お狐さま、働かない。

きー子

六十八話/頂上決戦・前哨戦(後)

「……ぐぅッ……!!」

 腕が細切れになって風に消える。
 まるで大気に刻まれたようだった。
 しかしユエラは意に介さない。自らの痛覚をも騙し、右腕と引き換えに踏み出す。
 同時に幻術を行使し、痛みに喘ぐ姿を見せる――実際とは違う場所にいるよう見せかけるのも忘れない。

「あんまりガッカリさせないでほしいねぇ。本気の君がこの程度なわけがない。だいたい、いつまでその姿で――――がばッ!?」

 ユエラの姿はクレラントには見えていない。
 ゆえに、ユエラが思いっ切り殴り付けた時、彼はその時に初めて接近を知覚した。

 もっとも、殴りつけるだけでは接触に足り得ない。頑強な空気の鎧がクレラントを覆っているからだ。

「ごちゃごちゃやかましいやつよのぅ。――私はこの姿でいるのを止める気は、ない」
「ハッ……、そんな茶番をかい?」

 クレラントに大きな傷を与えるには至らない。
 だが、殴打の衝撃は空気の鎧を確かに突き抜けていた。
 何の工夫もない魔力を帯びただけの拳。だが、ユエラの魔力量は全てを補ってあまりある。その威力は大砲の一発一発にも匹敵するだろう。

「私が好きでやっておることだ。上位者気取りで馬鹿にするのなら初めから出てくるでない。どこへなりとすっこんでおれ」
「……君は、君こそが、その上位者だろうが、テウメシアぁッ!!」

 クレラントは血混じりの唾を吐き、声を荒げる。
 表面上の激情とは裏腹に彼の行動はあくまで冷静だった。

「――――『天墜スカイフォール』」

 詠唱、一言いちごん
 彼が腕を一振りすると同時、大気そのものがユエラを――否、周囲一帯を押しつぶすように落ちてくる。
 幻術によってユエラの現在位置を誤魔化そうとも無関係な一撃。

 被害は周辺の建物にも及んだ。
 壁、あるいは屋根にたちまち深刻な罅が入る。崩壊した建物の破片が木の葉のように乱れ飛ぶ。
 十中八九、混乱はすでに表通りにも届いているだろう。

「ッ、ぐ……!!」

 いくら感覚を騙そうと、現実の肉体はそうもいかない。
 莫大な質量をともなった風圧がユエラの背にのしかかる。骨格が軋む。臓腑が悲鳴を上げる。肉身が裂け、内部の血管が破裂する。

「ほら、さっさと正体を現せよ! 浅ましい化け物の本性をよぉッ! ――――千年前、僕と相対した時と同じようにさァッ!!」

 ――――そう。
 彼が指弾する通り、今のユエラは本来の姿ではない。
 一匹の年経た野狐がユエラの魂と結びつき、転生体として受肉した結果でしかない。

 ユエラ・テウメッサの本性――魂そのものの姿は別にある。
 彼女の臀部から伸びる三つのしっぽと狐耳は、いわばユエラの魂の一部とも言えるものだった。

 ユエラはぎちりと歯を食いしばり、引きずるように身を起こしながら言った。

「断る。こんな街中で本性を晒すほど恥知らずではのうてなあ」
「――なら、僕が人間なんてやめさせてやる。残りの手足も全部切り取って、人のかたちを留めないようにしてやる。いやでも本性を晒さなきゃならないようにしてやるよ、テウメシア」

 クレラントはそう宣言してユエラに狙いを定める。
 彼の目には、地を踏みしめて風圧を堪えるユエラの姿が映っている。

 ほとんど聞こえもしない高速詠唱が紡がれ、風の刃が空を裂き――――

「〈賢者〉などと呼ばれておるくせに、学ばんな、おぬしは」
「――――がぁッ!?!?」

 ユエラは残る左腕でクレラントの後頭部を思い切りぶん殴る。
 言わずもがな、踏み止まっているユエラの姿は幻覚だ。極大の質量をともなった風圧を受けようが、ユエラの魔力量をもってすれば動けないほどではない。
 なんといっても、痛みや苦しみは幻術で全て誤魔化せるのだから。

 クレラントの小柄な肉体を壁に叩きつける。
 続けざまに拳と蹴りを叩き込む。が、それは攻撃はいつまでも続けなかった――空気の鎧から放たれた烈風がユエラの肉身を弾き飛ばしたのだ。
 小規模な嵐、あるいは竜巻にも匹敵しようという風速。それは容易くユエラの矮躯を突き放し、クレラントの有利な間合いに持ちこまれる。

「……ちッ」

 その時だった。クレラントはちいさく舌打ちして後方に目を向ける。
 騒ぎを聞きつけた自警団でもやってきたのだろう。あまり上手くないな、とユエラは思う。ますますクレラントの激情を煽る羽目にもなりかねない。

