お狐さま、働かない。
七十四話/先送りされた決着
まともに手傷を負ったのなど何年振りのことだろう。
彼女はもはやそれを思い出せなかった。
「――――、」
イブリス教団普遍主義派拠点――
訓練場の片隅にある、ぼろ小屋のような教官室。
リグは真っ暗闇の室内で床に座し、平らな胸を上下させながら浅く早い呼吸を繰り返していた。
吸気法。それは呼吸によって大気中の魔素を誘き寄せ、自らの体力回復に努める技法である。急激な回復は望めないが、時間をかければ致命傷からも一人で立ち直ることができる。
これは極端なことを言えば、大気中からエネルギーを取り入れられるということ。
一切の食物を口にせずとも、呼吸だけで生き長らえることができるということだ。
果たしてこの力の影響か、それとも鍛え上げられた身体の関係か。リグの見かけは実年齢上のそれよりもいくばくか若い。
おそらくは寿命も常人よりもかなり長いと見て間違いない。
「――――不覚、か」
ゆえに。
フィセル、そしてテオ――彼女ら二人に遅れを取ったが、あれは決して致命的な傷というわけではない。
クレラントに約束した期限まではあと三日。それまでに全快とはいかないが、迷宮に潜れる程度までなら問題なく回復できる。
と、その時だった。
「リグ。邪魔をするよ」
少年の声。
彼は断わりなく教官室の扉をバンと開け、すたすたと室内に押し入った。
「うわ、暗いねぇ。灯りくらい点けたらどうだい?」
「――――今は療養に努めている。視覚の疲労も控えたい」
「神経質だねぇ。聞いたよ。やられたんだって?」
「ああ」
リグは素直に頷く。
彼女は自らが不覚を取ったことを隠していなかった。昨日今日のことは祭司長サニエルにも余すところなく伝えている。
――今後への差し支えは一切ない、とも。
「貴様が見にくるとは思いもしなかった」
「ハハ、心外だねぇ。僕だって心配になることくらいあるさ。――僕の予定がちゃんと予定通りに進んでくれるのかってね」
こつ、こつ。
ちいさな足音とともにクレラントはリグに近づく。
闇の中に赤い双眸だけが煌々と光る。人には灯りを点けろと言いながら、彼自身も灯りなど必要としていないようだった。
「問題ないとも伝えたはずだが」
「忘れたかい? 僕は人間というやつが今ひとつ信用ならなくってね。それはまぁ、君であっても例外っていうわけじゃあない」
わざわざそう言う辺り、彼としてもリグの力は認めているのだろう。
その上で、信頼が置けるかどうかはまた別の話とも。
「ならば、いっそ貴様が直に向かうか」
「そうしたっていいんだけどね――いや、良くないな。僕だってあいつへの対策を万全にしておきたいからね。雑事に気を取られるのは勘弁だよ」
そういってクレラントは暗闇の中で肩をすくめる。
対策、といえば――リグは思い当たる所があった。
「――信徒を使って町の回りを封鎖されているらしいな」
「ああ。そうだよ。今いる奴らのどれだけあの雌狐の息がかかっているか分からないからね。できる限り外には出したくないんだ。ここで一網打尽にしてやらないといけないからねぇ」
暗中に三日月の形が浮かぶ。
少年の笑み。
「魔王サマに捧げる供物が増えるってわけさ。君たちにとっても万々歳だろう? 元々ここは魔王の土地だったんだからね。そいつを三百年越しに返してやるだけさ」
「思ってもいないことを――」
いや、しかし――結果的にはそうなるのか。
少なくともクレラントは魔王に価値を見出していない。テウメシアのような怪物とは見なしていない。どちらも彼が手にかけた怪物であるにも関わらず。
いったい何が彼の執着を分けているのか。
リグはわずかに考えるが、彼のにやにやとした笑みから思惑をうかがい知ることはできなかった。
「――まぁ、見たところ大した傷じゃあなさそうだね。僕の出る幕はなさそうだ。ちゃんと予定通りの攻略を頼むよ」
「言われるまでもない」
「それともう一つ」
「――なんだ」
すぅっと目を閉じかけたところ、リグはいぶかしむように薄目を開ける。
クレラントは彼女の表情を覗きこむように顔を近づけた。
「君はどうしたって魔王復活を望むんだい。狂信者ってわけでもなさそうだしねぇ」
「何をいまさら」
「今さら? そう、今さらだ。でもさ、今だからこそ裏切られでもしたら面倒くさいんだ。なにせあの雌狐はそういうのが大の得意だからね――」
リグは忌々しげに奥歯を噛む。苦虫を噛み潰したような表情に一変する。
彼はリグとは違い、テウメシアとの戦いで何があったかをほとんど語らなかった。伝えたのは、約束を交わしたというただ一点のみ。
リグはちいさくため息を吐く。
理由は誰にも話したことはない。隠す必要もないが、さりとて話す必要も無かったからだ。
