お狐さま、働かない。

きー子

六十四話/風嵐の兆し

 ――果たして数秒と保たず、リグは地面に伏せっていた。
 何をされたのか分からなかった。
 何が起きたかも分からなかった。

 ただ、咄嗟に迫った衝撃を掌で相殺したことは覚えている。
 その上で、リグはあっさりと地を舐めさせられることとなった。

 彼が本気であったならば、すでにリグは殺されているだろう。
 彼女がこれほどの隙を晒すことなど、滅多にありはしないのだから。
 ――ましてや、それが他人の手に寄るものなど。

「――――何を、した?」
「案外動じないねぇ、君」
「いや。驚いている」
「もうちょっと分かるように驚いてほしかったなあ。いやしかし参った」

 瞬間、クレラントはひゅっと掌を一振りする。
 それと同時にリグの呼吸が急に乱れる。息を吸えなくなる。
 いや、違う。周囲の空気が急激に薄くなっているのだ。

「――――!」
「君なら空気が吸えなくたって数分は保ちそうだねぇ。でも、酸素の濃度を上げてみたらどうかな。猛毒だぜ、こいつは。君が人間である限りは耐えられないだろうさ。まぁ、これもあいつに通じるかは微妙なんだけどさ」

 リグはクレラントの言葉を半分も理解できない。
 ただひとつだけ分かるのは、彼女の生死が少年のさじ加減ひとつで左右されるということ。

 瞬間、クレラントはまた右腕を一振りし――
 それだけで、リグの周囲の大気が正常な状態に立ち戻った。

「――――ッ、ぐ」

 クレラントの言う通り、少し呼吸を阻害された程度なら行動に支障はない。
 並大抵の毒物に関しては耐性を身に着けている。人間一人を廃人に追いやる魔薬でさえ、彼女の内功があれば容易に打ち消せるだろう。

 だが、大気中に含まれる成分そのものを過剰に押し付けられたとするならば。
 その過剰さこそが毒に値するならば、リグは果たして耐えられようか。

「君でも練習相手にはならないか。困ったねぇ。いっそ魔王を蘇らせて実験台にするか――」
「そんなに実験台が欲しければ、直接〈封印の迷宮〉に赴けば良い。的になる魔物は山ほどいよう」
「ハハハ、冗談さ、冗談。そんなことはしないよ。魔王にはそれなりの使い出があるからねぇ。まずはあの街をドカンとぶっ壊してもらわなきゃいけない」

 軽薄な態度へ苦言を呈するリグ。しかしクレラントはあっけらかんと言ってのける。
 そしてリグは少なからず、今さらながら驚いた――かつて〈賢者〉と呼ばれた男が、これほど呆気なく殺戮を良しとするのか、と。

 それは一種の疑念に等しい。
 リグはじっとクレラントを見下ろし、言った。

「貴様は、街を破壊するつもりなのか」
「そりゃそうだろう。君らは世界をぶっ壊してほしいんじゃないかい? それならあの街を潰すくらい朝飯前だ。違うかい?」
「そうではない――貴様が積極的に破壊を推し進めるとは思わなかったということだ」

 これまで、クレラントはことあるごとに投げやりな言葉を口にしていた。
 魔王への用が済んだら教団が好きにしていい、自分にはどうでもいい、と。
 つまり、彼自身が人類へ害をなすことを目的としているようには見えなかったのだ。

「ああ、そういうこと。それは厳密には違うね。僕は別に進んで街を潰したいわけじゃあないし、ましてや人殺しをしたいわけでもない」
「――やむを得ない手段に過ぎないと?」
「そう。その通り」

 クレラントはひょいと肩をすくめ、軽い調子で言葉を続ける。

「例えば、そうだねぇ。あるちいさな村で疫病が発生したとする。この病原菌は焼き払ったら死滅させることができる。この菌は感染力が強いから、村まるごと焼き払わないと疫病を根絶することはできない。放っておいたらこの疫病は瞬く間に伝染し、やがて何千人、何万人という人間を殺す。断じて放っておくわけにはいかない――――さぁどうする?」
「焼く」
「そう。その通り。全部綺麗さっぱり焼き払うしかない。まだ感染していない人もきっといるだろうけれど、そんなの分かんないからね。まとめて焼いちゃうのが正解なのさ」

