかな、まるで炎のように朱い髪。
ユエラは、その少女の名前を知っている。
「アルフィーナ・ウェルシュ。ウェルシュ家次期当主よ。……なぜおぬしがここにおるのかえ?」
「どうか、そう警戒なさらないでください」
アルフィーナは涼しげに微笑する。その表情は愛らしさすら感じられる。
しかし警戒に値するかどうかで言えば、アルバートの記憶から読み取れる情報だけでも十分すぎた。
剣術、魔術は共にアルバートを大きく上回るほどの力量。隣国からの防衛に関しては彼女一人が一手に担う、まさに戦略級の魔術師。
強いてアルバートの記憶との違いを言うならば――本物の彼女は、いくらか穏やかそうに見えた。
「……厄介なことを。フィセルめ、説明の一つでも寄越しにくればよかろうに」
「フィセルさんもクラリスさんもお忙しくしておられましたから、それについてはご容赦を」
「……まぁ、これはおぬしが悪いのではなかろう。で、なんだ。おぬしが一体なんの用かえ? 兄の敵討ち、などとまさか言わぬであろうな?」
「死んでないです」
「確かに死んではない」
領地防衛を担う戦略級魔術師にして次期当主。そんな彼女がどうしてウェルシュ領を離れているのか。どうして彼女が迷宮街などにいるのか。
とにかく疑問は尽きないが――まず真っ先に、アルフィーナは要点を端的に言った。
「まず、率直に申し上げますが――私の目的はこの街、迷宮街ティノーブルの存続。そのために魔王を徹底的に殺し尽くすことです。……つまり、あなたとは利害が一致すると思います。ユエラさん」
でしょう? と言わんばかりに柔らかく微笑むアルフィーナ。
「ユエラ様」
「……うむ」
「まずはお話からうかがうのがよろしいのでは。……もし騙しておられるのでしたら、それこそただで済ませなければよろしいかと」
「あの"テウメシア"を騙せるとは思わないですね」
アルフィーナはくすくすとおかしそうに笑う。彼女はこちらの事情をおおよそ承知しているようだった。
そしてユエラも、少なくともフィセルの安否は確認している。街中に点在する〈守護悪霊〉グラークがフィセルの姿を探知していたのだ。
そしてアルフィーナがここに辿り着いたという事実は、ある程度、彼女の言葉の真実味を保証する。
「良かろうさ。元より迷宮の攻略はかなり行き詰まっておったようだからのう。もしおぬしの力が加わるというなら、これほど頼もしいことは無かろうよ――しからば、話は中で聞かせてもらうとしよう」
「ええ。お邪魔いたします」
ユエラの手招きに対し、アルフィーナは颯爽とついてくる。
テオは早速と言わんばかりにお茶を淹れるため台所へ向かう。
その時、ユエラはふとアルフィーナに向き直って言った。
「……しっかし、おぬし、兄とはさっぱり似ておらんな」
「ありがとうございます。これ以上とない褒め言葉だと思います」
「あぁ、うむ、そういう仲かえ……」
「はい」
その時、彼女が浮かべた屈託ない笑みは、敵討ちの可能性を払拭するには十分すぎるほどであった。
◆
二人はリビングで向かい合うように座る。
テオが二人の前にそれぞれ紅茶のカップを置く。
先にアルフィーナが失礼して口をつけると、彼女はにわかに瞳を瞬かせた。
「驚きました。我が家のものより美味しいです」
「ユエラ様が口にするものなのですから当然です」
「私の従者をおだててもなにも出んぞ。私の機嫌が良くなるだけだ」
「特にそういうつもりではないんですが……」
アルフィーナは唇を湿らせたあと、気がかりなことを一通り全て話した。
なぜ彼女が迷宮街にいるのか。
なぜ彼女はフィセルたちと協力するに至ったのか。
そして彼女は、どのように魔王を討ち滅ぼそうというのか。
それら全てを聞き終えたあと、ユエラは納得せざるを得なかった。確かに、彼女とユエラの利害は完全に一致していると。
「……魔王に対する具体策が無いのが気がかりだがのぅ」
「魔王イブリスに関する供述は散逸していて、その力の正体はいまだにはっきりしていないというのが正直なところです。が、最深層を管理下に置き続けるコストはあまりに高くつくでしょう。これが最善かと思います」
あらゆる場所に結界を張り巡らせ、街中への被害を最小限にする。
その点にはユエラも異存はない。後方を気にすることなく〈賢者〉クレラントを相手取れるのだからありがたい限りである。
「むしろ、ユエラさん。あなたがクレラントを討ち果たせるかどうかというのも気がかりです」
「それを言われるとぐうの音も出んな……」
ユエラも〈賢者〉クレラントの力についてはおよそ予想がついている。
彼が操るは天地の力。そして彼の肉体は、すなわち地そのものなのだろう。
つまり、肉体をいくら壊しても決定的なダメージにはならない。魂を破壊するか、あるいは縛り付けるか……いずれにせよ、外殻を徹底的に破壊する必要はあるが。
もっとも――魂を破壊するなど、ほとんど無理難題のようなものだ。
「お互いのいらぬ心配は無しにしようではないか。おぬしのことはおぬしがやれ。私のことは私がやる。……それで良かろう?」
「……そうですね。良いです。それが良い」
アルフィーナは音を立てずにカップを傾けたあと、ほう、と息を吐いてつぶやく。
「意外でした」
「何がかえ?」
「私をそう簡単に信用なさったということについて、です。可能かも定かでないのに」
「少なくともその日、おぬしの役目は私にはできん。そしておぬしにはできるかもしれん。ならばやらせるがよかろう。できないことはできるやつにやらせるのが最も手っ取り早いからな」
「ものぐさなんですね」
「本来はそうなんだがのぅ。近ごろはすっかり張り切って働いてしまっておる」