だから、聞かれれば話すことにも何ら差し支えはなかった。
「アスラ界、というものを知っているか」
「アスラ界? ――ああ、東のほうの神話にあるお話だね。それがどうか?」
〈賢者〉の名は伊達ではないらしい。
アスラ界。それは彼が言う通り、現実には存在しない――いわばおとぎ話の類である。
「アスラ界は争いが支配する世界。アースラという種の巨人のみが蔓延り、四六時中絶えることなく争いを繰り広げる。寿命は人間よりも遥かに長く、その生を永劫続く争いのみに費やす。一人土から生じ、そして一人土に還る」
「争いを戒める説法の類だろうよ。面白くもなんともない話だねぇ。そいつがどうかしたかい?」
「私はそれが良い。この世界をそれに少しでも近づけることを私は望む」
リグは肩をすくめて目を閉じる。
瞬間――クレラントはくっくと肩を揺らしながら忍び笑いを漏らした。
「あいにくだけど、魔王サマは世界をそんなに綺麗に均しちゃくれないぜ。むしろ今より七面倒臭いことになる。それだけは保証してあげるよ」
「――かつては貴様のような者たちが止めたからだろう?」
リグは瞳を眇めて言う。
「いいや。僕がいなくって誰かがやってたさ。その誰かがいなけりゃ国家がその代わりを担うだろうさ。起こったことがもし起きなかったとしてもさ、また別の誰かがやらかすわけ――歴史なんてそんなもんだよ」
「知ったようなことを言う」
「知ってるからね」
それもそうだ、とリグは頷く。彼の言葉を信じる限り、クレラントは歴史の生き証人に他ならない。
「――なぜ私を諭すようなことを言った?」
「後からこりゃ違うぞって言われても僕が困るからねぇ。僕なりの保険ってやつさ。まぁ、こんなことで君が思い止まったりはしないだろうと思ってね」
「人を信じているようなことを言う」
「いいや。人はそんなに簡単に自分の思い込みを反故にしたりはしないし、相手の考えを翻すこともできない。どれだけ間違っていてもね」
クレラントは何の気なくそう言って背を向ける。「それじゃあね。頼んだよ」と言い残して歩み去る。そのまま一度とも立ち止まることはない。
「――道理で殺し合いにまで行く筈だ」
彼が今発した言葉と、テウメシアの存在は真っ向から対立する。
彼女の存在はあまりにも容易く人の心を揺さぶり、操り、あるいは籠絡する。
〈賢者〉クレラントにはできないことを、彼女はあまりに容易くなし遂げてきたのだ――それが悪業であろうとも。
「ハ」
さりとて、彼の事情は知ったことではない。
リグは療養に集中する。
残りの期間で地下百層へ到達し、そして――――
必ずや、自らの手で仕留めると決意する。
対等な敵と認めたかつての弟子を。
◆
「まーた傷をつけてきおったようだのぅ……」
「全くもって面目次第もありません……」
テオは帰還するなり半日ほど寝込み、十分な休息を取った。
肉体的な消耗以上に精神的な消耗も激しかったのである。
絶えず精神的重圧に晒される状況あっては無理からぬことだろう。下手を踏めば危うく十数人が全滅に追いこまれる事態もあり得たのだから。
「……冗談だ、冗談。おおむね無事に帰ってきおったのだから文句もあるまいよ。それに――成果はあったのであろう?」
「おわかりですか」
テオの自室。
彼女はゆっくりと寝床から這い出し、ベッド脇にあった水差しを一口する。
時刻は少し遅い朝といったところ。昨夜は夕飯も取らなかったため、腹の虫がこっぴどく鳴いていた。
「あ、テオさん。起きられたのですね――薬持ってきますね!」
「うむ。頼んだぞ」
その時、様子見に来たアリアンナが三つ編みを揺らしながらぱたぱたと忙しなく走り回る。
テオは一瞬呆気にとられたように彼女の背中を見送る。
「今日は授業の日でしたか――にしては少し早いようですが」
「ああ、フィセルも宿を空けておるからな。ついでにどうも街の雰囲気が怪しいみたいでのぅ、ちょいと頼まれて預かっておる」
「昨夜は彼女と一緒に?」
「うむ、そうだが」
「一緒に――閨に!?」
「人の娘を預かっといてそんなことはせん」
ユエラは呆れたようにテオを見下ろす。
「それに、あやつはそういうことをさせる相手では無かろうよ。分かったらおまえは療養に励むが良い。はよぅ復帰してもらわねば私が困るでな?」
「――は。無論です」
テオはゆっくりとベッド上に座り直す。
痛みはかすかにあったが、動くのに支障があるほどではない。クラリスから治療を受けたおかげだろう。
「それで、だ。まぁ、事の成り行きはだいたい聞いておるが――仕留めるにまでは行かなんだそうだの」
「はい。傷を負わせるには至りましたが、止めには至らず。浅くない傷ではありましたが、彼女はまだ余力を残していたようでした」
「……ふぅむ」
と、話を聞いたユエラは思案げに首を傾ける。