 ――だが。

「君がどうしてもそのつもりっていうなら、仕方ない。このままじゃ千日手だ。この街は僕らが本気でやるには狭すぎるし、邪魔も多すぎる。どうだい、テウメシア――日時と場所を改めて本気でやるってのは?」
「……おぬしが始めたことであろうに、勝手なやつめ。どうせ私が従わんならこの街でも人質に取るつもりであろうが」
「ハハ、よくわかっているじゃないか。いや、実際のところ今日は様子見のつもりだったんだぜ? 良かったよ、ちゃんと君が駆けつけてきてくれてさ――――おかげでずいぶん熱くなってしまったねぇ」

 クレラントは白衣の乱れを払い、朗らかな笑みを浮かべる。
 そこに先ほどの激情は欠片ほどもうかがえない。常軌を逸した変わり身の早さであった。
 果たして先ほどまで発していた言葉のどこまでが本気だったのか。あるいは全てが本気なのか。

「……ふん。そういう腹かえ」

 つまりクレラントは、襲撃を見過ごされる可能性もあると考えていたわけだ。
 先に試しておけばこちらの出方もうかがえる。日を改めての仕切り直しも確実なものとなる。

「ふざけたことをしおる。そんなに殺し合いがしたいのなら、初めから果たし状でも送れば良かろうが」
「僕は手紙とかいうのがどうにも信用ならなくってねえ。ちゃんと届くか、ちゃんと読んでもらえるのか、どれもこれも信用できないことばかりなんだ」

 信用。その言葉でユエラは合点が行った。
 彼は何もかもを信用していない。一見対等に向き合っているユエラのことさえ、世話になっている恩人――スヴェンを見捨てるかもしれない、と考えている。

 クレラントが直々に出張ってきたのもその一環だろう。
 彼はおそらく、他人を信用して任せることが極端に苦手なのだ。
 それは、ユエラ・テウメッサとはまさに正反対の性質とも言える。

「日時は一週間後の正午。場所は、そうだね――〈ヴェルトの丘〉ってわかるかい? わかるなら、あそこが良いね。街からはそれなりに離れているし、人通りもほとんど無い。荒事にはうってつけの場所さ」
「……ああ、知っておる。それで構わぬよ」

 ユエラにそれを拒むという選択肢はない。
 せっかく安住の地を得たというのに、それを根底からぶち壊されるなど堪ったものではなかった。

「よしよし。話はまとまったね。邪魔な連中に見つからないうちに僕は退散するとしよう――――それじゃあね、テウメシア。次の再会を愉しみにしているよ」

 瞬間。クレラントはそう言い残し、足元からふわりと浮かび上がった。
 彼は風を切りながら空を駆り、街外れの方角へ飛翔する。見る間に空中の影が小さくなっていく。

「……つくづく、人騒がせな男よな」

 ユエラは恨めしげに呻き、誰にも見つからないよう幻術で身を隠す。
 そして自らの感覚を戻した瞬間、誤魔化していた痛みが急激に襲いかかってきた。

「…………っ、くぅ……」

 やはりというべきか、人の身のまま立ち向かうのは無理があったらしい。
 ユエラは苦痛に表情を歪めつつ、スヴェンたちの安否を伺いに行くために歩き出す。

 ◆

 スヴェンとフランはすでに屋敷内へ戻っていた。
 それは結果的に賢明な判断だったと言える。クレラントは何度もデタラメな魔術を行使しており、もし巻き込まれれば悲惨なことになっていただろう。

「スヴェン、フラン、無事だったかえ?」
「多少の痛い目は見たがね。彼を怒らせた代償としてはずいぶん安いものだろう」

 ランドルート邸の客室。
 屋敷の外殻は半ば崩壊していたが、ほとんどの部屋は問題なく使用できるようだった。スヴェンはすでに修理工や大工を手配し終えた後だという。

「……おまえがあやつを怒らせたのかえ? いったい何を言うたのだ」
「彼は人心に取り入ることを不得手とするようだな。少なくとも貴女と比べれば雲泥の差だ、ユエラ嬢」
「ぶっ壊れた狂人と比較されて褒められてもちっとも嬉しゅうないぞ」
「そう言わないでくれ。あなたも彼もだが、私にとってはあまりに常軌を逸した――そう、超人的な存在に違いないのだから」

 スヴェンは困ったように笑う――隣で震えるフランの頭をそっと撫でる。
 よほど恐ろしい思いをしたのか。こうして二人を見ていると、主人と従者というよりはまるで父娘のようだった。

「……しかし、すまぬな」
「何がかね?」
「ついに被害を許してしもうた」
「前々から承知の上のことだよ。それに、さほど重大な被害ではないからね」
「……左様かえ? 私にいらぬ気を使っておらぬであろうな?」