 その言葉で、リグはクレラントが言わんとする所を理解した。
 この場合の村とはティノーブルのこと。そして疫病とは、テウメシアそのものを指すのだろう。
 現に彼女はティノーブルに根を張り、着々と人々の間で力をつけている。信用も得ている。彼女に味方する人物もきっとそれなりにいるだろう。

 ――――クレラントは、それを、焼き払うつもりなのだ。
 疫病に侵された農村を焼き払うかのように。

「それを、正解と言うのだな」
「僕にとってはね。あいつのせいで誰がひどい目にあっても僕は知ったこっちゃないが、あいつが我が物顔でのさばっているのは気に食わないから。――――ところで、探索のほうはどうだい?」

 と。
 クレラントは、本来真っ先に聞くべきことを今さらのように問う。

 リグは司祭長に話したことを同様に説明した。
 おそらく、あと一週間ほどで準備は完了するということも。

「君が自由に動けるのは賢明だね、リグ。魔王が蘇ったらほとんどはそっちにかかりきりになるだろうけど――そう、ひょっとしたら、一人くらいはあいつの忠実な下僕が邪魔をしてくるかもしれない」

 クレラントの言葉が示すものは明白だろう。
 お仕着せ服姿の少女――かつての一番弟子――テオ。

「あれは戦力外だ。テウメシアもそう判斷するだろう」

 以前の激突でお互いの優劣はすでに決している。
 何度繰り返そうと、二人の年季を覆す要素はない。

 だが、クレラントはひらひらと手を振ってそれを否定。

「テウメシアの介入があればどう転ぶかわからないさ。だから僕は、介入させないように動く。ちゃんと分断してやらないといけない」
「実際にどうやって彼女を誘きよせるつもりか。考えはあるんだろうな」
「それはもちろんあるよ。ある。あるんだけどね――ちょっと確実性に欠けるな」

 と、前置きしてクレラントは話し始める。
 その計画とはつまるところ、テウメシアの後援者を攻撃することで彼女を引きずり出すというもの。
 確かに、普通に考えればテウメシア――ユエラがそれを見過ごすことはないだろう。あらかじめ脅迫するような書状を送りつけておけばより良い。

 だが。

「うーん、いいや。明日、明後日にでも一度仕掛けちゃおうか」
「な――なにを考えている?」

 それでは、魔王復活と同時に動く計画がご破算ではないか。
 しかしクレラントは軽い調子で頭を振る。

「脅しさ。これくらいはやる、っていう脅し。前はまんまと尾行されていたからね。一度くらいは仕返しをしておかないと割に合わないよ」
「それだけのことで?」
「だけってわけじゃない。誘き寄せて、宣戦布告しておいたら、例えばだけど――後援者を見捨てて魔王復活の阻止に向かう、なんてことはできなくなる。もしあいつがそうするなら、それこそ僕自身が街を滅ぼしたっていい」

 あと、僕の力が通じるか少しは試せるしね――と、クレラントは笑って言う。
 その表情にてらいはない。彼はまごうことのない本気だ。

「ああ、君は迷宮探索を進めておいておくれよ。予定より遅れたら話にならないからね。喧嘩を売りに行くのは僕だけでいい」
「――どこを攻めるつもりだ?」

 一度、公教会を襲撃したことは耳に入れている。
 その時は建物以外に危害を与えることは無かったようだが――今度はその限りではないか。

「そいつは……いや、秘密にしておこう。正直、あいつを引き出せるなら誰だっていいからね」

 直接向かったほうが手っ取り早いように思えるが、それはそれで問題があるのだろう。
 もしユエラが拠点を失えば、おそらく彼女は街の中に潜伏する。はっきりとした所在が掴めなくなる。それなら、今のように居場所が割れている方がまだしも良い。

 それだけ聞くと、リグはクレラントに背を向けて歩き出す。

「おや、行くのかい?」
「練習相手は対等な相手が望ましい。そして私はそうではないだろう」
「言うねぇ」

 もはや練習ではないだろうが――リグにクレラントを止めるすべはない。
 そしてそれが、魔王イブリス卿の利益に繋がるなら、リグは一向に構わなかった。

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