というわけでテオ、この件が片付いたら私はしばらく働かぬからな――力強い宣言を発しながらユエラは背もたれに寄りかかる。
「お任せ下さい。おはようからおやすみまで手取り足取りお手伝いをさせていただきますゆえに」
「テオさん。あなたも明後日の件に噛んでおられるのですか」
「はい。師の不始末を片付ける必要がありますので」
「師の不始末ですか」
「師の不始末です」
テオは大真面目な顔で繰り返す。――わかり合うどころか謎が増えそうな物言いだった。
と、その時。
思い出した、というようにアルフィーナは掌を打ち合わせる。
「どうかしましたか」
「どうかしたかえ」
「はい。まだ一つだけ、解せないことがあったんですが――」
クレラントはどうやら聖王家の働きかけで動いているらしい。
これはフィセルやクラリスにも伝えたが――彼女らには言わなかった疑問があった。
彼女らに言っても仕方がないだろう、と思ったから。
だが――ユエラ・テウメッサになら言ってみる価値はある。
「仮に、クレラントが聖王家の要請で動いているのは事実だとします。……では、なぜ聖王家はクレラントまで引っ張り出してあなたを排除するのでしょう。三百年前の勇者の一人がまだ生きていて、聖王家だけはそのことを知っていたなんて――これだけでも相当な驚きに値しますのに」
「……確かに、ちと解せぬな」
ユエラが聖王とやらに喧嘩を売った覚えはない。
千年前、大陸全土を巻きこむような戦火を招いた彼女ではあるが……当時を知るものはすでにいないのだ。当時の支配者層はとっくに滅んで久しいというのが実情である。
〈賢者〉クレラントはいうなれば、当時を知る唯一の生き証人なのだ。
「強いて言うなれば、私のせいでおまえさんの兄が捕虜になったことか」
「〈勇者〉ウェルシュの家名に傷をつけた、ということですか」
「なんともありそうな話ではないかえ? 聖王とやら、ろくなことをしておらぬと聞いておるぞ――フィセルの件は知っておろうな?」
「ええ。よくよく存じています」
バーンスタインの家名は聖王によって貶められた。いわれなき誹謗中傷によって。
そのことが無ければ、フィセルはおそらく違った人生を歩んでいただろう。
――ユエラとしては、フィセルがこの街にいてくれたことは非常に好都合であったが。
「あり得はします。が、決定的な要因とも言えません」
「そうなのですか。名誉などを重んじておられるのでは?」
「確かにその面はあります。しかしウェルシュ家は聖王家とさほど懇意ではありません――正確にはその暇がない、と言うべきでしょうか」
「まぁ、納得は行く話であるが」
ウェルシュ領は辺境の土地である。常に隣国からの攻勢を警戒し、常備軍を整えておく必要もある。
内地の領主とは、親交量の差が比べものにならないのだ。
「とすれば、ますます分からんな。単なる過剰反応ではないかえ?」
「過剰反応」
「私がいるだけで国がどうこうなるとか、な――無論、そのようなことはせん。今は昔とは時代が違うからのう」
ユエラはちいさな肩をすくめる。
アルフィーナはややいぶかしむように目を細める。
「ユエラさん――いえ、テウメシアに関わる伝説は全て本当だとでも?」
「さて。どのように語り継がれておるのか、把握はしておらんが……」
「ある国の王に取り入ったとか」
「それはやった」
「戦の切っ掛けになったとか」
「それもやった」
「それがやがて大陸全土を巻きこむ大戦争まで発展したとか」
「一応、合っておる」
「最悪じゃないですか」
アルフィーナは憮然として言う。
ユエラはけらけらと笑うばかりである。
「ユエラ様。言ってしまって良いのですか」
「こやつに嘘は通じんだろうからな。そういう気がする」
「正直なところ、信じかねますが」
アルフィーナは目を細め、じぃっとユエラの姿を見る。
そして――不意に彼女の目は、何かを認めたようだった。
「……力を隠しているのですか」
「多少な」
「隠している力のほうが多いくせに」
「そう言ってくれるな。私はこの街から動くつもりはないよ。……おまえも本来はそうであろう?」
に、とユエラは悪戯げに笑う。
その言葉は如実に物語る――潜在的な危険性で物を言うならば、おぬしも私と同じではないか、と。
そう。単純な殲滅力で考えるなら、アルフィーナはユエラよりよほど危険な存在だ。
その力が行き場を失えば、どこにでも歩き回れるとなれば……世界はアルフィーナを認めまい。
アルフィーナが、あるいは初代〈勇者〉アルベインが世界に許されていたのは――ひとえに、自らの力を領地に縛り付けていたからに他ならない。
「……それを言われてはおしまいです」
「そういうことだ。そこをどうこう言うのはお互い無しにしようではないかえ。お互い、はみ出しものであるからのぅ?」
ユエラは自嘲げに笑う。
それでも、彼女はマシだろう。
強大な力を有する。その一点さえ除けば、彼女は人と同じように生き――そして、人と同じように死ぬのだから。
「とはいえ、ユエラさん――テウメシアという強大な力が野放しになっているというのは一面の事実。これが聖王家の意向という可能性は?」
「否定しきれんな。そんなので動くのはどうかと思わんでもないが……」
ともあれ、ユエラは頭を振って笑む。
「クレラントと聖王家に関わりがある、というのは使えるぞ。あやつがこの街でやったことも合わせればな」
「……何を、なさるつもりで?」
アルフィーナはあくまで平静を保ったまま問う。
ユエラは口端を三日月の形に歪め、笑って言った。
「おぬし、聖王家とやらをひっくり返すつもりは無いかえ?」
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