「あやつが生き残ることに全力になったらこちらとしてはお手上げ、というわけだのぅ」
「そうなります。彼女が本当に得意とするところは守りでしょうから」
先日の戦いにしてもそう。
リグが攻めに転じかけた瞬間、その隙を縫うようにテオは短剣を突き入れたのだ。
彼女が防戦につとめるならば、付け入る隙は皆無と言っても過言ではないだろう。
「だから、まぁ、私としては絶対とも言えん。が――あやつも一度の瑕疵に懲りるようなやつではなかろう?」
「間違いないかと。おそらくですが、静養に努めるということも考えがたいものがあります。ユエラ様が交わされた約束の日付けに合わせて事が運ばれるならば――迷宮の攻略も予定通りに進められる可能性が高いかと」
「……掴んだものはあれど、大局には影響なし――いや、影響は及ぼさせない、というわけかえ」
「そうなりますね」
ひょっとして、ひょっとしたら、明日にでもイブリス教団からの書簡が届く可能性はゼロではないが――
まずあり得ないだろう。もたもたしていたらクラリスたちが〈封印の迷宮〉地下百層に達する可能性は十分ある。先日の探索が迎撃作戦によって中止された以上、教団側もそれなりに急ぐ理由がある。
「テオ、おまえとしてはどう思う?」
「一度ご下命されたこと。叶う限りは務めを果たします」
「正直に言ってしまえば、おまえの実力では難しいところがあろうよ。――それでもかえ?」
「先日も忠告されましたが」
「誰からだ」
「全員です」
「であろうな」
ユエラはからからと笑みすら漏らす。対するテオは至って真剣な表情を保っていた。
負傷した身であるにも関わらず。テオは涼しげな双眸をじっとユエラのほうに向ける。
「……おまえが得た情報から、幻影の挙動を再構成せねばな。そうまで結果に違いがあるとなると、幻影と本物にはずいぶん大きな差があろう。そして、あやつが手負いなれば――少しはおまえとの実力差も埋まるやも知れん」
「は。――務めさせていただきます」
もはやユエラはテオを引き止めず。
そしてテオもそれに応じる――是非もなしと。
「せめて殺される前に逃げられる程度にはなるが良い。一対一でもな。何があろうとも、早々に死ぬことだけはまかりならぬ。それだけは心せよ」
テオは再びこくりと頷く。
結局のところ、武芸に近道などはない。今日明日というほんのわずかな時間では、テオが彼女に詰め寄るのもやはりほんのわずかに過ぎぬだろう。
ただ、違いがあるとするならば――テオにとって、リグは絶対普遍の強敵であること。
そして、リグにとっては――テオの存在は、数え切れないほど手にかけてきた数多の敵の一人に過ぎないこと。
勝機はある、などと軽々には言えない。
今回得た記憶から構築されるリグの幻影はまさに本人相応だ。幻であろうとも敵わないのならば、それは現実にも決して敵わないことの証明になる。
まずは死なないこと。生き延びること。
そう、せめてユエラがクレラントと決着を着けるまでは。彼女が〈賢者〉を打ちのめすまでは。
――そこまで考えが及んだところでテオは思う。
ユエラが必ず打ち勝つという保証があろうか、と。
テオは自らの主について、その力について確信しているが――〈賢者〉クレラントについてはあまりに無知である。
「――ユエラ様は、いかがなさるのです。彼の者は仮にもユエラ様に一度は打ち克ち――そして、つい先日にもあのような傷を負わせた輩でしょう?」
テオの声音にわずかな不安が滲む。
が、ユエラの返答は実に事も無げ。
彼女はテオの隣にすとんと腰を下ろし、二尾のしっぽをぺたんとシーツの上に垂らした。
「そういえばおまえには言うておらなんだな」
「……なにをです?」
「しっぽ」
「しっぽがどうかいたしましたか」
「私のしっぽは二本あるであろう」
「はい。とても良いものです」
「それは聞いておらぬが」
ユエラはそっと口元に拳を当て、こほんと咳払いして言った。
「実は九本ある」
「触っても良いですか」
「まだ出しておらぬから」
テオはその言葉を聞いて反射的にユエラのお尻へ視線を走らせた。
そこには灰色の毛並みのしっぽがてろんと伸びている。いつも通りの二本。
「まあそれは構わぬのだが……いや、うむ、そうだな」
「なんでしょう」
「おまえがあやつに勝てたら好きにしてもよかろう」
「了解しました。必ずやぶち殺して切り刻んで海に捨てて参りましょう」
「ここらに海は無かろうよ……」
テオは据わった眼でユエラの臀部を凝視する。
ひとしきりしっぽを撫で回すように触ったあと、落ち着きぃ、とたしなめられて彼女はようやく正気を取り戻した。
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