お狐さま、働かない。

きー子

六十九話/倒れどもただでは起きぬ

 日が沈み始めたころ、ユエラはようやく帰路についた。
 道中、右腕があるように幻術で見せかける――隻腕の少女など目立って仕方がない。

 ようやくユエラ邸の外観が見えて一息つく。
 と、その時。家の軒先にちいさな影がぽつねんと立ち尽くしていた。

「……む?」

 果たして、その姿は見るまでもない――薄褐色の肌、艶っぽく短い黒髪。
 テオである。

「お帰りなさいませ、ユエラ様」
「おお、出迎えご苦労であるぞ、テオ。なんだ、もしや待たせてしもうたかえ?」
「いえ、仕込みはすでに済んでおりますので食事はいつでもご用意できます、が――」

 テオの目が、ユエラのちいさな身体を上から下までじいっと見る。

「なんだ、どうかしたかえ?」

 何かと苦労の多い従者に心配をかけるものでもない。さも腕があるようにゆらゆらと袖を振ってみせる。
 が。

「そんなに怪我をしておられるのになんだもなにも無いでしょう。早くお入り下さい」
「――えっ?」

 ユエラはその言葉に目を丸くする。なんでわかったのかえ、とでも言うように。
 無意識に気でも抜いてしまったのだろうか。大切に思う従者の前だからこそ。

 テオはちいさく嘆息したあと、ユエラの左手をそっと引いた。

「その反応が何よりもの証拠です。観念なさってください」
「……むぐ」

 どうやら気を抜いたのはまさにこの瞬間だったらしい。
 こんな初歩的なカマかけに引っかかろうとは。百倍近い年の差がある少女にまんまとしてやられた格好だった。

「もう幻術にかけていないでしょうね。――――ああ、服もずいぶん汚れてます。新しいものをご用意しませんと」
「しておらぬ、もうなにもしておらぬから……!」

 ユエラは観念して幻術を解除する。
 まるで何事もなかったように見せかけていたのだが――幻術を解けば、そこにはずいぶんとしてやられた少女の姿があった。

 右肩から先は切り刻まれて消え、身につけている黒いワンピース・スカートは全体的にボロのよう。また着るのは残念ながら難しいだろう。

「本当にもう大丈夫でしょうね」
「う、うたぐるのぅ」
「ユエラ様は従者思いに過ぎますので。全て私に任せて下されればよろしいでしょう」
「……それが面倒に感じる時もあるのじゃよ」

 ユエラは基本的に面倒くさがりだ。何でもかんでも人に投げっぱなして任せっきりにする。
 だが、それは野生の獣の本性と言うべきか。ユエラは傷を負った時、一人で療養に努めようとする習性があるのだ。

 そもそも追い詰められることが滅多にないから、習性をあらわにしてしまうことも無かったのだが――

「私としてはユエラ様を一人で向かわせたことそのものが不本意なのです、ユエラ様。ですからお世話ばかりはさせていただきます。よろしいですね」
「……致し方ないのぅ」

 しぶしぶ家の中に引っ張られていくユエラ。
 テオに手伝われながら着替えを済ませ、身体のあちこちに包帯を巻かれていく。
 もっとも、腕の断面などは綺麗に清めただけでそのままだ。断面は今も再生を続けていた。

「これは――治るのでしょうか」
「うむ。まあ、三日もかからんうちに治るであろうよ」

 起きている間は再生も遅いが、就寝時はこれの比ではない。丸一日を寝て過ごせば無事に元通りになるだろう、というのがユエラの見積もりだ。
 テオは身の回りの世話をする間、外で何があったかも聞かなかった。あくまでユエラの安否を案じ続けていた。
 それがユエラにはありがたかった。余計なことを考える必要もない。