 ユエラが外から見た限り、屋敷はかなり派手にやられていた。外壁の所々には穴が空いている。安全上の問題があるのは明らかだ。

「人的被害は軽傷に留まっているからね。物は壊されても直せばいい。今回依頼した業者との繋がりもできた。これが別の機会に役立つこともあるだろう。修繕が終わるまでは、ユエラ嬢、あなたに貸していただろう――あの家に移る予定でいる。もし何かがあった時はそちらを尋ねてきてくれたまえ」
「……フランがずいぶん怯えておるようだが、何かあったかえ?」
「これは……わけありでね」

 隠しても仕方ない、とスヴェンはクレラントとのやり取りを話した。
 クレラントからの提案。それはスヴェンの障害を克服できる可能性の示唆であり――そして、フランの補助が不要になるかもしれないという可能性の示唆でもあった。

「……本当にへったくそなんだのう、あやつ」
「だろう」

 スヴェンとフランの関係性など、少し見れば主従以上の関係と分かるだろうに。
 誘いとは相手の望みを満たすものでなくてはならない。スヴェンは障害の克服を望むかもしれないが――それ以上に、フランを傷つけること、遠ざけることを良しとはしないだろう。

 だからユエラも、自らの能力を部分的に秘匿したのだ――他人の声まで幻術で聞かせることはできない、と。
 フランの有用性を損なわせないために。

「私は現状の維持を望んでいるのだよ。仮に神の恩寵が私に聴覚をもたらそうが、フランを遠ざけることは決して無い。――もっとも、私に神の恩寵などありはしないだろうがね」

 スヴェンは皮肉げに笑いつつも、フランに語る言葉は優しげだった。
 女従者は俯いたままこくん、とちいさく頷く。

「それよりユエラ嬢。貴女が仕損じることがあろうとは、正直に言わせてもらえば、いささか予想外だった」
「……それは過分な期待であろうよ。元々私はあやつに遅れを取っておるのだからな」

 千年の昔。彼一人にというわけではないが……ユエラは、否、テウメシアはクレラントに敗れ去った。
 その結果、テウメシアの魂は世界の外側に追いやられた。再びこの世界に生を受けるまで、彼女は千年の時を要した。

 その間、クレラントは魔術師として研鑽を続けていたに違いない。実力差はむしろ大きくなっているはずだ。
 にも関わらずユエラが上手く立ち回れたのは、ひとえに彼が冷静さを失っていたからだろう。
 有り体に言えば、狂っている。

 強力な武器を持っている狂人と、ごくありふれた武器を持っている強者。
 どちらも脅威には違いないが、前者はまだしも御しやすい。ゆえにこそ、ユエラはなんとかクレラントを退けることに成功した。

 そう。決して彼女は仕損じたわけではない。
 どちらかといえば成功の範疇ですらある。――クレラントがどの程度本気だったかは定かではないが。

「……問題は深刻のようだな。私が協力できる範囲内のこととは思いがたいが、万が一、必要であるならば微力ながら助力させてもらおう。どうだね」
「助力、のぅ……」

 ユエラは二人の様子をじっと見つめる。
 クレラントが彼らに累を及ぼすことはもはや無いだろう。だが、迷宮街への危機は依然としてある――魔王復活の兆しである。

 クレラントは日時を一週間後と定めた。
 その日付に意味が無いとは思えない。

 クレラントが魔王を蘇らせようとするのは、それが何かの役に立つか、あるいは必要だからだろう。
 クレラントが一週間後を指定したのは、魔王を復活させるのもおよそ一週間後と見積もっているからではないか。

「――――とにかく安全を第一にするが良い。もし何かがあっても、今度は私が駆けつけられるとも限らぬ。なんなら、しばらくはこの街を離れておったほうが良いかも知れんのぅ」
「そのほうがあなたに心配をかけずに済む、ということかね」
「有り体にいえばそうなる」

 スヴェンはふむ、と一度頷いたあと、ちらりとフランを一瞥した。

「偶には遊興の旅というのも悪くはない。一考しておくとしよう」

 ぴくん、とフランの肩がちいさく跳ねる。
 現金な反応だが、それが微笑ましくもある。

「……うむ、頼んだぞ。私がここでやっていけてるのもおまえ様のおかげのようなものだからのぅ?」
「柄でもないことを言う。それを言うのは私のほうではないかね?」
「いいや――実際のところ、感謝しておるのは本当だとも。ランドルートの後ろ盾無くば、こうもあっさり受け入れてもらえはせなんだからのぅ」

 ゆえに、というわけでもないが――彼らには健在であってほしい。ユエラは柄でもなくそう思う。
 彼女はくつくつと喉を鳴らして笑み、立ち上がった。

「まぁ、一週間後にはちょちょいと全部片付けておくでな。気長に構えておけば良かろうさ」
「そうさせて頂こう。――自身の無力に恥じ入る次第だが、どうやらあなたに委ねるしか手は無さそうだ」

 どちらともなく笑みを交わしたあと、ユエラは客間を退出する。フランが抜かりなく彼女を見送りに出る。
 浅くない傷を負いはしたものの、戦後処理はおおむね無事に済みそうだった。

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