「くれぐれもご無理はなさりませぬように。体の中の傷はいかがですか」
「あー……あちこち傷がついておるが、内臓はやられておらぬよ。内臓器官の再生が優先されるから、そっちは案ずることはなかろう」
「ならばまだしも幸いでした。食事はいかがなされいますか」
「正直なところ、あまり無いが……食わねば滋養も足りぬでな。頼めるかえ……?」
「無論です。腕に寄りをかけて御用意いたしましょう――安静になさっていてください」

 テオはユエラの私室を出て、一階の台所へ向かう。
 常日頃から甘えてはいたものの、甘えざるを得ない状況というのはなにやら新鮮だった。まともな人間ならば、頼り切りになるのはこういう時だけだろうが。

 そして、何よりも――テオに弱みを晒すことに、ユエラは意外なほど抵抗がなかった。
 少なくともユエラは、彼女の主人らしくあろうとは思っていた。面倒くさがりで、いい加減でも、やることはきっちりやれる主であろうと。

 しかるに、今の体たらくはとても良い主人とはいえないのだが――――

「……まぁ、たまには、良いかのぅ」

 ユエラはそういって、そっとちいさな頭を枕に委ねる。

 しばらくして、上の階から届く魚介系の良い匂いが食欲を刺激する。
 くぅ、となだらかなお腹がちいさく鳴った。
 あまり食欲がない、といったわりには現金なものだった。ユエラは思わず苦笑する。
 さて、そろそろ上へ行くとするか――と、ユエラはベッドから起き上がりかける。

 その時だった。
「失礼いたします」と声が聞こえ、テオが再び部屋にやってきた。
 片手にはお盆、そして湯気を立てる皿が載っている。

「……む。ちょうど行こうとしたところだったんだが」
「いえ、そのまま寝ておられても結構です。言うなれば非常時ですから」
「しかしのぅ。寝たまま食べるのはさすがに行儀が悪かろう」

 元は野狐のユエラが言うことでもあるまいが。
 彼女は面倒くさがりの割に、食卓での礼節などは極めて常識的だった。
 それは言うなれば、野卑な獣の本性を隠そうとする努力とも言える。出自が卑賤であるからこそ、そういった点はおろそかにしがたいのだ。

 テオはサイドテーブルにことりとお盆を置く。
 彼女は有無を言わせない構えである。
 病人扱いもいいところだが、実際その通りといえばその通り。

「おまえもたいがい強情よな――」

 そこに気遣いを感じもするのだが。
 ユエラはお盆の上の匙を取ろうとし――テオがそれより早く匙を手に取った。

「――テオ?」
「片腕だけでは難渋するでしょうから、私が手ずからユエラ様に食べさせていただこうかと」
「…………本気かえ?」
「本気も本気です」

 皿の中身に一瞥をくれる。
 水気をふんだんに含み、トマトで赤みがかった米料理。細かく切られた玉ねぎや人参に色鮮やかなブロッコリーが彩りを添え、白身魚からなる出汁の良い匂いが漂っている――いわゆる海鮮粥リゾットというやつだろう。

 いくら面倒くさがりのユエラとて、食事の世話までテオに頼んだことはない。
 着替えや風呂などの世話とは違い、それは彼女の中で一線が引かれていた。下の世話を頼む感覚にも近いだろうか。
 さすがにそれくらいは自分でやる、というのがユエラの感覚だったのだ。

 ユエラは訴えるようにテオをじっと見つめるが、彼女は頑として譲らなかった。
 意地でもユエラに手間を掛けさせないつもりらしい。

「……ほんとうに、致し方ないやつよのぅ……」

 何度目の諦めか分からないが、やむを得まい。
 ユエラは寝そべったまま頭だけを起こし、薄ピンク色の唇をそっと開いた。

「素直にそうなさってください。熱いのでお気をつけて」
「生意気を言いおる……後で覚えておれよ……」

 あーん、と開いた口に一匙の粥を差し入れられる。
 ほふ、とユエラはその熱を感じながらゆっくりと咀嚼して嚥下する。口腔内に広がる出汁の効いた味わいが堪らない。鼻腔から抜けるような香りも良い。
 使われている魚介はおそらく鮎だろう。淡白なようでよく出汁が染みている。

「……美味いのぅ……いつも通りに」
「恐縮です。お腹の具合はいかがでしょう」
「……腹に物を入れたらかえって腹が減ってきたわえ」
「ならば重畳です――どうぞ」

 一線を越えた後は早かった。
 母鳥に給餌されるように食事を与えられるのを口を開けて待つ。これは存外に楽で良くなかった――悪くないと思ってしまう程度には。

 ご飯を食べさせてもらう間、ユエラは何があったかを掻い摘んで話した。
 クレラントとの戦闘の結果としてこうなったこと。被害は最小限に収められたこと。一旦は退けたが、決して勝利とはいえない戦いであったこと。
 そして、一週間後には再び矛を交えること。

「正直なところ、彼とユエラ様との交戦に関して、私が口を挟めることでは無いでしょう。ですが、それは――――教団全体が、一週間後から動き始めるということでしょうか」
「その可能性は……かなり高かろうな」

 ユエラは深刻げに頷く。ご飯をあーんしてもらいながらでは格好もつかないが。
 それはつまり、テオが自らの師と相まみえるのも、おそらくはその頃ということだ。

「覚悟を、決める必要がありそうですね」
「ちょいと急ではあるがのぅ……まぁ、向こうも準備を進めておったことであるからな」

 想定していたよりは余裕があったと言っても良いくらいだろう。
 しかしユエラには懸念がある。
 テオはまだ一度も、本気の師――リグと相対したことがないのだ。

 例え幻影を相手に修行を繰り返そうと、それは当人に勝てることを意味しない。この事実は、彼女を死地に追いやるような気がしてならなかった。

「全力で調整いたしましょう。ユエラ様も、どうかお身体を安静になさって下さい。それが何よりも必要なことです」
「それは間違いないがのぅ。……ひとつ、腹案があってな」
「どのようなお考えでしょう」

 テオは落ち着いた声音で尋ね、匙を差し出す。
 ユエラはあむ、と木匙を咥えて粥を飲み込んだあと、言った。

「テオ、おまえ――もう一度、今日明日にでも、リグとの再戦の機会を持ちたくはないかえ?」
「――――可能なのですか」
「ちょいと、他のやつらの協力が必要だがのぅ。だが、あやつらも攻略に難儀しておるようだからな。おそらく乗ってくるに違いなかろうよ」
「あやつら、と言いますと――フィセルの方でしょうか」
「うむ。左様」

 クラリス、フィセル、レイリィ、リーネの四者からなる〈封印の迷宮〉攻略組。
 その進捗を聞くところによれば、順調ではあるが芳しくはないという。
 それはひとえに、教団側の攻略速度があまりに早すぎるためだ。

「そっちにリグが顔見せするとは限らんからのう。一種の賭けにはなるが、リスクは無いから問題もあるまいよ」
「手段も考え付いておられる、ということですか」
「うむ。私を誰だと思うてお――――こやぁっ!? あつ、あつふぅっ!!」
「も、申し訳ありません。盛り過ぎました」

 匙が盛り上がるほどの粥を一口で食べて悶えるユエラ。ひりひりと痛む舌で唇をちょっと舐める。
 今日はなにやら醜態を晒しっぱなしである。これでは最低限の威厳まで死滅してしまう。

「……まぁ、言うてみれば簡単な話なのだがな。あやつらは馬鹿正直に攻略速度で追いつこうとしておる。が、別にそんなことはせんで良かろう。もっと手っ取り早くこの騒ぎを片付ける方法がある」
「――何やらわかったような気がいたします」
「想像した通りで間違いはなかろうよ」

 ユエラはくつくつと喉を鳴らし、言った。

「迷宮内で待ち伏せして叩けば良い。別にわざわざ先に百階まで行かぬでも良いのだ――のぅ?」

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品